WHITEOUT 吸い込まれるような、静寂の中。 どこまでも続く空間に、無数の白が散っている。 わたしはひそやかに、息を呑む。 仰ぎ見た真上には、ただ一面に、揺れる白。 幾千億の、膨大な白。 春の風に吹き散らされて、おぼろに光る、降ってくる。 次から次へ、舞い踊るように。 さざめく分厚いその天幕に、太陽も月も隠れて見えない。 ……ああ、桜の、まるで嵐。 振り向いたわたしの、少し先。 花の中に、あなたはいる。 神々しいほどの景色の中に、溶け入るような静けさで。 あなたはずっと、花を見ている。 降りそそぐ、無数の花弁が髪にかかる。 けれどもあなたは、微動だにしない。 波ひとつない湖のような、深く気高い瞳の静寂。 見慣れた法衣の輪郭の、その横顔があんまり静かで、 近寄りがたくてわたしは佇む。 あなたの姿を覆い隠すように、隙間さえなく白い花は降る。 言葉もなく立ちつくすわたしに、あなたがそっと、振り返った。 ――ムウ、どうした? 光る鏡の湖の、水の面にわずかな波紋。 いつも厳しいあなたの瞳が、わたしを見止めて少しだけほころぶ。 ごくごくわずかな表情の変化。 きっと、他の誰にもわからない。 ……見とれているのか? ただ馬鹿みたいに立ちつくすわたしの姿に、 笑いを含んだあなたの声音。 静かなまなざしがわたしを見つめる。 ここにおいでと、言っている。 呼べば来ないはずなどないと、どこまでも高貴な自信に満ちて。 あなたの優しい傲慢が嬉しくて、花を散らしてわたしは駆け寄る。 それはこの世で一番あたたかい場所。 見上げるほどに背の高い、あなたの傍らに身を寄せる。 甘い言葉が降るわけでもない。 手と手がつながれるわけでもない。 それでもあなたのまなざしが柔らかく笑む、 ただそれだけで、世界が変わる。 シオン、いつか見せてくれるって言ってたのは、これ? 一面光る花の中、息を弾ませわたしは尋ねる。 遠い東の島国で、春の初めに咲くのだと、 以前あなたが教えてくれた。 見たことのないわたしのために、幾度も話して聞かせてくれた。 空に綾なす群落の、白い五弁の静かな華やぎも、 雪のように降りしきるという、そのいちどきの散り際さえも、 そらで思い描けるほどに、詳しく。 落ちた花びらを敷きつめた、白い地面に腰掛けて。 あなたはちらりとわたしを見やる。 その口の端が、わずかに上がる。 ああそうだよと、無言の応え。 どんな場所よりあたたかい、そのぬくもりに引き寄せられて、 わたしは隣に小さく座る。 辺りには一面に膨大な花の雲が、おぼろに光って揺れている。 それは魔法のように咲いて散る、染井吉野という桜。 大陸の東のこの島国で、百年昔に作られた。 淡いつぼみの薄紅を、花咲く頃に真白く染めて、 すべての樹々で一斉に開き、すべての樹々で一斉に散る。 およそ世界に類のない、奇跡のようなその時間。 それがこの上ないほど綺麗だからと、そう呟いて。 いつも約束なんか言わない人が、見せてやろうと約束をした。 あなたはあのとき本当の理由を口に出しはしなかったけれど、 わたしにはちゃんと、判っている。 花の盛りは、弥生も終わり。 わたしとあなたが、生まれた季節。 満開の樹々を、あなたが見上げる。 そのまなざしを追いかけるように、わたしも見上げる。 奥深いこの場所に、咲き誇る花の群れ。 霞か雲か、見わたすかぎり。 どこまでも続くその連なりに、思わずわたしは吐息を漏らす。 ……シオン。凄い、ね。 あなたが言っていた通りの、光景。 仰ぎ見た頭上に揺れる、それは幾千億の花びらの白。 春の風に吹き散らされて、おぼろに光る、降ってくる。 次から次へ、舞い踊るように。 わたしはひとひらを、受けとめる。 冷えた手のひらを差し出して。 吹けば飛ぶほど薄くて軽い、ほんのかすかな花びらの感触。 やさしく視界を埋めつくす、その一面の白の中、 問わず語りにあなたが語る。 挿木や接木でしか増えないこの桜はすべて、 同じ遺伝子のコピーなのだと。 だから染井吉野の群落は、どの樹も同じ日に咲いて散る。 手品のように時を合わせて、一斉に咲いて一斉に散る。 わたしは聴きながら、天を仰ぐ。 そうして咲き乱れ舞う、花を見る。 音もなく香りもなく、温度も重ささえも感じられない、 まぼろしのような、花を見る。 種も果実も作らずに、はかなく咲いていちどきに散って。 後には何も、残らないのだろうか。 ふとそう思って、少しだけ泣いた。 ……そんなに哀しむことなど、ないだろう。 あなたは笑って、わたしを見つめる。 現に百年の時が過ぎたのに、花はこうして咲いているではないか。 人々がこの光景を、今までずっと受け継いできたから。 紙に写し、語り継ぎ、枝木を挿し接いで、幹を守り。 記憶に焼きついたその花を消さないように、 今までずっと、受け継いできたから。 だから、ムウ。哀しまなくていい。 花を愛する人のなかに、花の記憶は残るだろう。 残った記憶はいつまでもその瞬間を留めて映す、 消えない鏡になるだろう。 ささやくあなたの手のひらが、わたしの肩にそっと触れる。 花のしじまに溶け入るような、衣擦れさえない静かな動き。 わたしは無言で瞳を伏せる。 視線の先には一面に、散り敷いている、花びらの白。 次から次へと、降り積もって行く。 黒い土をも真白く染めて。 そうしてこごるように、そこに残る。 消えない雪のように、残る。 ごらん、この世の光景とは思えないだろう。 穏やかな声で、そう言って。 あなたはわたしを抱き寄せる。 背中の後ろから包み込むようにして、そっと。 風を染める、虚空を染める、大地さえも覆い隠す。 どこまでも続く白い空間に、無数の白が舞い落ちる。 視界を塗りつぶし世界を埋めつくし、次から次へと舞い落ちる。 あたたかい腕の中で、わたしはあなたと花を見る。 降りしきる白にさらされて。 眼前の光景に、声もなく。 わたしはあなたと、花を見る。 ……そうしてゆっくりと、ここへ帰る。 吸い込まれるような、静けさの中。 どこまでも続く空間に、無数の白が散っている。 巨大な山脈の頂の、冷たく凍った岩の上。 わたしはひとり、座っている。 背中の後ろに、あなたはいない。 降りしきる、無数の白にまぼろしを見ていた。 万年雪に閉ざされたここは、山奥深い幽境の果て。 頭上近くを流れる白は、無数の氷でできた雲。 季節は既に、弥生の終わり。 けれどもこの地に、春は来ない。 氷の岩に身体を任せ、わたしはひとり、座っている。 背筋を侵す冷たさに、わずかな熱さえ奪われて。 身体の芯まで冷え切りながら。 それでも、ここから動かない。 まぼろしの残像を壊さぬように。 あなたの姿を、つなぎとめるために。 このまま凍りついてしまってもかまわない。 そうすればきっとあなたの面影は、 わたしの中で永遠に消えない。 白い空を、仰ぎ見る。 ひらひら、雪が舞い落ちる。 降りそそぐその切片を手がかりに、 見たことのない花を心に描く。 一斉に咲き乱れ一斉にほどけゆくという、 膨大な白い花弁を心に描く。 ふたりで見ようと、約束をした。 一度も果たされることのなかった、約束を。 冷たい風が、吹き散らす。 おぼろに光る、降ってくる。 わたしはひとひらを、受けとめる。 凍えた手のひらを差し出して。 吹けば飛ぶほど薄くて軽い、白い白い、雪の結晶。 受けとめたこの手の中で、やがてゆっくりと滲んで、消える。 お誕生日おめでとう、シオン。 雪の中で、わたしはささやく。 あなたに会えて、幸せだった。 遠い昔の遠いこの日に、 あなたがこの世に生まれてくれてよかった。 凍る山の頂で、わたしはひとり、花を見る。 雪原の中に、白い花を。 それは果て無き山脈に、降りしきる雪の乱反射。 ただ一色の光になって、天と地との境界さえも、 溶かし消し去るホワイトアウト。 風を染める、虚空を染める、大地さえも、覆い隠す。 どこまでも続く白い空間に、無数の白が舞い落ちる。 視界を塗りつぶし世界を埋めつくし、次から次へと舞い落ちる。 黒い土に降りつもる、花びらのように。 凍る山の頂で、わたしはひとり、花を見る。 雪原の中に、白い花を。 花は死者を悼む色。遠いあなたを、悼む色。 奥深い山脈を真白く染めて、こごるように、そこに残る。 消えない記憶のように、残る。 そうして眩しい光の中で、花は溶けない雪になる。 《END》
****************** 2005年「ARIES's PARTY」出品作です……が。祭出品の際にはラスト2段落が違うバージョンでした。 いや別にわざと2種類作ったとかじゃなくて、そもそも本当は今回のような感じにしたかったのですが 祭出品時点では、時間と能力不足のために最後の数段落で力尽き、 結果としてラストが激暗ニュアンスだけのままで終わってしまい、 「誕生日祝い?…うわあ…」ってな感じになってしまったという……。 今となってはまあそれはそれでありだとは思うのですが、(←祭に相応しいかどうかは激しく置いといて) 再録に当たっては、一応、当初頭の中にあった理想バージョンに、可能な限り近づけてみました。 やっぱり暗めは暗めかもですが(というか事と次第によると「変わんねーよ!」とお叱りを受けるかもですが…) 私の中では明確に区別されてたりします。 ででであのですね!そんなどうでもいい情報は置いといて!このような拙い拙い作品にもかかわらず、 何と、祭後に「白河夜船」のナリコ様が絵を描いてくださったのですよ…!! もうものすごい桜の迫力に圧倒されるのですよ!シオン様が本当に素敵なのですよ! みなさま是非是非ナリコ様のお宅にお飛びになって!素晴らしい世界をご堪能くださいvv タイトルは「桜の風景」でいらっしゃいますvv |