遠い国から



 顔を合わせるなり「暇か」と訊かれて、慌ててムウは暇ですと答えた。
 無論、工房には修復待ちの聖衣の山が所狭しと積まれたままだし、テーブルの上には午後のうちに目を通しておく予定の数秘術の古文書が束になっている。銀星砂が随分と不足してきたので、今日明日中にも早急に採取に行かねばならない。
 だが、そんなことはどうでも良かった。
 暇かと尋ねにわざわざ宮を降りてここまで来たということは、シオンは奇しくも今それが可能な状況にあるわけで、つまりは暇なのだ。いや、本当は暇ではないのかも知れないが、いちおう暇ということにしておいても差し障りのない程度には暇ができたのだ。
 ――なんて珍しい。
 浮いた表情を悟られぬようにどうにか取り繕う。そのような貴重な時間を使うのに、真っ先にここまで来てくれたとは。胸のうちで血潮がざわめいている。
 結論など始めからひとつしかない。
 どうにかポーカーフェイスを貫こうと四苦八苦しているムウを見下ろして、眼前のシオンは満足げにそうかと笑った。

 暇といっても彼のことだから大した余暇ではあるまい、自由になる時間は短かろうと、そのへんを散歩するような心づもりで法衣の背を追って歩き出したムウではあったが、ふと気がつけば異国の川辺の草を踏んでいるのだった。しかも暗い。夜なのである。立ちくらむような木下闇。つい先刻まで白昼の聖域にいたものを。
「本当に、前触れのひとつもないんですね」
 さらさらと澄みきった清流の音を聴きながら、深い闇を透かして傍らのシオンに言葉をかける。
「前触れが必要だったか?」
 瞬間移動になど慣れきっていると思ったが。涼しげな口調が事もなく応じた。蜜のように甘やかな水と土の匂い。思いのほか間近な山の輪郭は、黒々とした樹叢に覆われている。
「それはそうですが、何もわたしの分の負荷まで被ってくださらなくても、仰ってくれれば自分の身体くらい自分で運びます」
 道を知らなくてもあなたの跡なら見失いませんよと、どさくさ紛れに小声で付け加えると、そんなことは当たり前だという顔をして、シオンはさらりと答えを返した。
「説明するよりもこちらの方が早い」
「それはまあ、確かにそうですけれど」
 眦がほんのりと熱を帯びている。
 森の奥からは妙に爽やかに、ころころと蛙の鳴き音がした。

 暗闇にようやく慣れてつと見渡せば、辺りには人家の形跡も無く、かろうじて残る古道の陰には梵字を刻んだ石碑の群が、半ば埋もれるように苔むしている。かつては栄えた巡礼道か。
「それで、ここにはどのような仔細があって?」
「まあ、そのうち解る」
 意味深な表情で、ちらと含み笑い。
 投げられた問いには答えぬままに、一瞬だけムウを流し見て、シオンはゆっくりと上流へ向かう。聖域を出てからここまでの一連の立ち振舞いは、相当に手慣れたものである。どういう意図であれ付き従ってゆくつもりのムウではあるが、それにしても多忙を極めた身分のはずが、意外とよくある事だったのか。
 先ほどの時空を越える感じがあまりにも気軽で自然だったので、そしてまたこの種の行動にあまりにも慣れきっているような雰囲気なので、尋ねてみれば、案の定。
 昔から教皇の業務に嫌気がさした時には、こうやってふらりと遠出をしていたのだと言う。
 不良教皇だ。
「いったい周りにはどのように誤魔化していたんですか」
 興味半分、呆れ半分で茶々を入れてみると。
「無論、教皇は瞑想(メディテーション)に入った、ということにしていたが」
 しれっとした面持ちで、不届き千万な発言である。
「い、良いんですか、それは」
「良いも何も、おまえを教えにジャミールまで通うのに特段の工夫も要らなかったのはそのおかげだぞ」
「……そうなんですか」
 継ぐべき二の句も浮かばないまま、取り急ぎ記憶のなかの風景を総ざらいする。確かにそういう視点でかえりみてみれば、思い当たる節はありすぎるほどにあるのではあった。……幼心なりに薄々と察してはいたが、まさかそこまで大胆な嘘を。
「なに、わたしが教皇の間で過ごした時間の長さに比べれば可愛いものだ。ほんの半刻かそこらの気晴らしくらい、些事だと思って見逃しなさい」
「……いたみいります」
 意図せずして自然と頭が下がる。無論、文句などあろうはずもない。それどころかシオンの脛の疵を大幅に拡大させた自覚がある身としては、ムウなどは折紙付きの共犯である。
「……でもその『メディテーション』の習慣のせいで、結局は偽者の教皇にも随分と便宜をはかるような事になってしまった訳ですけどね」
 何やら自分でも判らぬ補陀落渡海のごとき心境で夜空を仰ぎ、苦笑じみた視線をちらりと送ってみれば、冗談のひとつも飛ばせるようになったか、重畳な事だ、と軽く評してシオンは口角の端でにやりと笑う。
 そうして不意に思いがけぬほど優しいまなざしをして。
「まともにやっていては二百三十年も正気のままで聖域の教皇など勤まらなかった。……悪く思うな」
 少し冷えた指先がゆっくりと、いとしむように、長く伸びたムウの髪を撫でるのだった。

 足下にはきろころと冷涼な水音が立ち、渓谷の山際はいよいよ間近に迫りくるようである。呼吸を重ねるその度ごとに夜の気配が身の内へ浸みこんで、意識の瀞をも染めつけてゆくように思われた。境目さえ消し去る濃密な闇。視界の先に無明が広がっている。
 その只中をふと横切って、ふうわり、と儚げな光が舞った。
「……今のは」
 意表を突かれたように立ち尽くすムウのすぐ傍らで、出始めたな、とシオンの穏やかな声がする。
「もしや、ここを訪れたのはこのためでしたか」
「さて。実物の蛍は初めてか?」
 己が不在の十三年を問いかける蒼い瞳のその静寂に、ムウは困ったような微笑を返す。……実はあまり覚えていないのです。いちおう五老峰で見ているはずなのですが。
 ジャミールには蛍など居らぬだろうからぜひ見に来いと、半ば強制的に老師に呼びつけられた、確かにそのような記憶だけはある。たぶん師を失った次の年なのだ。何もかもが芒洋としてはっきりしない。
「……ならば大した群生ではなかったのだろう。詰めが甘いのはいかにも童虎らしい」
 喉の奥で笑ってうそぶいたきり、それ以上問いつめることはせず、シオンは道を外れた沢あいの方角を指す。
 ――おそらくはあちらが交配場所だ。
 ついて来い、とも言わずにさっさと行ってしまうのは昔から変わらぬ彼の行動で、多分それはいつもすぐ後にムウがついて来ることを疑いもしていないのだ。死ぬ時ですらそうだったのだからどうしようもない。次もまた置いて行かれるのは自分の方なのだろうかとうっすら考えるムウではあったが、こればかりは誰の意にも儘ならぬ事なので口にはしなかった。
 先を行く法衣の裾がしとど濡れている。夜露のなかで。

 青草深く分け入るにつれ、二つ三つ、三つ四つと連れ立つように、蛍の数は弥増してゆく。足もとの葉叢に眼を凝らしては物珍しげな心地で数えあげていると、あれを、と囁くような小声で促され、顔を上げたムウははたと息を呑んだ。いつの間にか沢沿いのひらけた土地に立っていた。眼の中に飛びこんできたその光景は、この世の物とも思われぬ。
 如法暗夜の闇一面に、光の洪水がさざめいていた。
 虚空には無数の蛍火が音もなく舞いあがり、鬱蒼と生い茂った木立の葉先を見れば、ざらざらと鈴なりに連なりあって、夥しいまでの大群がきらめいている。それはまるで数多の群星が寄り集まった、涯のない銀河を思わせた。恒河沙、那由多、阿僧祇までも。
 森のなかに宇宙がある。
「……これ、本当にみんな虫なんですか」
 ぱたりと音でもしそうなほどに長く濃い睫毛をしばたたかせて、ムウは溜息に似た言葉を漏らす。厖大に撒き散らされた光の粒が、それぞれの時間差を保持しながらも同じ拍動で一斉に明滅するので、まるで眼の前の闇全体が、夜そのものが、うねりをあげて波打っているようにも見えた。
「……こんな場所をよくご存知でしたね」
「二百三十年ほど気晴らしを積み重ねたからな」
 塵も積もれば山となるものだ。いっそふてぶてしいほどに穏やかな表情のまま、シオンはいとも簡単にそのような事を言う。彼のなかにある歳月を肌で思い知るたびに、ムウはいつも少しだけ気が遠くなる。
「たまたま執務の最中に、今が季節だったとふと思い出した。幸いなことに、どうやら当たり年のようだな」
 平素変わらぬ低音で呟いて、シオンが僅かに目を細くする。まなざしの先には光の乱舞。癖の強い豪奢な金髪を掠めて、幾つもの蛍火が至近をよぎる。風もないのに浮かびあがっては、淡雪のように落ちてくる。虚空を見つめる横顔が薄く照らされて、ほのかに発光しているかのようだった。
 ぼんやりと惚けたように見つめていると、
「……何か」
 傲岸不遜の表情も変えず、眼球だけがちらとムウを見る。瞳のなかには微笑のかけら。
 ほんの一瞬だけ逡巡しつつも結局のところ何ひとつ口には出さず、ムウはただ真っ直ぐに微笑み返し、遠慮がちにそっと手を伸べた。
 指先が触れあうか触れあわぬかのうちに、法衣の袖から蛍が一匹、音もなくふわりと飛び立ってゆく。

「こんな景色は流石に初めて見ました。まるでヒマラヤの星が飛んでいるようですね」
 感嘆とも呆然ともつかぬ面持ちで目の前の景色を眺めやりながら、独り言のような口調でムウが呟く。夜の沢辺を埋めつくす淡い輝きは、昼間の陽光とは似ても似つかぬ種類のもので、それでいて火焔や炎雷の係累とも思われず、また金銀宝玉の艶めきとも違うものだから、まるでこの世のいかなる光とも質を異にしている風情であった。
 闇から湧き出てきたかのように、予期せぬ場所からふっと現れて、慮外の明るさでしばらく光ったかと思えば、次の瞬間にはもうふっつりと途切れて消える。
 ともっては消え、消えてはともり、音も温度も重さも捨てて、生の気配すら定かではなく。俗世を離脱したような光の群れが、闇より出でて闇へと返る。わずか数日の儚い命。
 魅入られているうちに奇妙な心地になった。……確かに星のようでもあるが。
 思考が表情に出ていたものか、ムウの内心を読んだかのごとく、おもむろにシオンが言葉を承ける。
「そうだな。ヒマラヤの星にしてはいささか陰湿の気が過ぎる。少しばかり、力強さに欠けているようだ」
 シオンに言われるまでもなかった。ジャミールの夜に降り注ぐ星々の光はもっとずっとはるかに強烈で、痛いくらいに鮮やかで、そうして残酷なほど変わりなく、幾百年もの時を越えてなお頑強に輝き続ける光なのだった。それはいつも限りなく永遠に近い何かの存在を、ムウの心臓に深々と刻みつけてゆく。しかし今、眼の前を彷徨う夏虫のそれは不思議なほどに儚く、霊妙で、掴み所さえないかのようで、その得体の知れなさは天よりもなお、地下の眷属を思わせた。
「おまえも一度は見ているだろう。どちらかと言えば、これはむしろ」
「……ええ、そうですね」
 鬼火のようだ。

 俄かに風が吹いたようだった。無防備に漂っていた群れの幾つかは、突如現れた空気の渦に為す術もなく押し流されて、慌てふためいた様子で右往左往をしたのちに、草葉の陰に隠れてしばらく見えなくなった。
 風のない夜を好む所までが、鬼火とそっくり同じなのだった。
 やがてまた数匹がちらりほらりと舞い始め、その数が徐々に弥増してゆき、再び原状を回復するまでには凡そ数分ほどが過ぎたようである。
「……成る程、ヒマラヤの星とは違う訳ですね」
 得心がいったようにささやいて、少しだけ儚げにムウが笑った。
 見渡せば落葉樹林の森の一面は光の海にすっかり覆いつくされて、ひそやかな満ち干きが音もなく押し寄せてくる。ひとかたまりの蛍火が淡く跡を引いて、肌の先をひんやりと掠め飛んでいった。十重にも二十重にも舞いあがり、幻のように輝いて、刹那のうちに闇へと消える。
 この世から切り離されたその光には、少しだけ死の気配が漂っている。
 声もなく静かに身を焦がすのは、言葉など疾うに失くしたからだ。生き急ぐように燃えつきるのは、元より永らえることなどできないからだ。真水のほかは何も口にせず、血肉の全てを使い切りながら、まるで成虫した蛍の命の全ては夜光るためだけにあるようだった。

 こぼれ落ちる草露は涙にも似て。

 乱れ飛ぶ一面の火の玉のなか、師と弟子とただ二人きり闇をそぞろ歩く。しんしんと湧きあがる蛍の無音が耳を打ちすえて、胸をかきみだし、過去と今と未来の境目さえも、蕩かし消し去ってゆくかのようで。
 やがて静寂のはざまにひっそりと、言葉が落ちた。
 ――わたしの魂です。これは皆。
 昨日の天気の話でもするかのような、穏やかな声音でムウが口ずさむ。
 ――幾千回もあなたのことを考えて、そのたびに少しだけ死にましたから。
 どこまでも穏やかなその言葉を受けて、先を行くシオンの蒼いまなざしが、ゆっくりと傍らをかえりみる。戻らぬ過去は近くて遠く、十三年は短くて長い。きらきらと輝く蛍火は、黄泉路に群がる無数の霊魂に似ている。
 そのまま暫時の間が過ぎて、闇の奥の気配がふつと揺らめいた。
 ――それならば、わたしの魂も半分ほど混じっているかも知れぬ。
 何も言わず見つめ返すムウの視線を深くとらまえて、シオンが唇の端でうっすらと笑む。波紋にも似たささめきが、頻闇のなかで忍びやかに響いた。
 ――地獄の底から幾千回も、おまえのことを考えた。




もの思へば沢の蛍も我が身より あくがれ出ずる魂《たま》かとぞ見ゆ
(和泉式部)


《END》


***
原作読んでて個人的につらつら思うことなのですが、
偽教皇(サガ)は瞑想(メディテーション)だとかいって随分と好き勝手してましたけど、
あれ始めたの絶対シオンだと思う。
だってあれ、シオンがやってなかった事をいきなりやりはじめたんだとしたら
みんなおかしいって思うだろ絶対。(100日って…)

そしてサガは原作描写を見る限り
瞑想(メディテーション)という大義名分によって随分と助かっていたように思う。
あれがなかったらもう少し正体ばれるの早かったんじゃないか。(笑)

あっあと追伸。草露は「そうろ」とお読みください。
(ルビが打てなくてもどかしかった部分)


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(Written by T'ika /〜2015.6.16)