ある3月の日の ……気だるい。 寝具の上で半身を起こして、すぐにまたムウは体を沈める。頭の奥に、僅かな痛み。視界の四隅がくすんだようにぼんやりと暗くて、手足を動かすのが異様につらかった。 元来、寝起きは良い方だと思う。朝の五時や六時はおろか、夜明け前に目を覚ますことすら苦ではない。だが最近は――とりわけ今日は、どういうわけか何もしたくなかった。何ひとつ。 寝返りをうって温かな敷布に顔を埋める。枕代わりのストールと一緒に厚織の毛布を両手で抱きしめ、遮蔽するように瞼を閉じた。こうしているととても心地が良い、まるで温かな人間の手を抱きしめているように。目尻からぽとりと何かがこぼれて、頭の奥が再びかすかに痛んだ。珍しく熱でもあるのかと、重い腕を無理矢理持ち上げて、額に手のひらを当ててはみたが、意に反して掌の感覚は従来通りの、低めの体温を伝えてくる。 ああ、起きないと。そう、思おうとしてみたけれど。 ……やっぱり無理だ。だって、こんなにあたたかい。 再び曖昧になって行く意識の片隅で、ムウはずっと抱きしめている。遠い遠いあの頃に戻って、誰よりも大好きなあの人の手を。小さかった自分にとって彼の手はとても大きくて、切ないくらいに優しかった。 どこまでもどこまでも、記憶の中にうずまりながら、深く深く、潜っていたい。誰にも会わないで。 ……何にも、要らないから。 「――ムウ」 名前を呼んだ声は決して荒げられてはいなかったけれど、それでもムウはその声を聞いて蒼白になった。 怒っている。 入り口のない部屋に恐る恐る入ってみると、その人は古い羊皮紙に埋もれながら書き物をしていた。それ自体は確かに見慣れた光景だったが、顔を上げてこちらを振りかえるその仕草にも視線にも、いつもとは違う空気がかすかに含まれている。 どうか怒らないで――見捨てないで。わたしのことを嫌いにならないで。 身を刻むような恐怖に怯えながら、それでもムウは、その人から視線を逸らすことはできない。ここで下を向いてしまって、もし、そのまま置いて行かれたら。そう思うと、その人から視線を逸らすことはできない。 「……ごめんなさい、シオン……」 もっとはっきり紡がれるはずだった謝罪の言葉は、自分でも情けないくらいに掠れて消えた。 初めからきちんと言い直そうと息を継ぐと、普段とは違う種類の厳しさを漂わせた瞳が、じっとこちらを見据えている。けれどもむしろ、そこに添えられたもの言いたげな、そして少し悲しげな光が、ムウの心を刺し貫いた。 「今、私に何を謝ったのか、言えるか?」 シオンの口調は、あくまでも静かだ。 「……約束を、破ったこと……」 「…………」 消えてしまいたい。この人に、こんな眼で見られるくらいなら。沈黙が、耐えられないくらいにつらかった。 「それだけか?」 「……約束を破って、力を使ったこと……」 「…………」 それでも、ここで下を向いてはいけない。そうしたらきっと、この人をもっと失望させる。 「……私が何に怒っているのか、分かるか?」 「…………」 泣き出しそうな己の心の弱さを、必死の思いで堪えながら、ムウは懸命に考える。念動力を使うことそれ自体が咎められている訳ではないのは明らかだった。そしてシオンが一番言いたいのはきっと、約束を破ったことそれ自体でもない。師の約束はどんな時だって、自分の命令に従わせるためではなくて、それ以外の何かを守るためなのだから。あの人はいつだって、あの人以外のことしか大切にしない―― 「……人を傷つけたこと。不適切な時に不適切な目的で力を使って」 それを聞くと、シオンの眼がほんの少し、柔らかくなったような気がした。本当にほんの、少しだけど。 「それが判ったのであれば良い。お前ももう二度目からは気を付けるだろう。――ならば、本当に謝るべき相手は私ではないことも、判っているな」 瞳を伏せて、ムウは頷く。怒られたことではない何か別のことに、そこはかとない切なさを感じながら。 「いい子だ」 シオンはそう言って微笑むと、立ち上がって愛弟子の側まで歩を進めた。片膝を付き、少し下から覗きこむようにして語りかける。心の奥まで透きとおるような、静かで強くて、優しいまなざし。 「ムウ。いつも言っている通り、」 思いがけず温かく大きなその手が、ムウの細い髪を慈しむように撫でる。 「お前が持つその力は、決して忌わしいものではない。使い手次第で人を守ることも癒すこともできる。……他者の言うことは気にしなくて良い」 小さくて聡い子供を傷付けまいと、慎重に言葉を選びながら、シオンは蒼の瞳を引き締める。 「だがムウ、忘れるな。力ある者はその危うさにも、常に意識的でなければならぬ。これはサイコキネシスだけではなくて、聖闘士ならば誰もが持つ小宇宙という力についても言えることなのだ」 人には無い力を持つということが何を意味するのか。聖闘士になるということが何を意味するのか。 「そしてムウ。その力に負けない使い手となりなさい」 そう言った時のあの人の、漣のように静かな微笑みが、今でも切ないくらいにはっきりと心に焼き付いている。 ……懐かしい、夢を見た。 横になってぼんやりと目を開きながら、白く混濁した意識の片隅で、ムウは我知らず眦をぬぐう。窓をふさぐ板の隙間から射しこんでくる、太陽の光が妙にまぶしい。今はまだこの眼を開きたくなど、ないのに。 師父と暮らしたあの頃の夢を見たのも久しぶりなら、叱られた時の夢はもっと久しぶりだった。別に滅多に叱られないような良い子だった訳では、決してなかったはずなのだけれど。 ……ああ、シオンらしかったな。 思い出してつい、微笑みが漏れる。特に取り乱すわけでも、手を挙げるわけでもない。むしろいつだって途方もなく静かなのに、なぜだか縮み上がるほど怖かった。そして何が悪いのかを自分で考えない限り、絶対に何も言ってくれなかったっけ。今思えば、随分助け船を出してくれていたのだけれども。そして後で必ず、真剣に考えたことに対するご褒美をくれた。叱られた記憶にはいつも、その後の優しさの記憶が付いてくる。忘れようのない、あの人の微笑み。 いつもあんなに真剣に叱ってくれていたのか。そう考えると、何だか可笑しい。 ……けれども一番あの人らしかったのは。 『ならば、本当に謝るべき相手は私ではないことも、判っているな』 そう、あの時のシオンの言葉だ。何かが胸の中でチクッと痛んで、けれどもそれが何なのか、自分でも言葉にできなくて。 ――もっと、あなたのことを、大切にさせて欲しいのに。 きっと今なら言えただろう。あの時はわからなかった切なさの正体を。 館の外で吹きすさぶ風鳴りが、低く重たく、ふいに耳につく。狂おしいヒマラヤの三月下旬。たとえ下界は温かくても、この地の春は、まだ遠い。焼けつくような日輪を背に飛ぶ渡り鳥の、高く鋭い鳴き声がする。恐らくはもう太陽も相当に高いはず。 まとわりついてくる喧騒を振り払うようにきつく目を閉じて、ムウは抱きしめた毛布に顔を埋める。何も聞きたくなどはない。このままあの人の記憶と遊んでいたい。……どうかわたしを、起こさないで。 両の腕に力を込めて、ムウは途切れた夢をもう一度呼ぶ。 《END》
******************** 不条理な形で大切な人を亡くした人は、故人の命日や誕生日などの「記念日」が近づいて来ると、(たとえ自分では無自覚であれ)鬱状態になりやすいとか。 きっとシオンって怖い師匠だったと思うんですけど、なんとなくこういう感じだったらいいなあと個人的には願っています。怖いんだけどそこには愛が。そしてしかられるほうにもそれがちゃんと伝わっている。……っていうのが好きです。(言ってろ) このサイトにおいてはムウの修行地は名実ともにジャミールなので、「他者の言うこと」ってのはたぶん、最寄りの村とか出先の街とかキャラバンとかの「皆」なのではないかと思います。 シオンは多忙な中、聖域の人々を誤魔化しながらジャミールと聖域を往復する二重生活を送っていて、あの館の一部屋とかに、仕事持ち込んで書き物してたりしててほしい。 そして弟子は、そういうものごっつハードな非人間的スケジュールを師匠に送らせてることに、実はすごい罪悪感抱いてたり。……とかそういう裏設定があったりします。 いや、こんなところで説明してないでちゃんとお話にしろって感じですが。 ***2007.2.20追記*** すみません、一部直しました。←最悪 久々読み返したところちょっとあまりに文章がアレだったので、あまりにも我慢できなかった部分だけ衝動的に超特急で直しました。一応、書いた当時の表現をなるだけ(8割?)生かす方向で、しかも全体の内容は全く変わっていませんが、雰囲気はけっこう修正されているか…な? ***2012.7.9追記*** さらにすみません。さらに一部直しました。これでだいたい満足です。 |
Written by T'ika /2002.4.8 (→2007.2.20 rewritten →2012.7.9 rewritten again)