酷 い 話



 きっかけは些細な事だった。まず、いかにも考古学的価値の有りそうな古い絵壷を発掘してしまった雑兵が、処理に困って童虎を呼んだ。それから、両腕一杯の新品の石畳を滑って転んで絶滅させてしまった別の雑兵が、蒼白な顔をして童虎を呼んだ。さらに、神殿の壁の石積みの組み立て方の正確な手順がわからなくなってしまった雑兵・候補生あわせて18名ほどが、立て続けにまたもや童虎を呼んだ。その場には工事に駆り立てられた聖域在勤の白銀・青銅聖闘士以下多々数の人員が、一面の人波を作って働いていた。長引いた聖戦後の復興も漸く終わりに近づき、廃墟どころか遺跡同然の白羊宮の修復、というここ十何年の間先延ばしにされまくってきた難題にも、やっとのことで順番が回ってきたのだった。
 ……つまりこれがどういうことかと言うと、その場には当然白羊宮の責任者である当代の牡羊座の黄金聖闘士が居たし、それどころか聖域全体の責任者たる教皇として、先代の牡羊座の黄金聖闘士すら、居た。
「何でまた、儂ばかり呼び出されるんじゃろうのう」
 額から滴り落ちる汗を腰に挟んだ手ぬぐいで拭き取りながら、納得の行かない調子で童虎がぼやいた。折りしも空には雲ひとつ無く、一点の翳りも見られない強烈な太陽光が、ギラギラとしつこく照り続けていた。朝からずっと働き詰めで、人々は全員疲れていた。
「申し訳ありません老師、しばらく休んでいらして下さい。次からは呼ばれても放っておいて下されば、私が代わりに参りますから」
 恐縮しながら応えるムウは、片手の図面に真剣な様子で目をやりながら、組み上げられた大理石の巨大な列柱が正しい距離と角度で並んでいるかどうか、厳重なチェックを行っているところであった。茹だるような暑さのせいだろう、普段は涼しげなその表情も今は心なしか上気して、こめかみには珍しく、うっすらと汗さえ滲んでいた。既に時刻は夕方に近いというのに、今日の聖域は猛烈に暑い。
「いやいや、暇だから手伝おうと言い出したのはこの儂じゃからの、別におぬしが気を使うことなどないぞ、ムウ」
 と言いつつも早速大きな伸びをひとつした童虎は、すぐ傍でペガサスとアンドロメダとユニコーンとヒドラと雑兵十余名が今まさに一生懸命組み立てている最中の巨大な柱の上に、遠慮なくどっかと腰を下ろした。抱え上げていた300キロの大理石を下ろす場所を失ったヒドラは泣き出しそうな顔をして、渇ききった口を半ば開いては閉じた。やめてくれよ老師!という悲鳴のような星矢の声も、暖簾に腕押し。
「しかし、最近の若いもんは複雑じゃのう。ここは一応白羊宮なのじゃから、わからんことがあるなら素直におぬしに聞けばよかろうにのう」
 いくら儂が年寄りの知恵袋だとは言え、もう少し隠居させてくれても良さそうなものをのう。ぱたぱたと手拭いを動かしながらそう言ってムウに笑いかけた童虎は、自身では全く頓着しない様子で肩をすくめたものだったが。
 でもそれって実のところ、結構微妙な話題だよな、と。
 泣きながら大理石を地面に下ろすヒドラを横から手伝ってやりながら、ユニコーンは内心密かに思ったのであった。
 聖域の一般雑兵や候補生、それに自分たち身分の低い青銅聖闘士にとって、確かにアリエスのムウは、とっつきにくい。
 決して悪い上司というわけではないのだが、どうも見た目何を考えてるのか良くわからないし、すれ違って言葉をかけようにも機嫌が良いのか悪いのか全然良くわからなくてタイミングをはかるのにえらく気苦労するし、話の最中にも何処を見ているんだかわからないような目つきで遠くを見るし。……まあ確かに、他のお方らのように今すぐ下界に降りてタバコ買ってこいだとか土下座をしてこの私をおがめだとか私が開発した新種の薔薇の匂いをちょっと嗅いでみてくれないかだとか言って、部下に横暴な振る舞いを行わないのは、重畳なのだが。……でもやはり、ああも完璧な発音のギリシア語で、ああも完璧な丁寧語を(目上の癖に)使われると、こちらも妙に緊張するし、何だかとっとと退散しろと言われているような気さえしてきたりして、まあ要するに、どうでもいい雑談なんぞできる雰囲気などには、まかり間違ってもならないわけだ。
 その辺りは本人にも自覚があるのだろう。端麗な顔に極上の微笑を湛えて、ムウはにっこりと童虎に応じた。
「それは、老師はいつも皆に気さくに接して下さいますから、目下の者にも慕われておいでなのでしょう。彼らとしてはきっと、親しみのあるお人の方に、ついつい声をかけてしまいたくなるものなのですよ」
「ふむ、儂はそんなに、若者に慕われておるかのう?」
 まんざら悪い気でもなさそうに、童虎は大理石の上に腹ばいになりながら(もはや完全なる休憩モードである)、すぐ横で巨石に鎖を巻きつけていた瞬に意見を求めた。他人に気を使う性質のアンドロメダの聖闘士は、内心少しだけ迷いながらも、ムウ本人が見たところ全く気に病んでいなさそうなので、正直に答える。
「あ、ええと、はい、そう思います。やっぱり紫龍や春麗を見ていると、老師は本当に慕われているんだなあって思うし、それに僕だって老師には本当にお世話になったし……」
「ほっ、嬉しいことを言ってくれるのう。それでこそ、石積みの壁の作り方講座を連続で18回もしゃべらされた甲斐があると言うものじゃ。ムウよ、おぬしもそう不器用なことばかりしておらんと、もうちっとばかりくだけてみてはどうじゃ。こういう立ち位置も悪くないぞ」
 さっきまで扇いでいた手拭いを今度は日除けのほっかむりにして、童虎は仰向けになったりうつ伏せになったり、舌を出してみたり、雑兵の水筒の水を勝手に飲んでみたりしながら、訳の判らない事を適当に言い散らしている。今日は随分暑いからなあ。もしかしてついに頭にきたのかなあ。どさくさに紛れて自分もひと休みしながら、星矢は無責任なことを考えた。
 と、そのとき。
 それまで無言で総指揮用のタイムスケジュールにチェックを入れていたシオンが、不意に背後から沈黙を破った。
「私のムウは別に八方美人になる必要などないわ」
 ……会話と物音が丁度止んで出来る奇妙な真空の瞬間に、とんでもなく絶妙のタイミングではまったせいか、その台詞は意外なほど響いて遠方まで聞こえた。瓦礫を運んでいた何人かの雑兵が、一輪車を押す手を止めて思わず振り返った。世にも珍しいマンドラゴラの絶叫を聞いたとでも言わんばかりの顔をした童虎が、ほっかむりのままむっくりと起き上がった。
「何じゃシオン、どういう意味じゃ」
 「聞いた通りの意味に決まっておろう。ムウの心根は判る者だけが判っていれば良いのだ。無駄に媚売って愛想振りまく必要などないわ」
 ……こ、これは、もしや。瞬は恐る恐る教皇を見上げる。これは、もしや、「れんあいしょうせつ」とか「どらま」とかなんかで噂によく聞く、例の、あの、「のろけ」、というやつではないのか。文脈から判断するに、どう考えても今の台詞の「判る者」の部分には、「わたし」という見えない振り仮名が振られては、いないか。というか、さっきの所有格は……い、いや、まさか、そんな、バカな。畏れ多くも自分たち歴戦の青銅聖闘士4人をお空の彼方まで顔色変えずにブン投げたあの大魔王的教皇様が、そんなフツーの俗人っぽい言動をするとは思えない。僕の空耳に違いない。もしくは僕のギリシア語聞き取り能力不足に違いない。あるいは僕の考えすぎに違いない。兄さんも星矢もいつもそう言うし!
 一方、シオンからいちゃもん付けられた天秤座の黄金聖闘士は、まばたきが出来ない病気に突然かかってしまった人のように、茶色の両眼を開きっぱなしにしたまま、極めて読み取り難い表情でシオンを凝視しながら、言った。その声はまるで咽喉元までせり上がってきた笑いの発作を必死で噛み殺しているかのような声であった。
「……八方美人とはこりゃまた随分な言いがかりじゃのう。そうか、おぬし、もしや、儂をひがんでおるのか。そうさのう、同じ年寄りであっても、儂はどこぞの誰かとは違って、若者に慕われておるからのう。ムウもそう言ってくれたくらいじゃしのう」
「いったい何が哀しくて私がお前をひがまねばならんのだ!」
 即座に言い捨てたシオンだったが、何だか微妙に不機嫌な調子は隠せない。ニヤリと笑って童虎は言った。
「儂がどれだけ若者に慕われているか、それはすなわち儂がどれだけ紫龍と春麗に慕われているかを見れば明々白々じゃ。そのことは、そこの瞬の証言からも明らかじゃ。本当は悔しいのであろう、シオンよ?」
 やめて老師!こんなところで僕に話を振らないで!心の奥底から切なる叫びを発しながら、瞬は強烈に降り注ぐ教皇シオンの眼光から、死に物狂いで視線を逸らした。
「残念ながら儂はお前と違って目下から常に好かれておるでのう」
「……随分な自信だな。何の根拠があることやら知らんが」
 西日が傾いていつしか上空は綺麗な桃色に染まり始めている。遠くの方で作業終了5分前の鐘の音がカーン、と鳴った。
 ある意味、ゴングのようであった。
 夕日を背にして、手拭いをひらめかせ。機先を制した童虎が突然高らかに宣言した。
「フッ、シオンよ。お前は自分の弟子から恋愛相談を受けたことがあるか!」
 先ほどから必死で笑いの衝動を噛み殺しながら2人を凝視していた一角獣座の邪武は、その瞬間、教皇の上体がほんの少しだけぐらりと傾くのを見たような気がした。
「ふふん、無かろうが。だが儂など、紫龍と春麗の両方から受けたことがあるぞ。これこそ究極の信頼関係、究極の師弟関係じゃ。しかも、お互いがお互いの恋愛相談だったのじゃぞ。どうだシオン、お前のその朴念仁ぶりでは、このような将来像など夢想だに出来ぬであろう!」
 大先輩のある意味壮絶な弁論術を聞きながら、ペガサスの青銅聖闘士はこの場にいない五老峰の友人の冥福を心から祈った。きっと明日にはもう聖域中の雑兵という雑兵が、候補生という候補生が、聖闘士という聖闘士が、ことごとくこの情報を共有しているに違いない。……というか老師、それ、信頼裏切ってないですか……。
「しかもシオンよ、儂には弟子の紫龍だけでなく、娘同然の春麗までいるのじゃ。儂がまだ大滝の前に坐していた頃、春麗は儂の髪を毎日とかしてお下げにしてリボンまで付けてくれたのじゃ。どうだ、微笑ましい話じゃろう!」
 長い長い、沈黙が落ちた。遠くのお山でカラスが鳴いている。なんだか「アホー」としか聞こえない鳴き方だけど。
 黙って聞いていたシオンがフッ、と笑った。
「甘いな童虎よ、髪をとかしてお下げにしてリボンまで付けてくれる程度のこと、子供の頃のムウとてやってくれたわ!」
 ざわっ、と見物人の間にどよめきが走った。
「しかもお前はひとつだけ重要なことを忘れている!」
「な、何じゃ」
「バカめ、春麗はいずれ紫龍に取られてしまうのだぞ!」
「……ウッ!」
 天秤座の黄金聖闘士はどう見ても明らかにショックを受けたような顔つきをして、絶句した。
「その点うちなど、ムウの髪紐をほどく権利を持っているのは、未来永劫、私だけだ!」
 ざわっ、と再び見物人の間にどよめきが走った。聖域の一般雑兵や候補生一同、アリエスのムウという人物と対峙した時の緊張感を普段から本気で恐れている人々は、ある種賞賛のまなざしでシオンを見ていた。
 ……いや、ちょっと待て。何か今、ものすごい問題発言を聞いてしまったような気がするのはオレだけか。オレだけなのか。おかしいのはオレの感覚の方なのか。少しだけ動揺した星矢は人垣の隙間から、気付かれないように一瞬だけちらりとムウを見た。牡羊座の黄金聖闘士は真新しい大理石の柱に寄りかかって、聖域の生きる伝説たる2名の大先輩の畏くも馬鹿馬鹿しい論争を、にこにこしながら聞いていた。
 ……あれ、大丈夫なのかな、あの様子だと。ってことはあの口喧嘩の内容も、意外と教皇が口から出任せで言ってることなのかもしれないな。意外と教皇もお茶目なんだな。それかムウが物凄く寛大なのか。
 基本的に悪性の妖気に対して著しく感受性の鈍い星矢は、すんなり納得してその場をスルーした。
「フッ、童虎よ、生憎だったな。お前に心配などしてもらわなくとも、ムウは既に十分過ぎるほど情が深いのだ。私の帰りが遅い時など、心配してずっと待っているくらいなのだぞ、ちゃんと眠れと言っているのに」
 敗北感に打ちのめされている童虎を片目でちらりと見やりながら、かなり得意げにシオンは言った。後に聞いたところによればこのとき、文章の時制が現在形であることに対してそこはかとない違和感を覚えたギリシア語圏出身の雑兵も何名か存在していたのだそうだが、そこはそれ、この教皇は異国のご出身だから、本当は昔の修行時代のことを仰りたかったのに違いないさ、ということで、あっさり言い間違いとして片付けられてしまったらしい。
「しかも究極の信頼関係とか言ったか、童虎。それならばムウが私の前でしか見せないあの無防備な寝顔の可愛さときたら!お前の恋愛相談など物の数にも入らんわ!」
 ……え?それって、もしかして。アンドロメダの青銅聖闘士は、心配そうにちらりとムウに視線をやった。まさか、そうだとしたらそんなこと、公衆の面前で言ってしまって、いいのかなあ。しかし、そう思いながら見やってみると、意外にもムウは普段と全く変わらぬ優雅な微笑を湛えて、にこにことシオンを眺めていた。
 ……あ、杞憂だったのかな。そっか、そりゃまあ、そうだよな。
 かくしてアンドロメダの青銅聖闘士は、ほっと息をついて己の思考を少しだけ恥じ、心の平穏を回復したのであった。

「――勝負あり、だな。どうだ、童虎よ。己の世界の狭さを思い知ったか」
「う、うう……」
 額から一筋の汗を伝わせて、童虎はガクリと膝からくず折れた。ほっかむりにしていた手拭いが、はらりとほどけて地面に落ちた。遠くの方で「本日の作業終了」の鐘の音がゴーン、と鳴った。
 圧勝、であった。 



 さてもその後、時ははや夕刻。祈りとご飯の時間である。今日の出来事を口々に言い交わしながら遠ざかって行く雑兵と候補生と聖闘士の群れは、あっという間に白羊宮の修復現場から消え去った。……否。皆が立ち去って行った後にただ2人、良く見ると人影が残されている。
 お互い、微動だにしない。
 先ほどの姿勢のまま、真新しい大理石の柱に寄りかかって、3歩の距離からシオンを眺め続けているのは、天駆ける黄金の羊のごとく常に優雅な微笑を絶やさない、アリエスの黄金聖闘士こと、ムウである。
 まだ、にこにこしている。
「…………ムウ、」
「…………」
 にこにこ。柱に軽く身を寄せながら腕を組んだムウは、馬鹿馬鹿しくもえげつない先刻の2大黄金聖闘士の口喧嘩を鑑賞していた時と全く変わらぬ、極上の微笑を湛えて佇んでいる。対するシオンも一応口元では笑んでいたが、どうも心なしか、全身が硬直しているように見える。そう言えばどことなく、顔色も青ざめているような。
「…………その、聞いては貰えぬだろうか」
 ムウはずっとにこにこしている。表情が全く変わらない。背後に絶大なる妖気が漂っている。いかなる強敵をもねじ伏せる、偉大なる教皇の眼光が、まともにその視線を受け止められない。シオンはついに、目を逸らした。永遠とも思える沈黙が、向かい合う2人の間を流れ去って行った。
「…………すまない」
「…………。」
 にこにこ。
「…………すまない。私が悪かった。もう二度とやらない」
「すまないなどど、何をおっしゃいますか。この世で一番ご信頼申し上げる我が師シオン」
「…………」
「私は機嫌など損ねてはおりませんよ、この世で誰よりも深く深くご信頼申し上げる我が師シオン」
 にこにこ。
「すまない、ムウ!どうにも我慢がならなかったのだ、あの馬鹿があまりにも――」

 ……圧勝、であった。

 あるいは、このにこにこしている人物が、まったくの赤の他人であったならば。シオンも普段の大魔王的教皇様らしく、傍若無人に傲岸不遜に邪知暴虐に絶対無敵に、強烈過ぎるその自我を、意地でも最後まで貫き通したのであろうが。
 惚れた弱み、という奴である。


《END》

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あとがき:
    ご  め  ん

蛇足:
このシオンムウはたぶん他の話とは時空も時系列も違うと思います。
そういうことでよろしく!

追伸:
ちなみにこのお話のネタ自体は何だか一昨年くらいからあったのですが、今年の4月に羊誕で行われたシオンムウチャットで「調子に乗って色々言いふらしちまうシオン&縄かけ出てるムウ様」のネタとしてちらりと話したら、畏れ多くも反応を下さった方がいらっしゃいまして、そんでうっかり完成しちゃったもんです。ファイル名は「縄かけ」です。……すみませんこんなんなっちまいましたD様!よろしければ受け取って下さい!(土下座&感謝)


Written by T'ika /〜2007.6.2