湯煙小話



 そもそもは湯治に来たのであった。
 歴史を重ねた古い街である。名所旧跡の類を回り、珍しい文化や見慣れぬ風土に大いに趣興をそそられながら、シオンと二人、話に花を咲かせているうちに、すっかり忘れていたという訳だ。教えられた通りに宿へと入り、数少ない荷を解いていると仲居が現れ、あれこれと指図をして行った。曰く、御客様方がお風呂から上がられた頃に、お食事の用意も出来ますので、云々。
 見れば居間の向こう、寝室脇の扉をひらいた所に、中庭の付いた露天の内風呂がある。それぞれの客室ごとに源泉掛け流しを有する贅沢は、流石グラード財団の伝手というべきか。檜造りの湯殿は質素ながらも大層上品で、中々立派な存在感である。
 ああそう。そうか。風呂か。成る程。
 俄かにぎこちない沈黙が漂った。
 「……先にお入りになりますか、シオン」
 私は後で結構ですから、と付け足しながら、ムウは殊更にさらりと微笑を作る。湯殿は居間から直接見えぬ構造になってはいたが、近いな、と正直思わざるを得ない。山紫陽花が盛りの中庭ごしに、水音も息遣いも気配も何もかも、そのまま聞こえて来てしまいそうだ。
 「いや、お前が先に入るが良い。徹夜続きで疲れていただろう」
 表情ひとつ変えぬまま、すっぱりとシオンは言い放つ。これはまた困った展開である。
 「い、いえ。それを言うならシオン、貴方だって相当お疲れでしょう。私は後で構いませんから、どうぞお先に」
 内心、大いに慌てるムウである。内心どころか表情のほうにも、或いは露見していたやも知れぬ。辛うじて笑みだけは絶やさずにいる。
 「こんな時にまで遠慮をするな。良いからさっさと行け」
 「まさか師を差し置いて、先に入る訳にはいきません」
 「その師が先に入れと言っているのだろうが」
 「いえ、その、ちょっと今……あまり風呂に入りたくない気分で」
 我ながら無理がありすぎる。
 「湯治に来ておいて何を言い出すんだ、お前は」
 甚だ理解しかねると言わんばかりにじろりと此方を一瞥して、止めの一撃。
 「女神の御厚意を無駄にする気か。……お前は疲れているだろう。先に入りなさい」
 主張の通し合いでシオンに勝てる筈もなく。
 そんな訳で結局の所、先に入る羽目になった次第なのである。済みません、と幾度も恐縮してはみたものの、シオンは相変わらず愛想のかけらも無い口振りで、別に、と短く返すのみ。
 長旅で疲れているのはシオンも同じなのに、申し訳のない事をした。……余計な物を意識しているのは、流石に自分の方だけではあろうが。
 ぼんやりと考えながら肩に湯をかける。それほど長く浸かっていた訳でも無いのだが、ここの湯の効能は抜群のようで、既に身体の芯までが沁みるように熱い。確かに日頃の疲れが溜まっていたのだろう。気を抜くとそのまま微睡んでしまいそうだ。
 そうならぬうちに早いところ体でも洗ってしまおうと、湯から上がりかけた、その瞬間。
 目の前の開き戸が盛大に開いた。
 がらっ。
 ざばっ。
 殆んど光速の動きと云って良い。シオンの視界から一瞬のうちに消え去ったムウは、凄まじい勢いで湯の中に再度沈み込み、勢い余って酷く水を飲んだ。溢れ返った大量の湯が、中庭に雪崩れ落ちて物凄い音を立てた。
 ざばー。
 静かな宿である。
 「――さ、先に入れって言ったじゃないですか!貴方が!私に!何で今入って来るんですか!」
 酷く咳き込みながら怒鳴ってはみたが、シオンは驚く様子さえない。弟子の涙目など何処吹く風で、表情ひとつ変えずにこんな事を言う。
 「確かに先に入れと言ったのは私だが、後から入らないと言った覚えは寸毫も無いな」
 高みからこちらを見おろして、ちらりとシオンは口角を上げる。……始めからそういう心算だった訳か。悪魔だ。
 「逃げても無駄だぞ、この造りでは」
 勿論、言われるまでもない。四方を建物の壁に囲まれたこの内風呂は、完全無瑕なる密室である。そして唯一の出入口にはシオンが立ち塞がっているのである。腰布一枚。どこまでも悠然たるその振舞いは、もはや清々しい程である。
 溜め息をついて湯の中へ深く沈み込む。いっそ瞼など閉じてしまえ。温まりすぎて、耳まで熱い。
 「……何をしている。あまり長く浸かっていると湯に当たるぞ」
 追い打ちのような台詞が頭上から聞こえて、すぐ真隣で湯を汲み上げる静かな音がした。


《END》

***
2012年6月のパラ銀13のアフターで散々遊んだ帰りのことですが、
お泊まり組であらせられた某2名様方が、
「今夜、宿でどっちが先にお風呂に入るか」について
お互いに延々と譲り合っておられました。(電車の中で)
それを見た私が、
「シオンムウが宿で風呂を譲りあってたら萌えますね!」
と言ったら、(電車の中で)
「それじゃティカさんが小説にしてくださいヨ!」
という話になって、(電車の中で)
なんか気づいたらいつの間にか私には宿題が出来ていたのです。(電車の中で)
しかもその場にいた人々は私以外全員
パラ銀の原稿のために全力でセブンセンシズを燃やして戦った人々で、
その不眠の威力・迫力・胆力・精神力といったら、それはもう物凄いものがありました。

なので、ここ2年ほどいかなるシオンムウ小説も完成させていない私としては、
それはもう誠に申し訳なく!面目なく!肩身狭く!心苦しく!
とてもじゃないが宿題を踏み倒す真似など出来なかったのです!

だから頑張って2日で書いた。
99%電車の中で書いた。ケータイで書いた。
最後の1%だけ室内で推敲した。ケータイで推敲した。
色々と力不足な点はお許し下さい。
ケータイ小説(笑)

あっちなみに「ガラッ!ザバッ!」は(略)中(略)居さんのアイディアです素晴らしすぎです!
宿題を頂いた私はシオンムウが風呂を譲り合うところまでしか思いつかなくて
その先どうなるかわかんなくて困っていたのですが、(電車の中で)
そしたら(略)居さんが一秒で神託をくれました。(電車の中で)
このひと天才じゃないかと思った。(電車の中で)

あとこれ、最初、サイトに上げるつもりとか全くなかったんですけど、
そしたら今日、(略)リコさんが
「えっアップするんじゃなかったんですか!私がアップしちゃいますよ!むしろイラスト描きますよ!」
って言うので、
「(略)リコさんのシオンムウイラスト!公共の福祉に貢献!」
と思って、即刻アップをします。今。(笑)


羊小説一覧へ  羊部屋トップへ

(2012/06/24〜25 written by T'ika)