人見知り



 ほの暗い炎が、ちらちらと揺れている。卓上に置かれた、古びたランプのわずかな明かり。昼間とはいえ、窓ひとつない石造りの書庫の中は、酷く冷えて薄暗い。
 「どうだ?目途はつきそうか」
 斜め読みし終えた分厚い本をまた1冊、左側の書籍の山に重ねながら、シオンは傍らのムウに声をかけた。ふり向いた拍子に、豪奢な髪がさらりと揺れる。流れるような髪筋は、ぼんやりと広がる暖色系の明かりに照らされて、柔らかいオレンジ色に光っていた。
 「ええ、もう少しで」
 手元の書物から顔を上げないまま、ムウはゆっくりと、しかし簡潔に、シオンの問いに応えを返した。紙のページをめくる音に混じって、羊皮紙に何かを走り書きするペンの音が、時おり薄暗い部屋の静寂を破る。机一面にうず高く積み上げられた本の山は、通りすがりの人間には一見まったく無秩序なカオスに思えただろうが、先刻からここにこもって調べ物をしている二人にとってはどうやら、きちんと意味を持って成し遂げられた、理路整然とした仕分け作業の成果であるようだった。
 真ん中に積まれた山の中から、シオンがさらなる1冊を選び取る。目次にざっと目を通し、ふと視線を止めたかと思うと、慣れた手つきでページをめくって、紙のしおりを中に挟んだ。
 「銀星砂の含有率と聖衣の強度の関係が少し載っている。必要なら参考にしてみなさい」
 「ああ、ありがとうございます」
 右側の書籍の山の一番上に重ねられた新しい書物に目をやって、ムウは再び己の作業に没頭する。その間にもシオンは次々に、未調査分の本の山を解体して行く。またしばらく、紙の音。
 どのくらい経った頃だろうか。ふいにぽそりと、ムウが呟く。
 「……すみません、シオン。あなたの手までわずらわせることになってしまって」
 隣から聞こえてきたわずかな溜息に、ふっと笑って、シオンは応ずる。
 「仕方あるまい。わたしがおまえの立場でも同じことをしただろうよ。なにぶん、こういう事態は初めてだからな」
 ついこの間の聖戦で完膚なきまでに破壊された、5体の黄金聖衣のことである。そのありえないほどの破損状況については、パンドラボックスを開けてみた関係者一同が全員そろって眼を剥いていたらしいと、雑兵の間でさえ、もっぱらの噂。「あのムウがあんなに長い間絶句していたのを見たのは初めてだった」とは、当の破損聖衣の所有者の一人、獅子座の黄金聖闘士アイオリアの述懐だが、……それは、ともかく。神話の時代から一度も破壊されたことさえない黄金聖衣の、あまりにも前例のない、非常識極まりないこのような惨状には、当然、修復にまつわる過去の伝承もノウハウも、一切無い。したがって今回、まさしく文字通り前代未聞の修復作業に取りかかるにあたっては、念には念を入れて、事前に修復の手順についてひと通りの下調べと確認をする必要があったのだった。
 「でも、おかげで助かりました。……ありがとうございます」
 「なに、礼には及ばぬ。おまえがいてくれなければ、今頃は跡継ぎも無いまま、わたしが一人で全部、この作業をさせられる羽目になっていたのだろうからな」
 軽口を叩いて笑うシオンに、それはこっちの科白ではないだろうかといささか恐縮しながら、ムウは困ったような微笑みを返した。聖衣の修復技術を持つシオンが手伝ってくれたからこそ、こんなにも効率的に作業を進めることができたというのに。もしもこの人がいてくれなければ、今頃はいったいどうなっていたことか。
 幼少の頃から長く離れていたせいで、聖域にほとんど馴染みのないムウにとっては、莫大な量の書物を抱えるこの書庫は、まさしくひとつの異次元の体現であったと言っていい。高々とそびえ立つ、整然とした書棚の群れ。そのひとつひとつに隙間さえなくぎっしりと詰め込まれた、延々と続く本の背表紙。そのあまりの情報量に、いったいどこから手をつければいいのかと、思わず茫然と立ち尽くしていたムウの手を引っつかみ、この辺りが何の棚、この辺りが何の棚、と、引きずりまわしながらいちいち案内してくれたのは、他でもないシオンである。そうして二人で手分けして棚を回り、並んだ背表紙をざっと見て適当そうな書籍を抜き出し、机の上に山積みにし、……。やがてその山積みの本の中から、調べものの目的に役立ちそうな箇所を探し出す頃には、もはや二人の間には完全な分業体制が完成しており、ムウはといえばシオンが選んでくれた本の該当箇所を乱読して、要点をピックアップしながら、作業過程における問題点と解決策とをまとめるだけで良くなっていたのだった。
 天井を仰いで、一度だけ深呼吸。ほどなく再び、手元の羊皮紙に視線を落とす。また、しばらく、紙の音。……それからさらに、一刻ほどの時間が経っただろうか。屈めていた半身を静かに起こし、ムウはゆっくりと息を吐いた。
 「――終わりました。多分、この方法で大丈夫だと思います」
 少しくほっとした様子でそう言って、からん、と音を立ててペンを置く。
 「本当にありがとうございます、シオン。あなたのおかげで、半分以下の時間で済みました」
 「礼には及ばぬと言っている。第一、これからが修復の本番だろう。判っているとは思うが、あれを治すとなると大変だぞ。労力もかかるし、想像しただけで気が遠くなりそうだ。……わたしは手伝わぬからな」
 にやりと口角を上げたシオンに、ムウは、わかってますよ、と顔をしかめて笑った。
 「ああ、でも……念のために、一応これだけ確認してもらえますか?」
 固い木造の長椅子の隣。修復師としての師匠でもあるシオンを伺いながら、ムウは書き上げたばかりの羊皮紙を遠慮がちに差し出す。まあいいだろうと鷹揚に答えて、シオンは快くそれを受け取った。
 傍らで、ふう、と軽く息をついて、ムウがゆっくりと眼を閉じる。シオンは片目でその様子をちらりと見やる。聖戦が終わった後、破損したいくつもの聖衣の処理を一手に引き受けていたわけだから、相当に疲労も溜まっているのだろう。かと言って黄金聖衣の修復は事が事だけに、先延ばしにするわけにもいかない。内心密かに相手の体調を思いやりながら、シオンは愛弟子の端正な筆跡に目を走らせた。
 参照文献の該当箇所を引きながら、書かれている内容を、それでも厳しい眼で確認して行く。まるでどこか、昔の修行時代に戻ったようだな。いささかの懐かしさに浸りながら、シオンはわずかにまなざしを細くする。
 ……と。
 ふいに身体の側面に重みがかかった。見てみれば、視界に飛び込んできたのは、いつの間にやらシオンの肩に頭をもたせかけて、すっかり眠り込んでしまっている愛弟子の姿。規則正しい寝息が、かすかに聞こえてくる。シオンの傍らで、ムウはすっかり安心しているらしく、しばらくじっと覗き込んでみても、まったく何の反応もない。よほど深く眠り込んでいるのだろう。先刻から何度もシオンが書物を取ったりページをめくったりしているというのに、その動きにさえ眼を覚ます様子は微塵もない。
 「……まあ、良いか。……たまには」
 シオンはふっと苦笑する。そうして傍らのその重みに13年分の歳月を想いながら、再びゆっくりと手元の羊皮紙に目を落とすのであった。



 やがて静かなその空間を、軽やかなノックと、それから重い扉の開く音とが破った。足音が響いて現れたのは、聖域の誇る二人の黄金聖闘士、蠍座のミロと獅子座のアイオリア。聖衣の件でか別件でか、いずれにせよ何か用向きがあってのことだろう。聖戦が終わったばかりのこの現在、およそ聖域の関係者において、暇な人間は皆無である。
 「失礼します、教皇、実は――」
 言いさしたのは、ミロだった。……だが、次の瞬間。二人の黄金聖闘士は、シオンの方を――正確には、シオンにもたれかかって眠っている同僚の姿を――見て、あんぐりと口を開けた。そのまま固まって二の句が告げないでいる彼らに向かって、シオンはめったにないようないたずらっぽい表情で、そっと唇に指を当てて見せる。
 「……少し、休みが必要なようなのでな」
 どうにかこうにか目の前の事態を了解したらしいミロとアイオリアは、やがて口元に浮かんできた率直な思いをこらえるような、何とも微妙な表情をした。
 「どうか、したか?」
 「いや……その……失礼しました。……少々、……驚きまして」
 かろうじてかしこまった様子を装いながら、アイオリアが口ごもる。
 「……その……ムウが人前で眠っているのを見たのは、初めてだったものですから」
 「ほう?」
 「……いや正確に言えば、人が来たのに起きないでいるところを初めて見たというか」
 横からミロが言葉を継ぐ。いかなる場所でも眠れるように訓練されている聖闘士は、緊急時が続く際には、それこそ文字通り「その辺」で仮眠を取ることも日常茶飯事になってくるわけなのだけれども。
 「しかしこいつが眠っているところに限って、一度も見たことがなかったので」
 「なんというか、いったいいつ寝てるんだか、こいつほんとに人間かと、密かに思わなくもなかったというか」
 「……なるほど」
 率直極まりないその感想に、シオンは思わず笑いをかみ殺す。まったく、ムウらしいことだ。昔から人の気配に敏感な子供だった。おそらく成長してからもその傾向は変わらぬままに、その鋭すぎる第六感は、常に研ぎ澄まされていたのだろう。……そして、今、この傍らで。この弟子はよほど、気を許していると見える。
 「――では、もうしばらくは、ゆっくり休ませてやるとするか」
 そう、抑えた声音でシオンは笑って。
 そうして言外に退出を促されたことに気づいた二人の黄金聖闘士は、一瞬顔を見合わせた後、やがて口元に浮かんだ微笑をこらえるように一礼して、その場を立ち去ったのであった。


《END》

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春の世の夢ばかりなる手枕に かひなく立たむ名こそ惜しけれ
……って感じですね。うふふあはは。色々すみません。
ピンクですピンク。私の頭ん中が。
なんか羊誕作品の反動で、なんっにも考えずに書き進めたらこうなりました。
そしてそのせいか珍しく、ものすごく書き上げるのが早かったです……

****************追記(2007/09/15)
うわーい!なんと「ellen」のクリコさんが萌えイラストを描いて下さいました……!(感涙)
此の方の絵にはなんかもう感動的なまでに眼に見えない「空気」というものが描き込まれていて
もうほんと素晴らしいと思うのであります。その結果、このピンク小説がまるで本格芸術作品に…!(笑)
マジで眼福でございます。(「人見知り」のタイトルで公開されていらっしゃいますvv)


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Written by T'ika /2005.3.30