緑の平原



 ひらいた瞳の奥底にまで、透明な静けさが押し寄せてくる。
 強い集中をゆっくりと解いて、ふわりと一息つくように、ムウは肌を刺す清冽な夜空を仰いだ。これだけの遠距離瞬間移動も久々のことではあったが、身体はいつまでも憶えているものだった。ジャミールの星々はいつも恐ろしいほど鮮やかで、少しだけあの世に近づいた気がする。懐かしさと心地よさと、いささかの感傷。山脈の変わりやすい気候も今宵に限っては綺麗に晴れて、雲ひとつない宇宙が涯まで広がっている。
 久々に訪れた理由は実に他愛ない。思い当たる場所がここしかなかったからだ。
 何がかといえば、環境である。具体的には静寂と無人と、遭遇不可能性である。試行錯誤はいくつも重ねたが、およそ生きた人間に出くわす危険が最も少ない場所として、やはりジャミール以上の最適解は思いつかなかったというわけだ。
 居住空間である五層の館には目もくれず、ムウはよく慣れた軽やかな身のこなしで、垂直に近い急峻な山道をひらひらと跳ぶように降りていく。国の十余は優に飛びこえる、常軌を逸した瞬間移動の直後ではあったが、表情は涼しげで息ひとつ乱していない。
 山脈の夜は相変わらず苛酷に冷えている。
 標高のせいで空気の量が通常の半分しかないこの地では、日中には山肌を焼いていた太陽の灼熱も、日没後には猛烈な勢いで奪われていく。ムウにとっては見慣れた世界だが、常人には堪えがたい環境だろう。草木はおろか、苔すら生えぬ。生命の気配も、痕跡もない。
 魔境と呼ばれる所以であった。
 かつての自分自身が念入りに張り巡らせた結界や幻惑の数々を、ほとんど習慣的にやりすごしながら、複雑に入り組んだ谷や尾根を抜ける。目印の稜線からしばらく下った岩場の陰が、馴染みの潜伏先である。
 天を衝くような絶壁の中ほどに巨大な岩塊と岩塊の隙間があって、その内側がちょうど風避けに適した小さな洞になっていた。あたりには大人ひとりならば楽々と横になれるくらいの、ちょっとした空間が広がっている。どことなく密教行者の隠れ家の風情でもある。
 長椅子代わりの自然石に腰を下ろすと、ムウは担いできた布包みを手早くひらいた。包みの中から顔を出したのは、細長い六弦の楽器が一棹。待ちくたびれたとでも言わんかのごとく、つややかな木造りの胴や糸巻が、祭囃子の浮かれたリズムでかたかたと猛烈に鳴っている。もはや隠そうという気すらないらしい。誰がどこからどう見ても、完膚なきまでに妖怪の振る舞いである。

 ここ最近のムウは、暇を見つけてはひとりこっそりと、この楽器の習得に精を出していた。

 ――いや、正確にいえば、精を出そうとしていたのだった。実際のところ本人の意欲と努力の割に、練習はさっぱり捗っていない。しかも捗らない理由は実に明らかで、馬鹿馬鹿しいほどに単純な話なのである。
 むろん、指導者のせいではない。
 あの新月の夜からしばらく経った頃、心なしか頬を赤くした弟子から珍しい種類の頼みごとを受けたシオンは、一度だけにやりと笑いはしたが、その後は何ひとつ追及もせず、快く親身になって教えてくれた。調律の仕方から始まって、簡単な音階と、運指の基本。初めはこれくらいで十分だろうと師は言って、そして確かにその通りだった。
 慣れない作業には得てして時間がかかるものである。
 ムウもそれなりに器用なほうではあるが、弦楽器特有の微妙な手指の動かし方となれば、やはりどうしようもなく不慣れであった。簡単な旋律をひとくさり奏でてはみるものの、弾き手も押さえ手も実にぎこちなく、春先の子羊の足取りのようにおぼつかない。そしてそのおぼつかなさは、もともとの旋律の美しさだとか、楽器そのものの音色の魅力だとかを、容赦なく根本から損なっていた。このままでは次の段階になど永遠に進めそうにもなかった。
 要するに今のムウに必要なのはただひたすらに反復と慣れであり、つまりは個人練習を重ねればよいだけの、単純きわまりない話なのである。
 しかしそこで一大問題となってきたのが、肝心の練習場所なのだった。
 現時点での己について、いっそすがすがしいまでにきっぱりと下手の自覚がある以上、人に聞かれることだけは万が一にも避けねばならぬ。――と、いささか面倒くさいほどの意志堅固さで、ムウはそう思い決めている。基本的に他者の目線などには頓着もせず、いついかなる時にも超然としている性分だったし、そのせいでむしろ血気盛んな同輩からはいらぬ誤解を受けることもしばしばなのだが、しかしながら人目を気にしないということは、自尊心がないのとはまったく違う。他ならぬ自分自身の矜持のために、あまりひどい無様は晒したくなかった。
 そして実は聞かれたくない理由はもうひとつある。
 そもそもムウが今こうして楽器なんぞと格闘する羽目になっているのは、まあ色々と成り行きが重なった結果なのだが、たぶんそれは本質的には、ふつうの生活や文化的情趣とは絶望的なまでに縁遠かったムウ自身のこれまでの人生の、引け目のようなものにつながっている。むろん聖闘士としては一切必要のない、ただの子供じみた感傷である。しかし、だからこそ、己のなかの絶対的な信条として、それは決して他人に聞かれるべきものではなかった。決して。ましてや聖域においては尚更である。聖域での自分はあくまでも女神の戦士として牡羊座の黄金聖闘士として公的に存在しているのだということを、現時点においてのムウはかなり強烈に意識しながら生きている。第三者からすればいささか生真面目すぎるほどの、過剰な分別なのではあったが、わずか七歳の時から『反逆者』となってジャミールに立てこもり、聖域を離れていた期間が長かったからこそ、逆にそうなるのかもしれなかった。
 だからよりにもよってそんな因縁まみれの聖域の界隈で、己の胸底にひそんだ未熟さや弱さや未練の痕跡を、欠片なりとも露出させるなど、ムウにとってみれば拷問にかけられたほうがまだましである。たとえ周囲がその露出に気づくことがなかったとしても。
 かくして複雑な理由から単純な結果が導き出され、楽器を弾こうにも練習場所がないなどという、傍目にはまぬけとしかいいようのない問題が発生するのだった。
 とはいえ、もちろんムウもただ手をこまねいて座っていたわけではない。初めのうちは、楽器をつまびく際には必ず聖衣修復用の工房にこもって内側から鍵までかけていたのだし、なおかつ防音とセキュリティとプライバシー保護と、ついでに自らの心の平穏のため、工房の壁の中にはとびきり強力な防護結界を、二重三重と念入りに張りこめてみたりもしたのだ。
 しかし、どうやらそれが致命的にまずかったらしい。
 ほどなく聖域の界隈で大騒ぎになってしまったのである。しかも最悪なことに、その騒動には貴鬼まで加わっていた。
「なんだか最近ムウ様が、工房に結界を張ってるみたいなんだよ」
「なんだって貴鬼」
「それは本当か」
「こんな時期に極秘の修復作業か? ……怪しいな」
「ムウはいったい何をしているんだ?」
「それが全然わかんなくてさ。ムウ様に聞いたってもちろん教えてくれないし、だからってシオン様にこっそり聞いても、絶対にしゃべってくれないんだよ」
「……いよいよ怪しいな」
「きっとよっぽど重大な任務があるんだろうね」
 情報の大規模拡散源がどこかといえば、おおかた例の青銅の坊やたちだろうとムウは踏んでいる。あるいはその青銅たちの会話をたまたま漏れ聞いた雑兵か白銀聖闘士のあたりにも、数名のインフルエンサーがいたやもしれぬ。
「昨晩こっそりと確かめに行ってみたが、やはり結界の話は本当だったよ」
「なんだって」
「噂どおり、えげつないのが張ってあった。半径十メートル以内には近づけもしなかった」
「バカな、いくらなんでも厳重すぎるじゃないか。まさか……」
「そのまさかさ。この結界、マジでクサいと思わないか」
 そこからはもう、枯山に野火の広がるがごとく、立て板に水の走るがごとくである。
「牡羊座の黄金聖闘士が、工房に大規模な結界を張って、極秘の重要任務中らしい!」
「未だかつてない聖衣改造計画が、着々と進められているらしい!」
「なにかよっぽどでかい戦が始まるのに違いない!」
「今度はハーデス以上の強敵らしいぞ!」
 ……おちおち練習もできやしなかった。
 それでその後はやむなくひと気のない静閑地を求めて、聖域中を右往左往する羽目になったのであるが、しかし広大な神域の森や渓谷や、うらびれた墓地の外れなど、心当たりをいくら探しても、たいていは警護の雑兵がぽつねんと佇んでいたり、熱心な訓練候補生が秘密の鍛錬に励んでいたり、挙句のはてには魚座の黄金聖闘士がひとり植物採集を楽しんでいるところへ危うくばったりと遭遇しかける始末。まれに無人の岩山だとか紀元前の廃墟の痕跡だとか、本物の穴場もあるにはあったが、いずれも音響や風通しが良好すぎて、うっかり楽器など弾こうものならば、はるか遠方の人間の耳にまで聞こえかねなかった。そもそも聖域では警護上の理由から、無人地帯の物音は遠くまでよく響くよう、意図的に設計されていたりする。恐るべき、古代の先人たちの知恵である。
 こうして聖域中の地図から候補地が潰されつづけ、最終的にはスターヒルにでも潜り込むしかなさそうだったが、しかし己の精神衛生上あまりにも刺激が苛酷すぎるので、即刻却下をした次第である。結局のところ人の耳目を避けるにあたって、ここジャミールにまさる土地など、どこにも無かったというわけなのだ。
 色鮮やかな織布の中から故国の楽器を取り出して、膝の上に乗せ、ゆったりと構える。かたかたと急かしていた六弦の妖怪はその途端、素知らぬ顔でぴたりとおとなしくなった。こやつは毎回こうなのだった。まこと現金な物の怪である。
 寝かせてあった駒を慎重に立て、緩んだ絃を張りつめる。少し前に師から教わったとおりのやり方で、ひとつひとつの音程を確かめていく。セ、テ、ホ。古式の糸巻を器用に繰りながら、ほんの微細な音のずれを修正していく、この一連の地味な作業がムウは好きだった。やはり調弦は得意のようだなと、先だってはシオンにも言われたのである。おまえは耳が良かった。昔から。
 ……たぶん褒めてもらったのだと思う。
 もっともムウ自身には我が耳の良し悪しなど如何とも判じかねるのだが、しかしその一方で子供の頃から音声を記憶する力がずば抜けていたのは確かであった。
 どんな些細な言葉でも、シオンの語ったことならば、たった一度聞いただけで二度とは忘れなかった。
 気まぐれのようなさりげないひとことも、静寂に落ちるため息のような呟きさえも、唇の端からふと漏れた微笑みが空気をふるわせる音のかすかさも。かれの声の温度や、沈黙の手触りや、言いまわしの細部まですべて鮮明に。いくらでも、いつまでも、憶えることができた。
 まるで砂地に水が沁みこむようだと、天のはての色をした静かな瞳で、笑って言われたことがある。
 あれはたぶん渇ききった生き物が懸命に喉を潤すときの切実な貪欲さでもあったのだろう。そしておそらくは師もそれと気づいていたのかもしれない、はじめから。
 ――どうやら場所が記憶を喚起するのであるらしかった。不意打ちで溢れだした想い出の奔流に胸をしめつけられて、息をつぐようにムウは星の海を仰ぐ。山脈の高所にあるこの場所は恐ろしいくらいに見通しがよく、はるか先の谷まで一望できた。
 眼下には、深く澄んだ水面に零れるほどの星屑を映して、真夜中の湖が静まっている。
 指先のピックをもう一度握りなおすと、しばし呼吸を整えてから、ムウはゆっくりと六条の絃を奏ではじめた。教えられた指使いをきれいになぞりながら、ただ無心に、丁寧に、記憶のなかのシオンの動きに寄りそうように幾度もくりかえす。
 考えてみれば何でもよい、かれにものを教えてもらったり、それについて駄目を出されたり、ましてや褒められたりなどという出来事は、本当に呆然とするほど久しぶりなのだった。
 もしかすると、このような無理をしてまで慣れぬ楽器と格闘する理由も、あの眩暈がするような懐かしい幸福感をもういちど味わいたいというだけの、ただそれだけの我儘にすぎぬのかもしれなかった。
 いつしか東の空からは下弦の月が顔を出し、時刻は深更をとうに過ぎている。世俗事を忘れて集中を続けていると、馴染んだ香の気配をかすかに感じ、ふと気がつけば視界の隅には妙にくっきりと、月影に浮かびあがるものがある。
 ――いつのまに、
 洞のすぐ真横の狭い岩棚で悠然とくつろいでいる人影に、ムウは一瞬だけ息を呑み、それからすぐに吐息をついて、諦めたようにふわりと微笑した。
「……いらしていたんですか」
 巨岩を背に湖面を見下ろしたまま、シオンはちらりと口の端で笑んだ。
「あまり驚かぬな」
「さすがに二度目ともなれば」
 顔をしかめて苦笑をしながら、ムウは音を立てずに楽器を傍らに置く。わたしも学習しますからね。一応は。
 しかし正直なところをいえば、何となしに予感はしていたのである。蛍火の痕跡よりも細く儚い、ほんのかすかな予感ではあったが。
 なるほど、と低く呟いて瞼を細め、シオンはつと弟子の方を流し見る。そうして、
「邪魔してもよいかどうか、訊いたほうが?」
 拒絶される可能性など露ほども考えていない顔で、そのようなことを問うてみせるのだった。
「邪魔してよいかどうかも何も、すでに充分に長い間そこにいらしたのでしょうに」
 一体いつから聴いてらしたのか。ぼやくムウの様子を楽しげに見下ろしながら、シオンは笑って言葉を投げる。
「どうしてここに、とは尋ねないのだな」
「……もともとわたしにこの場所を教えてくれたのは、あなたですからね」
 完全にお手上げである、降参だ、といった風情で溜息とともに苦笑を漏らすと、ムウは少しだけ体を片側に寄せ、シオンが座るための場所を空けた。
 瞬間、ふいに強烈な懐かしさに襲われる。
 あの頃もこうやって、同じようにして、かれの隣に座ったのだった。
 既視感に打たれながら眺める眼前の風景は過去と今がとりどりに交錯しあって、面影の多重映しのようである。記憶のなかのこの場所はいつも眩しいくらいに綺麗で、優しくて、すぐ傍らには冷たい風が吹き荒れているのに、不思議なほど静かで温かだった。
 昔、ふたりでよく星を見た。
 そして、のちにはひとりで。幾千回も。
「……だいたい、わたしが邪魔だなどと思うわけが無いじゃないですか。あなたのことを」
 少しだけ決まり悪げにうつむいて、独りごとのようにかすかにムウはささやく。山脈の風の音に紛れそうな声だった。
「知っている」
 弟子のすぐ隣に腰を下ろしながら、シオンは穏やかに応えを返す。お互いに確かめる必要もないほど当たり前のことを、敢えて口にしたという雰囲気だった。
 大人ふたりが並んでもなお充分な空間は残ったが、やはり洞のなかは昔よりも狭くなっている。寄りそった箇所に肌膚が触れて、法衣ごしにさえ感じるかれの温もりに、そこだけがずきずきと疼くように火照った。懐かしく、いとおしく、たまらなくあたたかなその小宇宙。
 夢ではないという確証すらも要らないほどに、傍らの存在はたしかなのである。
 抗いかねて思わず視線を向けると、予想していた以上にまともに眼と眼が合った。あの頃と変わらぬ蒼いまなざしが、少しだけ珍しい表情を湛えて、まっすぐに静かにムウを見つめている。記憶よりも圧倒的に近いのだった。どこか気が遠くなりそうな感覚がした。
 一体いつのまにこんなところまで来ていたのだったか、戦いと別離と出会いの連鎖のなかで右往左往しているうちに、怒涛のごとく十三年は過ぎ、気がつけばもはや目の前の人とは、視線の高さが同じなのである。見上げるほどに高かったシオンの背丈は、今ではほとんどムウと大差ない。
 そうしてうろたえずにはいられないような至近の距離から、戸惑うくらいに若々しい姿で、ムウの視線を真正面にとらまえてくるのだ。
 だからムウはいつもその都度ごとに、軽い眩暈に襲われる。胸にこみあげる感情の名を何と呼べば良いのかもわからない。しかしわからないものにむりやり世間的な答えを当てはめて納得することで現実を無難にやりすごす作法を、これまでムウは敢えて身につけてこなかったし、そもそもそんな面倒な思考の習慣を弟子に叩きこんだのはシオンなのである。だからこそサガの乱が起きた十三年前のあの夜も迷わず『反逆者』になることができたのだったし、それこそはムウの欠くべからざる長所でもあった。
 あったのでは、あるが。
 まったく因果な長所を育ててくれたものだった。おかげでやりすごしてしまうことができなかったのだ。気づかないわけにはいかなかったのだ。他でもないシオンのせいだともいえた。何重もの意味で。
 遥か夜空の高みから、風花がひとひら舞い降りてくる。ふと我に返ればしばらくというにはかなり長い間、シオンの双眸に魅入られていたらしい。ずいぶんと無防備な状態をさらけ出してしまっていたようだった。けれども闇を透かしてこちらを見つめる蒼い瞳はあくまでも静かで、それはいっそ真摯なくらいの静謐で、そのまなざしの奥にいる彼そのものがたまらなく好きだと思った。ほとんど諦念のように。
 遠くで風鳴りがびょうと哭く。
 うっかり長々と見つめあってしまった気恥ずかしさを吹っ切るように、ムウはかなう限りの精神力を総動員して、極上の微笑みでわらってみせた。
「……それで、聴いていらしたのでしょう」
 ただそれだけを口にして、傍らの楽器をそっと拾い上げ、無言でシオンの返答を待つ。どう思いましたか、と声に出して訊くのは辛うじてこらえた。
 わずかに虚を突かれた様子で、シオンがゆっくりと瞬きをする。
「……そうだな。それなりに聴かせてはもらったが」
 数秒ほど奇妙な間があった。何かひどく眩しいものを堪える時のように、シオンが少しだけ両眼を細くする。余人には気取られることもない、ほんの僅かな空白である。けれども絃の調子を確かめながら手元の楽器に注意を向けていたので、ムウもまたその空白には気づいていない。
「まあ、以前よりは、いくらかましだな」
 一度だけ深く吐息をつくと、眼下の湖に視線をやって、見えない糸を断ち切るようにすっぱりとシオンは言った。簡潔で率直かつ身も蓋もない、いかにもシオンらしい言い草なのではあった。そもそもが手心だの世辞だのとは無縁の人なのである。その評は昔から常に容赦なく、痛いほどに図星をついてくる。
 しかるに今のムウの練習環境を考えるならば、例えば微塵も進歩がないだとかむしろ悪化しているだとかの酷評が飛んで来なかっただけ、これでもまだ随分まともな部類の評価とはいえた。首の皮一枚での及第点にとりあえずの安堵を覚えながら、けれども心の奥処にはそれとは別種の不可思議な嬉しさが込みあげてきて、ムウは無意識のうちに口元を綻ばせる。
 きっと酷評されたとしても同じように嬉しかっただろうと思った。
「――調律にも音階の理解にも問題はないが、やはり相変わらず運指には難儀をしているな。だが拙いなりにもそこそこ安定はしてきたようだ。その調子で触っていれば、いずれは流暢にもなってくるだろうが、さて」
 弟子の前でやや考える素振りを見せたシオンだったが、考えるうちに何やら興が乗ったのか、唐突に真顔のままで突拍子もないことを言い出した。
「ところで、歌はつけてみないのか?」
「無理です!」
 非現実的にも程がある師の発言を、それでも非礼にだけはならぬようにと辛うじて最後まで聞きはしたものの、聞き終えるやいなや光の速さで即答をするムウである。ほとんど脊髄反射に近い。
 しかしそんな弟子の抗弁を真面目に聞いているのだかいないのだか、シオンはどこ吹く風の涼しい顔で、飄々と受け流しては軽口をきく。
「それでは楽器はわたしが弾いてやるから、試しに少しだけ歌ってみたら」
「絶対に嫌です!」
 普段は取り乱さないムウが珍しく本気で声を張り上げた。表情だけはかろうじて平静を保っているが、色素の薄い膚がわずかに上気して、うっすらと血の色が透けて見えている。心なしか瞳孔もいくぶん据わっているようである。
 平常心のかけらもない弟子のふるまいを横目に見ながら、シオンは愉快げにくつくつと笑った。もはや完全にからかいのモードと化しているらしかった。
「そこまでいうなら今日のところは勘弁してやろう」
 頓着せずにあっさりとそう言って、不意にムウの瞳をひたと覗きこむ。半ば強引にとらまえられて再び視線を交わしてみれば、予想外に柔らかなそのまなざしに、胸の奥深くがちりりと疼いた。二十三夜の淡い月影が、すぐ目の前のシオンの素顔をほの暗く艶やかに映し出している。その輪郭に刹那の間、目を奪われる。
 ここジャミールの地で若い姿の師と対面するのは、泣きたいほどに新鮮で、未だに慣れない。
 だがそのようなムウの内側の事情など、シオンにとっては知る由もなかった。一片の遠慮もなく利き腕を伸ばしてムウの手から楽器を取り上げたかと思えば、気まぐれに何音かつまびきながら、久々の手遊みを楽しんでいる。その指先の流れるような動きを見つめるうちに、ムウはふとあることに思い至った。
 そこそこ機嫌も良さそうだから、あるいはこの様子ならば頼まれてくれるのではないか。
「――あの、シオン」
 厚かましいことをお願いするようなのですが。遠慮がちな言いまわしで慎重に切り出すムウに、手を止めぬままシオンは「何だ」と返した。
「もし差し支えなければ、また何かひとつだけ聴かせてはくださいませんか」
 あくまでも練習の参考にしたいのだという風情を装いながら、できるだけ自然に言ったつもりなのだが、もちろん本当はただ単純に、シオンの歌が聴きたいのである。けれどもそのような内心の欲求をぽろりと口に出してしまうのは、ここ十三年ほどのムウの行動としては尋常でなく珍しかった。きっと何もかもすべてはこの場所と、それからこの場所にいるシオンのせいなのに違いなかった。
 当のシオンは少しだけ意外そうな顔をして、それからまた少しだけ興味深そうな面持ちで、しばし真っすぐにムウを見つめた。
「ほう、珍しいな。おまえがねだってくれるとは」
「……いえ、その。すみません」
「なぜ謝る」
「……」
 わずかに瞳を揺らして口ごもりながらも、表情だけはどうにか変えないでいる。そんな弟子の眦の色には敢えて触れぬまま、シオンは口角の隅でやんわりと笑んだ。何かひどく儚いものをいとおしむように。
「まあ、いいだろう。ちょうど古い歌をひとつ思い出したところだ」
 見わたせば生命の気配ひとつない山脈のほとりには、銀の砂を撒き散らしたような千万無量の光を湛えて、夜の湖面が煌めいている。暗い水に燃える星と月の影。その神話じみた光景に目をやりそっと呟いてから、シオンはおもむろに法衣の長い袖を払い、優雅な所作で楽器を構えた。
「曲というほど大仰なものでもないのだがな。――たわいもない、素朴な俗謡で良ければ」
 はたして承諾の返答は身構えていたよりずっと呆気なく、いっそ拍子抜けするほどに気安げだった。無意識のうちにつめていた息が肺腑の奥までふわりと流れこんできて、ムウは一度だけ大きく瞬きをする。もしかすると結構な取り越し苦労をしていたのかもしれなかった。
 ありがとうございます、と正直に、できるだけ自然に目礼をする。唇の端にはほっとしたような気恥ずかしいような、それでいてたまらなく嬉しいような複雑な微笑みが、溜息に似たひそけさで浮かびあがっている。その微笑みは彼の幼かった頃よりもずっと控えめで静かで落ち着いていて、大人びたというよりもいっそ老成したものですらあったが、あれから十三年の月日が経った今それはむしろ当然の成りゆきであり結果であり摂理でもあって、つまるところ、時は過ぎたのだった。傍らのシオンの知らぬ間に。
 面伏せた弟子の疾うに稚さの消えた輪郭を、暫しシオンは眺めやる。どこか読み取りがたい表情で。それから少し眩しげに。そしてまたおもむろに手首を翻したかと思えば、音の波はゆるやかに広がっていった。
 打ち鳴らされた六弦の艶やかな響きが、静寂を揺るがし山塊を打ちすえて、水のおもてに木霊する。隣りあったシオンの手元から淀みなく生み出されていく深い撥音を、心地よさげに聴きながら、ムウはそれを奏でる長い指の動きを見逃すまいと視線を凝らした。
「これはどういう歌なんですか?」
「たしか、緑の平原、といったと思う」
 予めシオンの語ったとおり、いかにも飾り気などのない、素朴で清明な調べであった。人跡まれな山あいの、風と空と孤独の香りがした。その旋律がしばらく続いた後に、やがて短い詩の一篇を口ずさむように、静けさに舞い落ちる雪片のように、涼やかな音調で歌がはじまった。


  冷たい山脈のただ中で
  このわたしの目に映る緑の平原
  それはまるで湖のようだった

  渇いた大地のただ中で
  このわたしの目に映る緑の平原
  それはまるで貴石のような深い翡翠色

  翡翠色の平原のただ中で
  このわたしの目に映る一輪の花
  ――――。


 たしかに曲というほど大掛かりなものではない、手の込んだ技巧も外装もない、山の民らしい簡潔とした歌なのであった。月映えのうすらかな夜の山脈に、最後の一音がゆっくりと消えていく。しばらくは歌声の余韻が洞のなかに浮遊しているようでもあったが、それはちょうど暗い湖面のしじまを撫でる仄かな光のさざめきに似ていた。
 しかし満ち足りた心地よさに浸りつつも、何となしにムウは首を傾ける。歌詞の最後の結句の部分が、ぼんやりと意識の隅に引っかかっていた。旋律といい詩句の定型といい、いささか中途半端なところで終わった印象がある。それもただ終わったというだけではない。一瞬ためらうような間があって、それからさりげなく終奏へと切り替わったような。
 だが無論、確証があるわけではない。
「……シオン、わたしの気のせいかもしれませんが」
 そんなふうに自信なさげな言い方で、問うてみるのがせいぜいである。
「その歌はそこで終わりなのですか?」
「さて。続きがあったのかもしれないが」
 どうやら忘れてしまったらしい。別段に悪びれる風もなく、素知らぬ顔でさらりとシオンは応じた。なるほど確かにそういう事もあるだろう。いくら人外めいた記憶力の持ち主とはいえ、二百四十有余の歳月である。いちいち思い出してなどいられぬものは、いくらでもあるのに違いなかった。野暮なことを訊いてしまったと、そう率直にムウは考えた。
 かたん、と不服げに六弦が鳴る。
「――もう遅い。いい加減にそろそろ休みなさい」
 とうの昔に聖域でも日は没したぞ。問答無用の口調でそう締めくくると、シオンは片手に楽器を掴んだまま、その場からすっぱりと立ち上がる。どうやら有無も言わさず強制的に、ムウを連れ出すつもりらしかった。
「おまえも熱心なのは良いが、あまり集中が過ぎるのは考えものだ。少しくらいは体をいとえ」
 すみません、と恐縮してみせるムウを、シオンはちらと振り返る。「それから」とやにわに口調を変えて、揶揄するように付け足した。
「いくらなんでも隙が多すぎる」
「……」
「いちおう結界も張ってあるとはいえ、すぐ側の気配にすら気づかぬとは、さすがに油断のしすぎではないか」
 先ほどの不意打ちのことである。すっかり忘れてくれていたかと思っていたのだが。釘を刺しつつもどことなく愉しんでいるようなシオンの表情を受けて、思わずムウは苦笑する。確かに師の立場からすれば指摘のひとつもしたくなるのだろうが、何やら面映ゆいような懐かしいような不思議な気分でもあった。
「……その結界を、『いちおう』張っていましたからね。ご心配には及びません、そこそこ頑強には作ってあるんですよ。もし仮に人が触れた場合には、気配で察知できるようにしてありますし」
「では触れずにすり抜けて来る者があればどうする」
「あれを抜けて来られるとしたら、あなたくらいしかいないと思いましたから」
「ほう」
 間を置くように、ゆるりと一拍。
「随分な自信だが、むろん根拠はあるのだろうな」
「当然です」
 何食わぬ顔できっぱり言い切ってから、ムウはここぞとばかりに莞爾と微笑した。
「誰に教わったと思っているんですか」
「……言ってくれる」
 昇りゆく破月の逆光を背に、向き直ったシオンがにやりと笑った。忍びやかに、けれど尊大に。闇夜を滑る獣の気配。音もなく急所を捕らまえてくる。
「まあ、あまりわたしを過信せぬことだがな」
「……お言葉を返すようですがシオン、そもそも触れもせずにあれを抜けてくるあなたのほうが、根本的にどうかしているんですよ」
 冗談めかした台詞で首を横に振って、呆れたようにムウはぼやいてみせる。まったく幾つになっても敵いそうにない。
「これでも結界や幻惑の術のたぐいには、ひとかたならず上達をしたつもりなんですけどね」
「ああ、そのようだな」
 存外にあっさりと頷いてから、シオンはわずかに眼を細くした。
「……正直なところを言えば、いささか難儀をさせられた」
 おおかた必要に迫られてのことではあったのだろうが、わたしの知らぬ間に随分と腕を上げたのらしいな。笑みの跡を消して呟くそのまなざしは、ふと気がつけば蒼く沈んだ水底の無音にも似て、透きとおるほどにただ静かであった。
 欠落に想いを馳せるかのごとく。過ぎた年月の過酷さを。
「……だがそれもまた、当然のことではあるな」
 傍らの弟子をもう一度ゆっくりとかえりみながら、シオンはただ穏やかに言葉をついだ。
「……当然ですか」
「当然だろう」
 誰が教えたと思っている。
 予期していなかった台詞に隙を突かれて、無防備な顔のまま思わずムウが見上げてみれば、悠然とわらうシオンと真向から視線が合った。鏡の湖面にさざなみの紋。
 まなざしの奥に永遠がある。
「……確かに。違いないですね」
 どちらからともなく互いに微笑みを交わす。秘め事のように。共犯者のように。
「一緒に帰るか?」
 そうしてふと穏やかな声音で囁いて、半歩の距離からシオンがそっと手を差し伸べ。
 ほんの少しだけ鼓動を早くして、その手を取りながらムウは頷いた。
 ――聖域へ。



  冷たい山脈のただ中で
  このわたしの目に映る緑の平原
  それはまるで湖のようだった

  渇いた大地のただ中で
  このわたしの目に映る緑の平原
  それはまるで貴石のような深い翡翠色

  翡翠色の平原のただ中で
  このわたしの目に映る一輪の花
  おまえはこの花より美しい


《END》

***
シオンの内心は深読み推奨で書いたので、
マリアナ海溝よりも深々と裏読みをしていただければ幸いです。

あと作中の歌は実在します。
7年くらい前にたまたま買ったチベットCDの中に入ってた。
このありえないほどの棚ボタ感!

***
数年ぶりに読み返して気になった細部を微修正しました。
自己満足的に20カ所くらい。(2021.2.12)


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Written by T'ika /2017 March〜2017.10.11