A Small Gift



 冷たい石造りの柱廊の、壁の一点にそっと手を当てる。
 封印を解除して現れた扉をゆっくりと押せば、それは十三年前と変わらぬ重さで、闇に沈むようにゆっくりとひらいた。

 久方ぶりに足を踏み入れた教皇の私室。その片隅に置かれた重厚なマホガニーの机の上には、書きかけの書類が幾つか散らばっていた。見覚えの無いその内容にちらりと眼をやり、シオンは乱雑にまとめて脇に置く。机上はそれなりに整っていたが、銀軸のペンは床に転がり、零れ散ったインクの暗褐色が高級木材の艶やかな表面を点々と、血痕のように汚していた。よほど急いで部屋を出たのだろう、と他人事のようにシオンは思う。最後にここを使った者のことを考えながら。
 とはいえ、こうして見れば贋物の教皇も贋物なりに、仕事を捌いていたようではあった。「聖域への反逆者」を処罰するための十枚近くの書類の束は正式な勅書の体裁を整えており、形式ばかりの「アテナ」の文字列の下には、教皇の御名御璽が見えている。既に不要となったものではあるが。その書面からは筆跡を真似る猛烈な努力の跡が窺えて、いささか笑えるほどだった。後で密かに燃やしておくとしよう。
 今は天界とのいざこざもどうにか終着し、そのまま雁首そろえてうっかりと蘇ってしまった女神の聖闘士の面々なのではあったが、蘇り早々にこの部屋の封印を破るというあまり気の進まない役割は、当然のごとくシオンに任されていた。溜息ひとつ吐いたシオンに対して、他に誰一人として入れないのだから致し方ないではないか、とは童虎の弁である。
 確かに真の教皇がこうして戻った以上、ここに立ち入る権限はもはや、シオン以外の誰にも無いのではあった。
 それにしても、とシオンは軽く息をつき、かつて馴染んだ室内を見回す。
 ――この場所は本当に誰ひとり踏み入ることもなく、そのまま置かれてあったのらしい。
 サガの乱の終幕となった十二宮の戦いの後、主なき教皇の間には帰還した女神が黄金聖闘士らを従えて入り、それなりの事後処理をしたと聞いている。しかしこの教皇の私室に関しては秘められた在所を知る者もなく、人が入ることは一度もなかったそうだ。仕掛けの場所を知っていた数名の側近たちも、かつてアイオロスが討たれたのと時を前後して、死体となって密かに運び出されてしまったらしい。
 だからつまるところ、ここは長らくサガが使っていた時の状態そのままで、今日まで保存されてきたというわけだった。シオンにとってその開封は、未だ実感に乏しい十三年間の空白を、ゆっくりと確認する作業でもあった。
 傍らの壁には知らぬ間に持ち込まれた刀剣や彫刻が、灯燭の火を反射して暗然と煌めいている。勇壮で美しい造作ではあるが、生憎とこの種のものを賞杯のように飾る習慣を、シオンは持っていなかった。
 淡々と一隅に向き直り、快適ではない作業の続きに戻る。馴染みの書机は両袖を有する古典的な造りのもので、左右の袖にはそれぞれ縦一列に数杯の抽斗が並んでいた。収められた文具はいずれも見覚えのないものだったが、そのくらいはもちろん予想済みである。シオンが折に触れ重宝してきた数々の薬草類もひとかけらとして残ってはおらず、どうやら箱ごと処分されたようではあったが、それもまた当然の成り行きだろう。いかに稀少な薬石であれ、調合の仕方が分からなければただのごみであるし、そうでなくても自らの手で殺めた前任者の個人的な手触りを感じさせるものは、サガとしてもできるだけ遠ざけておきたかったに違いない。
 だが別にそれでも構わなかった。シオンにとって二百三十年もの長きにわたってこの場所にあることを許されていたのは、ただ教皇としての存在のみである。物欲も我欲も歳月の彼方に置き捨てて、未練は無かった。……大まかには。
 慣れた手つきで片づけていくうちに、作業はいつしか終盤に差し掛かっている。使いこまれた机の天板のすぐ真下には、鍵のついた浅めの抽斗が三つ、横一列に並んでいた。複雑な呪を施された黄金の印璽や、印章を刻んだ円い金属片、代々の教皇にしか閲覧を許されない事績を記した古文書類など、あるべき物がそこにあることを、シオンはざっと目視する。鍵はいずれも壊されていたが、今さら驚くまでもない。
 順を追って粛々と確かめながら、最後に残った左端の抽斗に手を掛ける。その滑らかな真鍮の把手を引こうとした時だった。
 これまで迷わなかった指先が、初めて僅かな逡巡をした。
 表情はひとすじも動かさぬまま、シオンは静かに息をつく。一瞬の瞑目。それからゆっくりと、把手を引いた。
 ひらかれた抽斗の内部には、ひどく古めかしい典籍が整然と重ねられている。綴じた羊皮紙の束をかきわけて最奥を探ると、そこには人目を避けるようにして、ひっそりとしまいこまれた「それ」があった。
 予測を盛大に裏切られ、シオンは僅かに両の眼を見張る。教皇の私室にはまるでそぐわない、飾り気ひとつない無染の毛織地。いっそ真っ先に処分されていても良さそうな、粗末な外観の布包みである。
 ――まさか残っているとは思わなかった。
 半信半疑の心地のままで、そっと手を差しのべて掌に乗せる。わずかな重み。幾重にも包まれた布地を丁寧にひらくと、中からは小さな鉱石のかけらが、十三年前と変わらぬ姿でころりと顔を出した。
 深い翠緑の輝きが、色彩の乏しい部屋にひどく鮮やかだった。



 百千の名だたる高峰を連ね、世界の屋根とも称されるヒマラヤは、複雑な地質構造と豊かな鉱脈をもち、多種多様の良質な鉱物を産する。とりわけジャミールの近辺は稀少な鉱脈の集まる特異点であるらしく、オリハルコンやガマニオン、銀星砂といった幻の鉱物の採取地として、ある種の界隈では知られた土地でもあった。さらには貴金属や玉の原石も様々に採れ、その恩恵はここで暮らす者の糊口をしのぐ一助ともなった。
 普段は教皇としてギリシアの聖域に留まるシオンだったが、そのたったひとりの愛弟子は、ここジャミールへ修業のために入ってから既に数ヶ月ほどが過ぎている。
 不在中に変わりはなかったか、と、この入り口のない館を訪うたびにシオンが真っ先に確かめるのは、もはや習慣のようになりつつあり、そのたびに遠慮がちに微笑んで大丈夫ですと返すのが、このいたいけな弟子の常である。
 しかしその日の反応は、いつもとは異なるものだった。
「――あの、実は、シオン」
 控えめながらも待ちわびていたような熱量で言いかけるムウに、シオンは少しばかりの驚きと感慨をもって、まなざしだけでその先を促す。
「この間シオンが教えてくださった鉱脈を、もういちど辿ってみたのですけど」
 おずおずと見上げてくる幼な子の大きな瞳の色は、深く美しい翠緑をしている。
「そうか。迷わずによく辿れたな」
 つい先日には近辺の複雑な地理に慣れさせるため、そしてまた生来の強すぎるサイコキネシスを制御するための訓練を兼ねて、あちらこちらに点在する銀星砂の鉱脈のありかを、ひと通り叩きこんだばかりだった。標高も六千メートルを超えるこの一帯は、人間どころか生物の棲むべき土地ですら本来はない。道もない山脈の礫面をただひたすらに、身の安全を守りながら移動してゆかねばならなかった。習得したばかりの瞬間移動を使わない限り、進めない場所も少なくない。
 シオンが褒めてやるとその翠緑は、晴れわたるような明るさできらきらと輝いた。
「体に大事はなかったか?」
「はい、大丈夫でした」
 はにかんで答える嬉しげな表情を見れば、蕾のほころぶ様に似ている。
「シオンの言うとおりにしたら心臓にも負担はかからなかったですし、教わったとおりのやり方で移動をしたので、怪我をすることもなかったです」
 それならば良かった、と目を細くしたシオンに向かって、ムウはもう一度口を開きかけて、それからはたと逡巡するように留まった。
 こういう時の弟子の思考はほぼ読めている。
 それほど重要な用件でもなければ、修業と直接に関わることでもない。何かひどく他愛もない日常の、いとおしいような些細なことを言おうとしている。けれどもそれが時間のない師を煩わせるのではないか、迷惑になるのではないかと恐れているのだ。
 そういった種類の分別は確かに、聖域の教皇に対する聖闘士候補生の立場としては必要不可欠なものであり、いっそ哀れなほどに正しい分別なのではあった。しかし同時に、かれがつい半年前に拾われたばかりのみなしごで、少し前まではろくに口もきけなかった身の上であることを考えれば、これが人として健全なふるまい方だとは、シオンにはあまり思えなかった。
「どうした?」
「いいえ――あの、」
 物言いたげな様子の瞳が、望みと自戒の間でしばらく揺れて、迷うように伏せられる。それ以上の言葉は出てこなかった。踏みこえることは未だに怖いのだろう。縋りさえしなければ拒まれることはない。
 シオンはただ黙して弟子からの反応を待ちながら、かれの辿ってきた来し方の残酷を思う。目に見える傷はほとんど癒えたとはいえ、もっと時間が必要だった。今はまだ仕方のないことだった。
「その様子だと、山で何か見つけたか?」
 助け船のつもりで尋ねてやると、ムウは意表を突かれた顔で大きな瞳をぱたりと瞬かせ、驚いたようにシオンを仰ぎ見た。
「あの辺りは他の鉱物の類も良く採れる。見せてみなさい」
 本当は師に促されるまでもなく、始めからそうしたかったのだろう。はい、と大きく破顔して、幼な子は身を翻し、部屋の奥の寝台のほうへと駆けていった。
 そんなふうに笑う時だけは、年相応に見えなくもなかった。

 ほんの一瞬も待たないうちに、何やら粗末な織布の端切れにくるんだものを大切そうに抱えて、幼な子はいそいそと戻って来た。差し出された包みをシオンがひらくと、色とりどりの原石のかけらが燈火の光をきらきらとはじいて、星屑のように卓上にこぼれた。両手に一杯ほどもあるだろうか。
「ずいぶんたくさん集めたな」
 思わずシオンが笑って言えば、見上げる子供のまなじりに、ほんの微かに朱が差した。
 手元の原石に視線を戻し、ざっと眺めた印象としては、小振りながらも純度の高い良質なものが多いようである。色もかたちも様々であったが、輝きの美しさはどれも目を惹いた。この様子だと鉱脈の周囲の細かいさざれまで、かなり丁寧に見て回ったのだろう。素材の良し悪しを無意識に見抜けているのだとすれば、修復師としても悪くない才能だった。
「なかなか良い目をしている」
 独りごちるように呟いたきり多くを語らぬ師の言葉に、よくわからない、といった顔をしてムウは小首を傾げる。どうやら自分が褒められているとは思ってもいないようだった。黙したままのシオンを不思議そうに見上げながら、その反応をおとなしく待っている。
 そんな弟子の姿にまなざしを和らげて、おいで、と仕草だけで傍らを示してやれば、幼な子ははにかむように口元を綻ばせ、遠慮がちに法衣の袖にくっついてきた。片腕を伸ばしてそっと引き寄せてやると、翠緑の瞳がもう一度だけぱたりと瞬いて、やがて夜の静寂に紛れるほどのひそやかな動きで、少し冷えた体がぴったりと腕のなかに収まってくる。
 触れあった箇所だけがほのかに温かい。
「この透きとおったものはどれも石英だ。この辺りではそこそこ多く出る」
 彩色玻璃のような結晶をひとつずつ指しながら示してみせれば、腕のなかからは意外そうな声がした。
「あの、こんなに色の違うもの、ぜんぶですか?」
 子供が驚くのも無理はなかった。ごく淡い桃色や黄金色に、煙るような灰褐色。鮮やかな橙、紅、薄紫に至るまで、その彩りは目を瞠るほどに多彩であった。
「色づいているのは、地質によって少しずつ違う成分が混じったためだ。ここにある無色透明のものが、本来の石英の姿だな。水がそのまま結晶化したようにも見えるだろう。特にこういう無色のものは、わたしたちの言葉でもギリシアの言葉でも同じように、水の結晶――水晶と呼んで重宝する」
 ここから名を取った防御技もあるから、そのうちおまえにも覚えてもらわねばならない。ごくさりげない調子で付け加えると、腕の中の子供は少しだけ緊張した表情で、至極神妙に頷いた。
「こっちの赤いのも水晶ですか?」
「これは山珊瑚だな。かつてこの山脈が海の底だった頃の名残だ。山麓の村々では装身具として特に好まれる。必需品と多めに交換できるから、出た場所を覚えておくと良い」
 動植物由来の資源の一切が期待できないここジャミールでの生活のためには、山麓の村々に立つ小さな市は、いわば命綱のひとつといっても過言ではない。わかりました、見つけたら大切にとっておきます、と生真面目な様子で答える弟子に、「あまり採りすぎる必要はないぞ。必要な折に、ほどほどでいい」とシオンは笑って釘を刺す。この分ならば銀や金などの鉱脈の在処も、近いうちに教えてやれるだろう。
「はい、あの――それでは、この蒼いのは何ですか? 夜の空みたいで、すごく綺麗で」
「ああ、それは黄鉄鉱の粒が混じっているな。だいたいの基盤は青金石で――」
 これは何、それはなぜ、と幼な子の疑問はいくらでも湧いてくるようだった。恐らくはもうずっと長いこと、人の血の通った言葉と知識に飢えてきたのだろう。思い起こせばこの弟子は初めて会った時から驚くほどの記憶力で、シオンの語ったことのすべてを確実に覚えて忘れなかった。おそらくは今日話したことも長らく記憶に刻んで、忘れずにいるのだろうと思われた。
 そうやって問われるがまま答えているうちに、ふと、シオンの視線はある一点へ吸い寄せられる。
 とりどりに煌めく原石の群れの、片隅に佇む小さなかけら。一見して派手という訳ではないが、きめの細やかな石肌の表層が大きくうち欠けたその切り口からは、まるで内側からほのかに発光しているかのような、美しい翠緑が露出していた。
「ほう、これは――」
 漣ひとつない湖面の静けさにも似た、半透明の輝きが見事であった。そっと摘みあげて掌に乗せると、ひんやりと優しげな感触がする。外観から予想されるよりわずかに重い。
「随分と深い色の翡翠石だ」
 口の端で僅かに微笑う。今までとは微妙に異なる師の反応に、見上げるムウの顔には不思議そうな表情が浮かんだ。
「あの、何か、おかしいところがありましたか?」
「いや、そういう訳ではない。少々意表を突かれただけだ」
「もしかして、珍しいのですか?」
「ああ、かも知れぬな。わたしもこの山脈の全てを知悉しているわけではないが、近辺で見かけるのは割と珍しい」
 瑣末事のように答えるシオンに、それでは珍しさが理由で意表を突かれたわけではないのだろうかという顔をして、ムウは少しだけ首を傾けた。聡い子供だ、とシオンは思う。他の者ならば通り過ぎてしまうような僅かな違和感も、この弟子は自力で気づいて立ち止まることができる。
 そっと手を伸べてまっすぐな金の髪を撫でてやると、幼な子は一瞬だけ目を見開いて、まなじりを淡やかな紅に染め、それからほんのりと幸せそうな顔をした。
「翡翠を好むのは東洋の文化だ。由来はかなり古くまで遡る」
 腕のなかの子供と視線を合わせて、問わず語りにシオンは語る。わたしたちの生まれたこの雪の国にも、遠い昔から様々な伝説がある。翡翠の神秘的で優雅な佇まいは、宝具としても呪具としても秀でていたのだろう。はるか古代の先人たちはこの石を、万物を見透す神の瞳と信じたそうだ。
「実際にわたしの若い頃などは、古い神像や仏像の瞳に嵌められているのも、まあまあ見かけたものではあったが」
 言いながらシオンは掌中の貴石に視線を戻す。
「これだけ鮮やかな翠緑は見たことがない」
 そう呟いていつになく愉しげに眺め入るシオンの様子をじっと見つめながら、ムウは再び首を傾けて、やはり不思議そうな顔でぱたりと瞬きをする。そのまましばらく考えるようにもしていたが、やがておずおずと遠慮がちに問いかけてきた。
「あの、シオンはそういう色がお好きなんですか?」
「そうだな。最近、気に入っている」
「あの、それじゃ、さしあげます。シオンがもっていてください」
 不意をつかれたシオンが思わず見やると、ムウは少し怖気づいたようだった。
「その、ごめんなさい。別にいらないかもしれないですけど――」
「いや、そういう意味ではない」
 弟子の言葉をゆるやかに遮って、シオンはできる限り穏やかに笑ってみせる。やっとのことで自分から一歩を踏み出してきた愛弟子に、深い感慨を抱きながら。
「少しばかり驚いただけだ。おまえが大切にしているようだったから、わたしが貰っても良いものだろうかと」
 いいんです、と反射の速度でムウは答えた。シオンにならいくらでも、ぜんぶ差しあげたっていいんです。
 懸命に告げてくる愛弟子の言葉を、何も言わずただ静かにシオンは聞いている。
「だから、あの、シオンがお好きなら、他のもみんな持っていってくださっても、かまわないのですけれど」
「……いや、これがよいのだ」
 小さな神の眼を片手にまなざしを和らげて、シオンはもう一度だけ優しく金の髪を撫でる。
「大切にもらっておこう」



 この色が一番おまえの面影を浮かばせるのだとは、結局は一度も言わぬままだった。たぶんそれまで鏡などとは無縁の生活をしてきたあの弟子は、あの頃はまだ自分の瞳の色も知らなかったろう。あのとき本当の理由を言ってやれたなら、かれをもう少しだけ幸せにできたのかもしれないが、しかしはっきりと口に出して告げることで、己の罪業に巻きこみたくなかったのも事実である。
 この小さくて美しい翡翠石のかけらは、教皇宮のなかにシオンが持ちこんだ、たったひとつの私情であった。それは本来は許されることのない、固く禁じられた私情であった。
 教皇とは神の代行者である。生身の人間が神に代わる時、そこには決して個人的な情欲を挟む余地があってはならない。決して。教皇の素顔を覆い隠す黄金の仮面は、禁じられた私心の象徴だった。
 だから本来であればこの部屋にシオンの私情は存在しない。存在すべきではないと、思い決めてきた。今この手のなかにそっと横たわる、美しい翠緑を除いては。
 あのとき幼かったかれの中で変わりかけていた何か大切なものの存在を、そしてそれをいとおしむ己の心を、ただの私情だと切り捨てることができなかったのは、未だシオンが悟りきれていないからなのだろう。けれどもせめて、この色に惹かれた理由をかれに知らせることさえしなければ、これはただシオンひとりの罪で済む。かれの意思でも、責任でもない。
 視線を断ち切って面を上げれば、卓上に置かれた灯燭の火がふと揺らめいて、石造りの室内に複雑な陰翳を踊らせた。光の届かぬ部屋の対角には、沈むような暗闇が蹲っている。
 結局のところシオンが教皇の立場を介在させることなく、ただの師として身ひとつだけであの弟子と共に過ごすことができたのは、瞬きほどの僅かな時間に過ぎなかった。そしてその僅かな間にも、記念日の贈り物や祝いの品といったかたちで目に見える物のやり取りをするようなことは、師も弟子も互いに一度もなかった。薄情と言われればその通りだと答えるしかない。しかしあの頃の聖域の状況は、あと数年も経てば教皇の後継が取り沙汰されようかという政治的に微妙すぎるタイミングだったし、それはつまり余計な火種を作らぬための様々な配慮が不可欠な、繊細きわまりない時勢に他ならなかった。牡羊座の宿命を背負ったあの幼な子は、そんな折にシオンのもとに来たのであった。
 だからこそシオンは聖域において弟子の存在を悟られるものを一切持たぬようにしていたのだし、同様に教皇との個人的なつながりを気取られるものを、弟子に持たせることもしなかった。そうせざるを得ない時期であり、立場であった。
 結果的にこの小さな翡翠石のかけらは、教皇の間にありながらただひとつ、あの翠緑の瞳を偲ばせるよすがとなった。なってしまった、といったほうが正確かもしれない。これを差し出したムウ自身にはそのような心算など微塵もなかったし、そしてまたシオン自身ですらも、企図してそうなった訳では決してなかったのだから。
 しかし――それでも。
 それでも教皇宮における長い長い公務の時間のなかで一瞬の間隙ができたときなどには、シオンはよくこの翠緑を取り出して眺めたし、その色彩をいとおしみもした。
 そして同時に、そのたびごとに、あの山脈でひとり師の帰りを待ちわびているのであろう幼いかれの孤独を想い、それを強いる己の残酷を想ったのだった。

 短いようで長かったこの十三年間、サガが何を考えてこれを残してあったのかは分からない。同じ区画に収められていた他の品々があまりに重要だったので、これもまた教皇の業務に必要な何かなのだろうと勘違いをしたのかもしれなかったし、あるいは単純に抽斗の奥のほうを見逃していただけなのかもしれない。シオンとしては別にどちらでもよかった。今さら過去が変わるわけでもない。欠け落ちた歳月が戻るわけでも。
 そっと手のひらに乗せた翡翠のかけらを、法衣の長い袖のたもとに収める。今は一番肌身に近いところで身につけて、離さず傍に置いておきたかった。
 ……想い出だけでも、せめて。


《END》


***
自給自足の100質(回答編)の作成中に、そういえばこの話まだ書いてないなということにふと気づいたので、ゴッと書いてみました。いつものごとく色々と捏造をしているのですが、今回は特に自分の脳内設定を多めに顕在化させたかもしれない。まあどうせ私が書いている以上、すべては捏造なので、いっか!と思って。

***
久々に読み返して気になったところを微修正しました。(2022.5.8)


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Written by T'ika /2021.3.27〜2021.5.28