彼の見る悪夢 ――眠っていたはずのシオンがふいに身体を起こして、その勢いで目が醒めた。 寄り添っていた箇所に冷えた空気が流れ込み、ムウはいささかの寒気に身を震わせる。掛布からはみ出していた己の肩に触れてみると、ひんやりと外気に近い温度がした。 もうそんな季節だったかと、自らの鈍感さを呪いつつ、申し訳ない気持ちでムウは傍らの人へと声をかける。懐中に抱き込まれるような格好でいた自分でさえこうなのだから、まともに外側にさらされていた彼の身体は、さぞや冷え切ってしまっていることだろう。 「すみませんシオン、気が回らなくて。今、毛布を取ってきますから――」 言いながらも急いで身を起こし、そっと寝具から滑り出る。しかし言葉の仕舞いまで言い終えぬうちに、裸の身体にシオンの指が絡みついた。 「……!?」 見開いた視界がぐらりと傾く。強い力で手首を掴まれ、バランスを崩したムウの身体を、シオンは無理矢理、寝具の上へと引き倒した。押さえつけられた箇所に鈍痛が走る。 「シオン、何……を」 酷く無防備な仰向けの体勢のまま、言いさした言葉に返答はない。明かりも点けない寝室の暗がりの中で、黒い影のようなシオンの指が、まさぐるように肌を這う。いつになく切羽詰まったような、愛撫とは程遠い性急な動き。 その手が酷く、震えていて。 そうしてムウはようやく異常に気付く。身体をまさぐるその手だけではない。跡の残るほどきつく手首を締め上げるもう片方の手も、腕も肩も、むき出しの背中も、伏せた睫毛の先までみんな、先刻からずっと震えていたのだということに。 張りつめたような静寂の中、言葉もなくムウはシオンを見つめる。触れられるほどの間近な距離で、落ちかかる豪奢な長髪の向こう、黒影に紛れた表情は判らない。 問いかけることさえ、憚られるほど。 どうにかして拘束をほどこうと、ムウは不自由で不器用な身じろぎをする。蒼く冷えきったその人の、底知れぬ沈黙に手を伸べたかった。しかしそんな微かな抵抗には全く気付かないまま、切実さにも似た闇雲な強引さで、シオンはムウの動きを固く封じ込める。黒い輪郭の半身が、そのまま覆い被さるように闇に沈み込み、寝具に押し付けられた背中の裏に、冷えた手が乱暴に割り込んだ。その人らしくない乱雑な所作で、幾度も繰り返される、執拗な動き。 そうして強くしなやかな震える腕で、シオンはムウの背中を撫でた。まるで何かを確かめてでもいるかのように。俯いたままのその双眸は、闇に紛れて色すらもない。静寂に浸された室内の、気配だけがかすかに揺れる。 やがて冷えた空気の澱の中、忍び音にも似たささやきが落ちた。 「……すまない」 ムウは無言でその人を見る。肌をまさぐっていた手の動きが、途切れるようにふつりと止まった。 「……シオン?」 暗闇の中にそっと、呼びかける。背中にずっと当てられたまま、離れようとしない手のひらは、今もまだかすかに震えている。 気遣うようなムウのまなざしに、シオンは微笑おうとして、失敗した。水滴がひとつ、ムウの裸の胸にぽとりと落ちた。 「すまない――」 耳を澄まさなければ聞こえぬほどの、かすかな声が夜の果てに消える。水滴がまた幾つか、ぽたぽたと落ちた。四肢を強く押さえつけていた圧力が、糸が切れるようにはらりと解けた。 「……何を言っているんですか、シオン」 痛みで力の入らない手足を横たえたまま、穏やかな瞳でムウは微笑む。 「私は何にも悪いことなど、されていませんよ?」 だから安心して、下さい。痺れた指先をゆっくりと差し伸べて、癖の強い髪をかすめながら、ムウはシオンの肩に静かに触れる。その肩先からはひんやりと、蒼ざめた外気の温度がする。 恐る恐る、シオンは両の手に力を込める。あたたかな体温に瞳を閉じて、そうして小鳥の雛でも抱くように、シオンはムウの体を抱いた。止まらない水滴がいくつも溢れて、素肌に冷たい模様を描いた。冷えきったその両腕の、ほとんどそれと判らぬほどの愛撫の動きは、気が遠くなるくらい優しかった。 「……シオン?」 重ね合った身体の温度をはかりながら、ムウはその名をもう一度呼ばう。翡翠の瞳にはっきりと、気遣うような問いかけを込めて。大丈夫ですか、と無言で尋ねる視線を受けて、シオンは俯いたまま頷き返す。 「ああ。……起こしてしまって、すまない」 そう言いながらも胸に寄せられたまま離れようとしないシオンの耳が、自分の鼓動の音を聴いているということを、ムウはようやく察知する。 「……何があったのか聞いても、かまいませんか?」 ささやくような問いかけに、しかしシオンは首を横に振って、聞かせるほどのことではないと呟いた。大したことではないから、と。 「でも、シオン――」 「おまえには心配をかけてすまなかった。だがもう、何でもない。済んだ事だ。……気にしなくていい」 己に語り聞かせるようなその言葉。薄寒い室内に、沈黙が降りる。少しだけ寂しげに、ムウはシオンの横顔を見る。両の瞳を固く閉ざして、強く揺らがぬその表情。哀しみの輪郭さえ、偽りながら。寂寥にも似た痛みが心で疼いて、胸の奥がちりりと焼ける。けれどもムウのそのようなまなざしにさえも、おそらくシオンは気付いている。 わたしにできることなど何もないと、あなたは言っているのだろうか。 ムウは黙って、目蓋を伏せる。決して崩れぬその人の横顔が、今は無性につらかった。差し伸べた両手の中の、その冷え切った体温さえもが、酷く切なく口惜しかった。哀しみに対して無力ならば、せめてそれだけでも温められればいいのにと、思った。 気持ちを払うように視線を上げて、努めて軽い調子でひと息に言う。 「随分と冷えてしまいましたね。少し待ってて下さい、すぐに毛布を取ってきますから」 しかし言ったその言葉の内容に、シオンが不意に顔を上げた。滴り落ちるような濃い闇の中、判別しがたい表情のまなざしが、初めてまともにムウを見た。 「……寒いのか」 「いいえ、あなたが」 「わたしならいい。要らぬ」 「でも」 このままでは風邪を引いてしまいますから。そう言いかけた言葉をほとんど遮るようにして、シオンはムウの身体をきつく抱きしめた。そのただならぬ突然の切迫に、ムウは思わず目を瞠る。狼狽しつつも尋ねようとしたその瞬間、かすかに震えるシオンの声が、冷えた夜気をさざ波のように揺らした。 「離れるな」 離したくない、と、シオンは聞きとれぬほどの小さな声で呟いた。 「シオン……?いったい何を」 戸惑いながら見つめるムウに、やがて、溜息に紛れるほどのささやき声で、シオンは言葉を絞り出した。 「……お前を殺す、夢を見た」 背を撫でるその手のかすかな動きは、泣きたくなるほど優しかった。 耳を聾するような沈黙の帳の中で、短いその人の言葉に込められた意味を、呆然とムウは理解する。おそらくは冥府の闇に囲まれた、あの十二宮の戦いの夜の幻影が、彼の眠りを苛んだのだろう。でもまさか、あなたがそのようなことを、……否。 月日が過ぎるとは、こういう事だ。 突如として目の前に具現した出来事の実在に息をつめながら、ムウは過ぎ去った時間の意味をゆっくりと悟る。己の存在がその人に恐怖を与えているという、途方もない事実。それは13年前には決して、ありえなかった事だろう。7才の子供が自らよりも先に逝く可能性などを、年老いたその人が思うことは、ほとんど無かっただろうから。だがそれももう今では、当てはまらない。13年の月日とともに、変わってしまった。 ……変わって良かったと、思っている。 「大丈夫です、シオン。わたしが、あなたから離れませんから」 冷えたシオンの手を取りながら、掠れる声でムウはささやく。離したくないと呟いた、その人の最前の言葉を受けて。痺れ強張っていた指先をそっと伸ばして、癖のある髪に静かに触れると、意表をつかれたのか驚いたように、視線を上げてシオンが見つめた。 その眼の縁に、哀しみの跡。 闇を透かして、ムウは微笑む。そうして長く豪奢なシオンの癖毛に、指を絡めて静かに撫でる。少しだけ戸惑ったような、困ったような笑みをシオンは浮かべる。泣き笑いにも似た表情で、ムウはささやく。 「ごめんなさい、シオン。あなたも同じことをしてくれたから」 再びの喪失を恐れるわたしが、悪夢に侵されるそのたびに。 痛む腕を精一杯に伸ばして触れながら、ムウはシオンの重みに寄り添う。変わって良かったと、思っている。そしてきっと傍らのこの人もそう思ってくれていると、判っている。失うことの痛みと悲しみを知り尽くした今の自分だから、手の中にあるということの意味も価値も知っている。そして恐怖も、知っている。今ではあなたと、同じ深さで。 わたしたちのこの恐れはきっと、転がり込んできた幸福の証拠だ。 静けさの中でムウはそっと、シオンの長い髪を撫でる。ゆっくりとシオンは眼を閉じて、ムウの身体を抱きしめる。重ねあった箇所に温もりが満ちて行く。高まる鼓動を感じながらムウは、繋いだ手に力を込める。すがりつくような仕方で、シオンはその手を握り返す。 そうして鼓動を聴いている。 いつまでもずっと、聴いている。 《END》
************** 注:このシオンはあくまでも攻めです。断じて攻めです。誰が何と言おうと攻めです。 無敵に不敵な攻めの人が、弱気になる瞬間を書いてみたかったんですすみません… 元々の話は2年前に個人的にノートに書き殴った小話なんですが、 ウェブに載せ直すに当たって大幅に加筆修正しました。 ちなみに背後設定的には羊部屋の長編の6・7話とリンクしています(あと短編の「夢」も) 「弱気なシオンさんの話」の存在をうっかり口走ってしまった半年前、 「載せなさい!」と叱咤激励してくださった M 野森様に 今さらながらですが迷惑承知の上、心の中でこっそりとひっそりと捧げます。 |
Written by T'ika /2003.11.2
and Rewritten by T'ika/〜2005.11.9