Merry, Melting Christmas



 吸い込まれそうな降誕祭の冬の夜。晴れ渡った星空の下をゆっくりと歩く。しんしんと痺れるほどよく冷えた空気は、本格的な寒さの極みまでもうあと僅か。それでも火照った体には酷く、心地良い。
 少しだけ酔ってしまったかもしれないと、思う。
 唇から漏れ出る吐息が一瞬のうちに真白く凍えて、ふわふわと天高く昇って行くのを、見るともなしにムウは見ている。神域も外れの寂れた区域、ひと気のない神殿の跡地には、朽ちて倒れた幾つもの列柱の残骸が、淡くほのかに光っている。夜の闇に沈む大理石の白い発熱。無数の遺跡を通り過ぎながらムウは、背後の丘の上を振り仰ぐ。
 今しがた退出してきた教皇の間にはまだ、煌々と明かりが灯っている。
 遠目にもいつになく賑わしい、華やいだ気配のその建物では、ここに戻って初めての聖夜を皆で祝福したいから、という微笑ましくも細やかなアテナの趣向で、ささやかな宴が今も開かれていた。もちろんここ聖域における「降誕」祭というならばむしろ、他でもない彼女自身の生誕日の祝いを、数ヶ月前に盛大にやったばかりなのだが――第一、日本人は仏教徒ではなかったのか?と、真面目なシュラやカミュあたりなどは初め腑に落ちぬ顔をしていたものだが――、しかし実際に参加してみて、得心はいった。
 なるほど彼女の故国の文化においては、異教の神の聖祭さえも、知己と楽しむためのきっかけとしてしまうのらしい。
 そういうことならば、と中座を諦めて腰を落ち着けてはみたものの、やはり不特定多数と打ち解けて会するあのような場は、ほとんど初めてのようなもの。次々と酒杯を勧めてくる友人知人諸々の手前、それなりに飲むことにはなったわけだが、もとより宴席は得意ではない。ほどほどの頃合で切り上げて、宮を出てきたところだった。
 静謐と沈黙を楽しむように、目的も無い道を気ままに歩く。外気に晒されて冷たくなった耳に、ちりんと鈴の音が聴こえたような気がして、暗く澄み切った夜空を見上げる。星が出ている。恐ろしく綺麗に。
 わざと遠回りの道筋を選んで、酔いを醒まそうと歩いていたら、思いがけない人物に出会った。

 馴染んだ気配が肌を騒がす。静寂のひとすじも動かさぬまま、存在が熱量を放射している。ふわふわと軽やかな微酔のせいか、少しだけ大きく、鼓動が跳ねた。
 同じ屋根の下に暮らすようになってから如何ほどか。列柱を背に悠然と座るその後姿はムウの目には既に見慣れたものではあったが、ここ最近の師との微妙な距離感を思うと、実のところ状況は少しく複雑ではあった。想いを意識するたびに、振る舞いは逆にどこかぎこちなくぎくしゃくとして、近頃では踏み越えていいのかどうか判らない何かの前で、抱えていていいのかどうかすら判らない感情を胸に、ムウはひとり途方に暮れている。……とは言え、この分ではこちらの存在などきっと、とうに気付かれているのだろう。
 少しだけ緊張して星明かりの中に話しかける。
 「……おひとりですか?」
 振り向きもせずにシオンは答えた。
 「見ての通りだが?」
 声音は意外なほど柔らかだった。

 思わず漏れ出た己の白い息を追い越して、巨石の向こう側にムウは歩み寄る。シオンがちらりと視線を寄越す。石の台座に腰をおろしたまま、見上げてくるまなざしが、いつもより少しだけ柔らかい。……微笑っている。鼓動が、止まりそうになる。思わずさまよわせた眼でふと見下ろせば、シオンの手元の陰になっていた場所には、半分空いた酒盃と酒瓶が、酷く無造作に散らかっていた。
 あきれた声でムウは言う。いったいどうして、こんなところで。
 ……いつの間に、とは聞かないけれども。
 「アテナも老師もまだあちらにいらっしゃいますよ?」
 ついでのように付け加えられたムウの言葉に、シオンは答えずに空を指す。
 「星が随分と綺麗だった」
 遠くを見つめるそのまなざしに、つられてムウも天を見上げる。輝きの強烈な真冬の星座が、澄み切った夜空一面に怖いくらいに瞬いている。
 しばらくの間見つめていると、不意に、おまえは?とシオンが問うた。まだ閉会の時分には程遠いはずだが。言ってわずかに口角を上げる。何もかも見透かしているようなその瞳。
 わたしは、どうもああいう席は。言いながら気まずそうにムウは口ごもる。
 「……苦手なんです」
 「随分と楽しそうに見えたが?」
 「それは別に、……楽しくないわけでは、ありませんから」
 見られていたのだろうか。頬に血が上るのを意識しながらも、あえて淡白を装いながら応じたムウの答えに、酒盃を口に含みながら、そのようだな、とシオンも淡白に返す。
 「随分と珍しい表情をしていた」
 「……あなたはあまり、変わりませんでしたね」
 あんなに平然と顔色も変えずに、相も変わらず酒にお強い。
 言って、ちらりと悪戯めいた眼でムウは笑う。おまえに言われる筋合いは無いが。すがめるような目付きでニヤリと笑って、シオンはゆっくりと杯を置く。その視線をかろうじて受け流しながら、素知らぬ顔でムウは白を切る。何をおっしゃいますかシオン、そんなにたくさん飲んでなどいませんよ、私は。
 自分で一杯空ける間に、デスマスクあたりには五杯ほど空けさせておきましたし。すました顔で、罪状を、さらり。
 「……今、さりげなく過少申告しただろう」
 茶々を入れるように、シオンが揶揄った。
 「まるで被害者がデスマスクだけのように聞こえるが」
 「いちいち挑んでくる方が悪いんです」
 というか、あれくらいで潰れる方が、どうかしている。
 わずかに染まった頬を隠すようにあらぬ方を向きながら、心外そうに言うムウを、是もなく否もなくシオンは見ている。その存在感のある強い視線を、受け止められずにムウは眼を逸らす。こんなふうに二人きりで話せることが、内心こんなに嬉しいことも、あなたは見抜いているのだろうか。
 怖いほどに輝く星屑の下、さざめくようにゆっくりとシオンが笑う。
 「まあ良い。人気があるようで何よりだ」
 「……シオン?その言い方はちょっと、」
 予想もしていなかった文脈のずらしに、ムウは思わずシオンを見やる。胸の内を満たす、ほのかな困惑。その言い方はちょっと、いやかなり違うような気が、するんですが。
 さて、どうだかな。弟子の戸惑いなど知らぬげに、冗談だか本気だか判らないような眼差しで、シオンはゆうるりとムウに笑いかける。  「いささか妬けた、と言っておこうか」
 思わず一瞬絶句して。内心の動揺を押し隠すために、ムウは眉間に縦皺を刻んだ。これはだめだ、明らかにからかわれている。酒の肴の軽口なのだ。浮かれて真に受ける訳にはいかない。断じて。
 心の揺らぎを知られぬように眉根を寄せて、ムウは半ば本気で眼下の人を睨めつける。
 「……また、そのような戯れをおっしゃって」
 「……戯れ?」
 見つめた視線は外さぬままに、言葉を反復したその人は、眼を細くして、うっすらと笑った。
 ちりん。遠くで銀の鈴が鳴る。
 獣のようにしなやかに、シオンが不意に立ち上がる。音もなく、無駄な加力も一切なく、一連の動作の中で至極自然に、その強靭な腕がするりと伸びた。突然の変化にムウは眼を瞠る。両肩の間に、鈍い衝撃。
 何が起こったのか訳もわからないまま、気がつくとムウの背中の後ろには、固く冷たい石の壁があった。ひび割れた大理石の巨大な柱に、全身が痛いほど押し付けられている。喉元には微動だにしないシオンの手。振りほどこうにも既に体の急所を完全に捕らえられていて、身動きが取れない。
 「な――」
 言いかけてムウは二、三度咳き込む。背中から酷く打ち付けられたせいで、うまく言葉が出てこない。状況が飲み込めず混乱しているうちに、そのまま強い力で髪ごと頭を掴まれて、乱暴に柱の側面に固定された。指を絡められた髪が容赦もなく引っ張られて痛い。刺激への生理反応で思わず、まぶたの縁から涙が零れた。
 「ちょっ、シオン――、」
 いったい何を、と抗議の声を上げようとして眼を開けると、据わった目ではんなりと笑む彼と視線が合った。近い。
 「隙だらけだな」
 笑いながらも、物凄い力。手加減の理性が完全に切れている。絶望的な気分でムウは思う。……まさか、そんなに飲んだのだろうか。でもあれくらいで酔う人じゃないはずなのに。
 獲物を捕らえた獣のように、星明かりの下でシオンが嗤う。心臓が止まるような、優雅な微笑。美しく恐ろしく、悪魔のような。
 息を呑んだままムウは、言葉を失う。
 そうして何が何だかわからないまま、そぐわないほど優しく、口付けられた。
 触れるか触れないかのわずかな接触。とろりと温かく熱い粘膜。重なった箇所のごく浅い部分で、ついばむように、そっとなぞる。暴力の塊のような人間の、唇だけが、柔らかく、甘く。
 濡れた彼の唾液から、ほのかにラムの香りがした。


 始まった時と同じように前触れもなく、全身を強烈に押さえつけていた圧倒的な力は唐突に消えた。翡翠色の瞳を見開いたまま、ムウは思わず大理石の側面をずり落ちる。頭の隅が酷く痺れている。手足にまったく力が入らない。ただ呆然とシオンを見上げる、言葉も出ないそのムウを、シオンは高みからちらりと見下ろす。
 「……どうした」
 戯れと言って、怒らないのか?すがめるような目付きでわずかに口角を上げる、その太い笑みの向こうの、表情が読めない。

 底の知れない蒼の瞳で、答えも聞かずにあなたは去って行く。


 ゆっくりと踵を返した後姿が振り向きもしないまま、遺跡の向こうに消えるや否や、張りつめていた気力すらも完全に萎えて、ムウは冷たい地面にへたり込んだ。
 何なんだ、今のは……?
 自覚もないまま伸びた手がいつの間にか口元を押さえている。ぐるぐると物凄い勢いで思考が脳裏を過ぎ去っていっているようで、その実何ひとつ考えることなどできてはいない。ただ胸の奥で、想いが疼く。固く固く封じ込めたはずの、望むことさえ、許されぬはずの。
 ……きっと、星があまりに、騒がしいから。
 伏せた瞳に憂いを浮かべ、ムウは神域の廃墟でひとり、ため息をつく。物思いのなか、俯いて。
 「……そんなにがんじからめにしなくったって、逃げなかったのに」
 底の知れない蒼の瞳。
 酔って……いたのだろうか、本当は。



《END》


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アー、一応断っておくと、日本人が全員仏教徒だと、「私が」思っているわけではありませんよ。ただ海外の人って「日本人=仏教徒」と思い込んでいることが多いので、ここではそういうイメージで。

ちなみになぜラム酒かというと、当サイトのシオンはクリスマスに素直にワイン飲んでてくれるような、素直な性質のお方じゃないから(笑)。ラムはワインより味も香りもアルコール度数もはるかに濃厚で強烈で甘い感じのお酒です。値段が安いので労働者階級の間で良く飲まれるようです。彼はこういう場面ではあまりお上品な階層のお酒ではないものをお召しになっている方が、個人的には逆に萌えです。ちなみにシオンがラムを知ったのは渡欧して間もない若造の頃に違いありません。きっと。(もし教皇時代だったら激しく問題がある)

1つネタばらしをすると本当はこれ、私の頭の中では、「シオンムウ初夜への道」と題されたシリーズ物の一部としてカテゴリー化されているんですけど(爆)、 長編として目処がつくまで待つとしたらもうそれこそ本当にいつアップできるか全くわからんので、さっさと単品にしてクリスマス仕様で出すことにしました。だから他の話と時期とかずれててもあまり気にしないでプリーズ(←超適当)

あれこれ深読み推奨で書いたつもりなので、好きなだけ深読みしまくって頂けたらとっても本望です。

***(2021.3.11追記)
10年ぶりくらいに読み返したら、ちょっとこのセリフ違う!そうじゃない!って感じのところがあったので一部書き直しました今。ゴッと。正直、書いた当時もこのセリフちょっと違うなって思ってたんですけど、当時は今以上に筆力がなかったので、違うなって思いながらも仕方なくそのままアップしていたのであった。今書き直してだいたいこれで満足です。


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Written by T'ika /2006.12.25(Rewritten by T'ika/2021.3.11)