アルシーヴ



 それはまるで溢れ出したヒマラヤの雪解けが天に昇って、星になったのではないかと思われた。一面の光の粒が春の水のように、たゆたいながら夜空を満たしていた。
 銀の飛沫を撒き散らして猟犬が走る。母熊と仔熊が連れ立って逃げる。白い尾の先には北極星。冬の間なみなみと水を湛えた北斗は、待ちかねたように高々と天に昇り、柄杓の縁から光る雫をこぼす。
 きらめく水面を掻き分けて、ムウは星座の群島をたどっている。シオンの声に導かれながら。北斗の柄の先が弧を描いて伸びる、春の夜空の大曲線。牛を飼う男が振り向いている。腰布の裾を飾るのは一等星。白銀の小さな瞬きの中で、その明るい暖色がひときわ目立つ。
 椛色が、綺麗だろう。闇を透かしてシオンが微笑う。
 あれは三十六年前の光だよ。
 ムウは驚いて繰り返す。さんじゅうろくねんまえ。さんじゅうろくねんまえってシオン、だってあの星はあんなに綺麗で鮮やかなのに、今の光じゃないんですか。
 そういうことだな、シオンは応える。夜空に輝く恒星はみな、光の速さで何十年も何百年もかかるような、遠いところにあるものだから。あの牛飼い座の一等星の光は三十六年前にあの場所を発って、遠い遠い距離をひた走り、この瞬間ようやく地球に着いて、おまえの瞳に届いているのだよ。
 だから今見えるあの星は、三十六年前の姿なのだ。
 本当、シオン。さんじゅうろくねんまえ。もう一度だけ呆然と眼を瞠ってムウはため息をつく。ああ、そうだよ。傍らでほほえむ気配がする。
 おまえなど影も形もなかった。そう言ってもう一度シオンは笑う。

 獅子の心臓は七十年、子熊の尻尾は八百年、海蛇の星団は四万六千年。きらめく星座は時の保存庫。山は高く、大気は冴え渡り、いつまでもムウは光を見つめ、傍らにはシオンの影があり。
 頭上には見渡す限りの宇宙を埋めて、一面の過去が瞬いていた。





 月へ行く方法を教えてください。
 熱を帯びたような少年の真剣な声に、しわびた小さな老人は思わず目を丸くした。
 滝音の他は何も無い、静まり返った五老峰の宵の口。老人は今日も仮死の体を休めつつ、古い菅笠を目深に被り、切り立った断崖の先に座している。
 到着するなり挨拶もそこそこに膝を詰めてきた彼は、年の頃はまだ、昨年ようやっと十を超えたばかり。けれども普段は年齢とは不釣合いなほど聡く賢く大人びて、このような突飛な事を言い出してきた試しなど、思い出せる限り、とんと無かった。
 久々に顔を見せにやって来おったと思うたら、ムウよ、それはまたどういった風の吹き回しかの。
 ほ、と笑って老人は眼を細くする。目の前の子供とともに聖域に背を向けてから、いつの間にやら、三年が過ぎた。その短くて長い歳月のあいだずっと独りきりで、あの魔境のようなジャミールに暮らし続ける、未だ幼い子供のことが、心配でないはずがない。
 しかし、敢えて柔らかく無沙汰を咎める老師の問いにも、まったく気づかぬ様子でムウは応えた。
 ケンタウルス座のアルファ星は、ここから四と十分の三光年しか、離れていないんでしたよね、老師?

 どこかで夜鴉がカアと鳴く。滝壺の上に端座したまま、大きな両眼を半分閉じて、老人はのんびりと困惑する。はて、これは自分の理解力が悪いのか。月とケンタウルス。一体どういう関係があったろう。

 あ、その、ええと、すみません。会話の不備に気付いたらしく、ムウは慌てて言葉を捜す。一瞬だけ視線を彷徨わせたその頬が、ほのかな朱に染まっている。
 ええと、例えば、の話なのですけど。牛飼い座の一等星は、ここから三十六光年離れているでしょう。だからあの光は、三十六年前の。今見えるあの星の姿は、三十六年前の姿、なのでしょう。わたしなど影も形もなかった時代の、昔の光がそのまま残って、三十六光年も隔てた彼方のこの場所で、今でも見えているのでしょう。
 大切な事実をひとつひとつ確認していくような、ささやくような言葉が水際に揺れる。背後には大瀑布が地を震わせて、けぶるような飛沫を上げている。滴るほどの湿り気を含んだ廬山の渓谷はしんしんと更けて、未だ幼い少年の声をくっきりと大気に刻む。
 乙女の麦の穂は二百五十年、大熊の尾先は百七十年、王冠の真珠は八十年。
 それは、もちろん、そんな遠くまでは無理だと思うけれど。
 俯いた金の髪を星影が照らす。知らぬうちに肩を過ぎて、胸元を隠すまでに伸びた。
 けれど、ケンタウルス座のアルファ星は、四と十分の三光年なんです。
 老人はじっとムウを見る。背後には大滝がどうどうと、大音響を立てて岩を打っている。崩れ落ちる膨大な量の水と飛沫が、星影を反射してしらじらと光る。疑うらくは是れ銀河の九天より落つるかと。古い唄がふと脳裏をよぎる、千年昔の詩人の唄が。
 滝のほとりに立ち尽くす、ちっぽけな二つの影の傍らを、轟く音を立てて天が流れ落ちる。


 アルファ・ケンタウリまで四と十分の三光年。
 イカロスのような傲慢でも、バベルのような夢想でもなく、そこまでならば、跳べると思った。
 あの明るい星を目印に、那由多の空間を折り曲げて超え、堅い結界で体を守り、念動力を駆使して虚空に浮けば、四と十分の三光年の、彼方の宇宙にも跳べると思った。
 四年三ヶ月と少し前。あなたはわたしのそばにいる。

 ここから宇宙を見上げた目に映る、星の光は遠い過去。ならば逆もまたそうに違いない。必ずそうに違いない。あの星から地球を見おろしたなら、目に映る光景はきっと、遠い地球の過去の姿。
 だからひっくり返してしまえばいい。四年三ヶ月と少しの、時の保存庫。遠く遥かな空間を一瞬で超えて、あの星の場所から地球を見たら、四と十分の三光年離れた地球を見たら、そこにはあなたの姿があるかもしれない。四年三ヶ月と少し前の地上に生きる、優しいあなたに会えるかもしれない。
 微笑むあなたの傍らには、幼いわたしがいるかもしれない。


 飛んでみようと思うんです。すごく体に負担はかかるかもしれないけど、何とかなると思うんです。
 大きな両眼を見開いたまま、老人はじっとムウの顔を見た。少年は翡翠色の瞳を輝かせ、夢を見るようにしてほんのりと笑んだ。
 でも空気がないと思うから、老師にお聞きしようと思うんです。月にひとが行った時、空気を背負って行ったのでしょう。シオンが話してくれたんです。だからきっと老師も、その方法をご存知でしょう。
 息を吸ってムウは姿勢を正す。何も言わず老師は岩に座している。夜の空から静寂が降りてくる。
 月へ行く方法を教えていただけませんか。それがわかればケンタウルス座の宇宙にだって、きっと行けると思うんです。
 冷える滝壺の静寂の中で、天の水だけがどうどうと崩れて落ちる。他に動くものは無い。声変わりもまだない少年の、幼い言葉の残響が、大滝の沈黙に溶け入って消えた。見上げた夜空に椛色の、温かな一等星が光っていた。
 ほ、と軽やかな声を上げ、老人は瞳からゆうるりと笑う。そうじゃのう。空気を持って行くだけならば何とかなるじゃろうがのう。
 弾けるような笑みで顔を上げかけたムウに、人差し指を口に当ててみせ、老師は至極穏やかに微笑する。
 その計画の実現のためには、よほど性能のいい望遠鏡が必要じゃのう。
 少年はぽかんと老人を見る。
 アルファ・ケンタウリまで跳んだとしてのう、四と十分の三光年も離れた場所にある、太陽系のちっぽけな惑星の、ちっぽけな地表の山肌の、奥の奥にいるちっぽけな人影を、肉眼で確認するのはちっとばかり難しいじゃろうのう。

 ……肉眼、どころか。
 この世のどんな望遠鏡を使っても、そんなことは不可能だろう。




 あの時のムウは本気で、四十兆キロメートル以上も離れた、彼方の宇宙まで飛ぶつもりだったぞ。
 遠く懐かしげな眼をして老人は笑う。今ではその外見だけは、十八の青年の若さに変わり果てていたが。
 テレポーテーションの能力には自信があったんじゃろうがのう。正気の沙汰ではなかったのう。
 シオンは黙って答えない。長く豪奢な癖のある髪が風に流れて、振り返らないその横顔を隠すように揺れる。童虎は構わずに話し続ける。本当はこのような高山の絶景で雪見酒など、そちらの方こそ正気の沙汰ではないとも、言えたが。常人の体力ではない聖闘士の、それも黄金聖闘士のクラスともなると、ヒマラヤの夜の外気でさえも、ぬる風くらいにしか思わぬらしい。もうじき夜明けも近いというのに、盃は相変わらず止まることもなく、恐ろしく順調に進んでいる。
 良く晴れた夜空には春の水のように、一面の星屑が瞬いている。峠の下にはジャミールの、石造りの五層の館が見える。その遠景を見おろすようにして、薄く眼を細めて童虎は呟く。
 あの時のムウは、遠い遠いはるか彼方へ、本当に行ってしまいそうじゃった。
 言って十八の老人は杯を干す。泣き顔のような顔でからりと笑って。あの子を大切にしてやるんじゃぞ。
 ……言われなくとも、わかっておるわ。
 呟くような、低い声。喋る童虎に背を向けたまま、最前からずっと空の果てを見つめるシオンの、肩の向こうを小さく光る水が落ちる。

 おお、戻ってきたようじゃの。

 近づいてくるムウの姿を認め、童虎は跳ぶように威勢良く立ち上がる。立ち上がったは良かったが、勢い込んだのが悪かったのか、たたらを踏んで二三歩よろけた。
 何をしていらっしゃいますか老師、しっかりしてください。
 呆れたように言うムウの背中をばしばしと叩きながら、気にするでない、しっかりしておるわと童虎は明るく主張する。隣の方からはシオンのため息をつく気配がする。
 しかし早かったのうムウよ、その様子じゃと、貴鬼はちゃんと寝ておったようじゃな、どれ。儂はちょっくら散歩にでも行って来ようかの。
 散歩って、老師、こんな夜更けに。ムウは完全に面食らっている。気をつけてくださいよ、随分酔っ払っていらっしゃるようだから。ここでは外で眠ったら凍死なさいますよ。
 なあに、もうすぐ夜も明けるじゃろう。
 そう言ったかと思うと本当に鼻唄を歌いながら、童虎は山道を下っていった。

 少し席を外しただけなのに、いったいどれくらいお飲みになったんですか。首を振りながらムウが見やると、シオンは後姿で軽く肩をすくめた。その視線の先を見やり、ムウはほのかに微笑した。東の空がほんのりと温かい。
 ああ、本当だ。もうすぐ明けてしまいますね。
 少しだけ名残惜しそうにムウが言う。シオンは無言で空を見ている。ムウもならって空を見る。墨染めが濃紺にいつしか変わり、濃紺が薄蒼へとさやかに移ろう。白みゆく夜空に星座が消えてゆく。山の上には夜明けの、金星が。
 あれはたしか、数分前の光でしたね。
 なにかとても優しいものを懐かしむように、かすかにささやいてムウが笑う。
 途切れ途切れに白鳥が歌う。西の地平に乙女が眠る。明らむ空の中に蠍が消える。純白の雪の上で、曙の光がきらきらと躍る。そばにいられて嬉しいですシオン。独り言のようにムウはささやく。燃える朝日が世界に差し込んで、峠一面見渡す限りの、白銀の万年雪が桜色に染まる。
 「――ムウ、」
 振り返らないまま呼びかける、シオンの横顔をムウが見る。

 闇を払う灼熱の太陽とともに、光の中へ見えない牡羊座が昇る。



《END》

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羊期間=ずっと太陽が牡羊座に入っている期間、ということは、
羊期間中はずっと、太陽の方向を見さえすればそこにアリエスがあるってことなんですよね!
……と、もはや日中お日様を見ただけで萌えられる末期的症状を呈しつつ。

メモリ様、今年も素晴らしいお祝いの機会を本当にどうもありがとうございました。
今年も祭期間中めいっぱい楽しませていただきたいと思います。

2007年3月某日 ティカ 拝
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自サイト用追記(2007.4.25)
趣味に走りまくりました。楽しすぎました。
もしかしたら一般受けしなかったかもしれないと
書いた後で気が付きました。(いつものことです…)

ちなみに自分を酔っ払い扱いするムウ様に対して、
こんなにちいちゃかったくせに、などと、いかにも言い返しそうなもんですが、
うちのサイトの老師は絶対にそれは言わない。
シオンの前で禁句なのです(笑)
(↑見られなかった人に対する配慮)

肩の向こうを落ちた光る水の正体は、各々方、お好きな方でご妄想くださいませ。


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Written by T'ika /〜2007.3.29