ボブ・ディラン自伝「Chronicles vol.1」の翻訳本が、遂に刊行されました。
とうとう本人の筆による(翻訳には、菅野ヘッケル氏)、本物のボブ・ディランの本です。
ディランは、サイモン・シュスター社と三冊の回顧録の出版契約を交わしていて、
今回はその一にあたるそうです。この本は「自伝」とは言っても、単に時系列に従って
過去を書いたものではなく、それぞれの時点からの振り返り、あるいは執筆をしている
2000年以降の時点からの振り返り等が多層構造で自在に編み込まれていて、まるで
それこそ、ディランの頭の中のソファに座って本を読んでいるかのような気持ちになります。
個人的には、限りなくヤバい代物です。
まだ、第一章「初めの一歩」を読み終えたばかりですが、
全文がディランの言葉で埋め尽くされている本を読むのは初めての経験なので、
まるで、全文引用してしまいたくなる程です。
まず第一章は、60年代初頭、初めて彼が自分の歌を著作権登録したところから
物語は始まります。辿り着いた真冬のニューヨークで、初めての仕事をくれたカフェ・ホワッ?
のフレッド・ニール大将の切符の良さ。「レコードを出しているのか?」とディランが聞くと、
「それはおれのゲームじゃない」と答えたフレディ。
すらりとしてセクシーな長身の白人ブルース・シンガー、カレン・ダルトン。
初めて通りですれ違った時、話しかけたかったのに出来なかったと言う、
後に彼のギターの師の一人となる、デイヴ・ヴァン・ロンクとの出会い。
当時、彼が何を見、何を考えていたのかが浮き彫りにされて行く様は、静かな驚きの連続です。
彼をコロンビアと契約させた、ジョン・ハモンドは、「わたしは嘘のなさを評価する」
と、彼の歌に対して、ただ彼にこう言ったそうです。この時点での、ディランのオリジナル曲は
たったの2曲(!)。恐ろしい先見の明です。当時のポピュラー・ミュージックの現状を、
ディランはこう振り返ります。
「このころは、最先端の音楽などというものはなかった。1950年代後期から60年代初頭に
かけてのアメリカーナ音楽はかなり退屈だった。人気のあるラジオ局は一種の停滞状態にあり、
楽しいだけの空虚な音楽ばかりを放送していた。ビートルズやフーやローリング・ストーンズが
音楽に新しい命と興奮を吹き込む前のことだ。私がやっていたのは毒がいっぱいの辛口フォーク・ソング
であり、ラジオで流れるものとはまったくちがい、営利の追求と無縁であるのは明白だった。」
「ひどく込み入った現代世界に、私は興味を持てなかった。それは重要でなく、意味がなかった。
魅力がなかった。わたしにとって新しくて生き生きしたもの、わたしにとっての現在とは、
タイタニック号の沈没やガルヴェストンの大洪水、トンネル掘りのジョン・ヘンリー、
ウエスト・ヴァージニア鉄道で男を撃ったジョン・ハーディなどだった。
わたしにとっては、そうしたことがいま現実に起こっていることだった。
それこそがわたしが思いを馳せるニュースであり、留意して記憶にとどめるべきものだった。」
第一集では、どうやって彼が、レコードを出すに至ったか。
70年代半ばの、バイク事故後のウッドストックでの隠遁生活。
89年のアルバム「オー・マーシー」録音時。と、
違った時空の異なった回想が語られているそうです。
第二集(2006年本国刊行?)では、
さらに「ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム」の章が
設けられているとの事。謎が謎を呼んだ果てしのない伝説を自ら粉砕し、
ディランは今、ようやく自らの口で、(飽くまでも詩的に)真実を語り始めているようです。
[2005/07/18 01:52:58]