昨日、タラ・ジェーン・オニールの来日公演を観ました。
僕はタラ・ジェーン・オニールの音楽が好きです。
考えてみれば、そういうことを人に言う機会はあまりありませんでしたし、
たとえそういった機会があったのだとしても、
上手く説明する事は出来なかったでしょう。
その気持ちは今でも、あまり変わりません。
彼女の音楽は、昼間に灯されるロウソク。
この目先のご時世に、物事をなんでもかんでもメリットと結びつける
思考回路の人たちにとっては、きっとなくてもいい音楽なのかもしれません。
彼女の音楽は売れるようには作られていません。基本的に売れないでしょう。
だって昼間のロウソクだから。それを好きだという人が自分から自ずと聴くのです。
ライヴはとてもとても果てしなく長いイントロで幕を開けました。
選び抜かれたシンセの音と、単音のドラム。なかなか弾かれないエレキ・ギター
の出す、かすれた響き。それらの音と音が有機的に絡み合い、徐々に綾を成して
歌が生成されて行く、深閑な音の響き。木と木が擦り合って出す微かな音のような。
音響/ポスト・ロックと呼ばれる音楽はひとつに、アメリカ大陸の中央を横たわる
広大な森林地帯を原風景としているのではないかと僕は勝手に考察してみた。
僕は、彼女がそれでもそういった音楽環境の中にありながら、
あくまでも歌を表現の主軸としているところが好きだ。
僕は、大好きなアイダにしろ、彼女のデュオ・ユニット、レトシンにしろ、
森を吹き抜ける風を感じずにはいられない。昼間のロウソクは消えそうで消えない。
時折は、もの凄い一陣の風が吹き荒れて、僕らを驚かす。
それでも、そのともしびは消えないのだ。たとえ消えたのだとしても、
今度は煙がその静かな歌い手を担うだろう。
しかしタラ・ジェーン・オニールは、どこか不健康な佇まいのする音楽を奏でる。
ライヴの最中も、ひっきりなしに煙草を吸う。どこか精神的な危うさを見る。
しかしそれは、どんなに多くのことに思いを巡らしても、
考えすぎるという事はない。とでも悟っているかのような、誠意ある音楽でもある。
声は、楽器の音に隠れてしまいそうなほど、静かで儚げだったけれど、
それが歌の中にある思いの強さを、より一層際立たせていたのだから不思議だ。
彼女は時折、詩を書き、絵を描き、ギターを手に、歌が出来ると(おそらくはたぶん)
少しだけ笑う。才女?マルチ・クリエイター?何々の歌姫…?
どうでもいいよ、そんな事は。
耳を傾けようとしないと、聴こえてこない歌もあるんだ。
TARA JANE O'NEIL/報告
わたしは、どんな数字でも読み上げることができる
わたしは、色の中へ外へと動く
わたしは、炎を収めた箱の中、飛んでいる自分の取り分を入れている
わたしは、昼間のロウソク。わたしは時間と影の間にいる
空中に、わたしの安全とあなたとの夜を残していった
わたしはUFOを見た
朝の青を見て、どんなに寒いかを想像する
わたしは壁にお金を描いた
なくなりそうな石炭がわたしを未だ燃やす家へと、
わたしは長い煙の翼に乗って帰った
時々、わたしは自分を消す。時々、わたしは気にしない
あなたがその唇をわたしに重ねる時、わたしは自分自身を味わう
わたしはあなたの蹉跌、あなたの呼吸を聴くことができる
わたしは、自分に飛べるように言い聞かせる必要はない
わたしはすでに空気なのだから
[2005/05/15 02:43:37]