そう言えば、もうすぐ春がやって来る。
春はいいなあ。あったかいから。
春になれば、外でギターを弾いても、指がかじかむこともなくなるだろう。
春は路上で演ろう。少しぐらい耳障りな音を出しても、
春になれば、道行く人も少しは大目に見てくれることだろう。
春は通りに変人がたくさん現れるから、1人ぐらい増えてもどうって事はなかろう。
歌を、街や通りに返すのだ。借りたものは、いつかは返さなければ。
そんな事を考える変人が、約1名増えるだけのことだ。
通りで歌う人は、みんな等しく通りで歌う人だ。
真面目なヤツ、不真面目なヤツ。
ヘタクソでも、メチャうまでも。
オペラ歌手だろうが、鼻歌派だろうが。
通りは、花や虫みたいに。風に乗って歌が溢れるだろう。
さて。こんな時間に、萩原朔太郎の詩を読んだ。
「月に吠える」の序に、こんな事が書いてあった。
〜詩とは「感情の神経」を掴んだものである。「生きて働く心理学」である。
すべてのよい叙情詩には、理屈や言葉で説明する事の出来ない一種の美感が伴ふ。
これを詩の「にほい」といふ。(人によっては気韻とか気稟とかいふ)
どんな場合にも、人が自己の感情を「完全」に表現しようと思つたら、
それは容易のわざではない。この場合には言葉は何の役にもたたない。
そこには音楽と詩があるばかりである。〜
僕がこうやって音楽ナシで言葉を積めば積むほど、
世界が濁って行くばかりなのも合点が行くというものだ。
「うた」は音楽と詩で出来ている。
音楽の上で、詩がサーフィンすることもあれば、
詩が音楽の血圧を測って、「ああ、最近下がちょっと高いみたいですね…。」
なんて言ってる事もある。音楽があまりにも自分の話ばかりするもんだから、
詩が怒って、自分の家に帰っちゃう事もある。でもときおり凄く仲直りして、
一緒になって大声でハモってる事もしばしばだ。うーん。
そう考えると…、歌うたいは二人の仲を取り持ってやらなくちゃいけないんだな。
大きな心を持って、二人を温かく遠くから見守ってやらなければ。
それでは、春な詩です。
萩原朔太郎/春の芽生
私は私の腐蝕した肉体にさよならをした
そしてあたらしくできあがつた胴体からは
あたらしい手足の芽生が生えた
それはじつにちつぽけな
あるかないかも知れないぐらゐの芽生の子供たちだ
それがこんな麗らかの春の日になり
からだ中でぴよぴよと鳴いてゐる
かはいらしい手足の芽生たちが
さよなら、さよなら、さよなら、と言ってゐる。
おおいとしげな私の新芽よ
はちきれる細胞よ
いま過去のいつさいのものに別れを告げ
ずゐぶん愉快になり
太陽のきらきらする芝生の上で
なまあたらしい人間の皮膚の上で
てんでに春のぽるかを踊るときだ。
[2005/03/15 03:32:51]