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NAME: miyata
返答遅れてゴメン。見落としていたわけではないよ。
ジョニー・デップって、今まで出て来た映画にあまり共通項ってないよね(笑)。
どうやって出る映画を決めているんだろう?ティム・バートンとは「シザーハンズ」
でもやっているし(観てないけど。)、チョコレートと言えば「ショコラ」を思い出すね。
(こっちも観てないけど。)こないだ深夜民放でやってた「ブロウ」をまた観ましたが、
ダメでワルな役が一番似合っているような気がします。そんなデップくんを観るのが好きです。
「バベル・エッグ」のCS放映、おめでとう。
例の如く、ウチは観れないけれど。
BGMも流れるのかなあ?今回もNHKの時みたいに、
むりやり早送りはヤメてもらいたいけど(笑)。だったら無音の方がいい。
次回作、『虫歯鉄道』(???)も楽しみにしてます。
ではまた、近いうちに。
[2005/09/16 19:32:07]
NAME: むっち77
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先日、『チャーリーとチョコレート工場』を観に行って参りました。
この作品はイギリス人作家ロダルド・ダール(1916〜1990)によって書かれた
児童文学小説、『チョコレート工場の秘密』を映画化したものです。
テーマはズバリ、家族。
監督ティム・バートン特有の切り口での、なんとも奇妙な仕上がり。
キッシュでマッドなスペシャルレシピとでも言うのでしょうか?
僕は映画館ではできるだけ、周りの人の迷惑にならないよう、
息を潜めて楽しむ方なのですが、今回ばかりは小学生みたいに笑い転げてしまいました。
HAHAHA〜!!HAHAHA〜!!MUCCHI〜!!
ぜひぜひ、ウィリー・ウォンカの「めちゃうまチョコ」を御賞味ください。
きっと、忘れていた『何か』を思い出すはず。
[2005/09/11 12:04:11]
NAME: miyata
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こないだはありがとう。早見さんのブログ、オモシロいね。ちょくちょく覗いてみるよ。
作家と距離が遠い評論家って何だろうね(笑)。
作家を第二次産業とすれば、評論家は第三次産業でしょ?
情報、知識の集約、再構築という面からしては。
作家なくして、評論家という職業は成り立たないでしょうからね。
極論を言ってしまえば、評論家はその性質上、何も新しいものを生み出してはいないからね。
その前提を踏まえた上で、評論の枠の中で行われる新たな考察の視点を見るのはオモシロいが。
作家から遠くて評論家やってるヤツがいたらそりゃあペテンでしょ。
それで金貰うなら、詐欺師まがいもいいトコだ。そういうのは寄生虫って言うんだよ。
ローリー展、俺はダントツでバロウズ爺さんの
「権威の声 1986
ウィリアム・バロウズの声が聞こえてくる、ぶら下がった受話器」だね(笑)。
ジュディ・ガーランド主演のオズの魔法使い級のイカガワシサ満点の権威の声にはウケた。
「コンピュータに話しかける人は、自分で自分をだましている。深刻な問題だ。
私は、それなら、電気鉛筆削りに話しかけてみてもいいんじゃない、と思う。そうじゃない?」
「オウム」 1996 オウム、スタンド、エレクトロニクス、スピーカー
彼女のやっていることは、広汎的に捉えてパフォーミング・アートとされているが、
ローリーの言葉を借りるなら、そこには一貫して「人格デザインの問題」が表現の根底にある。
演劇とは「大勢の人が他人のふりをする」ことだが、それこそが「彼女が心から嫌悪する」こと。
またそういったことは、「あまりにも日常生活と同じ」すぎる気がすると彼女は言う。
〜自分自身の経験を使うやり方の一つの問題は、いずれ「種切れ」になるということ。
パートナーがいることで成立しているどんな関係にも、そういう面がある。
いずれ相手が、「あなたの話はすべて聞いた」と思い、あなたが、「相手の話はすべて聞いた」
と思うときが来る。少なくとも、「作り話」というか、人生の話として語られた話はすべて聞いた、と…。
でももちろん、これらは人が幼いときに作り出す物語。自分が何者か、自分に言い聞かせる物語。
最近このことについて、一種のデザインの問題ではないかと考えている。人格デザインの問題。
例えば、自分に何かが起こって、叫び出したい気持ちになったとする。でも、「私は泣き叫ぶような
人間じゃない」と思っているから、叫ばない。それでも、どうしようもなく叫びたい。
とすると、そこにデザインの問題があるとは言えないだろうか。自分の性格をデザインした時点で、
デザインが小さすぎたのかもしれない。とすると、
この最初の物語「自分が何者かという発明」次第で、ものすごい締めつけにもなれば、解放にもなる。
自己表現のためのもう一つの解決策は、分身を見つけること。
自分の性格に合わないことをやったり、言ったりしたいときに、それを手に入れられたら…。
「時間の記録」には数種の分身が含まれている。 〜歴史についてもう少し
「ゴッホとはちがって」1977 声、ヴァイオリン、ベース
ニューヨークのいろんなアート雑誌に美術批評を書いていたことがある。
当時気に入っていたのはゴッホだった。だから、書いた批評では必ず彼の名前に触れた。
「このアーティストは、ゴッホのように、黄色と青を使う」。
彼の名前を掲載するなら、何でもした。そんなある日、編集者からオフィスに呼ばれ、
こう言われた。「すべてのアーティストをゴッホになぞらえるなんて、都合よすぎないか?
もう、そんなことしないでくれ」。でも、どう考えても彼の名を削ることはできなかったので、
批評の書き出しはこうなってしまった。「このアーティストは、ゴッホとはちがって……」云々、と。
LAURIE ANDERSON/WORLD WITHOUT END
どこから来たか覚えている
燃える建物と火のような赤い海
愛した人みんな覚えている
抱かれた感じも覚えている
終わりのない世界、私を忘れないで
←西……私より先に生まれた人々 ★ 東……世界の突端→
↓お父さんが死んだとき、土の中に埋めた
↑お父さんが死んだとき、図書館が丸ごと燃え尽きたみたいだった
終わりのない世界、私を忘れないで
[2005/09/06 14:29:59]
NAME: むっち76
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先日、ICC(インターコミュニケーションセンター)へ
ローリー・アンダーソン『時間の記録』展を観に行きました。
あいかわらず、ICCのアーティストチョイスっぷりには驚嘆させられます。
映画館でいうところのシネマライズ。
これだけ、数限り無く存在する現代アーティストの中からツボ突いたのを
選んでくるのは、それだけ学芸員さんが優秀ってことなのかなあ。すごい。
宮ちゃん、よかったらパンフの中身紹介してよ。
かなり、気になってます。
僕はやはり「ヴァイオリン・レコード(1977)」がビジュアル的にもインパクトが
強かったなあ。
最近、やっと時間ができたので久しぶりに漫画も買いました。
岡崎京子の「リバーズ・エッジ」
ヘルタースケルターほどじゃないが、かなり鋭い作品でした。
紙で指切っちゃった時みたいな感じ。
そんな、読後感。
ICCのチケットは美術評論家の早見様からいただいたもので、
最近、ブログを始められたようなのでURLを載せておきます。
多くの美術評論家は作家との距離が離れている場合が多いそうです。
早見さんはその中でも、作家との距離がかなり近い人の一人だと
ある学芸員の方に聞きました。
最近は学生の頃とは違った視点で、お話をさせていただいています。
ぜひ、一読を。
[2005/09/05 22:05:43]
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