TITLE:3日目、チェルシー・ホテルには何かがあった。 


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NAME: miyata   
これを書かないと、他の事が全く書けない事に気づきました。

NY滞在記は、今回で終わりです。(長いのでしおりがいるかもしれません。)

3日目、実質終日フリーでいられる最終日。
朝、ようやくセントラル・パークへ。公園はまだまだ雪が残っていたけれど、
木々とビルの合間からは清々しい青空が、真冬の陽射しを公園に投げ掛けていた。
3日目はもっと身軽になろうと思い、マフラーも手袋も置いて出掛けたが、
やはり空気は冷たかった。ちょうど僕が訪れた時は、公園全体オレンジ色の鳥居のよう
なものに、同じ色のカーテンを掛けたものが遊歩道全体に設営されていた。
これは、インストレーション芸術で世界的に有名なクリスト、ジャン=クロード夫妻
によるサフラン色のアート・オブジェだそうで、「THE GATES」プロジェクトというもの
らしい。この夫婦、若い時に日本の風呂敷に深く興味を抱き、ベルリン国会議事堂や
パリのポンヌフを巨大な布で覆い「梱包芸術家」と呼ばれているらしい…。
同プロジェクトが成就するまでに26年の歳月がかかったそうだ。
作家からの訪問者への希望はただひとつ、「風を感じてもらえるならば。」
というものだったらしい。たったそれだけの為に…。なかなか粋な発想だ。
公園全体が素敵なアート・スペースと化していた。公園を横切る小さな車道では、
ジョギングしている人たちを何人か見受けた。
(友部正人さんも、ここを走っているのかな?と思った。)
ダウンタウンとはうって違って、アップタウンはどこかしらヨーロッパを
感じさせてゆったり優雅な雰囲気だ。サイモン&ガーファンクル
の歌の世界だった。池には氷が張っていた。スケート場では、チビっこたちがたくさん
滑っていた。白髪の白人の婦人が、熱心に公園の光景をカメラに収めていた。
こんな所に日がな一日中、まっさらなノート1冊持ってブラついたら…。
なんだか、いい詩でも書けるのかもしれない。

メトロポリタン美術館に着いた。外観は改築中なのか工事の足場と布に被われていた。
世界4大美術館の1つと言うだけの事はあり、とにかくとても広かった。
ギリシャ彫刻と、汎アフリカ彫刻には目を見張るものがあった。日本では、今まで
あまり観る機会がなかった。特にアフリカ彫刻(多くは木や象牙を彫ったもの。)は、
宇宙人が彫ったんじゃないかとでも思わせるような、造形的な凄みがあった。
2階はヨーロッパ絵画、アメリカ伝統絵画がメイン。これでもかこれでもかと、
宗教画がいくつも並んでいた。キリスト教絵画は同じような主題を、何度も何度も
違う時代、違う人物が書き続けていたのが、くどいほどよく分かった。
フェルメール「若い女の肖像」は、前で日本人旅行ガイドが、ツアー客に長そうな解説
をしていたので、間近では観れなかった。広大なスペースが、いくつもの小部屋に
区分けされていて、同じ場所をグルグル回り続けてしまった。しまいには1人の御婦人
と(おばさんとは書けない)一緒になって迷っていた。トイレを探して、
古代エジプトの墓(館内に丸ごと移築してある。)の中に迷いこむとは思っても
みなかった。古代エジプト人のパピルスに呪いをかけられているような気持ち
になった。17世紀後半、メトロポリタン美術館が政府に法人として認められた時、
基金も建物も、1点の作品さえなかったそうだ。現在では、200万点の所蔵品が
あり、人が一生かけても到底観ることは出来ないらしい。お腹がいっぱいになった。
土産屋で、レジのおじさんに「日本人?ウチの娘が今18で、日本で留学して帰って
来たらデンワでモシモシ…?モシモシ…?ってアッハッハ〜!」みたいな事言われる。

公園のベンチで、売店で買ったプリッツェルを頬張りながら、あと半日かあ…と
トラベル本をめくる。フレンドリーなおばさんが、「あそこに立ってる中国人の若い人
が、(オブジェのオレンジ色した)布の切れ端をくれるわよ〜!」と教えてくれる。
にしてもNYの人は、見知らぬ人によく関心を持っているようで、よくツッコまれた。
「手袋落としたよ!」とか、「地図落としたよ!」とか、「イヤフォン、引きずってる
よ!」とか。(僕に原因があるのかも。)面白かったのは、地下鉄の自動改札で、
黒人のおっさんが、毛もないのに鼻歌まじりで髪に櫛を入れていた。僕が改札の出方が
分からずにいると教えてくれたまでは良かったのだが、「ヘーイ!君の(メトロ)カー
ドで俺を中に入れてくれよ!」と言うので、一回分使わせてあげると、おっさん
「サンクス!」とニカッと笑い、凄いデカいトランク提げて旅立っていった…。
(NYの地下鉄は改札の出口は通るだけだから。)NYの人はみんな、素で映画俳優に
なれそうだ…。スタバみたいな店でトイレを借りた時も、店員の女の子はレジの向かい
にある客を待たせるソファーで、やってらんないわよ〜といった感じでふんぞり返って
いた。客は客で気にしてなさそうだった。それにしても…、おっさん交通費もないのに
何処へ旅立ったのだろう…。

ストロベリー・フィールズや、ダコタハウスを見た。アップタウンは街はキレイでも、
車のクラクションはここもうるさかった。信号待ちをしている時、
あまりにも激しい時があって、観光客の白人のおじさんと思わず顔を見合わせた。

ハーレムに行ってみる事にする。
ハーレムは19世紀に高級住宅街として開発されたものの、大恐慌後スラム街と化し
70年代はドラッグと放火が蔓延。一時期はアフリカ諸国よりも、出生率が下回って
いたらしい。90年代に入り政府の疲弊地域振興策の指定地域になり、だいぶ治安は
回復している。125丁目駅、一番の繁華街で降りる。地上に出ると、
通りは黒人しかいなかった。黒人がたくさんいるのは分かるが、白人が全然いないのは
何故か?と考えると少し緊張した。通りでは、4、5人の若者が出店を開いて、
ペーパーブックや、ヒップホップ、R&BのDVDを売っていた。ネイル・ショップと
床屋がやたらたくさんあった。通りで聞こえて来たのは、もっぱらR&B。日本人の
ような、わざとらしいBボーイの格好をしているようなヤツはいなかった。
おそらくそんな立派なカッコウが出来るのは、売れてるラッパ−か、
苦労なくも金だけはある日本の若者ぐらいなものなのかもしれない。
(ヒップホップの発祥地はハーレムではなくブロンクスだが。)
宝石指輪を片手に、「$50!$50!」とラップ調に売っている若者がいた。
それにしてもみんな、何もする事がなくても取り敢えずは通りに出てみようという
発想なのか、やたらみんな歩道にいる…。アポロ・シアターでは、
ア−ニ−・ディフランコのライヴ告知。ヒップホップとパンクが大好きなのに、
演奏はアコギ1本というところは、凄くNYのアーティストな感じがする。
彼女はこの街でギグを繰り返した。(現在、彼女はメジャ−・レコ−ド会社と契約する
意志がなく、レ−ベルのディストリビュ−ションも他に頼るつもりがないそうで、
「ライチャス・ベイブ」という自身のレ−ベルを自ら運営し、全米、カナダ、
欧州そして日本へもギタ−1本でライブ・ツア−に繰り出している…。)
バーガー・キングで、ハンバーガーのキング・サイズを注文した。
ハンバーガー1個で腹一杯になってみたいという僕の密かな願いが叶えられた。
裏通り、赤レンガの住宅街は閑散としていた。何故かグレイハウンド・バスが乗り捨て
てあった。ガイド本にはヤクの売人が立っていることもあるので、物見遊山は禁物と
あったのでほどほどに折り返す。僕は黒人の歴史をあまり知らない。
公民権運動もキング牧師も、マルコムXも。(通りの名前になっているのは相当の事。)
少しは勉強したいと思う。もしも、この街に1人でも友だちになれる人がいたら、
それは凄く素敵な事に思えた。

街をずっと下って、チェルシ−・ホテルへ行った。ロビーは巨大な絵がたくさん
飾ってあった。チェック・カウンターをすり抜けて、左奥の階段を登る。
創業は1882年。昼間から薄暗く、何だか重々しい雰囲気があった。各部屋に続く
廊下にも壁一面に絵が飾られていた。住人の手によるものだろう。絵の多くは正常では
なかった。クスリをやっていなければ到底書けないであろう、狂気に満ちたものが多かった。
日本人の絵もあった。日本語も殴り書きしてあったが、内容は明らかにブッ飛んでいた。
メイドの人たちがドアをガンガン開けて掃除機を入れていた。
螺旋階段は狭い天窓から光が射していた。滞在者たちの顔を円形のプラスチックに
シルクスクリーンでプリントしたものが、天窓から提げてあって揺れていた。
屋上に出る小さなドアがあった。出たかったけど、「警報が鳴ります。」と警告が
あったので諦めた。ここは、ある種のタイム・マシーンだ。
アーサー・C・クラークが「2001年宇宙の旅」を、
ウィリアム・バロウズが「裸のランチ」を執筆した。
ウォーホルとその妖し気な取り巻きが移り、イージー・セジウィックが火傷をした。
ピストルズのシド・ヴィシャスは100号室でナンシーを刺した。
そしてイギリスの狂作家、ディラン・トマスはこのホテルでアルコール中毒死した。
彼の詩を見つけた。

Dylan Marlais Thomas/そして死は支配をやめるだろう

そして死は支配をやめるだろう 死者は裸の一人に戻り
風の中の男は西の月とともに 美しい骨がすべて取り去られたとき
死者は肘に、足に星を抱く たとえ狂おうと気は確かにして
たとえ海に沈みゆこうとまた浮き上がり 
たとえ恋人が途方に暮れても愛はすでになく
そして死は支配をやめるだろう

そして死は支配をやめるだろう 波打つ海の水面下で
長く横たわる死者は死なず強風に煽られ 肉が崩れ、あばら骨を歪める
結びつけられた車輪、それはまだ壊れない 
死者の両手の信仰は音を立てて二つに折れ
そしてユニコーンの悪魔が死者を横切っても
魂はすべて最後までひび割れることはない
そして死は支配をやめるだろう

そして死は支配をやめるだろう アイルランド・カモメの鳴き声を
あるいは海岸で怒濤の波音を二度と耳にすることはなくても
花から花へさまようことはなくても たたきつける雨が死者の頭を持ち上げ
たとえ狂い、そして爪のように無感覚でも 
頭文字は打ち抜かれヒナギクに
燃え尽きるまで陽に焼かれ
そして死は支配をやめるだろう


彼の名を芸名に使ったロバート・アレン・ジマーマンは、このホテルで曲を書いた。
フォーク歌手として、ユダヤ系の名を捨てアイリッシュのこの名を選んだそうだ。
とにかく、惹き込まれたら帰って来れなくなるんじゃないかと思わせる何かがあった。
現在は半分が旅行者、半分は在住者が使用しているらしい。
いつか泊まってみたいな。

NYは、またいつか来ようと心に誓わないと、離れられない街だと
友部正人さんが本で書いていたけど、その通りだと思った。
そして、こんな事も書いてあった。

「ここで泣いたり笑ったりしたことは、その人の心から一生消えないだろう。」

これでやっと、旅から帰れそうです。
[2005/03/08 03:25:30]

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