TITLE:詩人の魂は不滅の青い鳥。 |
んさん、どうもご無沙汰してます。京都の一件以来ですね(笑)。 僕の掘建て小屋(苦笑)は、なんとかまだこんな感じで建っていマス。 今回この映画の存在を知って、久々にブク爺さんに殴られてこようかなと思っていたんですが。 実際観ていたら、彼、あまりにもリラックスして酔っぱらってるので、 居心地が良くなってしまって、途中ウトウトしてしまいました…(笑)。 やっぱり奥さんのリンダ・リーの証言や、二人の映像はヤバかったです。 結婚式のホーム・ビデオっぽい映像であのブコウスキーが、神父さんが話してる時に 感極まって泣いてしまうんです。娘の結婚式じゃなくて、自分の結婚式で(笑)。 彼女の証言だけは、是非目を覚まして観てみて下さい。 他にも個人的にスゴくヤバかった証言もあったのですが、 それはまた是非、次の機会にでも…。 僕がこんな文章を書いてしまったのも、やはり相手がブクだったからだと思うんです。 僕はんさんの文、好きなんですが。伝えたいことだけ伝えたいのが真っすぐこちらに伝わってきますし。 僕だったら何行も連ねてしまうことも、あっさり少なく伝えてしまえるトコロなどもウマいと思いますし。 でもやっぱり、なんだか言葉に出来ないところで、影響を受けさせてもらっている気がしています。 ウソはさすがにキツいですね。自分の場合、強調が誇張になってはいないかと思うことは良くあります。 僕はやっぱり、文章と戯れているのが性分のようで…。いろいろ書いてはみても、 結局は書くこと自体が好きなんだと思います。ココでは、強制がかかっているわけでもないですし。 なるたけ手薄なところ、確率の低いところなんかを書き留められたりすると面白かったりもします。 狙ってるわけではないのですが。でも、あまりよく分からない気もするんですけど。 最近は、美文てそれなりに簡単だなって思うようになりました。風通しのいい文が書いてみたいです。 今、かなりご多忙のようですよね。呑みなど、こちらはいつでも大丈夫です。 ブク話など、是非してみたいですね!!僕は、来月末にドイツに遊びに行くことなったので ドイツの旅行ガイドを見ては、勝手なドイツ像を思い描いている今日この頃です(笑)。[2005/10/28 01:22:07]
ごぶさたです ぼくはまだ映画観てないんですが、 観なければならないだろうな、これは。 いまは自分のことで手いっぱいで、 精神が衰える日も近いな(苦笑) 原稿書きの逃避から、ここに来てしまいました、、、 僕も一応売文したりしているわけですが、 おちついて書きたいことを書くと言うよりは ただただ書き散らしているようなもんですね。 自分の文がつまらないのは承知ですが、嘘は書きたくないな、 って思ってます。 こんど呑みにいこー[2005/10/27 02:35:45]
同じ映画、同じ本を好きだという意識で相手を信用できそうな気持ちになることはよくあるが、 それは人のライフスタイルや価値観が素早く理解できるからだろう。目に見えない踏み絵か、 同じ危険を冒すもの同士の共通意識か。だが人の意識に何かを刻み、影響を与え、思想的に 体制を転覆しかねない、危険な“爆弾”を抱える作品であれば尚更だ。鋭利なナイフというより、 何度も鈍器で殴られるような効果で、そのうち彼の下に跪くことになる。〜 text 江口研一(翻訳家) チャールズ・ブコウスキー。20世紀のアメリカで、正気を保ち続けることが出来た類い稀なる作家 にして詩人。彼のドキュメンタリー映画「ブコウスキー:オールド・パンク」を昨夜やっと観た。 僕が読んだ彼の作品は、今のところ「町で一番の美女」、「ありきたりな狂気の物語」、 「ポスト・オフィス」、「勝手に生きろ!」、「詩人と女たち」、 「くそったれ少年時代」、「ブコウスキー・ノート」、 「指がちょっと血を流し始めるまでパーカッション楽器のように酔っぱらったピアノを弾け」、 「ブコウスキーの酔いどれ紀行」、「死をポケットに入れて」、「パルプ」、 「評伝 ブコウスキー酔いどれ伝説」、「しゃぶりつくせ!ブコウスキー・ブック」。 夢中で読んだのは、主に20代前半の頃だ。 彼についての解説は、それを仕事としている人たちの文を読めばいい。ここでは端折る。 彼の作品に出会った人は、「気に入らない」か「気に入る」か大きく二つに意見が分かれることが多いと言う。 僕の全くの主観的観測に基づいて言えば、「気に入らない」人の多くは、彼の作品、もしくは存在に、 少なからず脅威を感じるのだろう。自分を騙しながら生きている人間にとって、彼の作品は脅威だ。 なんの躊躇いもなく、裸の自分の魂を見せることの出来る人間が、今の世の中にどれだけいるのだろうか。 今日、ファッションや一過性の流行という名の腐臭を放つドブ川を慢性的な疲労感の中で泳ぐことを 強いられている我々は、表層的な物質的文明世界の中で、身動きがとれなくなってしまっている。 最早、魂の救済はベルトコンベヤーで運ばれる大量生産型原価削減方法に則ったなし崩し的なものでしかなくなってしまった。 ブコウスキーは、長きに渡る苦闘の末、自ら挑んだ闘いに勝つことの出来た最後の人種になるのかもしれない。 彼の作品は、まったくの単純明快な一つの真理に我々を導いてくれる。それは、我々を取り巻く世界には、 たった二つのことしか起こらないということだ。それは、「我々がいつかはくたばる」ということと、 もしくは「我々がくたばるまえに、世界がくたばる」ということ。(今現在後者は現実には起こっていない。) 彼は、アメリカ各地の貧民街をのたうち彷徨い、飢餓と狂気の狭間で、「種火」だけは絶やさなかった。 境遇が変わり、生活が変わり、自分を取り巻く人間が変わろうとも。「種火」だけ残っていれば、 いつでも創造の炎を燃やせるということに気づいていた。それを彼は「創造の神々」とも呼んでいる。 そしてそれを「青い鳥」とも表現している。彼は遅咲きであった自身の作家人生の始まりを、 とても幸運と捉えていた。どん底の生活が彼の言葉を鍛え上げ、彼が世に出た時には、彼はすでに強かった。 屈することはなかった。罠にハマることはなかった。その作品は同化できない程に輝いていた。権威は糞以下だった。 大酒食らいの好色家にして喧嘩好き。そんな巷のレッテルに囚われ過ぎていると、 彼のホントウの魂を見失うことになる。そしてそれは、誰もが必ずひとつ持っている 魂のひとつに過ぎないということも、彼は作品を通じて我々に過激に叩き付けてくれる。 それを思いやりと呼んでも優しさと呼んでも愛と呼んでもそれは人の勝手ではあるけれど。 「日が昇る前の朝の霧のよう、現実の光と共に一瞬にして消えてしまうもの」を掴もうとした男の一生には、 涙せずにはいられない。言葉もない。 ブコウスキーがホントウに好きだと言う人間は、記号としての趣味性を発言しているのではない。 そこには、共感せずにはいられなかった自己の因子が少なからず共振しているのだ。 ホントウに何かを「やる」には、自分のやり方で「やる」しかない。そういうことだと思う。 死ぬまで魂だけは売り渡せない。だからといって、それを創造の神々が味方してくれるかどうかは 定かではないのだ。 (彼の墓碑銘は「DON'T TRY」。映画の全編で流れていたのは、ベートーベンの ピアノソナタ第八番ハ短調 (悲愴) 第二楽章。悲しげに始まり、やがて明るくなるが、 また悲しげになり終わって行く曲だ。映画のタイトルで誤解する人間も多いかも知れないが、 彼は終生、クラシックしか聴かなかった。映画の中でU2のボノが、ブコウスキー夫妻を ライヴに招待したと自慢気に話しているが、ブコウスキーはその日の日記の中で、 「しかしあのように大成功した大金持ちのグループが、何を歌っていたとしても、 彼らは今や体制になってしまっていた。」とその本質を看破している。) ART/CHARLES BUKOWSKI 精神が 衰える につれて その 形式が 現れる。 訳/中上哲夫[2005/10/26 19:30:43]