■モータースポーツと死

先日、WRC・Rd12グレートブリテンでのミカエル(マイケル)・パーク氏が事故により残念ながらその貴(トウト)い命を終えてしまいました。
恥ずかしながら私は良く存じないのですが、氏はプジョーのマルコ・マーティン氏のコ・ドライバーとして、活躍しておられた方です。
ここで、パーク氏の死に深い哀悼の意を表したいと思います・・・。

さて、今回は”モータースポーツと死”について考えたいと思います。
過去のメジャーレースに置いて、記憶にある事故といえば、WRCなら1993年のラリー・オーストラリアでのロジャー・フリース(コ・ドライバー)。そして”ツインリンク茂木”でお馴染のCARTでは1999年のグレッグ・ムーア。F-1では1994年のアイルトン・セナ・・・と、その人数は以外に多いのです。勿論この方達以外にも大切な命が失われています。セナの事故死の前日にも事故があり、ローランド・ラッツェンバーガー氏もその命を終えました。30代以上の方はラッツェンバーガー氏に馴染みのある方も多いことでしょう。二輪では当サイトでも取り上げている加藤大治郎さんや、茂木のレースでなくなられた方もいます。
また、過去に事故死したレーサーは知られていないだけで、詳細な人数は把握していませんが、大勢の命が失われているのは確かです。


ここからの内容は一般公道にも置き換えられるので、それを頭に置いて読み進めて下さい。
最近はマシンやコースの安全性が向上して、本来のモータースポーツの危険性が忘れられているように思います。
全開で走るモータースポーツでは何が起こるか判りません。
WRCの関係者で一流の登山家が、厳しい表情でこんな言葉を残してメディアに取り上げられていました。
「登山も人が死ぬことは多々あるが、だからといって僕らは山へ登ることを、やめはしない。そういうものだと納得しているからだ。モータースポーツも同じだよね」
・・・だからといって、それを良しとするわけではありませんが、モータースポーツは常により優れた安全を求めて、日々進化しています。

モータースポーツは常に危険と隣り合わせです。
そんな世界で、人の痛みの解らない自分勝手な人間は、走る凶器と化してしまいます。
私が常々言っている人間性が重要だと言うのは、こういうことなのです。
レーサーが何故あそこまでの激しいバトルを繰り広げられるのか?それは、お互いを信頼しているからなのです。
スピードに対する危険を理解し、操ることの難しさを知っている。敵は良きライバルであり、良き友なのです。


こんな話があります。
あの有名なミハエル・シューマッハとアイルトン・セナの間での出来事です。
とあるレースで無謀な走行をしたミハエルに対し、レース終了後セナがミハエルのピットへ険しい顔で乗り込み、ミハエルのむなぐらを掴んで殴ったのです。
「お前は何を考えているんだ!!」と。命を無視した強引な走行。殴られて当然でしょう。
ドライバーは常に危険と隣り合わせで、極限でマシンを操り、常に最速を求めています。
そんな世界では、一瞬の判断の誤りや迷いが”死”へと直結してしまいます。そこで自分が勝つことだけを考えて他を蹴散らすような人間は余りにも危険過ぎるのです。
その数年後セナは命を落としました。そして、あるレースでミハエルは危険なドライビングをしたドライバーのピットに殴り込んで、こう言ったそうです。「何を考えているんだ!!」と。


私が個人的に好きなドライバーに、ジョニー・ハーバートというドライバーが居ます。
彼はF-1にデビューする前、ヨーロッパのF-3やF-3000で驚異的な速さを見せ、不世出のドライバーとうたわれて、セナよりも速いと言われていました。
しかしそのF3000のブランズハッチ戦で、一番速度の乗るコーナーで、あるドライバーの無謀な突っ込みに巻き込まれ、モノコックから足がむき出しになる様な事故に会い、両足を複雑骨折で再起不能と言われた事がありました。命を落とさなかったのが何より幸いでした。
両足のサイズが変わり、足の長さも違くなり、歩くのもままならないような状態で、トレーニングや移動にはMTBを使っていました。
それでも彼は走るのを辞めませんでした。そう、それは彼が何よりも走る事を愛しているから。
彼はパドックでも皆から愛されていました。レースの世界では良い人ではダメなのかも知れませんが、私は彼の人間性が好きです。
私の手元に、彼の家族団欒の写真があります。それはとても優しい表情で、家族はその愛に満たされ、幸せに包まれています。
愛する者を守り、人の痛みを知り、そして走ることをこよなく愛している・・・。何が一番大切なのかをよく知っているのでしょう。

ドライバーとは常に命を尊び、他のドライバーを尊重し、自らを律して行かなければなりません。好き放題に走り回っているだけでは駄目なのです。
自らの技術を磨き、精神を鍛え、肉体的にも精神的にも自分を高めなければ真のレーサーとは言えないと思います。
レーサーといえども、1人の人間には必ず誰かが関わりをもっています。その誰かが、無謀な走りによって危険にさらされる貴方を見たらきっと悲しむことでしょう。その人の気持ちを知り、悲しませないようにと思うでしょう。例えばそれが家族であり、友であり、仲間なのです。
そしてそれがレースになれば、相手の気持ちを読み、その裏を突くドライビングが出来ることになります。
レースとは、駆け引きです。そしてスポーツです。決して戦争ではないのです。ドライバーとドライバー、チームとチーム。全ての人たちがお互いの実力を出し、フェアに全力で戦うのです。限界で戦うレースでは、適当な輩は危険過ぎます。それをしても命の危険は常に付きまとうのです。


この題材は常にモータースポーツに付きまといます。賛否両論、色々な意見があるでしょう。
非日常をレースやサーキット、モータースポーツに求めるのも良いでしょう。しかし忘れないで下さい。
モータースポーツは常に危険と隣り合わせだということを・・・。
自分だけの非日常を楽しむ為だけに、スリルに身を任せるだけのドライビングは危険すぎます。これは日常の運転にも言えることです。どの世界でもそうですが、このスポーツは”マシン”の持つ力が大きいだけに、特に他のスポーツや日常よりも人間性に頼る部分が非常に大きいスポーツなのです。
何も知らない人間、常識的な人間性を持ち合わせない人間にそのマシンを与えるということは、赤ちゃんに拳銃を持たせるようなものです。一般公道も然りです。

今まで述べてきた私の意見とは違うと、矛盾を感じている方もいるでしょう。
しかしこれが現実です。危険は付きまといます。
・・・ が、それを心して走り、常にドライバー同士がお互いを気遣い、己の実力を知り、自分の周りに関わっている人間達の事を考える事が出来たなら、その危険は限りなくゼロに近くなることでしょう。
それを考えたからといってレースの世界では、そのレースがつまならなくなる訳ではありません。
そのうえで、サーキットでの限界など車の物理的原理を経験することにより、より的確な状況判断で安全な日常のドライビングも可能になる訳です。
日常の運転をする一般のドライバー達を見ていれば、最近の交通マナーの悪さが見えてくるでしょう。他を蹴散らし、我先にと我を押し通す。お互いの事を気遣う事が出来ていないのです。もはやこうなっては、どちらが暴走族なのか判ったものではありません。
よく、こんな話をするレーサーもいます。
「○○の場合、ここで突っ込んで来るな!?と思うとズバッと来るし、こっちが抜く時もブロックが無理と判れば必ず安全なスペースを空けておいてくれる、○○もそれを解っているから、安心して走れるよ。」と・・・。
この言葉が意味していることは、想像に難くないでしょう。

限界のレースでは、技術の進歩が無ければ、その危険度を下げる事は困難です。また進歩したとしても、その危険は非常に大きな物であるのは間違いありません。
しかし一般公道では事情が違います。常に他の車やバイク・歩行者などを気遣い、一歩引いた視点から周りの状況を見て運転すれば、状況はより改善されることでしょう。自らを正当化し、目立つ危険因子を非難するだけで、自らの行動を省みない・・・。そんな方々から非難されるのは、実に忍びありません。

話題が横道に逸れてしまいましたね。
話を元に戻して・・・。
上記の事を念頭に置き、自らが手本となるようなドライビング・ライディングをして行きたいと思います。
またそうすることにより、日本に置けるモータースポーツや車・バイク好きの社会的地位を高められ、少しは社会的環境も良くなるのではないでしょうか。



今回、WRCで相棒を失ったマルコ・マーティン氏の精神的ダメージを計り知ることは出来ませんが、氏の復帰を心から願い、今回のコラムを締めくくりたいと思います。


2005年10月24日 (月曜日)





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