39高橋箒庵(義雄)

徳川侯爵家蔵品伽藍洞蔵品入札 大正15年11月8日 東京美術倶楽部
一木庵高橋家蔵品入札目録 昭和5年10月27日 東京美術倶楽部

 高橋箒庵(義雄)は、水戸出身の財界人、数寄者。慶応義塾を卒業後、時事新報の記者を経て、三井銀行、三井呉服店、王子製紙などで活躍したのち、実業の世界を去り、数寄者としての活動に入った。
 実業界引退後、名物等の優秀な茶入、茶碗とその記録を集成した『大正名器鑑』、大正昭和期の茶道数寄の動向を伝える『東都茶会記』、『大正茶道記』、『昭和茶道記』、明治・大正・昭和初期における美術品・文化財の移動を跡付けた『近世道具移動史』、自伝『箒のあと』などの膨大な著述を行なった。また、明治45年5月から大正10年6月まで執筆をつづけた日記『万象録』は、この間の茶道数寄、美術品・文化財の移動等の動向に関する多くの背景情報を提供するものであるとともに、この時期の政治、経済、文化、風俗に関する様々な事象と、それに関する箒庵の私見を記録している。また、本サイトで、たびたび箒庵の名や著作をあげているのは、箒庵が、大正・昭和初期の美術品・文化財の移動の多くに世話人などの形で深く関与しているためである。
 さて、入札会による売立ということでいえば、箒庵自身のコレクションも、これに積極的に関わっている。箒庵自身が他家の入札会に注文を出して入手した美術品等の事例は、あまりにも多いので、ここでは省略するが、自身のコレクションの売立も、明治45年5月27日、京都美術倶楽部で開催された「東都寸松庵所蔵品入札」以降、しばしば行っている。
 箒庵が売立を行なった理由は、茶器を中心とした自らのコレクションの質の充実を図るため、不用品を売却し、その売上金で、より質の高い作品の購入を狙うというような、積極的な意味合いがあったと思われる。しかし、それだけではなく、他家の茶器の調査や入札会の運営に数多く参画した箒庵には、このような関係の中で、他家の入札会においての出品作の義理買いや、入札会以外での購入依頼などもしばしばあったのかもしれない。
 大正15年の売立は、水戸徳川家のページでも紹介したとおり、同家との合同入札会である。この入札においては、箒庵出品の徳川家光筆「枯木木兎図」が25,900円の最高額で落札されるなど、箒庵の出品に比較的優れたものが多かったことが指摘できる。すでに第1回の入札で、多くの美術品等を売却した箒庵の旧主家水戸徳川家の入札会に、箒庵が花を添える意図のもとの出品であったと思われる。
 一方、昭和5年の売立では、「雲州家伝来」という注記のある作品の出品が目立つ。雲州家とは、江戸後期に茶人大名として巨大な茶器コレクションを形成した松平不昧を輩出した旧松江藩主松平家で、『近世道具移動史』は、大正14年頃より同家からの茶器コレクションの流出が内々で始まったことを伝えるとともに、箒庵が大正15年12月末までに同家から譲り受けた作品の一覧も掲載している。『大正名器鑑』の編纂等で親しくなった箒庵に、雲州家の当主松平直亮が譲ったものであろう。この入札で22,500円の最高落札価格を付けたのは、雲州家伝来の「走井茶入」であった。