53藤田男爵家
藤田男爵家蔵品入札目録 昭和4年5月10日 藤田家本邸
香雪斎蔵品展覧図録 昭和9年4月5日 大阪美術倶楽部
香雪斎蔵品展覧図録 昭和12年4月13日 大阪美術倶楽部
戦前、藤田伝三郎に始まる藤田財閥は、三井、三菱などと伍す大財閥として知られた。伝三郎は、長州萩の醸造家に生まれ、幕末動乱の時期に奇兵隊に参加、維新後は大阪で藤田組を開業し、実業に転じた後も、長州出身の政府、陸軍の軍人たちとの関係から、政商として活躍した。特に、明治10年の西南戦争の折には、軍靴など軍需品の生産で巨大な富を築いた。明治12年の藤田組贋札事件では、贋札偽造の嫌疑をかけられたが、それを切り抜けると、小坂鉱山の払い下げを契機に鉱山業へ進出、また岡山県児島湾の干拓事業を主導するなど多角的経営に乗り出し、藤田財閥と称された。明治45年の伝三郎の没後、その長子藤田平太郎は、大正6年に藤田銀行を設立するなど事業の拡大を図った。なお、藤田伝三郎の甥田村市郎が日本水産の創業者、久原房之助が日立コンツェルンの創業者であることは、田村市郎の項で紹介したが、久原房之助の義兄である鮎川義介は日産コンツェルンの創業者である。藤田財閥は、これらの新興財閥グループの母体とも位置付けることができる。
藤田伝三郎は、明治初期から美術品の蒐集を開始し、関西方面では、明治期における最大の蒐集者といわれた。蒐集の範囲も、仏教美術、宋元画、中世・近世の日本絵画、古筆、墨蹟、茶器、煎茶器、古銅器など多岐にわたった。嗣子の平太郎はもちろん、その弟徳次郎たちも、伝三郎の嗜好を引き継ぎ、大正期にも多数の優れた美術品等の蒐集にあたったため、藤田家のコレクションは、当時の日本における最高の質と量を誇るものの一つとなった。
藤田家の売立も、金融恐慌の余波を受けたものであった。高橋箒庵『近世道具移動史』によると、昭和2年の諸銀行の取り付け騒ぎに際し、藤田銀行は、「全財産を日本銀行に提供して辛うじて閉店の苦境を免」れるという状態に陥り、その整理のため、昭和4年の売立が企図されたという。
昭和4年の売立では、藤田家は、世話人を馬越恭平に依頼、馬越は、他に三井守之助、村山龍平、本山彦一らを世話人に加え、入札会の準備を進めた。出品作品は、藤田家の蔵品の中では重要なものは少ないという世評であったが、伝夏珪筆「山水図」が139,000円、木米筆頼山陽賛「山水図」(現、個人蔵)が80,000円、など高額落札が相次ぎ、総落札額2,800,000円を数えた。
昭和9年・12年の売立は、「香雪斎」を名乗って実施されたが、香雪は、藤田伝三郎の号である。昭和9年の売立目録は内藤尭宝、有尾佐治、昭和12年の売立目録は内藤尭宝、望月信成の古美術研究者が、編集にあたり、重要な出品作品については、解説文、文字の釈文、伝来記録などを付し、美術書としても閲覧に十分耐えうる体裁をとっている。
昭和9年の売立では、呉春「松竹梅図」が169,500円、「飛青磁花入」が135,000円、「柴田井戸茶碗」(現、根津美術館)が120,000円など、やはり高額落札が相次ぎ、総売上額は2,500,000円に達した。
昭和12年の売立では、「有楽井戸茶碗」(現、東京国立博物館)が146,800円、与謝蕪村「野老飼馬図」が135,000円、「尊意参内図(弘安本北野天神縁起絵巻断簡)」(現、サンリツ服部美術館)が77,500円など高額で落札され、総売上額2,150,000円以上に達した。
3回合計の一家の売上とすれば、大正6年の赤星家3回の総売上を上回る戦前最額を記録した。それでも、藤田家コレクションの主要作品は、なお同家にとどまり続け、昭和26年設立の藤田美術館に継承された。