◎土湯沢林道◎
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平成24年10月現在
戸沢村 漆沢地内 河童淵 |
戸沢村のこの地区”最上峡”は古くから庄内地方と最上地方を結ぶ水運の要であったが、松尾芭蕉が『板敷山』と称するほど険しい地形で明治時代以前は道路の開削ができなかった。江戸時代には、現在の役場がある古口集落に新庄藩の船番所が置かれ、舟運が隆盛を極めた。
船便が絶えた時は、脇街道として板敷越の峠を利用せざるを得なかった。この峠は旅人が難儀して「いたみつく」、そして峠があまりに急で板を敷いたため、この名が付いたものという。 板敷越の存在は享保7年(1722)江戸須原屋発行の「大日本道中行程細見記大全」の中に”古口・清川間六里”となっており、「船モ六リ、水出ノ時ハ、カチ(徒歩)ヲユク、大山ナン(難)処也」と表されている。出羽三山参詣の修験者たちも利用したと言い伝えられており、古口側の峠下にも宿坊があった。 |
明治に入り初代山形県令三島通庸によって、明治10年(1877)7月、磐根新道が開削され船運が衰退するとともに険路である板敷越も姿を消した。
古文書の記載によれば”板敷越”=板敷山を超えるルートかとおもいきや、以外に土湯山の近くを通るルートであったという。登山系のマニアの間ではそこはかとなく有名であり、最上挟が美しく見えるポイントであるため、写真家系の方もよく入られると言われている。B地点には神代杉があり、そこはかとなく一般の観光客も入る。 よって、ピストン林道で通り抜けできず距離も短いが、強い特徴と歴史的側面もつ林道であることからHP内で紹介することとした。 |
参考図書:「山形工事事務所 五拾年のあゆみ」 発行:建設省東北地方建設局山形工事事務所 ■■■■:「三島通庸と橋由一にみる 東北の道路今昔」 監修:建設省東北地方建設局 発行:社団法人 東北建設協会 |