■青年の主張―三番隊組長の場合―■
「斎藤さん」 柔らかな声に斎藤の唇が僅かに弧を描く。振り返れば、思った通りの人物が斎藤に向かって微笑んでいる。 小柄な彼女の笑顔は、いつもどんなときでもいいもので。 斎藤は自分が思ったよりも単純な人間であったことに気づかされるのだ。 笑顔一つでこんなにも満たされるものとは考えたこともなかった。 たぶん、斎藤を知る人間全員がそう思っているのだろうとは思うが。 斎藤自身、知らなかったんだから仕方がない。 「千鶴」 愛しさを込めて名を呼ぶ。すると、千鶴が笑みを深くした。 本当に、かわいい。 斎藤は無意識で手を伸ばした。柔らかな頬に触れると、千鶴は頬を赤く染めた。 「斎藤さん」 先ほどとは少しだけ違う響きで己の名を呼ぶ。恥ずかしそうに伏せられた目と、ほんのりと色づいた頬。 彼女の赤い唇が紡ぎ出す己の名に斎藤はたまらない気持ちになる。 触りたくなって、斎藤は手を伸ばす。赤い唇を指で撫でると千鶴は恥ずかしげに顔をそむけようとする。 だから。 千鶴、と。 囁くように名を呼べば、千鶴が恥ずかしそうに目を伏せた。 (堪らん) 何故このようにかわいらしい女子がこの世に存在するのだろうと斎藤は思った。 この愛らしい彼女を手に入れたいと思ってしまうことは、ごく自然なことだとも思った。 故に、斎藤は千鶴に手を伸ばす。 抱き寄せて閉じ込めて己だけのものとするべく。 「千鶴」 声が、掠れる。斎藤の欲に気付いたのか千鶴は、少しだけ身を固くした。 「千鶴」 もう一度名を呼ぶ。呼びながら、斎藤は千鶴の肩を掴んだ。そうして、背中に手をまわして……。 「……ッッ!!」 衝撃に目が覚めた。額が痛い。顔面全体に広がる痛みに斎藤は無表情のままむっつりと辺りを見回した。 眼下に広がるのは、明け方まで没頭していた『秘める恋』。そこには斎藤の顔の大きさで皺が寄っていた。 どうも、自分は机に向かって坐したまま、不覚にも寝入っていたらしい。 要するに……眠りこけて、机に顔面を強打したようだ。 結構激しく打ち付けたせいで赤くなった鼻に手をやったまま、斎藤は室内を見回した。 当り前だが、屯所の自室である。そして、これも当然であるが雪村千鶴がいるはずもなかった。 「夢か」 思いのほか残念そうな響きに斎藤は、一人狼狽した。 (何故このような夢をみたのだ、俺は。やはり、この書物を読み耽った故に感化されたせいであろう。決して、俺自身が雪村を千鶴と呼びたいとか、そ、その……笑顔を独り占めしたいとか、触りたいとか押し……違う!) 落ち着きなく斎藤は、再び辺りを見回した。幸いというか、これも当り前なのだが他に誰かいるはずもなく。意味もなく一人でうろたえたことが恥ずかしく、斎藤は表情をほとんど変えぬまま少しだけ頬を赤くした。 (お、落ち着け。夢は、所詮夢。お、俺は別に……) 好いているわけではないと言いかけて、斎藤は黙り込んだ。 本当にそうなのだろうか。 この書物を初めて読んだ時、間男が激しく気に入らなかったのは副長が気に入らない為ではない。斎藤にとって土方は、最も尊敬する男である。それは、違う。 斎藤が間男の配役なことに納得がいかないだけだった。 何故、間男なのだ。 自分は、そんな男ではないと斎藤は言いたかった。好きあっている男女の間に割って入り、女を誑かすなど男の風上にもおけぬ。そのような輩は誰よりも斎藤が一番嫌いな部類である。 そもそも、千鶴のような清らかな少女が二人の男の間で揺れ動くなんてことはあり得ない。しかも、二人の男を翻弄するような娘ではない。それが無意識であったとしても、千鶴は二人の男に唇を許すような娘でもない。 千鶴は、素直で純粋で優しくてかわいい。もしかなうなら……と、思っているのは幹部にも多いのではないのかと思われる。 あのような娘を自分だけのものとできたらどんなにいいだろうか。あの笑顔も他の顔も全部自分の腕の中に閉じ込めてみたいと思っても仕方がないほど、千鶴はかわいい。 「……いや、俺がそうだという訳では」 色々考えて不埒な方向へ思考が流れそうになって斎藤は、慌ててそれを打ち消した。そうして、完全に開き癖がついて皺も寄ってしまった『秘める恋』を手に取った。 実に、忌々しい本だった。 何か暗号なのかもしれぬと読みだしたはずなのに、いつのまにかこの前段の物語と続きが気になってしまい、二番隊の平隊士の私物を持ち出すこと二度。すっかりと読み終えて気付いた時には、筆を取っていた。 作業に没頭すること数刻。出来上がったそれを満足気に読み返して、彼は文字通り愕然としたのだ。 何をやっているのだ。 我ながら、自分の頭がかわいそうだと思った。しかし、そのままでいることなど許せるはずもない。間男だけは許せなかった。恋人ならわかる。それならば許そう。だが、間男は。 自分が間男から脱却するためには、土方を犠牲にせねばならなったわけだが意外と良心は痛まなかった。 やはり、これは偽物の物語だからだろう。 斎藤は改めて『秘める恋』を開き、修正されたそれを読んで満足気に頷いた。 やはり、雪村千鶴は一途が似合う。 納得して書物を閉じて、斎藤はそれを誰にも見られぬよう沖田から雑用の肩代わりの代金として受け取った石田散薬をしまい込んでいる箱に入れた。これは元々二番隊の平隊士のものだが、かわりに貴重な副長の俳句を置いてきたから等価交換だ。問題は、ない。むしろ豪華なものに変わったことを彼は喜ぶべきだ。 本当に身を切られる思いだったが、修正がかなった今としては有益な出資であったと考える。 片づけを終えてから、斎藤は立ち上がった。 もう夜は明けている。と、なれば、本日は朝餉の当番であった。斎藤は、襷を片手に勝手場へと向かう。 今日の当番は自分と誰であったか。 そんなことをぼんやりと考えていたのは、やはり中途半端に眠ったせいで頭がすっきりしていなかったためであろう。 故に、斎藤は本当に珍しく油断していた。 「斎藤さん、おはようございます」 「!!」 柔らかな声と笑顔に斎藤は文字通り凍りついた。 「おはよう、ち、雪村」 「今日は、斎藤さんと当番ですよね。ちょっと早起きしちゃいました」 先に始めてしまってすみませんという言葉は斎藤の耳には届いてはいなかった。 彼女の斎藤を呼ぶ声が、夢の彼女と重なって。その笑顔が夢での出来事を思い出させて。 (心が、騒ぐ) 少しだけ目を逸らして斎藤は、口許に手を当てた。もちろん、動揺を隠すためである。 「斎藤さん、どうかしましたか?」 「……何でもない」 明らかに挙動不審な斎藤を不思議そうにのぞきこむ千鶴の顔が近い。大きな瞳が自分だけを映していて斎藤はその瞳に吸い寄せられそうになって内心慌てた。誤魔化すように視線どころか、体ごと千鶴から離れようとして斎藤は勢いよく回れ右をした。その時、本当に斎藤は無防備だった。山崎あたりがみたら絶句するほどに、彼は周囲が見えていなかった。 「グッッ」 目の前を火花が散った。鼻を押さえてしゃがみこむ。 (ふ、不覚! 何故このような場所に柱があるのだ……) 千鶴が慌てて斎藤の隣にしゃがみこむ。甘い香りがふわりとかおって斎藤は慌てて首を振った。頭が、クラクラする。彼はそれを鼻を打ちつけたせいだと無理矢理納得させた。 「さ、斎藤さん! 大丈夫ですかっ。鼻を打ちつけたみたいですけど、冷やしますか?」 「……それには及ばない。大事ない。朝餉の用意を始めよう」 千鶴にその後何度も冷やした方がと言われたが、頑として聞き入れず黙々と斎藤は朝の準備をし始めた。すると、千鶴も隣に立って朝餉の用意を再開させる。 時折、一言二言会話を交わしながら作業を進める。 隣で微笑む千鶴は本当にかわいくて。何度か朝方の夢を思い出し、そのたびに斎藤は無表情のまま心の中で狼狽するのであった。 何故こんなにも心乱されるのだろうか。 斎藤は、何度も首を傾げた。 やはり、あれが原因か。 赤い鼻を笑われまくった屈辱の朝餉の時間を耐え抜き、一番笑っていた平助を沈めたことで幾分か気分が晴れた斎藤は鼻を布で冷やしながら自室に戻り秘密の場所から、アレを取り出す。 「魔性の書物だな、やはり」 伊東派も考えたものだと思う。 これほどに甚大な影響を及ぶすものをばらまき、新選組を内部から揺さぶろうとするとは。 「侮れぬ。新選組のためにも雪村の純け……コホン。雪村の安全のためにもこの書物の監視はし続けるべきだな」 どこまでも彼は真剣だった。 それゆえに、斎藤が思うところの影響とやらが自分にしか作用しないと気づくことはなかった。 終 |
五万打ありがとうございます!! 現在連載中の『秘める恋』の番外編でございました。 このお話の番外編なので、かっこいい斎藤さんはどこにもいません……。 本編にもかっこいい斎藤さんはいませんので(滝汗) 一応、斎藤さんが『秘める恋』を発見してあの作業をしてしまった直後あたりのお話です。 どうみたって、千鶴ちゃんのこと好きだよね?!と、いうのがこの話の大前提なのです。 そして、土方さんが全く出てきてないのにやっぱり不幸でした。ごめんね、副長。 どうも……自分でも間違った方向にサイト運営してるんじゃないかと思わないでもないんですが、 こんな方向でこれからも突き進む予定です(反省してないですな) これからもお付き合いいただけると嬉しいです。 遊びに来てくださっている皆様本当にありがとうございました。 |