■心の欠片■
五 抱き締めてくれた斎藤の手が優しく背中を撫でてくれた。 怖かった。 何が起きたのかもよくわからないまま、ただひたすら怖かった。 掴まれた左手の感触が未だ拭えず気持ちが悪い。息も苦しかった。吐き気もする。どうしようもなく体が震えていた。 そんな千鶴を、斎藤は慰めるように抱き締めてくれていた。普段なら恥ずかしくてたまらないだろうに、今はそれがとても安心する。 「大丈夫だ」 斎藤の落ち着いた声が、少しだけ千鶴の体の強張りを解く。 「もう心配いらない」 優しい声音に、恐怖で流した涙とは違う涙がじわりと滲んだ。 斎藤の胸に顔を埋めると斎藤は千鶴の頭を優しく撫でてくれた。千鶴を守るように包み込んでくれるその腕が暖かくて千鶴は子供のように泣きじゃくった。 怖かった。 小さな声で告げると、斎藤は大丈夫だ。と、繰り返し言ってくれた。言いながら、抱き締める腕に力がこもる。 守る。と、言われた気がしてまた涙が滲んだ。 斎藤は千鶴が落ち着くまでずっとそうしてくれていた。 どのくらいそうしていただろうか。正直、斎藤にもよくわからなかった。千鶴が泣いている。どうすればよいかわからぬまま斎藤は、彼女を抱き締めていた。 腕の中の千鶴は、小さく細くて柔らかい。千鶴が少女であることを強く意識した。千鶴は守るべき存在であって、このように泣かせていい存在ではないと再確認する。 不意に、先ほど彼女の身に降りかかったであろう災難に強い憤りを感じた。何故に、あのような無体を強いたのか理解できなかった。 彼女の左手首はこんなにも・・・簡単に折れてしまいそうだというのに。 「思い出したくはないだろうが、何をされた?」 千鶴が落ち着いたのを見計らい、訪ねると腕の中で大人しくしていた千鶴が顔をあげる。真っ赤になった目が痛々しい。 「突然、部屋に入ってきて・・・手を掴まれて・・・」 千鶴が身震いした。 斎藤は想像した。部屋に押し入った男を見上げる千鶴。驚いて悲鳴もあげられなかったか、もしくは気丈にも迷惑をかけてはならないと我慢したのだろう。だが、それが仇となり男は強引に千鶴を連れ出そうとしたか・・・もしくは、この場でモノにしようとした。 先ほどの千鶴の怯えかたから言って、後者の可能性が高い。あのままだと手首を掴まれて引き倒されて、衣服を引き剥がされて・・・。 そこまで考えて斎藤は、無理矢理想像を己の内から追い出した。このまま想像を進めると今すぐ男を探しだし切り刻んでやりたい気持ちになりそうだった。 冷静になれ。と、己に言い聞かせながら千鶴に更に質問をする。 「手首を掴まれて、アンタは抵抗した。その声で俺が飛び込んできたのだな?」 「はい」 「・・・言いたくはないだろうが、他に何かされたか」 思わず声が低くなる。千鶴は視線を落としたまま。 「口づけを・・・されそうになって、逃げようとしたら引き寄せられて」 首筋を吸われた。と、小さな声で告げた。 その瞬間の気持ちをどう例えたらいいだろうか。斎藤の内に沸き上がったどす黒い感情は非常に説明しがたいものだった。腕の中に千鶴がいる状態でよかったと斎藤は思った。そうでなければ、やつを斬りに走りそうだ。 己を持て余しつつ、斎藤は千鶴の白い首筋に目を落とす。そこには一点の汚れもない。しかし、嫌がる千鶴に無理に触れたものがいる。 この肌を吸った輩がいる。 そう考えた瞬間、突き上げたのは紛れもなく怒りであった。 「どこにだ」 と、千鶴に訊ねていた。その声があまりに剣呑だったせいかやや青ざめた顔で、千鶴はその場所を告げる。 「さ、斎藤さん?」 無言の斎藤を不思議に思った千鶴の呼び掛けにはこたえず、斎藤は無言でその箇所に唇を寄せた。 「ッッ」 柔らかなそこを吸えば千鶴が小さく息を飲んだ。 だが抗う様子もないのをいいことに、斎藤は千鶴を抱き寄せたまま首筋に唇を這わせる。滑らかな肌を舌で舐めると千鶴の体がわずかに跳ねた。 「斎藤さん・・・」 ため息をつくように吐き出された己の名に斎藤は、ハッとして千鶴を突き飛ばした。 「す、すまない!」 顔が見れなかった。今、自分は何をしたのだろうか。これではあの男と同じではないかと罪悪感に苛まれていると、千鶴が近寄ってくる。 互いにしばらく見つめ合った。最初に目を逸らしたのは斎藤である。 「とにかく、今日あったことは忘れろ。アンタはなんの心配もいらない」 相手の確認だけをして、斎藤は逃げるように千鶴の部屋を出た。 そのまま井戸まできて、斎藤は水を頭から被る。 (・・・俺もどうかしている) あの瞬間。どうしても千鶴があの男がつけた感触を覚えていることが許せなくなった。あの男が触れたことをなかったことにしたくなった。 塗り替えたい。 そんな思いだけで、あのような真似をした。千鶴はさぞかし驚いただろう。これではあの男と自分はたいしてかわりない。 冷静になれ。 と、再度斎藤は自分に言い聞かせた。 千鶴は庇護対象ではあるが、それは任務にすぎない。確かに、斎藤が個人的に守りたいと思ってはいるが彼女は普通の少女で。斎藤のような人間が本来関わってはならない存在である。 だから、あんな風に振る舞ってはいけないのだ。 (あんな風に・・・?) 千鶴の肌に唇を寄せた瞬間を思い出して斎藤は顔を赤くした。 バシャッ。と、水で顔を冷やす。何度かそれを繰り返して斎藤は顔をあげた。 夏の水はあまり冷たくはないが、荒れ狂った気持ちを落ち着かせるには効果があったようだ。 感情のままに動いてはならない。そう言い聞かせた。深呼吸をして斎藤は気持ちを落ち着かせる。 ようやくいつも通りの顔つきを取り戻した彼は、冷静になった頭で今後を考えた。 今回のことを報告すれば、おそらく土方は許さないだろう。原田を筆頭とした他の幹部にしてもそうだろう。 まったくの正論だし、斎藤にも異論はない。だが、千鶴にとってはどうだろうか。騒ぎは大きくならぬほうがよいに決まっている。女と知られれば大変だし、少年が所謂こういった対象に見られたということであっても千鶴にとって良い方には転がらない。 だから、自分一人で片付けたほうがいい。まずは、当人と話をしなければならない。なるべく早い内に。そして二度と手を出させぬようにしなければ。 本来ならば、これは一番隊の組長たる沖田がすべきことなのだろうが彼は今。意識がない。あったとしても任せられるとは到底思えなかった。何よりも、斎藤自身がこの事件を誰かに話すのが嫌であった。 一度決めてしまえば、斎藤の行動は迅速だった。斎藤は平隊士がいる広間へとすぐに向かった。 池田屋騒動のあとの慌ただしい屯所内からある一人の有望だった隊士が消えたと千鶴が聞いたのは、あの事件から一週間ほど経った頃であった。 あの日以来、千鶴はあの隊士とも斎藤とも顔を合わせていなかった。 千鶴を襲った隊士が、その消えた隊士だと知ったときには驚いた。彼は、千鶴を襲った日の晩。煙のごとく消えてしまったそうだ。執拗な探索にも引っ掛かることなかった為に、間者だったのではという噂が隊士たちの間で囁かれていた。 彼は、どこに消えたのだろうか。千鶴が思い浮かべるのは斎藤の顔だ。 斎藤が何かしたのではないだろうか。だとすれば、多大なる迷惑を斎藤にかけてしまったことになる。申し訳ない気持ちになった。 (斎藤さん) あの日。千鶴の肌に唇を寄せた彼を思いだし、千鶴はそっとその場所に手をあてた。 あの隊士と同じことをされたというのに。 (驚いたけれど、嫌ではなかったんです。斎藤さん) 千鶴は一人、頬を染めた。このことを彼に告げることはないだろうけれど、次会うときに、この間のお礼は言わねばと思う千鶴であった。 終 |
終わりました。ズルズルと続けていたわりには、目新しいこともない内容で…本当に(汗) 読んでくださってありがとうございました! |