【 願いごと、ひとつ 2】




 部活が終わって、疲れからか足元がおぼつかない黒子を連れて青峰は火神のマンションへと向かう。帝光からは火神が住むマンションは少し距離があった。その道中、青峰と黒子は他愛もない話をした。
 黒子にとっては毎日のなかの普通のことだろうが、青峰からしたら本当にいつぶりかもわからないほどのことだった。あの練習試合で開花してだんだんとおかしくなった黒子との関係。それからはどんどん黒子との他愛もないおしゃべりというものは減っていった。完全に関係が壊れた時、二人の間にはもはや会話らしい会話はなかった。青峰と黒子が再び話をするようになったのは、高校一年のWC後まで待たねばならない。それも、こんな風に無邪気に話す間柄には戻れていない。
 青峰の話に、黒子が少しだけ笑う。まだ陰りを知らないその笑顔がとても眩しかった。
「本当にリスみたいなんですか? だって、火神君かなり大きいですよ」
「確かに、あいつは図体はでかいが。マジで、リスなんだって。まぁ、リスっていってもかわいらしいっつーよりあれだ。ほお袋に必死に食いもん詰め込んでるっていう方な。肉食リスだな、あれは。あいつの食いっぷりはすげぇぞ、テツ。お前なんてみただけでお腹いっぱいです。とかいいそう」
「食い意地張っている青峰君ですら、引くんですか?」
「ああ。どこに入っていくんだよ、それは。ってぐらいだぜ。……おい、テツ。お前、食い意地張っているってなんだよ」
「事実を言ったまでです」
 涼しい顔をして言う黒子を青峰は抱き寄せて、頭に拳をつけてグリグリとやる。当然、黒子は嫌がって暴れるが、体格差があるので逃れる事ができない。
「やめてください! わ、もう! 青峰君!」
「テツが悪い」
 黒子の柔らかな髪の毛の感触と小さな体にドキドキしながら言った。
(小せぇ)
 よくわかっていたはずなのに、こうやってくっつけば黒子の小ささを実感する。閉じ込めてしまいたい。そんな風に思いかけて、青峰は誤魔化すようにさらに乱暴にグリグリとやってから、黒子を解放する。なんとなく、黒子を間近で見つめにくくて青峰は少しだけ足を速めて先へ行く。振り返るまえに、息を吸って吐いて。落ち着いたところで、振り返す。
 黒子はちょっと御立腹のようだ。乱れた髪の毛を手櫛で直しながら、軽く睨んでいる。
「テーツ、あんま遅いと置いて行くぞ」
「君が余計なことをしたんじゃないですか! 何言ってるんですか!!」
 プリプリ怒る黒子は可愛かった。何だか無性に嬉しくなって青峰は声を出して笑った。しばらくそれにも憤慨した黒子だったが、だんだんとおかしくなってきたのかクスクスと笑い出す。青峰は黒子の元に駆け戻り、黒子の肩を抱く。
「悪ぃ悪ぃ」
「全く悪いと思ってないでしょう。顔が笑ってます」
「お前こそ」
 二人で笑いながら道を行く。ああ、こんなこともいつぶりだろうか。楽しすぎて、何かよくわからないが中学校に戻ってしまったことも何もかもいいや。と、青峰は思う。だって、前の世界ではもう二度とできそうにないことだった。まず、黒子の隣にはすでに火神という親友がいたんだし、青峰は学校すら一緒ではない。
 やっぱり特別だ。と、青峰はまだクスクス笑っている黒子の頭を見下ろしながら思った。
(なぁ、テツ。俺な、)
 今、凄く幸せなんだ。と、言ったら。たぶん黒子は頭は大丈夫かと真剣に心配しそうだ。けれど、それは疑いようもない事実で、青峰は今この瞬間がいつまでも続けばいいのにと思いながら、黒子と二人、火神のマンションを目指すのであった。





****




 気が付いたら、帝光の教室にいた。最初は帝光にいるなんてこともわからなかった。何だかわからないが、わが身を振り返れば見慣れない制服を着ていて、目の前には知らない教師。
 ガタンッ。と、驚きのあまり立ち上がった。そんな火神を驚いて見る知らない教師。
「どうした火神。質問か。別に立たなくていいぞ」
編入に当たって、用意した資料のどこがわからなかったんだ。読めない日本語があったか。なんて、心配そうなこいつは、誰なんだ。嫌な汗が噴き出た。
「なんだよ、これ。何が起きてるんだよ!」
 意味がわからない。そうか、これは夢か。唐突に思いついて火神は心底安心した。夢で夢と気づくのも珍しいがそんなこともあるだろう。夢以外にないだろう、こんなこと。なんだ、夢か。そうか、今すぐ寝よう。そうしよう。火神は、急いで着席し眠る体勢には……入れなかった。
「火神、俺の説明はそんなに理解不能で寝るほど暇か?」
「?!」
 笑顔でキレる教師が、夢にしてはやけにリアルで怖すぎた。






 火神は帰国したてらしかった。帰国後の編入先が帝光らしい。慌てふためいて、父親にメールしたら、お前は編入先の学校の名前も知らないで、試験を受けたのか。と、呆れられてしまった。
 己の記憶によれば、かつて中学時代に編入した学校は全く別だ。その中学で日本のバスケに失望した。火神が心を入れ替えたのは、高校で黒子に出会ってからの話なのだ。少なくても、黒子と出会う前に火神はキセキを知らない。つまり、帝光に編入ということは絶対にないはずだ。いくらなんでも、出身校勘違いして覚えていたなんてことはないだろう。だが、火神の編入先は間違いなく帝光だった。何もかもがおかしかった。第一、火神は自信を持って言える事がひとつある。
(間違っても、ここに入れる頭はねぇ)
 そうなのだ。どうやら、火神であって火神ではない誰かは頭がよかったらしい。試験どうしよう。と、火神はずれたことを考えた。
(って、問題はそこじゃねぇよ)
 大問題は、別にあった。



 何故。
 高校三年生の火神が、中学2年になっているのか。それも、記憶にない人生を歩んでいるのか。と、いうことの方が問題であった。高校三年の火神が帝光の制服を着て、中学にいたとかいうのなら俺は色々とアウトだ。と、頭を抱えるところだが、生憎と全てが若返ってしまっていた。
 思い出せる限り、ここにやって来る前の記憶を思い出してみると、確か火神は誠凛で授業を受けている最中だった。古典の授業だった。眠れと言っているとしか思えない教師の声と昼食後の満腹感も伴って火神は心地よい眠りの世界へと旅立っていたはずだ。木曜日の時間割では、大体毎回そうだったら今回もそうだったに決まっている。いつもとなんら変わらない日だったはずだ。昼休みは、黒子と一緒に食べた。あいつが、食欲がないといって野菜ジュースのみだったから、食えと火神の弁当の中から卵焼きを嫌がる黒子の口に突っ込んでやったのもはっきりと覚えている。
 それなのに。
 鏡の前に立ち縮んだ己を再確認し、火神は一人恐怖に慄いた。違ってくれと思いながら、ありとあらゆる方法で今日は何年何月何日かを確認して、呆然とした。
「マジかよ」
 火神はがっくりと肩を落としたが、どんなに調べても父と連絡を取り合ったらしいメールの日付をみても。やはり、火神が帰国した中学二年のときである。そして、何度見ても鏡に映る姿は当時の幼さがまだ残る火神自身である。つまりは、何かとんでもないことが起きたということになる。
 それは、理解したがとにかくすぐに戻りたかった。火神なりにどうやったら帰れるか考えてみて、実行してみることにした。
 激しく頭を打ち付けてみた。痛いだけだった。
 頬を思い切りつねってみた。涙が出ただけだった。
 それではと走ってダイブしてみた。階下の住人に叱られただけだった。
 最終手段。神に祈りを捧げてみた。神様は留守だったようで、祈りは届かなかった。決死の思いで、もう古典の授業は居眠りしないと言ったのに、無理だった。


 どうしよう!



 火神は途方にくれた。
 途方にくれたまま、とりあえずは。と、火神は立ち上がった。
「腹減った」
 どんなに混乱していても、火神の腹はやはり火神の腹だったようだ。








 翌日。起きてもなにも変わらなかった。仕方なく火神は学校へと向かう。昨日は、帝光がどこにあるかすら知らなかったので帰宅するにも道を調べるところから始めねばならなかった。
(マンションは同じで助かったぜ)
 生徒手帳に住所が記されてなかったら、大変なことになるところだった。それだけは感謝しながらも、火神はこれからを考えた。
 せっかく高校に入り、楽しい日々を送っていた。黒子という相棒で親友である彼と出会い、素晴らしいバスケ部の先輩と皆とも出会った。充実した生活を送っていたはずだ。黒子を通して、キセキの連中とも仲良くなった。黒子の元相棒の青峰は火神にとって、よきライバルであった。奴とは、一年生の時黒子が青峰と和解して以来、仲良くしている。まぁ、黒子が絡むと主に青峰の心の問題で、複雑なことになるのではあるが。
 ともかく、帰りたかった。楽しい生活を返せと思った。だが、現状は戻る方法は見つからない。またここからやり直すのかと思うと気が重かった。
(いや、待てよ)
 前回とは違うのではないか。火神は立ち止った。
(帝光には黒子も青峰も他のキセキもいるじゃねぇか)
 バスケの名門だ。練習もきっちりやっているだろうし、あんな……やる気のないバスケ部ではないことだけは確かである。中学の時の青峰とやるというのもいいかもしれない。正直、ワクワクした。だが、すぐにあることに気が付いて火神は眉を顰めた。その人相があまりよくなかったのか、たまたま火神を見た知らない男子生徒がひっ。と、言った。が、気にはならない。問題があったのだ。この帝光中には。主に、火神の大切な相棒と相棒の元光とその周辺に。
(黒子は、まだ青峰と仲いい頃なのか)
 聞いた話では、黒子が部活を去ったのは三年の全中の後。まだ中二だからバスケ部にいるのは間違いない。思い出せ。と、火神は頭を振った。
 青峰と緑間から聞いた話を必死に思い起こす。奴らの開花が黒子の消せない傷を作る原因になったと聞いた。始めは青峰。確か、中二とか言ってなかったか。
(黒子)
 中学校の最後の頃の黒子は孤独だったはずだ。仲がよかったはずの青峰が離れて行き、頼りにしていた赤司も変わった。皆が変わってしまったのだ。それはいつの話だ。具体的に聞かなかったことを後悔した。
 黒子は今。一人なのだろうか。まだ青峰の隣で笑っているのだろうか。突然、心配になった。
(黒子、お前。大丈夫か?)
 火神は、傷を抱えたまま高校に入って、火神と一緒に一歩ずつ強くなった黒子の姿しか知らない。だが、キセキと和解した後もどこか一線を引いているような黒子の態度と少し陰りのある眼差しを火神は知っている。そして、火神を親友といってくれる黒子が、その火神にさえどこかで遠慮しているのを感じる。全ては、黒子が抱える傷故のこと。
 そのことを知った時、緑間と青峰を怒鳴ったのは記憶に新しい。緑間は黙って瞑目していた。青峰は顔を苦しそうに歪ませていた。その顔で、彼らが後悔しているのがわかってそれ以上は言えなかった。彼らなりに、思うところがあるのだろう。火神はそこについては問うつもりもない。その資格は火神にはないからだ。だが、黒子の傷はどうやったら癒えるのだろうとはずっと思っている。
 いつか、黒子が作ってしまっている壁を乗り越えられる日がくるだろうか。そのためにはどんなに時間がかかってもいいとも火神は思っていた。親友がいつか心から安心して、手を伸ばしてくれる日がくることを火神は願う。
 要するに、頼って欲しかった。
 だが、黒子は話さない。弱さを見せない。時折見せる弱さは、だいたいがバスケのことだった。坐っている火神の背中に自分の背中をくっつけてあれこれとバスケのことで言う。火神も、言う。互いに弱いところもかっこわるいところも言い合って、火神と黒子は成長してきた。相棒である火神と黒子は常に対等の付き合いをしてきたように思う。だが、そこに黒子のバスケ以外の部分は含まれない。
 紛れもなく、火神は黒子の親友だ。黒子があれほどに甘える相手は火神以外にない。火神の方にしたって、あれほどに何でもしてやりたいと思う相手は黒子しかいなかった。
 何でも話すし、いつも一緒だ。けれど、黒子は本当に辛いことや苦しいことは話さない。ただ、じっと我慢しているのがわかるから、火神は黙って黒子の頭を撫でてやることにしている。場合によっては、泊っていけと黒子を家に泊めることさえある。そういう時の黒子は本当に甘えたがりで、いつもの憎まれ口が三倍増しになるが、火神にくっついて離れないものだからすぐにわかるのだ。
 黒子は何も言わないから、火神も何も言わない。本当は言って欲しいし、どうした。と、聞いてやりたい。だが、黒子はおそらく何でもないといい、火神に心配させたことを悔やむだろうと思うから言えなかった。本当に辛くなったら言えよ。と、言うように頭を撫でてやるぐらいしかできないのが歯がゆかったのだ。
(キセキとの一件が原因だとしたら)
 その原因を取り除いてやればいいのではないか。ハッとした。
(キセキとのことは、おそらく黒子がバスケ部にいる以上避けようがねぇ)
 開花は避けようがない。ついでに言うと、たぶん青峰の変節も周りの変化も避けようがない。ならば、そこで黒子が孤独ではないようにしてやればいいのではないのか。
(俺ならできるじゃねぇか)
 黒子と一緒にバスケをやって、笑って怒って泣いて。それが今の火神ならできる。だって、黒子と同じ中学にいるのだから。火神は黒子という存在を既に知っているのだし。
 火神は腕組をして考える。黒子を一人にしないためにはどうすればいいか。
 考えて考えてあるひとつの結論に達した。







 
 放課後。火神は黒子が間違いなく帝光バスケ部にいるかどうかを確かめようと体育館に来ていた。青峰達がいることは労せず知ることができたが、やはり黒子はその影の薄さから確認が取れなかったのだ。
 体育館の中をのぞくが、黒子はいない。落胆して戻ろうとしたところで火神が知っている黒子よりもずっと小さくてかわいい黒子と青峰と出くわした。
「はぁ?!」
 火神を認めて青峰が言った第一声がそれだった。青峰は心底驚いているようだった。何でいるだとか、お前、中学違ぇだろ。絶対いなかった。とか、ブツブツ言っている。
(こいつもなのか?)
 この反応。間違いないだろう、火神を知っている反応だ。つい、嬉しくなり火神はニカッ。と、笑った。
「よう、青峰」
 訝しがる青峰に笑顔を向けた。青峰が驚きに見開いていた目を細めた。そして、ほっとしたように息を吐いた。
 たぶん似たような状況に置かれている青峰と少し話して、黒子とも話した。黒子を最初から認識していることに火神は違和感は全くないのだが、黒子は違ったようだ。驚いた顔がひどく可愛くて、思わず手が伸びそうになって我慢する。
 黒子は、可愛かった。まだ苦しみを知らない黒子は素直だった。あまりに可愛くて気づけば、ストバスに誘い、ご飯にも誘い。更に、下手だと言う黒子に一緒にバスケをしようと笑いかけていた。黒子もまんざらではなかったみたいで、嬉しそうに顔を赤らめるものだから、本当にこのまま額に額を合わせてグリグリしたくなる。だが、少しだけ度が過ぎたらしくやけに黒子のことを知っていることに疑問を持たれて火神は焦った。スーパーのタイムセールなんて何時かまだ調べてもいないのに、それを口実に火神は逃げた。
 そして、夜である。やたらと楽しげに青峰は黒子とマンションへとやってきた。恐縮する黒子に遠慮するなと言いながら、部屋に招き入れ、ご飯を一緒に食べて、そのあと少しだけバスケをして黒子は青峰に送られて帰って行った。
 黒子は相変わらず、パス以外は下手だった。いや、高校以上に下手だった。ついでにいうと体力もなかった。本当に、パスに特化した選手だということを知らなければスタメンなんてことは絶対に信じない程だった。だが、バスケは楽しそうだった。
 高校に入ってからの黒子もバスケをするのは楽しそうだった。キセキの連中と和解してからはもっと楽しそうにするようになった。けれど、やはり何も知らなかったときのほうが笑顔は輝いているように見えた。
(小さいし。青峰は睨むし)
 黒子が可愛いと思うのは仕方ないと火神は思う。だって、本当にかわいいのだ。小さいのが第一。素直なのが第二。火神の知る黒子よりも今の黒子は子どもなのだから、仕方がない。つい構いたくなるのは、今の黒子よりも大人な黒子を構い倒している火神故に仕方ないのだ。別に、他意はない……とは思う。それなのに、青峰ときたらテツは俺のだ。触るな。と、いうように睨みつけて、黒子をその腕にしまいこむ。黒子もびっくりしていた。青峰君が黄瀬君みたいになってますと言っていたから、普段の青峰はこうではないのだろう。と、いっても。青峰が今の青峰になる前の青峰……ややこしいがその青峰の話だが。そして、その青峰が今の青峰の当時の彼そのものだったのならばやはりなのか。火神はため息をついた。
(やっぱり、あいつ。中学の時は無自覚でいやがったのな)
 火神は知っている。青峰が黒子を恋愛対象という意味で好きなことを。青峰が何も言わないし、動かないので火神は知らないふりをしてやっているが、行動から丸わかりなのだ。だからこそ、火神という存在を青峰が複雑な思いで見ているのを知っている。
(俺は、親友なだけだ)
 大事な親友なだけ。そう思うのだが、もし青峰が行動にでたらどうなるのだろうと、薄らと不安がある。黒子を取られてしまったら。なんてことを考えて悶々とした時期もある。
(親友、だよな?)
 黒子は大事な友人だ。黒子が幸せならば、相手が誰だっていいとは……思う。寂しいけれど。
 高校三年の世界で、黒子は火神のことが大好きだった。同じように、黒子は青峰のことも大好きなようだった。よく火神のマンションに青峰と遊びにきては、青峰と火神の手を取って、嬉しそうにしていた。火神もこのままずっといけばいいと思っていた。
 だからこそ、青峰の気持ちに気づかないふりをしていたのかもしれない。
 それはとにかく、親友が離れて行くのが寂しかったからだと思う。
(何考えてんだ、俺)
 何か変なことを考えなかったか。と、自問するが追求するのはなんだか怖かった。
 忘れようと思って、火神はもう少し体を動かして帰るかなと思ったところで、携帯がメールの着信を知らせる。
 青峰からだった。



『テツを送り届けたら、戻る。話がしてぇ』
「確かに、話し合いは必要だな」
 火神は、泊りに来い。と、返信を打った。