<カツカツカツカツ!>
けたたましい程ハイヒールの音を立てて、ナタル・バジルールは走っていた。
こんなに走ったのは学生の時分、体育の授業以来だろうか。
仕事では常に10分前どころか1時間前出勤で、どこに行くにも「余裕」の文字が判で押されたかのような仕事ぶりだった。
その彼女が―――額の汗をぬぐいながら必死に走って目的地にたどり着けば、その勢いのままボアを<バン!>と足音以上の音量で開いた。
「社長!」
血相を変えていた彼女の視線の先には、既にこめかみを抑えて苦悶する事務所の社長、マリュー・ラミアスがいた。
「…言いたいことは分かっているわ、ナタル。とりあえず席に座って頂戴。」
「しかし―――」
構うことなくマリューに詰め寄るナタルを、「まぁまぁ」と間に割って入ったのは、『I.F.』のプロデューサー、ムゥ・ラ・フラガ。
事務所とは直接かかわりのないムゥまでがこうして事務所に来ているということは…既に『I.F.』関係の全ての人間が「大事と認定している」ということだ。
ため息をついてマリューが言った。
「まさか、こんなことになっているとは思わなかったけど、貴女は全然気づかなかったの?」
「はい…全く…」
ミス・パーフェクトのナタルが青ざめている。震えるその手に握りしめているのは、写真週刊誌。
ナタルの握力に見事に握りつぶされている紙面には、堂々と極太ゴシックの文字が躍っていた。
『人気アイドル歌手とミュージシャンの熱愛発覚か!?』
『人気絶頂のアイドル、「ミーア・キャンベル」のお相手は、兼ねてから噂のあった、あの『I.F.』アレックス・ディノ!』
『既に同棲生活を送っているとの噂が…』
そして極太ゴシックの下には、場所は判明しないものの、明らかにアレックス・ディノと分かるその人と、その彼にしがみつく幸せ笑顔満載のミーア・キャンベルのオフショットがでかでかと掲載されていた。
カガリが倒れてから10日ばかり経過している。
これを期に、『I.F.』は久しぶりにまとめてオフ期間としたのはナタルの判断だった。
レコーディング、メディアへの出演、ライブ。この3つを1年間でほぼ定期的に行いながら、合間にまとめてオフを取らせることは、今に始まったことではない。
無論オフが終わればきちんと彼らは仕事を開始する。特にアレックスに至っては、オフと言いながらその間に曲作りを欠かず、ナタルが追加の休暇命令を出すほどだ。
真面目な彼らのおかげで、こうしたスキャンダルはお世話になったことは一度もない。故に、ナタルも信頼しきって、オフ期間中に二人に連絡を入れたことはなかった。
「それが裏目に出るとは…」
あの自信に溢れたナタルの憔悴に、マリューも不安を隠せない。
「でも仕方がないわ。貴女が知らないことがあって当然だもの。特に恋愛みたいなプライベートなことは、彼らだって、もう大人だし、ありえなくはないわ。」
「でも、正直言って、あの坊主がこういう趣味だったとはねぇ〜 無口で不愛想な割にはやっぱり「男の子」していたとはね♪」
調子よく頷くムゥ。そこにマリューのひと睨みが入り「おっと!」と慌てて口を噤む。
マリューは素早くナタルに問う。
「アレックス君と連絡は?」
「それが、全く携帯がつながらなくって…」
ニュースを見た瞬間、ナタルの右手は既にアレックスへのショートボタンを押していたが、無しのつぶてだった。なので、取るものもとりあえず事務所に駆け込んできたのだが。
「やっぱり…。こちらからもかけているんだけど、「電波の届かないところにいるか、電源が入っておりません」で詰みよ。」
マリューが渋い顔をする。
「それで、メディアへの対応はどうなさるんでしょうか?」
ナタルの動きには無駄がない。週刊誌以外にも、午前中のワイドショーはこぞって二人の話題で持ち切りである。
「さっきっから電話は鳴りっぱなしよ。事務所としては「今回の二人の件は把握しておりません。」としか言いようがないもの。それだけよ。」
マリューの深いため息。ナタルが事務所を見渡せば、ノイマンもチャンドラーも「お手上げ」ポーズをとり、左右に首を振るだけ。ノイマンに至っては、固定電話の線まで抜いている。
そこに
<ピリリリ…>
マリューの携帯が鳴った。着信画面を見て、血相を変えて着信ボタンをONにする。
「はい、私です。…いえ、この度はこちらこそお騒がせしまして…。えぇ…、うちはまだ本人に確認していないのですが…丁度オフにしておりまして…。はい、確認してそちらと合わせて対応させていただくことにします。はい。では…」
「今の電話は…」
ナタルが答えを急ぐ。
マリューは携帯をやや粗雑に机に放り投げた。
「『エターナル』のバルトフェルド社長よ。「お騒がせして申し訳ない」って。」
「こっちは音楽で飯食ってるからまだましだけど、あっちは『アイドル』だからねぇ〜。こうしたゴシップの痛手は大きいだろうね、うちより遥かに。」
ムゥも流石に難しい顔をしながら状況を予想する。
マリューが更に加える。
「バルトフェルド社長の話だと、ミーアさんは予定通りの仕事をこなしているって。」
「一体どこでこんな写真を撮られたというのでしょうか。」
「その辺はまだ先方もミーアさんに詳しく確認していないみたい。多分今日の仕事が落ち着いたところで詳しく話を聞くようだけど…ところで、カガリさんの具合は?わかる?ナタル。」
「それが、アスハの携帯にも連絡しているのですが、全く出なくって…」
ナタルの眉間にしわが寄る。
カガリは一体どうしているのだろう?この報道を彼女が見たら、ただでさえ体調が悪そうだったのに、精神的なショックが追い打ちをかけるようなことにでもなれば…
「彼らの自宅に様子を見に行った方がよいでしょうか。」
ナタルが顔を上げる。マリューは腕を組んで思案する。
「待って、ナタル。もし貴女が今駆け付けようとして、報道陣に後を付けられでもしたら、彼らの自宅が判ってしまうわ。それでもし報道が詰めよれば、近隣の方々にもご迷惑になるし。…とりあえずメールで気が付いたらすぐに連絡するように、入れておきましょう。」
「はい…」
こういう時、マネージャーとしてどうあるべきか。
まだまだ勉強が足りない、とナタルは唇をかみしめるのだった。
***
(どうしよう…)
ミーアは楽屋で肩を抱いて、椅子に蹲り震えていた。
(まさか…アレックスとのこと、こんな騒ぎになるなんて…)
アイドルとして初めての大スキャンダル。今まで気をよくしていた報道陣が、今度は生贄を求めるような目でミーアを写している。好奇と侮蔑の入り混じったシャッターに、ミーアは震えあがった。
「でも…あの人は「大丈夫」って言ったもの。言ったのに…何してるのよ…」
ピジューネイルの指先を噛みながらミーアは焦り、呟く。
1週間ほど前、『ドミニオン・レコード』社長のムルタ・アズラエルから、引き抜きの話をもらった。しかも、あのアレックス・ディノと一緒に!
その時は嬉しさのあまり、何でもする勢いで相手の要求を飲んでしまった。
(―――「この話はタイミングが大事です。なので、ベストな時に私の方から事務所に話しますので、それまで絶対に秘密ですよ。」)
(―――「貴女はディノ氏が指定場所にやってきたとき、思いっきり甘えながら女の子らしいところをアピールしていってください。」)
その指示に従っただけなのに、まさか、それを誰かに見られていただなんて!
「!もしかして―――」
ミーアの顔色が蒼白に変わる。
「『秘密』がバレちゃったのは、私が写真を撮られたせいで、それで社長さんが怒って、話をしに来てくれないのかしら…だったら…」
<ガタン!>
無意識に勢い良く立ち上がったミーア。
「どうしよう…アレックス、助けて―――!」
***
「いやー、見事なものです。上手く撮れていましたよ、クロト君。」
ドミニオンレコード本社最上階の社長室―――100インチの大画面に映し出された「アレックス・ディノとミーア・キャンベルの熱愛報道」に、深々と椅子に座りながら、アズラエルは機嫌よく<パンパン!>と拍手を贈った。
「でもよ…」
「ん?なんです、オルガ君。」
「なんでわざわざこんな写真、撮る必要があったのかよ。しかも、色物週刊誌になんて送り付けて。」
金髪の背の高い男―――オルガ・サブナックが面倒くさそうに頭を掻きながら横柄な態度でアズラエルに問う。
するとアズラエルはクスリと小さく笑い、サイドボードから袋を取り出す。彼が紅茶によく合う、と言っている、お気に入りのバタークッキーらしい。
その袋を<バリッ>と破いて、オルガ、そして鬱陶しそうに長い前髪をいじるシャニ・アンドラス、そして写真を撮ったという赤髪のクロト・ブエル―――アズラエル直々の事務所から送り出した子飼いのバンド『Bursted Men』のメンバー3人に袋を勧める。
3人は顔を見合わせると、それぞれ一枚ずつクッキーを取り出した。
アズラエルはその様子を見届けて、3人の顔を順に眺める。
「さて、問題です。シャニ君。貴方はお菓子を選ぶとき、「袋の開いているもの」を選びますか?それとも「密封された袋のもの」を選びますか?」
「んなの、「密封されたの」に決まってるだろ。」
シャニはボリボリとクッキーを噛みながら、面倒くさそうに答える。自分ではそれを口にすることもなく、今度は頬杖をついて、アズラエルが上目遣いにさらに問う。
「ほぉ…それは何故?」
「何故って…開いてたら、不味そうじゃん。湿気ってそうで。」
「そうです!それが「この答え」です!」
「「「はぁ?」」」
3人が一斉に理解不能というように首を傾げれば、アズラエルが満足気にその様子に頷く。
「『アイドル』はいわば、この袋の中の『お菓子』のようなものです。『お菓子』には『賞味期限』がつきもの。封を切らなければ『賞味期限』は多少長引きますが、それでも風味は時間の経過とともにどんどん落ちていく。開封してしまえば猶更早い。つまり『アイドル』にとって、『スキャンダル』というのは『菓子袋の開封』です。いうなれば、私が彼女の賞味期限を速めてあげた、ということです。」
「それが、おっさんの利益になんのかよ。」
指についたクッキーの粉をぺろりと舐めてクロトが言う。
「えぇ、なりますとも。彼女はスキャンダルで人気が急落。今の事務所から遅かれ早かれそっぽを向かれます。そうすれば、彼女の居場所はもう「ここ」しかありません。」
「…要は、おっさんがわざわざあの女の事務所に頭下げなくても、勝手にこっちに寝返る、ってこと?」
手についたクッキーの欠片を払いながら、シャニがまとめた。
「シャニ君!部屋を汚さないでください!ちゃんと手をふくか洗ってきてください。…ま、でも君の解答は70点くらい差し上げてもいいでしょうね。」
アズラエルが椅子をクルリと回転させ、リモコンスイッチを押す。別の番組に切り替わっても、ミーア・キャンベルの顔が画面から消えることはない。
BGM状態のテレビからは音楽番組のスタッフが「そういえば、ステージ裏でも、ミーアちゃんは積極的にアレックスさんに迫っていたのを見ました!」と、核心に迫る発言を音声を替えて流している。
「でもよ、あの時、女だけ逃がさなくったって、あの男みたいに閉じ込めておきゃよかったんじゃないか?」
オルガがテレビ画面を眺めて呟けば、アズラエルは「まだまだですね〜」とお手上げポーズをとる。
「二人まとめて閉じ込めては、二人して事件に巻き込まれたと思われて、事務所が捜索願を出すリスクが出てきます。二人の予定を徹底調査したところ、アレックス・ディノは暫くオフでしたが、ミーア・キャンベルは仕事が続いています。アレックスは暫く姿を見られなくてもオフですから不信には思われません。一方ミーアは彼女が現れなければ、事務所が警察に出向く危険があります。あくまでそれは避けたいのと、もう一つ…この騒ぎで自分の居場所への危機感を覚えさせれば、更に彼女が自ずからここへ来る確率はうんと高くなります。名誉挽回のために、ね。 アレックスは頭が切れる。彼を一度手放したら二度と捕まえることは難しい。今回の騒ぎだって冷静にかわして見せるでしょう。だからこそ「目的を果たす」までは、彼はここに居させます。」
「「「ふ〜ん…」」」
分かった様な分からないような3人の顔をちらりと眺め、アズラエルは一人満足気に口角を上げる。
「それに、この騒ぎは必要なのですよ。「2匹目のどじょう」を掬い上げるのに、ね…」
***
「…ん…」
光を失っていた部屋に、ようやく小さな光が灯った。
金眼が開かれたそこは、厚いカーテンに覆われた暗い部屋。だがその隙間から薄く漏れる日差しに、今は日中であることをカガリは理解する。
(どのくらい眠っていたんだろう…)
身体のあちこちが痛い。完全に寝過ぎだ。気怠さと節々の痛みを逃すように体を軽く動かしてみる。
「うん、少しは回復したみたいだな。」
アスラン特製のジュースで、少し貧血は改善してきている。といっても、一体どのくらい眠っていたのか見当がつかない。
よろよろと歩いてリビングに行く。だが人の気配がない。
「アスラン…出かけているのか?」
アスランの私室をノックする。「おーい、アスラ―ン」とソロソロとドアを開けてみるも、彼の気配はそこにはなかった。
意識が途切れる前に、彼が触れてくれた感覚をまだ覚えている。
数時間前のことかと思っていたが、携帯電話の画面を見てカガリが大声を出した。
「―――って、10日以上経ってる!?!?」
確か倒れたのが歌番組の後。それから一度目を覚ましアスランと話をしたが、それでもあれからもうそんなに経過しているなんて…と―――
「今日だけで着信がこんなに…しかもメールも履歴だらけだ…ナタルから…?」
珍しい。普段はナタルはアスランとのやり取りが多く、カガリに直接メールを入れることは少ない。
先にメールを開封してみれば
「『アレックスはいるか?いたらすぐに私に連絡するよう伝えろ』、って…」
家の中にいないことは今確認したが、携帯も繋がらないなんて。
(いつもなら、行く先をメモして置いておいてくれるのに…)
今日に限ってそれが見当たらない。ということは、ついさっき出かけて、すぐに戻ってくる予定なのだろう。
「全く、ナタルはせっかちだなぁ〜」
だが、これだけ何度も連絡を入れてくれているということは、余程切迫した用件なのだろう。
とりあえず「今は家にはいない」ということだけでも連絡しておこう。
そう思ってリダイアルを押してみるが
<ツー、ツー、ツー、>
「話し中か…だったら―――」
アスランに直接居場所を聞いて、すぐにナタルに連絡するように伝えようとショートダイアルを押す。だが
<電波の届かないところにいるか、電源が入っておりません…>
「いない…」
しかも留守電機能にすらならない。
いつもなら、どんなに連絡がつかなくても、留守電にだけはできるようになっているのに。
「おかしいな。」
そう呟いて小首をかしげるカガリ。
無意識にリビングのテレビリモコンのスイッチを入れる。
その次の瞬間、金眼が見開かれ、彼を写す。
そこにいない彼が画面の向こうにいた―――自分じゃない女性と一緒に。
「アス…ラン…?」
カガリの手から、テレビのリモコンが静かに滑り落ちた。
・・・to be
Continued.