ここはどこだろう…

   ずっと霧のような、もやがかかった様な場所だ。

   私…今、どこに向かっているんだっけ?

   そうだ、確か、アスランとテレビの音楽祭に出演して、それで…

 

   でも、アスランがいない

   どこだ?アスラン

 

   前も足元も見えない場所を、それでもおぼつかない足取りで進んでみると、人の背が見えてきた。

 

   いた!あの後ろ姿はアスランだ!

 

   でも…誰かもう一人、アスランの隣に並んでいる。

 

   綺麗なサラサラの長い髪。柔らかそうな物腰の綺麗な子。

 

   あの子、ミーア・キャンベルさん…だっけ

   アスランを「好き」って言っていた女の子

   女の私から見ても、すごく魅力的で、女の子らしくって

   男の人だったら、多分、そう…一緒にいて、きっと楽しくって、可愛くって、

   それでいて、女性らしい安らぎを与えてくれそうな。

   アスランの腕を取って、楽しそうにしゃべっている横顔は、とっても幸せそう。

 

   彼女みたいな女の子なら、普通の幸せな恋人同士になれるのかな…?

   

   (そう、アスランはお前なんかといなければ、普通の人間らしい幸せな人生が送れたのに…)

   「誰だ!?」

   心の中に直接響いてくるような重い「声」。

   ミーア…じゃない。誰だかわからないけど、まるで当たり前だと言わんばかりに私に訴えてくる。

   (アスランは頭もよく、落ち着いていて、判断力も優れていて…)

   「声」は焦がれるかのようにアスランを賛美し続ける。

   (将来を誰からも嘱望されていた、素晴らしい人間だった!なのに―――)

   重かった口調が急に荒々しくなって、私に刃を突き刺す。

   (「お前」だ!「お前」みたいな「化け物」のせいで、アスランは全てを失った!)

   「ち、違うっ!だって、アスランは言ってくれた!私と一緒にいるって―――!」

   私は懸命に否定する。でもそんな私をあざ笑うかのように「声」は訴える。

   (何故人が化け物と一緒にいて「幸せ」になんかなれる?お前が出会ってしまったから、
    アスランはお前の魔力に…お前の人生に巻き込まれてしまった)

   「違うっ!違うったら!」

   聴きたくないっ!両耳を塞いで大声を出して聞こえないようにしているのに、それは容赦なく私に襲い掛かってくる。

   (お前がアスランに出会わなければ、アスランはあんな風に人間の少女と恋愛も、結婚もできて、
    当り前のように子供をもって幸せな家庭を築けた)

   「い、や…いやだ…やめて…」

   耳を塞いだまま、逃げることもできずしゃがみ込む。涙がとめどなく溢れてくる。

   そんな私に「声」は言った。

   (だから養父は言ったんだ「外に出てはいけないよ」と)

   私ははっと目を見開く。

 

   そうだ。ずっと物心ついたときには、お父様に何度も言われたっけ。

   ―――「いいかい、カガリ。お外に出てはいけないよ。」

   ―――「どうして?お父様。」

   ―――「お前は陽の光を浴びると、大やけどをしてしまう病気なんだ。」

   ―――「じゃあ、陽が沈んだら、お外に出てもいい?」

   ―――「…それもいけないよ。」

   ―――「何で?どうしてダメなの!?」

   ―――「それは―――」

 

   (そう「それは―――人間と出会ってしまったらいけないから」だ!)

 

   「っ!」

   (お前が出会った人間は、否応なくお前の人生に巻き込まれ、不幸になる!)

   「そ…そんな…」

   (そう、人としての幸せな生き方を奪われ、それだけでなくお前に献身を捧げた挙句、最後は―――)

   「さいご…」

   (「―――こうなる」のさ!)

 

   ミーアが振り向いた。

   ううん、ミーアじゃない。

   アスランに縋り付いているのは―――「私」

   私がアスランの首に牙を立ててる

   そうして―――アスランの頬が、瞳が、生気を失って

   崩れ落ちる

   私に血を吸われて

 

   アスランが―――「死んだ」―――!

 

 

「嫌ぁぁぁぁーーーーーーっ!」

「カガリ!しっかりするんだ、カガリ!」

「―――っ!……」

気づいたカガリが目を見開けば、そこは斜陽が重厚なカーテンの僅かな隙間から差し込む暗い部屋。

そしてすぐ傍には、カガリの双肩を抑え込んだアスランがいた。

酷く心配気な表情で、その翡翠にカガリを映している。

「ここは…」

「見てわかるだろ。君の部屋だ。」

アスランがようやく一息ついて、穏やかに説明した。

「ステージが終わった後、そのまま君は倒れたんだ。多分…血が足りていないせいだと思う。」

ゆっくりと起き上がろうとするカガリの背を助け、カガリの身を片腕で抱いたまま、そっと傍に置いていたグラスを差し出す。

「とりあえずいつもの。…気休めでしかないけれど。」

「ううん。そんなことない。これにはいつも支えられたから。いただきます。」

受け取ったグラスには、なみなみと真っ赤なジュースが注がれていた。カガリはそれを一気に飲み干す。

「ふー。…ごちそうさまでした。というか…また迷惑かけちゃったな。」

「そんなことはない。もう少し、横になっていた方がいい。」

「うん…」

そのままアスランはカガリをベッドに横たえた。

そしてその指で、そっとやつれた彼女の頬を優しく撫ぜる。

「少しでも体力を持たせるために寝かせておこうと思ったんだが、急に君が魘され始めて。心配で揺り起こしたんだ。ごめん。」

「ううん!そんなことない!助かった。ちょっと…嫌な夢というか…見ちゃって…」

「どんな夢?」

「それは…」

言いたくない。というか、言えるわけがない。

アスランの血を飲み干していた夢、だなんて。

いつもなら素直にまっすぐ見られるその翡翠に視線を合わせづらくて、カガリは手元の上掛けをちょこんと引き上げて目元まで顔を覆った。

 

アスランは軽く肩を落とす。

こうなるとカガリは頑として口を割りはしないだろう。もう20年近い付き合いだ。彼女は嘘がつけない。思ったことは全て正直に顔に出てしまう。

でもその彼女の隠し事の多くがアスラン絡みのことだ。

しかもアスランにとって不利な問題ほど、カガリは必死に庇おうとする。

自分がどんなに傷ついても、アスラン…そして父・ウズミだけは守ろうとする。

この世界でたった一人の吸血鬼。たった一人で、その細腕で、守ろうとするいじらしさがかえって切ない。

そんなカガリをもっと守り抜いて、いかに自分が彼女の騎士足りえるか、彼女自身にもっと甘えて欲しいのに。まだ彼女から騎士の合格は貰えないらしい。

「わかった。じゃぁその代わり―――」

金糸を解いて、そっとその前髪をかき分け、アスランはそこに優しく口づける。

「悪い夢を見ないおまじないだ。俺がずっと傍にいるから、もう安心して寝ていいよ。」

「うん…ありがとう。」

そういってその金眼がそっと閉じられる。ほどなくして小さな寝息がたった。

 

そんなカガリの寝顔を見つめながら、ふとアスランは自分の唇にそっと指をあてた。

唇に感じたカガリの温度が低くなっているのが気にかかる。

血液を与えれば回復するはず。だがそれが叶わぬ今は、その代用として同じような成分を含めたジュースで騙し騙し来たが、おそらく限界は近いだろう。

「どうしたら…」

リビングに移動し、そのままソファーに深く身を沈め、アスランは天を仰いで目を閉じる。

先ほどのカガリの魘された声に気づくまで、懸命に警察の情報を収集していたが、やはり新しい情報は入ってきていない。

いや、もはやカガリには犯罪者がたとえ人間でも、後を追うだけの体力も残っていないだろう。

やはりこうなったら自分の血液を与えるしかない。

(後で…カガリに散々咎められるかな。)

例え彼女に恨まれたとしても、彼女の命を守ることができるなら、喜んでこの身を捧げる覚悟は当にできている。

「それでなければ、あの時、カガリを連れ出すことなんてしなかったさ。」

自問自答するアスラン。

いや、今アスランの目の前には、数年前のあの日に対峙した人物が映っている。

 

そう―――まだ高校を卒業して間もない頃だった。

既に音楽活動をして、アマチュアながら、今の道を進む決意を二人で固めた時、同時にアスランは決めた。

 

―――「カガリを、未来永劫、自分の手で守りぬく」ことを―――

 

そのためには、まず説得するべき相手と対峙しなければならない。

それが「ウズミ・ナラ・アスハ」。カガリの養父だった。

 

―――「たとえ俺にどんなことがあっても、カガリだけは絶対守り抜いて見せます。だから―――!」

ウズミは最初首を縦に振らなかった。

最初は娘可愛さに、奪おうとする男から守るという、父親のあたりまえの感情かと思っていた。

だが、ウズミはアスランに告げた。

―――「カガリといると、君は「人間」としての幸せは生涯手に入らない。それだけの覚悟はあるのか?」

―――「はい!」

アスランは即答する。だがウズミは眉間にしわを寄せ、アスランに問い詰めた。

―――「明らかに今後君は「カガリ」という存在そのものに振り回されるはずだ。並大抵の努力や忍耐で耐えうるものではない。私に泣き言を一つでも言ったときには、すぐにカガリを私の下に返し、二度と君には会わせない。君の一生を通して、だ。その覚悟はあるのか?」

 

『二度とカガリと会えない。』

 

それは自分の心が壊れる瞬間だと、アスランは知っている。

 

家族も、友人も、周囲の者は誰もアスランの心を見透かしてくれなかった。

しっかり者で、感情を露わにしない、冷静沈着な優等生。

本当の自分はそんな大層なものじゃないのに、みんな「そういう目」でしか見てくれず、評価もしてくれない。懸命に心の内を訴えても、父は一掃し、周囲も大同小異。母には心配をかけまいと、常に心の叫びを奥底に押し込めた。

いつの間にか、感情を忘れかけていた。このまま世間の期待を担う、完璧なロボットとして生きていくのか?自分にはその価値しかないのかと、あきらめかけていた。

しかし、カガリだけは受け止めてくれた。

泣いて、叫んで、怒って…そんな自分を「当たり前だ」と笑ってくれた。そしてそんなボロボロの感情の自分を「大事な人」と言ってくれた。

誰も気づいてくれなかった寂しさや苦しさを、彼女はたった一つの笑顔と言葉で救い出してくれた。

そして、それからずっと彼女は自分の太陽だ。

カガリの傍にいるだけで、温かく、優しく、穏やかになれる自分がいる。

彼女にだけは感情を何でも見せられる。

彼女がいない世界の方が、凍てつき、色もなく、荒廃している。

そんな世界で誰が生きられるだろうか。

 

―――「覚悟の上です。貴方には、アスハ家の皆さんには絶対ご迷惑はかけません。彼女は「吸血鬼」じゃない。「カガリ」です。「カガリ」なんです。」

アスランはウズミを正面から堂々と見据えた。

彼女の名を口にするだけで、どうしてこんなに壁をぶち壊して前に進もうとする勇気が出てくるのか。

まだその頃は、漠然としか思えなかったが、今は分かる。

 

これが―――『愛情』だということが。

 

ウズミはそれ以上何も言わなかった。

そして娘を手放す父親の顔になって言ってくれた。

―――「私の娘を、頼む。」

 

ウズミはいつかこうなることを見越して、アスランに苦言を呈していたのだろう。

あの時ウズミに握られた手の力強さを思い出す。娘を愛しているが故の父親の気持ち。彼の思いに勝るのは自分の想いの方だ。

「貴方には、負けません。」

アスランは決意も新たにまっすぐ前を見据える。彼の目の前にいた人物は、満足げに一つ頷くと彼の視界から消えた。

(追い詰められて、それでも君を想うと不思議と俺はまた一歩踏み出すことができる。君の存在が俺の生きる力なんだ。だから―――)

「だったらやるしかないじゃないか。」

直接吸血しなければ、欲望は奪われない。それこそ、献血なら400tまで採ることができるのだから、少し休めば何とかなるだろう。

注射針やシリンジを扱ったことはないが、入手くらいならいくらでも方法はある。

となると、どこかで採血してもらえるところを探さなければ。

カガリが人医に行くことができない以上、誰か知り合いで医者か看護師か、臨床検査技師のように採血できる人間を探して―――

 

 

そう思ってアスランが立ち上がった時だった。

<ピリリリ…>

後ろポケットの携帯が震えた。

ナタルだろうか。先日倒れたカガリをここまで一緒に運んでくれて、その後連絡していないから、心配してくれたのかもしれない。

そう思って着信画面を見ると、

「…誰だ…?」

知らない番号だ。

マリューや事務所の面々、レコード会社のプロデューサーのムゥは既に登録されているので、着信画面には名前が表示されるはず。だが全く見覚えのない番号は、間違い電話だろうか。

だが一向に鳴りやまないところを見ると、相手も相当切羽詰まった要件でもあるのだろう。

名前を名乗らず出て、間違いですと一言言ってやればいい。

そう思って通話ボタンを押した。

「はい…」

<あ〜やっと出ましたね〜ずいぶん待ちましたよ〜。>

予想は外れた。待たされた、という割には、焦る様子でもなく随分悠長な構えだ。しかもかなりの上から目線な。

無感情に淡々とアスランは答えた。

「どちら様でしょうか?」

<あ、申し訳ない。僕はいつも思ったことが最初に口に出てしまうので。では改めまして。「アレックス・ディノ」さんでよろしいでしょうか?>

「!?」

いきなり問われて一瞬たじろぐ。素直に答えていいのか0.5秒の思考でアスランは慎重に応えた。

「…貴方は?」

<いや、これはまた失礼。私の声を聴いたら、きっと分かってくれると思っていたんですが、やはりきちんと名乗るほうが先でしたね。いや、なかなかビルのてっぺんにいると、名乗る機会も少なくて、慣れなくてね。で、そうそう、改めまして私は「ムルタ・アズラエル」。ここまで聞けばわかりますよね?>

「ムルタ…ドミニオンレコード会社社長の―――」

<そうそう、流石はアレックスさん。直ぐに理解していただけて嬉しいです♪>

いや、理解できない。

所属レコード会社とはいえ、他にも多くのミュージシャンが所属している大手企業だ。その社長が自ら一アーティストに直接連絡をよこすことは殆どもって例がない。

(新手の詐欺か?)

と頭に警戒がよぎった瞬間。

<あ、今「なりすまし」じゃないか、と思いませんでしたか?そりゃそうですよね〜でも正真正銘の「ムルタ・アズラエル」なんですけどね。>

この悠長さが、アスランの神経を逆なでする。苛立ちを抑えるだけでもストレスだ。

「…すいません、今取り込み中なので、ご用件は。」

<あれ?確か今は事務所に連絡しましたところ、お休み中のはずと思ったのですが。あ!もしや既に新作の作曲でもされているとか!?いや、失礼しました。でもそれだったら話が早い!>

「何のことでしょう?」

<そうですね…とりあえず、私が本物であることを証明するためにも、直接お会いしてお話ししたいので、今夜「ドミニオンレコード本社ビル」に来てもらえませんでしょうか?>

「今夜…ですか?」

正直今はそれどころではない。カガリの食事のことで頭がいっぱいだ。最優先事項を覆すわけにはいかない。でも…

(本業でトラブれば、こちらも命とりになりかねない、か…)

一人で仕事をしているわけではない。

彼らとの円滑なコミュニケーションがなければ、カガリどころか自分の食事にも事欠く状況となりかねない。

アスランの視線が、自然とカガリの私室の方に向かう。

静かなままだ。今度は魘されることなく眠りにつけているようだ。おまじないが効いたのならなおのこと嬉しいのだが。

だったら―――

「わかりました。何時ごろお伺いすればよろしいでしょうか?」

<あ、よかった〜。では19時に。本社の正面玄関ではなく、右側面にある「専用口」から来てください。そうすれば社長室まで直通のエレベーターがありますので。では。>

用件だけ済めばあとはあっさりとしたものだ。さっさと切電された。

だがリビングに差し込む斜陽があまり時間がないこと告げている。

アスランはシャワーを浴び着替えると、もう一度カガリの私室を訪れた。

コンコンと眠りに落ちている彼女は、まさに眠り姫だ。このまま目を覚まさなかったら、と一瞬不安がよぎる。

「その時は、王子様がキスだけじゃなく、君の弱いところ全部攻めてもたたき起こすからな。」

そういって頬に唇を落とすと、アスランは「行ってきます」と、そっとドアを閉めた。

 

 

・・・to be Continued.