午後8時過ぎ―――
彼はまさに「脱兎」のごとく、全力で捕獲者から逃げていた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、」
息も絶え絶えで、足はもつれる。こんな全力疾走は、一体何年ぶりだろう。
そう考える余裕もなく、場末の居酒屋の集まる、ごみごみとした迷路のような細い裏通りを駆け回っていた。
自分でさえ一体どこを走っているのか、この先がどうなっているのかすらわからない。なのに、奴らはまるで彼の居場所がわかるとでもいうかの様に、簡単に背後に追いついてくる。
(一体、一体俺が何をしたというんだ!?)
いつもの仕事帰り、いつもの定食屋で軽くビールを引っ掛けながら、これまたいつも通りのヒレカツ定食に齧り付いていた。
陽の沈んだ繁華街は無論、これから飲みにでも出かけるのであろう仕事帰り風の連中と、バイトの学生達で溢れたいつもと変わらぬ景色。
ここに来るまで酔っ払いに絡まれた訳でも、足を踏まれたという些細な出来事も全くない。
最近はちょっとした小競り合いで、簡単に命を奪うような連中もいるらしいが、こんなことでいちいち尖っていては命がいくつあっても足りない。
だから争いごと一つすることもなく、アンガーマネジメントにだって長けていた。勤務先でさえもめ事を起こしたことは一度だってない。
なのに―――
「いたぞ!あそこだ、周りこめ!」
追いかけてくるのはまだ若い男。火のような色の瞳をして、まるで獲物を捕らえる獅子のようだ。
「なんで俺が――――!」
どうしてこんな目に…「警察官」に「追われて」なきゃいけないんだ!?
馴染みの定食屋は3回も通えばすっかり顔も覚えられていて、店主は彼の顔を見ると何も言わず、黙々とヒレカツを揚げ始め、賄の年配の奥方は「はい、お疲れ。」そう言ってにこやかに中瓶のビールをコップに注いでくれる。
それがいつも通り、まるで判を押したように当たり前に過ぎていたはず―――だった。
店の中は同じような仕事帰りのサラリーマンたちで溢れていたが、みんな黙々と食事をし、あえて言うならカウンターの上の棚に無造作に置かれていたテレビが流れていたくらいだ。これもいつも通りだったはずなのに。
―――「ちょっと…あんた…何を…」
ふと気づいたとき、彼は何故か椅子から立ち上がっていた。そして、あの普段にこやかな賄の奥方が青ざめて彼を指さしていた。
フルフルと震える彼女の指先は、彼を―――彼の血まみれな右の拳をさしている。
いや、痛みは全くない。つまり、彼の血ではない。
だが、彼の足元でいくつも皿が割れ、更に中年のサラリーマンが伸びていた。口の端からは血が流れている。
―――「…え…え?」
一体何が起きたんだ?記憶がない。だがすぐ次の瞬間
―――「いたぞ、ここだ!」
店にやってきたのは、まだどこかあどけなさが残った、あの赤い瞳の若い男。そしておもむろに胸から取り出したのは「警察手帳」。
―――「…あんたか。通報があって来てみたら、こりゃ現行犯だな。」
若い男の手が後ろポケットに回り込む。散々テレビで見てきた刑事ドラマ通りなら、あそこにあるのは手錠だ。
―――「あ!待てっ!」
その瞬間、彼は逃げた。全く記憶がない。何が起きてああなっているのかもわからない。それを素直にあの若い男――刑事に説明すればいいはずなのに。
でもやったことを証明するのは簡単だが、やっていないことを証明するのは至極難しい難問だ。
そう思った瞬間、逃走してしまったのだ。
「ひぃーーーーっ!」
こんなことなら少しでも運動習慣をつけるべきだった。若いころはこんな簡単に息は上がらなかったはずなのに。
近づく足音。そして
「逃げるなっ!このぉぉぉーーーーーっ!」
伸ばした刑事の手が、彼のスーツの襟をつかんだ。
「うわぁぁーーーーっ!」
あっという間に腕を取られ、なぎ倒される。柔道をやっていなくても、これは見事な一本締めだと頭のどこかで彼が感嘆した。
「午後8時20分。確保!」
彼の手首に<カチリ>と手錠がかけられた。
「…ふん…ふん…そうか、いや、おつかれさん。」
そういってディアッカ・エルスマンは卓上電話を置いた。
「…だってよ。」
そういう彼が窓辺に視線をむけると、そこには帳の堕ちた夜の官庁街を見つめる一人の男。
見事なプラチナブロンドを肩口で切りそろえ、この時間でも乱れ一つもないスーツ姿。切れ長の鋭い瞳はアイスブルー。氷の刃のようなクールな男……の頬が緩んだ。
「ふ…ふっふっ…ふはははははは!」
腰に両手を当て、ふんぞり返った彼、捜査一課長:イザーク・ジュールは高笑いしながらディアッカに言った。
「どうだ!これで今月の検挙数が一気に跳ね上がったぞ!見たか、我が本庁一課の実力を!」
「いや…俺に自慢されても俺もその「一課」とやらに所属しているんだが…」
「今のは貴様に言ったのではないっ!」
「じゃぁ誰にだよ。」
半ば呆れながらディアッカが聴き返せば、待ってましたとばかりに畏敬高にイザークがキッパリと言い放った。
「『Vamp』に、だっ!」
「あ、そう…『Vamp』にね。」
同じ庁内でもなく、所轄でもなく、彼のライバルは『Vamp』ですか。あぁ、そうですか。
ディアッカは盛大にため息をついた。そんなディアッカにイザークは怒声をあげる。
「何を呆れているディアッカ! 毎回毎回俺たちが追い詰めた犯人を、『Vamp』のやつが端からかっさらっていって、悔しいと思わんのか!?」
「いや、そりゃまぁ素人…か、どうかわからんけど、確かに毎回、上前跳ねられたら、な…」
ディアッカは頭をポリポリと掻く。
『Vamp』…いつも警察より先に犯罪を見つけ出し、犯人を捕獲しては去っていく謎の人物。
単独なのか、あるいは複数なのかわからない。
だが、毎回見事に事件を解決しては、犯人と証拠を置いて立ち去っていく。その姿は誰も見たことがない。当事者である犯人でさえも、誰一人としてその顔を覚えていないのだ。
無論、警察官でもない以上、彼らは犯人を確保することはできないため、この手柄は「一応」捜査一課の手柄とはなっているが、マスコミは何故か『Vamp』の存在に気づき、彼らを義賊とも、ヒーローとも扱っている。
故に、検挙数=本庁一課の業績として勘定されても、プライドの高いイザークの怒りは一向に収まらなかったのだ。
だが―――
最近になって急増している連続暴動事件は、現在のところ全てここ、本庁一課がいち早く取り押さえ、『Vamp』の入れる隙も与えていない。
前回の謎の連続暴行事件でも『Vamp』に先を越され、常に後手に回されてしまった屈辱がずっとイザークの中で燻ぶり続けていた反動からか、今回のスピード解決の喜びようは大変なものだ。
だがディアッカとしては手放しで喜べない気分だ。
「まぁ、確かに検挙数は上がったぜ? でもそれって、俺たちが調べるより、詳細がどこからか流されてきてるし、おマケに事件発生現場まで情報通り、すげーピンポイントで正確じゃん。それがなきゃ、今までと大して変わっていないぜ。」
「ふん、一般市民からのありがたい情報だ。それはつまり―――」
「「つまり?」」
「俺たちが、市井の者たちから非常に信頼かつ有能と認められ、懸命に情報提供してもらっているということだ。これは「=俺たちの実力」と言って間違いない。更に「=俺たちの手柄」ということだ!」
「…そんなに飛躍していいのかよ…」
ビシッとポーズを決めるイザークに対し、ディアッカが気怠そうに頭をかく。
この時間になるとこいつの相手は疲れが倍増してくる。
だが、誰がどうあれ、こうして通報してくれるのは確かに助かる。
今はLINEだなんだと目撃すればすぐ情報として挙がってくるから、
その一つが警察機関に協力的な人物からの情報提供だと思えば、確かにイザークの言う通り納得できなくはないな…
頭の中で前向きに自問自答するディアッカに対し、イザークはなおも不敵に笑う。
「今まで散々煮え湯を飲まされてきたが、今度こそ『Vamp』に出番はない!ざまぁみろ!」
「おい…警視正ともあろうものが、ガキみたいに「ざまぁみろ」とか言うなよ…」
その時ディアッカの携帯が、これまた怒りに満ちたようなコールを続けた。
その着信画面を見て、慌ててディアッカは廊下に出る。
「いや、ごめん、ミリィ。そうなんだよ…ちっとばっかし、また事件が立て込んで…いや、お前の方がそりゃ大事だよ!?でもな、イザークの暴走が止まらなくって…今夜もまた遅くなりそうで―――って、もしもし?おい、聞こえてる? えと…ミリアリアさん???」
その瞬間<ブチッ!>という強烈な切電音がディアッカの左から。「あーはっはっは!今夜の検挙は止まらんぞ!」というイザークの高笑いが右耳からつんざくように、ディアッカの頭の奥に不協和音となって響いた。
「シン、お疲れ。」
「はぁ〜アイツ、意外と逃げ足早くって、いい加減疲れたぜ。」
犯人を護送車に送った後、別に着けてあるセダンの警察車両の助手席で、ようやく緊張から解放されたかのように身体を投げ出すシン・アスカを、運転席のルナマリア・ホークが労う。
「今、警視正にも連絡したところ。今夜はもう一件、見回り必要だって。」
「まだあるのかよ〜勘弁してくれよ…こっちの身が持たないぜ…」
「まぁまぁ。」
そういって苦笑するルナマリアが、シンにダッシュボードに置いたままだった冷えた加糖入りのコーヒー缶を差し出せば、シンは礼を言う間もなくプルトップに指をかけ、がぶがぶと飲み干して言った。
「…にしても、最近やたらと張り込み多いよな。」
「うん。なんか詳しい情報提供が度々入るようになったんだって。」
「検挙数が上がるのはまぁいいのかもしれないけどさ、働かせ過ぎじゃね?」
「また、労働基準局からクレーム付きそうだよね。」
ルナマリアが失笑する。
「まぁ、でも『Vamp』の尻追いかけているよりはマシじゃない?」
「それを気にしているのは警視正。『Vamp』が絡んでいようとなかろうと、どっちにしろ走るのは俺なんだぜ?」
シートをリクライニングにして大きなため息をつくシン。ふとその赤い瞳の視界には、フロントガラスの向こうにあるビルの大きな画面に、少女が一人踊り歌っている映像が映った。
ぼんやりとそれに見入るシンにルナマリアも気づく。
「あ、『ミーア・キャンベル』ね。…そういえば今日歌謡祭あったんだよね。待機中もずっと流れてたけど、さっきまで男3人組の凄いヘビメタロックだったのよ。聴いていたらなんか頭痛くなりそうだったけど、こっちのほうがまだマシね。あ〜仕事が無きゃ私も『I.F.』見たかったなぁ〜」
そういってルナマリアも背もたれに寄りかかれば、シンの視線がミーアからルナマリアに移る。
ただし、顔ではなく、やや下向きに…
その視線の先に気づいたルナマリアの表情が一気に鬼の形相に変わる。
「…シン、あんた、今、あの女と私の胸、比べたでしょ。」
「っ!み、見比べてなんかいないし!」
「嘘っ!今アンタ口がもつれたでしょ。ものすごく慌ててるってことは図星ね!悪かったわね、私の胸はミーア・キャンベルみたいにでっかくなくって!」
「違うって言ってるだろ!」
「いーえ!さぁ、キリキリ正直に吐きなさい!」
こうして「落としのホーク」こと、鬼のルナマリアの厳しい尋問が始まり、セダンの車中は一気に特別取調室へと変貌したのだった。
一方、彼らを見下ろしている、その大型画面の向こうでは―――
♪emotion そっと重ねたい貴方の夢
静かに目を閉じて抱きしめる
ミーアのはちきれんばかりの笑顔とダンスで会場は盛り上がっていた。
最前列を陣取れたらしい、ミーアのファンクラブの男どもが、ミーアのステップに合わせてショッキングピンクに彩られたサイリウムをブンブンと振りまくる。
「みなさ〜ん、今日はどうもありがとう!!」
「「「ミーアちゃぁ〜〜〜〜〜〜〜んvvv」」」
ミーアは姿が見えなくなるその一瞬まで会場に向かって手を振り続けた。
後―――
「あ〜ぁ…」
ステージ上の姿とは一変して、楽屋に入るや否や、まるでボロボロになったように体を椅子に投げ出す。
マネージャーのダコスタが慌てて飲み物と、簡単な食事を運び入れてきた。
「お疲れ、ミーアちゃん。今日のステージは最高だったよ!社長も大喜びだよ。」
だがダコスタの労いの言葉も耳に入らないかのように、ミーアの表情は冴えなかった。
(…アレックス、いなかったな…)
参加アーティストが多いこの番組は、完全に出入りが半分に分かれており、前半はデビューしたての新人やアイドル系。後半はいわゆる実力派アーティストで固められていた。
アレックスと同じ時間に出るなら、もっと実力つけなきゃダメってこと?
アイドルとしてデビューしたのは安易だったかな…?
これがもし「アーティスト」としてデビューしていたら、今はもうアレックスの横に居られたかもしれないのに。
あの曲―――『静かな夜に』でデビューしていたら、きっとアーティストになれてたかも…
「ミーアちゃん?大丈夫?」
椅子にもたれたままのミーアに、ダコスタが心配げに声をかける。
「少し休んだら、今日はもう上がりだから失礼しよう。プロデューサーさんには僕から挨拶しておくから…」
「いい。私がちゃんとやるわ。芸能界は上下関係大事なんでしょ。」
「そりゃそうだけど…」
「ちょっと休んだら大丈夫。着替えてご飯食べるから、出て行ってくれる?」
「あ、はいはい。ごめんね。じゃぁ僕は一応ステージの方見てくるから。あとで迎えに来るからね!」
エターナル・プロダクションには、ミーア以外にも多くのアーティストやアイドルが所属している。無論一組毎にマネージャーがついているが、担当替えもたまにあるため、自分の担当以外のアイドルをチェックしておくのも大事な仕事だ。
ダコスタが<パタン>とドアまで労うようにそっと閉めていくと、部屋にポツンと残されたミーアは余計に疲れを感じた。
『I.F.』と一緒のステージと聞いていたから、テンション上げすぎちゃったかな…
瞼が重く感じかけた時、その声は優しくミーアに語り掛けるように響いてきた
♪風誘う木陰に俯せて泣いている
見も知らぬわたしを わたしが見ていた…
「―――っ!これって―――」
『I.F.』だ!『I.F.』の新曲だ!
楽屋に備え付けのモニターを開けば、そこに映し出されたのは金色の一陣の風
「……カガリ……」
マイクを両手で優しく包み込みながら、囁くように歌い上げる。
♪逝く人の調べを奏でるギターラ
来ぬ人の嘆きに星は落ちて…
まるで自分のようだ
来て欲しいアレックス、でも来てくれない嘆きを抱いている、今の私みたい
そしてやがてボーカルは火のように激しく燃え上がる。
黒い衣装に金の鋭い瞳は、聴く者全ての心を射抜いていく
そして、彼女の後ろでは、その炎を包み込むように彼が音を奏でている。
「アレックス…」
二人の立ち位置から視線は絡まない。
なのに、何故だろう
誰にも踏み込めないような、この領域に入れないような
二人が情熱的に絡み合っている姿が脳裏に浮かんで消えない―――
「違うっ!アレックスは私の―――私の…」
カガリの場所を無理矢理自分に置き換えて想像する。
「そうよ…私よ…私の方がぴったりじゃない!」
そう叫んだ瞬間だった。
<コンコン>
楽屋のドアのノック音。
はっと我に返ってミーアがそちらを振り返る。
するともう一度<コンコン>と丁寧にそれが繰り返された。
(ダコスタ…? 忘れものでもしたのかしら…)
アレックスをもっと見ていたい、という不満を抑えつつ、ドアに手をかけると、そこには見慣れない男が一人立っていた。
「…誰?」
ミーアが疑念の視線を向ける。
歳は30代くらいだろうか。ダンヒルのスーツとフェラガモの革靴。体にぴったりとはまっているところを見るとオーダーメイドに違いない。一目で「ブルジョワ」という印象が焼き付く。
「おや?私を存じない?それは残念。貴女とは何回かお会いしているはずなんですが…」
そういって大げさに額に手を当て残念がる姿。そして「上から」という言葉がぴったり当てはまるような口調。
(こんな人、いたっけ?)
ミーアが記憶を反芻する。だが男―――いや、あえて「紳士」と形容した方がよさそうな彼を見かけたことは一度もない。
もしかしたら、この紳士がミーアをどこかで一方的に見初めたのかもしれないが。
(ファンかしら?だったらあんまり変に追い返さないほうがいいかもしれないけれど…)
だがミーアが業務用の笑顔を向けようとする前に、紳士は穏やかな口調で言った。
「ミーア・キャンベルさん。貴女、『アレックス・ディノ』とユニットを組んでみる気はありませんか?」
・・・to be
Continued.