「…ん…」
胸の上に可愛い吐息を感じながら目が覚めたアスランは、その眠りを妨げないよう、そっと右腕を伸ばして、ベッドサイドの時計を手に取った。
昼夜通して分厚いカーテンで陽の光を通さないこの部屋では、今が何時か直ぐに判断がつかない。
この暗い部屋で時計が見えるのは、幼いころから彼女に寄り添って生活してきたため、すっかり夜目が効くようになってしまったからだと思っていた。
だが…今は違う。
『ナイトレイド』―――夜の魔を狩る者―――つまりは生まれながらに夜目が効く体質だったということだ。
からくりが判ってしまうと、妙な寂しさもある。折角彼女に近づいてきた努力の結果だと思っていたのに…
だがその分、彼女を守るに足る騎士の力を持っていた。つまりはこの姫にふさわしいのは自分しかいない、ということだ。そう考えれば、今まで以上に別の自信といい意味での責任感が生まれてくる。
「…17時過ぎ、か…」
本来なら、そろそろ起きだして仕事を始める時間だ。幾ら体力が戻るまで仕事を調整してくれる、との計らいとはいえ、コンスタントに仕事をしなければ生活に関わる。
まぁそれでも、カガリの食事の心配をしなくなった分、気持ちは軽い。
何せ、今度は空腹になれば自分の血液を飲ませればいいのだから。
淡い金糸が胸の上で小さく揺れている。顔をその中に埋めるようにして、彼女の香りを堪能する。
何もつけていない身一つの身体に彼女の体温だけを纏って、その淡く優しい香りに酔いしれる。
いや…一糸纏わぬわけではない…互いの左の薬指に通されたプラチナ。
受け取った彼女は、耳朶まで真っ赤にして、それでも懸命に細腕を伸ばして答えてくれた。
あの幸せの瞬間を思い出すと、もう仕事の時間だと思いつつも、今までお預けを食らってきた時間が長すぎたこともあり、まだこの余韻に浸っていたい欲求が勝ってくる。
(今日…いや、今だけは…)
理性を感情で上書きし、甘い余韻に身を任せ、微睡みかけたその時
「…痩せたな、お前…」
「ん?…おはよう、起きてたのか。」
胸に顔をうずめたまま、カガリの指がアスランの胸をなぞる。
「ごめん…お前もご飯、食べるどころじゃなかったなよな。」
「大丈夫、さっきまでたっぷり栄養補給できたから。」
「ちゃんと食べられたのか?」
「いや、そういう意味ではなく…」
口ごもるアスランに、くるんと金の瞳は不思議そうに彼を見上げる。そして痩せかけたその体の鎖骨に指先を滑らせながら、おずおずと尋ねてきた。
「あのさ、アスラン…」
「何だ?」
「その…辞めない…よな?」
「何を?」
「…『Vamp』…」
今度はアスランの方が不思議そうにカガリを見おろした。
「辞める訳ないだろ?君の大事な食事の時間なんだから。」
「そうか!よかった〜」
心から安堵したように全身で脱力したカガリ。胸に摺り寄せてくる頬がくすぐったい。こんな風に甘えるカガリは珍しくて、アスランとしてはありがたいのだが、すべてが解決し、ようやくいつもの生活を取り戻した今、何を不安に思っていたのだろう。
「でも何でいきなりそんな心配を?」
金糸を撫ぜれば、カガリが言いにくそうに口重く話し出す。
「いや、その…お前には吸血での支配の影響は届かないことが判ったからって、今度はお前がずっと私の食事になろうとしないよな、って…」
あぁ、そういうことか。
いつもカガリが狩りに出かけるとき、アスランはこれでもかというほど心配を口にする。
なるべくだったらカガリを危険に晒すような真似はしたくない。
犯罪者を追うということは、危険と背中合わせだ。
狩りをせずとも自分の身を差し出せば、カガリを危険から回避できると考え、アスランが『Vamp』を辞めてしまったら、と心配していたのだ。
いや、それだけでなく、できる限りアスランの身に負担を架けさせたくないカガリとしては、アスランからの吸血は望んでいないのだろう。
何時だってそうだ。
アスランはカガリの身を
カガリはアスランの身を
自分のこと以上に大事に想っている。
今回の事件で今まで以上にそれを実感した。
想い過ぎて…相手を傷つけるくらいなら、自分が全てを引き受けようとして、かえって相手を苦しめてしまった。
でも…
命の続く限り永遠に共にいると誓ったのだ。
もう二度と同じ轍は踏まない。
「大丈夫だ。辞めたりしないよ。」
「よかった!」
カガリがようやくいっぱいの笑顔で、アスランの首に腕を回して言った。
「今度は思っていること、一人で抱えないで、ちゃんと話しような!約束だぞ。」
「あぁ、わかった。」
その華奢な全身を受け止めた後、アスランはそっとカガリの頬を手で包み込む。
「ちゃんと約束すると、誓うよ…」
真摯な、それでいて熱を帯びた翡翠に魅入られたように、カガリの瞳がゆっくりと閉じられる。
まもなく、静かに唇が重ねられた。
厳かな誓いの後、暫し余韻に身をゆだねていた二人。
だがいつまでも微睡んではいられない。アスランがカガリの背をあやす様に撫ぜながら囁いた。
「そろそろ次の曲、考えないとな。ライブツアーも予定入っているし。」
「それなんだけどな、アスラン…」
カガリが腕の中からもぞもぞと這い出し、正面切って言った。
「お願いがあるんだ。」
***
都会の真ん中の空は、青くない。
(実家にいた時の空は、私の瞳と同じくらい綺麗な青だったのに、ここは空まで寂しそう…)
病室からぼんやりと空を眺めていたミーア。そこにアイシャが入ってきた。
「具合どう?」
「うん…もう平気。」
(…本当は平気なんかじゃない…何かぽっかり大事なもの、無くしたままで…心細くて仕方ないよ…)
うかない顔で視線を外に向けたままのミーアに、アイシャはそっとバッグからUSBを取り出した。
「ねぇ、ミーア。よかったら、これ、聴いてみない?」
「…?」
聴く、ということは音楽だろうか。
ミーアは黙ってそれを受け取り、手持ちのスマホに音源を落とす。するとそっとイヤホンからそれが流れ出した。
「――――っ!」
ミーアの眼が見開く。
「ミーア…?」
アイシャが彼女を覗き込む。
虚空だったミーアの目から、一筋の涙が流れ落ちた。
***
数か月後―――
「みんなぁぁーーーーーー!今日は来てくれてありがとな!」
カガリがマイクに向かって叫ぶと、何万倍ともなって歓声が会場の天井をつんざく。
久しぶりの『I.F.』コンサートツアーは、既にチケットはどこの会場もSOLD OUT。
アレックスの報道も今はどこ吹く風だ。むしろあの報道で興味を持った人たちが『I.F.』の曲を聞き、かえって万事、いい方向に風が吹いている。
「さて、今日はみんなにすっごいプレゼントを用意したんだぞ♪」
カガリが得意気にウインクして見せると、その小悪魔な表情が大画面に映され、またも会場が黄色い声に埋まる。
「みんなお待ちかねの新曲―――なんだが、私は歌わないぞ。」
会場から「えー!?」という悲鳴と「何をしてくれるのか?」という期待の混じる歓声が上がる。
「曲はもちろん、アレックス。そして作詞は私。で、歌ってくれるのは―――なんと!今夜のゲストだ!」
カガリの合図で会場中の照明が一気に落ちると、次の瞬間、スポットライトが一斉に『ゲスト』を照らす。
「あれって…」
「うそ!あの人!?」
会場中が大きく波のようにどよめく。
白い天使の様なドレスと、ガラスのようなハイヒール。
高いひな壇から、ゆっくりと舞台に降り立ったのは―――『ミーア・キャンベル』。
だが、そのマイクを持つ手が震えている。
―――「キャンベル。君に仕事が入っている。」
退院ご、アイシャに連れていかれた先は、音楽事務所。
その社長だというバルトフェルドに、事務所に入りしな突然そう言われても、自分が今まで何の仕事をしていたのか、
相変わらず思い出せない。
だが、バルトフェルドの差し出した要旨を見て、ミーアは息を飲んだ。
―――「あの…私の「新曲」って…それに『I.F.』のステージにって、一体どういう…」
―――「『新曲』はもう聞いているだろう? アイシャから渡されたと聞いたが。」
ミーアがアイシャに振り向けば、彼女は何も言わず、笑顔だけでそれを指さした。
慌ててバッグの中から、彼女の意図していたものを手に取る。
あの日、アイシャが何気なく渡してくれたUSBと、添えられた歌詞カード。
バルトフェルドが一息つくと、改めてミーアに向き合った。
―――「このまま田舎に帰りたい、というなら俺たちは止めん。だが、この仕事をやってみてから決めても遅く
はないんじゃないか?」
「さぁ、行こう!!」
ステージ上で待っていたカガリが、戸惑い足の竦んだままのミーアの手を取り、中央へと連れ出す。
アスランは二人を見守る。
―――「アスラン、お願いだ。私、ミーアに『歌』を返してあげたいんだ。」
カガリの必死の願いに、アスランは瞬時目を見開く。
カガリが吸血の際、奪ってしまったミーアの大好きな『歌』。
今のミーアに『歌』に関する感情も記憶も、残っていないはず。
―――「でもな、アスラン。私も歌っているからわかるんだ。ミーアが本当に歌が好きなら、きっと…ううん、
絶対「取り戻してくれる」って!」
カガリは、書きかけの歌詞をアスランに渡した。
―――「これは…」
歌詞を受け取ったアスランが、それを何度も読み通す。
カガリはあの吸血の際、流れ込んできた記憶を、その歌詞に込めた。
アスランは確信した。
アズラエルの計画とはいえ、わずかの間だったが、ミーアは必死にアスランの曲についてきた。歌入れの時の彼女の
必死な表情が思い返される。
(彼女なら、きっと―――)
両手を合わせながら、神に祈るようにアスランを見上げているカガリ。
そして、顔を上げた彼は、カガリを見やると、力強く頷いた。
カガリが頷くと、アスランが静かに音源のスイッチを入れる。
静かなイントロが会場中を包み込み、やがて爆弾のようだった歓声がさざ波のように静まる。
記憶がない
なのに、どうしてか、身体が覚えている
ミーアの震えが止まり、自然と歌が唇から零れ落ちる
♪こんなに冷たい帳の近くで
貴方は一人で眠っている
祈りの歌声 淋しい野原を
小さな光が照らしてた
歌いながら、涙が流れて落ちる。
まるで自分の事のようだ。自分の事をずっと見守ってくれていたかのように、気持ちを歌詞に、曲にしてくれている―――
♪貴方の夢を見てた 子供のように笑っていた
懐かしくまだ遠く それは未来の約束
そう…思い出した!
私、歌が大好きだったの!
子供の頃、ずっと歌っていて、これが私の未来になったらいいなって、ずっと願ってた!
そして、自分に約束したの。絶対「歌手になる」って!
気持ちが歌に籠る。
歌い上げるミーアに、会場中が癒されていく
♪いつか緑の朝に いつかたどり着けると
冬枯れたこの空を
信じているから
Fields of Hope…
曲が鳴り止む。
それと同時に会場中から、歓声と絶え間ない拍手がミーアを包む。
見かけではない、歌唱力・表現力、彼女自身の歌の力が認められた証―――
後ろを振り返れば、カガリとアレックスが力強く頷きながら、笑顔で大きな拍手を贈ってくれている。
「ありがとう…みんな、みんな!ありがとう!!」
歌を愛するアーティスト『ミーア・キャンベル』は、キリリと胸を張って姿勢を正して観客席を見渡す。
ステージで正々堂々と両手を広げ、自分に注がれる満場の喝采と拍手を全て、満面の笑顔で受け止めた。
・・・Fin.