吸光高度計から流れてくる折れ線グラフの帯を、ニコルはひたすら凝視する。
(―――「先ずはそのガムの成分だな。おそらく即効性があって、ある程度時間が経つと分解されて排出。自然界に存在する物質に近いため、足が付きにくいようにできている…」)
アスランが推測しているのは、おそらく自分と同じようなものだ。
(―――「だが、この成分の検出と効果が判れば、十分刑事事件の証拠として裁判所に捜査令状の請求ができるはずだ。…やれそうか?ニコル。」)
(―――「お任せください!…と言っても僕は科捜研のお手伝いくらいしかできませんけれど。」)
(―――「それでも何も知らない者が説明を受けるより、君のように理学に理解ある人間が立ち会ったほうが有効性を発揮する。頼むぞ。」
(―――「はい!あーあ。アスランが上司だったら凄く仕事しやすかったのにな…」)
なんて口にしたら、イザークがいつも以上に睨んできたから、これは気を付けないと。
「―――と、出てきた、出てきた。」
吸光高度計とは、その物質を構成する原子と、その分量を計測できる機材であり、重要な検査機器である。
そこからニコルのPC画面上にも、組成原子とその量が幾つもパラグラフになって送られてくる。
今度はここからあらゆる配合を考え、化学式を作りその成分の構成を計算していく。
モノによっては科捜研のスパコンでも解析に1週間弱はかかる作業だ。だが、アスランはこうも告げていた。
(―――「できれば5日…いや、3日以内で調べられれば…」)
随分と急な話だ。
(―――「何故先を急ぐ? 相手は大物である以上、十分な準備をしてかからないと、今度はこっちの首が飛ぶことになるぞ。」)
イザークは懸念していた。それは同意見らしく、ディアッカも強く頷いていた。だがアスランは首を振った。
(―――「多分1週間以内にアズラエルが動き出す可能性がある。その前に容疑を固めないと…」)
アスラン以外の全員が疑問に思うのは同じことだった。
(―――「何故、「1週間以内」と結論付けられる?」)
(―――「それは…」)
イザークの追及に、珍しくアスランが口ごもっていた。確たる理論づけを一番大事にしているはずのアスランが珍しい…
まるで珍しい生き物でも見るように3人は彼を眺めたが、暫くしてイザークがコニャックのグラスをテーブルに叩きつけるように置いて言った。
(―――「俺たちはその「アズラエル」という男を知らん。だがお前は監禁されるほど、そいつとやり合うだけの面識がある。お前の感がそう告げているのなら、やるしかあるまい。…ただし、通常業務に隠れての作業だ。100%可能という返事はできん。いいな?」)
(―――「あぁ、もちろんだ。」)
アスランも口元を綻ばせた。
正直イザークが頷くとは思わなかったが、多分アレだろう…
―――『Vamp』―――
あの言葉をアスランが口にした途端、イザークの眼の色が変わった。
確実に彼に火をつけた。
(流石はアスラン、ですね。)
イザークに限らずニコルもどこか不思議な自信が溢れてきている。
自分たちのやっていることに間違いはないだろう、と。
「さて。頼るだけじゃなく、僕も頑張らないといけませんね!」
ニコルは一人微笑むと、ブルーライトカットの入ったメガネをかけなおして、画面に没頭した。
***
「ん〜〜〜っと。…ここら辺か?」
同じ頃、ディアッカはいわゆる「下町」という風情の溢れる、町工場の立ち並ぶ一角を歩いていた。
(―――「次はその問題の『試供品のガム』、あるいはそれ以前に配布されたという『試供品のキャンディー』の製造先だな。」)
『ガム』は無論ルナマリアが貰ったという現物だが、それ以前の暴動で逮捕されていた者たちからも、実は事件前に駅前で『試供品のキャンディー』をもらった、という調書を得ていた。
(―――「1か月前に事情聴取した奴も、「いつもの定食屋に行く前に、駅前で無慮配布していたキャンディーを手渡され、空腹だったので店に行く途中で口にしていた」って言うことだ。」)
ディアッカがそう説明する。するとアスランが言った。
(―――「そのガムやキャンディーの包みに販売元や製造元が印刷されていなかったか?」)
(―――「いんや、それがただの表が緑色で、内側は銀箔のビニールの包みで、製造元や販売元はおろか、商品名すら記載されてなかった。」)
(―――「おかしいですよね。試供品なら商品のCMのために配布するんですから、商品自体より大きく商品名と製造・販売元を記載するくらいなのに…」)
(ニコルも最初っから疑問視していたが、かなりヤバイものが含まれているものを配っていたんだ…そりゃ製造元も販売元も記載するわけねーな…)
そう思っていたら、アスランが続けた。
(―――「だが、包みには特徴がある。裏に箔があったんだな。」)
(―――「あぁ…」)
(―――「なら、話は早い。」)
アスランはさっさとまとめ出した。
(―――「この包みを作っている製造元と、加えてガムやキャンディーを包装加工した業者を洗い出せばいい。そして、この2か所に共通した依頼主が、このガムとキャンディーを製造した黒幕だ。」)
(―――「なるほど…最近製薬会社とかでも「歯を丈夫にするガム」とか「消臭成分の入った飴」なんか売り物にしているから、そこを当たればいいんだな!」)
ディアッカが前のめりになって膝を叩くが、アスランは首を横に振った。
(―――「いや、調べるのは零細企業…少部数の駄菓子なんかを製造しているような、いわゆる「町工場」だ。」)
(―――「「「町工場???」」」)
3人が3人とも素っ頓狂な声を上げるが、アスランは冷静に話を続けた。
(―――「大手製薬会社なんかが販売元としているガムやキャンディーは、大きな契約工場で、しかも成分自体も製薬会社が直接契約元の工場に材料を発注して、そこで作り上げるんだ。どれだけあの未知の物質の混入したガムやキャンディーを用意していたかは不明だが、包みに銀箔を要している、ということは、おそらく特殊成分を保護するための素材だ。そんなに成分自体が長期保存しにくい…あるいは壊れやすい可能性もあるんだろう…。試供品でもある以上、ガムやキャンディーの制作は自分たちで行い、完成品を包装する作業だけ別会社に依頼した可能性が高い。製薬会社で包装機械まで研究用に買い込むことは、予算面から往々にしてあり得ない。無論極秘だけに、縁のある工場ではなく、成分内容まで深く関わらない、零細企業の方が考えられる。」)
(―――「「「ほぉ〜〜……」」」)
(一体コイツの頭の中はどうなっているんだか…感心する以外他に何もできない。)
アスランに追加のピノがテーブルに置かれるまで、しばし一人思案の時間となったが、バーテンダーの姿が見えなくなると、イザークがコニャックを干してグラスを置いた。
(―――「だが、独自に特殊包装を仕入れ、それと中身を持ち込んで包装だけ頼んでいる企業が幾つもあったらどうする?こっちは通常業務の陰に隠れての捜査となると、それこそお前の言う「1週間以内」にはさばききれんぞ。」)
(―――「いや、依頼主の企業全てを確認する必要はない。背理法でたった一つの企業、またはそのグループ会社が関係しているか否か、だけを確認すればいい。」)
(―――「たった一つの…」)
(―――「企業…?」)
ディアッカとニコルが小首をかしげる。するとアスランはまたも驚くような名前を挙げた。
(―――「『ジェネシス製薬』だ。」)
(―――「「「っ!」」」)
思わず口にしていた酒で咽そうになる。
『ジェネシス製薬』―――あのアニダ・フラガがかつて所属していた製薬会社だ。だが彼は逮捕時既に会社とは縁が切れている。そしてデュランダル会長の協力の元、会社内に彼の残したデータや証拠品が無いかをくまなく探したが…痕跡は全く発見されなかった。
(―――「何故、今また『ジェネシス製薬』の名前が出る!?」)
イザークがオーラをたぎらせて思わず立ち上がった。
以前、あのタヌキ…デュランダル会長にあっさりと追及をかわされた悔しさが、再燃したらしい。
それを知ってか知らずか、アスランはコニャックのボトルを取って、イザークのグラスに注いでやった。
(―――「俺は新聞で読んだ程度だが、そのアニダ・フラガの事件と今回の事件は、規模こそ違えど類似している。薬物、あるいはプリオン…それを用いての被験者の暴動。愉快犯がいたとしてもこれだけの規模を一人で、あるいは数人の仲間内で、これだけの短期間で出来る限度を超えている。となると、アニダ・フラガのデータを消去したというより、もしかしたら、隠したうえで、今回再開発した。しかももっと高性能で、それこそ軍事目的にも転用できるような…」)
(―――「わかった。俺がやる。」)
ディアッカがグラスの氷を噛み砕いて言った。
(―――「若いもんはとりあえず、あまり巻き込まないように通常業務にさせておいて、そうすりゃ俺は身体が空くからな。体力使うもんならお手のもんよ。」)
「―――つーことで、ここか。老舗で色んな駄菓子の包装詰めてる会社っていうのは。」
築40年以上…トタンの屋根と雨ざらしのコンクリートが打ちっぱなしの壁。そして耳をつんざくような機械音。
見るからに「下町工場」を体現しているような町工場だ。
「老舗なら、近くの情報も色々耳にしてるだろ…」
こちとらまだ勤続ン年だが、それでも場数は踏んでるんだ。経験がものをいうのはこっちも同じ。
「ちわーっす!」
ディアッカは警察手帳を取り出し、中へと入っていった。
***
「……。」
昼下がりの本庁会議室。
窓の外では、足早に歩道を行き交う公務員たちと、ひっきりなしに道路を走る車両の群れ。
まるで蟻の行列のようだ。
いや…法に則り、決められた道だけをひたすらまっすぐ進む―――「公務員」はまさしく「蟻」に形容しうる仕事だと思う。
(だが、今こそ、その道をわざと踏み外そうとしている自分は、蟻ではなく何ものになりうるのだろうか…)
イザークは階下の隊列を見下ろしながら、無言で誰かを待っている。
(―――「なら…」)
アスランが目の前に置いたコニャックのグラスを取り上げ、イザークが呟く。
(―――「俺は、何をすればいい…?」)
珍しく殊勝なイザークに、ディアッカとニコルが目を丸くする。アスランは自分もグラスを取って彼に向かって掲げた。
(―――「ここからはイザークでないと、できない仕事だ。」)
アスランは続ける。
(―――「俺の知りうる情報の中では、アズラエルは全く政治や政党などとの関連を匂わせていない。ただ、先ほど推理した軍事転用目的の薬効成分の評価に、アズラエルが加担していることは、ほぼ間違いない。とすると、アズラエルはその財力でもって、薬の製造を支援し、その薬を政府関係者に売りつける、あるいはそのスポンサーとなっている可能性を考えてみた。つまり―――」)
アスランはグラスから滴り落ちていた水滴で、テーブルの上に「△」を描いた。3人がそれを覗き込む。
(―――「この一角が「アズラエル」。もう一つが「ジェネシス製薬」。残りの一つが「第3者」…つまり「政府関係者」だ。」)
(―――「見事に成立しますね…」)
ニコルが感嘆する。
アスランはもう一度イザークを見やった。
(―――「この三角関係を洗い出せるのは、上層部に顔の利くイザーク以外にはいない。裏を取るにはかなり難しいと思うが―――」)
(―――「誰にものを言っている。」)
アスランを抑えて、腕を組んで反り返った。
(―――「そのぐらい、『Vamp』の捜査で、いつもやっている。俺にできぬわけがない!」)
その姿を見て、アスランは珍しく頭を下げた。
(―――「流石だ。頼む、イザーク…」)
「………というか、今考えれば、何故に俺が一般人に頼まれなきゃいかんのだ!」
今更思いだして憤慨しそうになる。
(奴は俺の上司気取りかっ!)
「情報提供する」、と言われていたはずが、いつの間にか「情報を提供するように」と言われてしまった形だ。
だが
「無論!一般人に情報を流すことは守秘義務、あんど、捜査上の機密故、ありえん!」
向こう正面ビシッと指さしてポーズを決めるが、言いたい相手は無論ここにはいない。
「ま、まぁいい情報提供ではあったな…そのことについては、後程感謝してやらんこともない。」
腕組みし直して、会議室の窓の外を見やる。
ここのところ雨続きだったが、いい陽気になっている。
と
<コンコン>
ドアにノック音。
「ジュール警視正。警察庁の方がお見えになりました。」
「入ってもらえ。」
イザークは無意識にネクタイをぎゅっと締めなおした。
***
「さて、と…」
アスランは自宅のPCの前で考え込む。
種は蒔いた。
だが、いかな友人でも、あの3人がアスランが提示した推理通りの情報を集めてくれても、こちらへのアウトソースはないだろう。
何しろこちらは一般人だ。
機密を漏らすことは「国家・地方公務員法の守秘義務」に違反する。
だがこれで十分だ。
彼らには「証拠」さえ集めてもらえればいい。
こちらが行動し、結果が出た後で、その証拠でアズラエル、そしてそのバックにいる人物たちを抑えることが出来さえすれば、もうカガリの存在を脅かす者はいない。
彼女を取り戻し、彼女の…いや、俺たちの安寧さえ手に入れられれば十分だ。
で―――今度はこちらの番だ。
カガリの居場所を探すと同時に、アズラエルの居場所も探し出さなければならない。
1週間、と提示したのはアズラエルが動く、というよりも、『I.F.』のオフ期間が終了し、既にその予定で今後のスケジュールが組まれている。
それまでに、アズラエルを抑え込み、カガリを無事に取り戻さなければ…
だが、カガリの居場所もだが、アズラエルの居場所すらも把握できていない。
奴の計画が再び動き出す前に、何とかこちらが打って出たいところだ。
海外出張…国際空港の監視画像をハッキングしたいところだったが、一日何万と利用者がいる空港を、一人でセキュリティにかからないように調べるには時間が足りない。
故に、アズラエルの所有する車で、本社ビルにあったものを追跡してみたところ、一か所、交差点のカメラで、空港とは全く違う場所に向かっている物を発見できた。
多分、奴はそれに乗って、新たな潜伏先に身を潜めているに違いない。
「それを、どうやって炙り出すか、か…」
リクライニングにした椅子の背にもたれかかる。
気づけばもう、夜になっていた。ブドウ糖でも摂らないと、脳の働きが落ちる。軽く口にできるものでも用意しようと立ち上がったその時、
<コト>
「!?」
テラスの方から物音がした。
いや…これは「人の気配」か…
気配を伺いながら、相手から見えないような位置に身を隠しつつ近づく。
明らかに地上十数階というこの部屋。空き巣や泥棒が侵入できないよう屋上などのセキュリティもしっかり保守している以上、人間が入ってこられるとは考えられない。
しかも、玄関ではなくテラスに直接やってくることができるのは―――
(もしかして―――カガリ!?)
高揚する心を抑えるようにしてテラスに向かえば、ネオンに照らされた人影が、明らかにこちらを見ている。
その背格好に、見覚えがあった。
「……」
アスランはテラスのガラス戸を開ける。
そこにいたのは
「ようやく帰ってきたんだ。…酷いね。結構何度も来たのに、すっかり待たされたんだけど。」
何処か無邪気で、無遠慮そうな、歯に衣着せぬ口調。
そして、カガリとよく似た素顔の持ち主
「…キラ、君か…」
そのシルエットにカガリの姿を重ね、期待した分、落胆の混じったアスランの返事に、キラは眉をひそめた。
「久しぶりにしても随分と失礼な挨拶だね。」
「失礼なのは君も同じだろ? ちゃんと玄関から入って来てくれないか?」
「何言っているのさ。君ほどの無礼千万なヤツに言われたくないよ。」
どうにもキラはご機嫌斜めのようだ。言葉の端に、いちいち棘がある。
「用件は何だ?」
「…それより部屋の中に入れてくれないの? いくら何でもお客をテラスで待たせっぱなしって、君の常識がうかがい知れるよ。」
「…どうぞ。…茶は出さないがな。」
「いいよ。僕はラクスの入れてくれたお茶以外は口にしないから。それより―――」
キラは苛立ちを抑えかねたように叫んだ。
「今度こそ、カガリを返してもらうよ!」
・・・to be
Continued.