目の前に置かれたレモンの添えられたロイヤルコペンハーゲンからは、薫り高いウバの湯気が仄かに立ち込めていた。
アスハ家の広々とした応接間にアスランが通されるのは、これで3回目。
はじめてこの屋敷に来た時。次はカガリをこの屋敷から連れ出した時。そして―――今日。
毛足の長い絨毯の敷かれたこの応接間がほの暗いのは、決して天候のせいだけではない。屋敷を覆いつくす森のような立ち木で光が遮られているからだった。
それが初めてアスランが見た屋敷―――『眠れる森の美女』に登場するような城の印象。そして…まさに吸血鬼である姫君:カガリを守るかのような佇まいだった。
そして、今目の前にいるウズミもまた、彼女を守る者。
マーナから手渡されたバスタオルを頭から被ったまま俯くアスランの前に座るウズミは、先ほどから何の一言も発しない。
ただただゆっくりとたっぷりと時間をかけ、紅茶を味わっている気配だけ、アスランは感じ取れる。
たったそれだけが、まるで拷問のように喉元を締め付けるような感覚に耐えきれず、ついにアスランが口先で零した。
「…どうして…」
「ん?なんだね?」
「どうして…俺を…?」
「「招いた」ということかね? …なんとなく、君が来るような気がしてね…」
<カチャ>とティーカップとソーサーが触れ合う音。その音からも口調からも、ウズミから怒りや敵対心をまるで感じない。
だが、顔を上げることもできず、アスランは抑揚のない声で話し出した。
「…カガリが…俺の元から…消えました…」
「…そうか…」
ただそう答えるウズミ。まるで全て知っていたかのように慌てることも、アスランをなじることもない。それがむしろアスランにとって悔しさと嫉妬心を煽られる。
カガリの騎士を名乗る資格など無かった、とでも宣告されているかのように。
握った両手の拳が震えているのを見てか、今度はウズミが朴訥と話し出した。
「私は芸能界とやらには全く興味がなくてね。それでも可愛い自分の娘が出ているものはできるだけ見るようにはしているのだよ。…最も、最近は君の方がよくメディアには登場していたようだがね。」
「―――違うんです!あれは―――」
慌てて全身で否定した。
自分が何も知らなかったとはいえ、世間ではミーアとの関係が噂され、カガリに対して憐れみや嘲笑のようなコメントに溢れかえっていた。
愛娘を奪っておいてこの様とは。ウズミはそのことを責めているのだろう。
いや…恨まれて当然だ。
カガリに愛されている。それはどんな時も揺らがないと思っていた自分の甘さが招いた結果だ。
幾ら言い訳したところで、世間の目がそう見ている以上、ウズミもそれ以外の情報はない以上、考えても仕方のないことだ。
「…あれは…」
アスランは懺悔のように話し出した。
カガリの食事を見つけてやることができず、彼女がどんどん弱っていったこと。
焦りの中で、虜の身となってしまい、その間にカガリを一人にして、あまつさえ不安なニュースさえ流れていたこと。
そして―――
(―――「…サヨ…ナラ…」)
そういって去っていく彼女の腕を取ってやれなかったこと、を。
だが、もはや何を言ってもいい訳にしかならない。
彼女を守ると言っておきながら、食事も満足に与えられず、挙句篭の鳥にされていた。こんな男が騎士や王子を名乗ることなどできるわけがない。
顔を上げて、正々堂々とウズミと向き合うことすらできないのに。
(―――「私に泣き言を一つでも言ったときには、すぐにカガリを私の下に返し、二度と君には会わせない。いいね?」)
かつてそう言った人物が今目の前で、再度アスランに無言で同じ言葉を問いかけている。
直ぐにでも否定したいのに、口はおろか、身体の一部さえ動かすことさえできない。
このまま、彼女との未来を強制的に断たれてしまう―――!
これで、もう万事休す、だ。
身を固くし、目前に控えた死刑台に向かうごとき心境のアスラン。
だが、ウズミが発した言葉は意外なものだった。
「…あまり、私の娘を見くびらないでもらいたいものだな。」
「え…?」
驚きにまだ雫の落ちる前髪越しに見たウズミは、まっすぐにこちらを見て言った。
「あの程度のゴシップ記事で心が乱され、別れを言い出すほど、我が娘はやわにできてはいない。いや、むしろ君の口からはっきりと聞くまでは、勝手に自分の心の中で始末をつけたり、あきらめたりしないはずだ。簡単に君を諦める程度しか愛せない子であれば、もうとっくに君の元を去っていたはずだ。いうなれば―――」
ウズミははっきりと口にした。
「君を愛するからこそ、誰が何といおうと君の言ったこと以外は信じない。そして、君が嘘を言っていたとしたら、娘はそれに気づける子だ。そんな君と娘の関係は、君の思うほど脆いものだったのか?」
「……」
俯いたままのアスランの口は開かない。
その無言の回答に、ウズミの口調が厳しくなる。
「あの子は確かに人間ではない。人との接点を極力避けて育ててきた。最初に君をこの屋敷に連れ帰ってきたとき、それは驚いたものだ。だが次第にあの子と君が親しくなっていく様子を見て、私の考えは間違いだと感じた。人ではなくともあの子の心の成長には、他者とのかかわりは必要だった。故に君との接点を持たせ続けたのだが…カガリはともかく、それはむしろ「君に対して良い影響がなかったのでは」と、今の君を見る限り、そう感じておる。」
(…良い影響ではない…?)
「どういう…ことでしょうか?」
「君は優秀な子だ。小さい時から政財界でも将来の有望株と期待が囁かれていた。だが、逆にいえば君は常に一人で考えようとし、助けを呼べない子だった。人を頼る、ということは禁忌であるかのようにね。それ故か、「教えること」や「助けること」…究極に言ってしまえば「弱者へ与えること」で自分の存在価値を見出そうとしている―――つまり「君の虚栄心を満たし、自己満足のための道具」として、娘を欲しているのではないか、とね。」
「違います!俺にとってカガリは大事な―――」
「どう「大事」なんだね? 今の君の発言からは、あれだけ共に過ごしながら、娘の意志を示す言葉が一つもない。すべて君が責任を負うことばかりしか聞かされていない。君は娘が何を考えているのか、知っているのかね?」
「それは…」
言葉が続かなかった。
カガリを守ることが自分の役目だと思っていた。
だからカガリに決して無理をさせまいと思っていた。
(それが…カガリを逆に傷つけ、彼女の枷になっていたというのか…?)
動揺するアスランに、ウズミは諭すように話を続けた。
「多分娘は君に何度も言っていたはずだ。「君一人に迷惑をかけたくない」と。それは決して自分の存在が負担で申し訳ない、とか、君が頼りにならないと責めているのではない。血液の供給にしても、仕事にしても、君と一緒に生きていきたいからこそ、君と一緒に考えることを望んで発したはずだ。」
「俺と…一緒に…」
そうだ、昔からそうだった。
皆が行き詰まったとき、何とかしなければと一人で背負い込んでいた時だった。
(―――「お前、ハツカネズミになっていないか?」)
(―――「え?」)
(―――「一人でぐるぐる考えたって答えが出せない。だからみんなで考えるんだろ?」)
そうしてカガリは手を引いてくれた。
当然突っぱねることもできたはず。なのに、俺の体は動かなかった。
引かれる手の先には―――カガリの笑顔
(―――「やっぱりバカはバカだ!」)
ハツカネズミ
全く俺は成長していなかったんだな。
また一人でぐるぐる考えて、結論を出そうとして。
君の負担を少しでもとってやりたいと思っていたのに、本当は君へ負担をかけていたんだな。
ずっと君は教えてくれていたのに、自分が焦るばかりで、君の心を見ようとしなかった。
たった一言、言えばよかっただけなのに。
―――「どうしようか?」―――
きっとこの一言が言えたなら、君は笑顔で「うん!」と答えてくれたのだろう。
その笑顔を待つことができず、信じることもしなかったのは、なんて傲慢だったのだろう…
ガクリと首を垂れるアスランを見て、ウズミはゆっくりと紅茶をもう一口含んでから話し出した。
「あの子が君の元から離れたのは、吸血本能が抑えられず、君から吸血することを恐れたのではないか?」
「そうかも…しれません」
何度も悪夢にうなされていたカガリ。そしてその理由を話さなかったのは、俺が彼女を恐れると思ったから…
でも
それでも、俺は君に傍にいて欲しい
この命を捧げることになっても、これまでの心を何度も救ってくれたのは君だから。
だから、もう一度チャンスをくれないか?俺に…
「カガリは、この屋敷に帰っていませんか?」
アスランの問いに、ウズミは眉を一瞬ひそめる。
「居たら、どうするのだね? 娘は君への吸血を恐れて帰りたくないと言っていたら、君はどうするのだね?」
「それでも…」
アスランは一度きゅっと唇を結ぶと、覚悟したかのように口調を強めた。
「それでも、首に縄を付けてでも、貴方に殴られようと、カガリを連れて帰ります。でないと、俺は―――」
きっと変われない。
くだらない人間のまま
ハツカネズミでぐるぐると同じ場所を回っているだけで
カガリが居なければ
カガリの導きがなければ
だから―――!
アスランがゆっくりと顔を上げた。
パサリと落ちたタオル。まだ濡れた前髪の向こうにある翡翠から、ポロポロと光るものを溢れさせながら彼は言った。
「カガリが居ないと…「俺」が生きていけないんです…」
ようやくたどり着いた本当の答え。
それを得たことで安心したかのように、涙を滲ませながらその表情はどこか晴れやかに笑んでいる。
そんなアスランを見たウズミは深く息を吐き出して、厳しいその顔つきから柔和なそれに戻った。
「よかった。」
「…どういうことでしょうか?」
寧ろ大の男が泣いて彼女を乞うなど、情けないと怒鳴られるかと思っていたアスランは、かえってウズミのその安堵した表情に戸惑う。ウズミは彼の心を読んだように言って聞かせた。
「もし君が「カガリが望むなら、彼女の思う通りにします」などと言って、娘を諦めるようなことでも口にしたら、それこそ「その程度の想いだったのか」と殴り倒すところだったよ。だが君は今ようやく本心を口にしてくれた。そこまで想われる娘は幸せ者だ。」
「ウズミ様…」
情けなくて、弱虫で、それでも、君はそんな俺でいいと言ってくれた。
やっぱり君の父親だな。ウズミ様は。
だがウズミは表情をやや硬くして話し出した。
「残念ながら、カガリはここには帰ってきていない。おそらく…人目を避けているのだろう。吸血本能を恐れてね。あるいは、その彼女から吸い上げた血液だけでは足りず、冬眠に入っているのかもしれない。」
「『冬眠』…?」
「そう。『冬眠』だ。血液の足りない、あるいは命の大事に陥ったとき、吸血鬼は力を取り戻すため長い眠りに陥ることがあると言われている。眠りは数時間か、あるいは何十年、何百年、更に…ということもあり得るという。」
「そんな、何百年なんて―――」
「彼らには正確に寿命というものがない。数百年の眠りなど、ある意味我々に換算すれば十数時間の眠り程度の感覚かもしれない。カガリは以前にも冬眠状態に陥りそうになったことがあった。最もその時は、この屋敷の者の血液で補うことができた。身体もまだ小さかったしね。」
冬眠…スタジオで倒れたり、自宅で長い眠りに陥っていたのは、その前駆症状だった、ということか。
血液を与えれば目覚めにつながるという情報は得られた。それだけでも十分心強い。
しかし―――
前々から思ってはいたことだが、ウズミは随分と吸血鬼の情報に詳しい。
彼は間違いなく人間だ。
カガリが反王家の一派から逃れるために、人間界に送られたことはキラから聞いた。
吸血鬼から、ウズミに託されるときに教えてもらったのだろうか。
それにしても、何故ウズミが選ばれたのか。そして彼はまたカガリを受け入れることを決めたのか?
もし可能であれば、その一部でも情報が手に入れられれば、カガリを守る力になるかもしれない。
「ウズミ様、お聞きしたいことがあります。」
「何だね?」
「どうしてカガリの預かり先として、貴方が選ばれたのでしょうか?」
「……」
ウズミは暫く黙って冷めかけた紅茶の表面がさざなむ様子を見ていたが、一口含むとゆっくりと語りだした。
「そうだね。娘の身を預かった者として、今カガリの身を守ってくれる君に話しておいた方がいいかもしれない。」
ウズミはソーサーをテーブルに置いた。
「君は『ナイトレイド』という言葉を聞いたことがあるかね?」
***
窓ガラスに伝って流れ落ちる雨粒をぼんやり見たままのイザークに、ディアッカがヒラヒラと書類を振ってやってきた。
「上に回してた決裁書が、ハンコ押されて戻ってきたぜ。「『ミーア・キャンベル傷害事件』は物証、目撃証拠なし。被害者が雨に濡れた床で滑って後頭部を殴打。それによる記憶障害と断定。」以上!……だってよ。」
「ハァ〜」と深いため息をついて、イザークのデスクに書類を放り投げるディアッカ。
イザークと言えば「わかった」とも「大事な書類を投げるな!」等、いつもの激昂の様子は全くなく、ただ椅子に深く座ったまま窓の外を見続けている。
「…キャンベルどころかこっちも重傷、だな…」
肩を落とすディアッカに、シンが書類を取り上げ、いつもの報告書用の分厚いリングファイルに綴じだした。
「自損事故、って、こんだけ「被害者以外の女性のものと思われる足跡」とか「打撲痕はないという医師の証言」があっても、御上が「無し」って言ったら「無し」なんすかね。」
そのあからさまにムスッとした声に対し、ディアッカは言いにくそうに頭を掻いた。
「『クロ』でも上が『シロ』ったら『シロ』なんだよ。」
「それが警部の言っていた「大人になれ」ってことですか?」
ルナマリアも棘を含んだ物言いでディアッカを責める。
(あー!どいつもこいつも!)
「俺だって納得なんかしちゃいねーよ。「足跡」も「当時の豪雨により消失」って扱いだし、「医者の発言」も結局「主治医ではなく法医学検証で打撲痕あり」って、ここまでくるともう「何でもあり」だ。俺の手でも届かない。訴えりゃこっちの首が飛ぶ上に、身内にまで被害が出なくもない。」
「そんな!」
お茶を運んでいたメイリンがお盆を抱えて飛び上がる。慌てて「すいませんっ!」と何度もペコペコしている姿が、今となっては初々しくて羨ましいくらいだ。
初々しい、か…
入署したての頃は、こいつらみたいな正義感に溢れていて、決して悪は許さない!って心に決めて仕事してきたはずなのに
いつの間にやら長いものに巻かれるのを受け入れちまって、保身に走るようになるなんてな…
そう燻ぶる思いを抱えたまま、ディアッカはイザークを見やる。
その初々しい時期から全く変わらぬ正義感を持ち続けていた男が、未だにエンジンがかからない。
(こいつが「やれ!」といえば、みんな動き出すんだけどな…)
ディアッカが軽く首を捻って、すっかり冷めたデスクの上のコーヒーをすする。と
<プルルル。プルルル。>
内線の音。
「はい、こちら捜査一課。…はい…現場は?…はい、了解です。直ぐ初動に向かいます。」
コイツだけはいつもと変わらない、と言わしめるレイが受話器を置くなりメモを読み上げた。
「内線、巡回車より連絡で、オノゴロ地区3丁目コンビニエンスストアにて強盗事件発生とのこと。」
「よっしゃ、すぐ向かうぞ。」
「「はい!」」
気を取り直して背広を引っ掛けるディアッカとそれに続くシンとルナマリア。
彼らの出動後、静まり返った一課で、まだイザークはぼんやりと外を眺めている。
「…ふん…雨雲が切れだしたな…」
無表情だった彼の口元が、僅かに上を向いた。
***
「ご多忙のところ、ありがとうございました。」
アスランが礼を取る。
ウズミは少し考えるようにして問いかける。
「先ほどの話だが、察するに、その…アズラエルという男、かなりの力を持っているのではないか?」
アスランは同意して頷く。
「おそらく。普通人を軟禁したり強要したり、そのようなことをすれば後で訴えられることも十分に考えられるはず。ですがそれすら恐れていないということは、背後にそれらを撤回できる人物がいると思われます。警察上層部、あるいは…」
「それらにすら影響を及ぼし、握りつぶすこともできる権力、か…もし、そういうこととなると、君の手に負えるとは―――」
「いいえ。」
ウズミの不安な横顔を今度はアスランが払しょくするように言った。
「どんなことがあっても、先ずは俺が…いえ、「俺たち」で解決できる手段を考えます。そして―――」
澄んだ翡翠が力強く答えた。
「カガリは必ず守りぬいて見せます。」
その晴れ晴れとした表情にウズミは目を細めた。
「アスラン…」
「はい。」
「カガリのことを、頼むよ。」
「はい!」
もう一度深々と頭を下げて、アスランはアスハ邸を後にした。
空はいつの間にか雨がやみ、夕暮れのオレンジの光が差し込んでいる。
「ようやく、晴れてきたようだな。空も…彼も。」
ウズミはアスランの背を見送る。
その背が、ほんの少し、大きくなったように見え、ウズミはふと満足気に笑んだ。
・・・to be
Continued.