「ここか…」
指示された場所は目の前にそびえる高級マンション。カガリは深呼吸すると、意を決して入っていった。
オートロックの部屋番号を押せば、無言のまま自動ドアだけが開いた。
(ここにアスランがいる…もうすぐ会える…!)
高鳴る心臓を抑えながらチャイムを鳴らせば、ドアを開けたのは、よくスタジオで見慣れた少女。
「どうぞ。お待ちしていたわ。」
優雅にカガリを招き入れたミーア。オープンショルダーのブラウスにサイドプリーツワイドパンツといういかにも女の子らしい服装。長い髪を軽くまとめて結い上げたその首筋は細く白い。
Tシャツにショートパンツというスタイルのカガリとは、明らかに女性らしさも華やかさも段違いだ。
「そこに座って。今お茶でも入れるから♪」
勝負あった、というように自信たっぷりにミーアは顎をしゃくってカガリを促す。
カガリはそろそろと部屋に上がる。
ふと見れば、キッチンに置かれたままのマグカップやカトラリー。淡い色使いのそれらはまるで雑誌に掲載されている「新婚家庭」の見本の部屋そのものだ。
(ここで、アスランは、ミーアさんと一緒に…)
思い返せば、常に日が入らないような分厚いカーテンに覆われ、食器も一人分しかない。まるで生活感がない部屋でアスランは暮らしていたのだ。カガリのために、自分を犠牲にして。
(こんな普通の生活に憧れていたんだろうか…)
明るい部屋で、普通に日差しを浴びながら、女性らしく彼のためにファッションにも気を使える、可愛い人間の少女と語らうアスランのリラックスした表情が脳裏に浮かぶ。
これが現実だったのだ。
いつかアスランと離れる時が来ることも、それが今かもしれないということもわかっている。
何度も何度も自分に言い聞かせてきたはずなのに。
(でも―――)
認めたくない想いを懸命に押し殺して、カガリは頭を振る。
(きっと最初は悲しいと思う。それでもずっと私のためにここまで一緒に来てくれたんだ。アスランの声を聴けば、納得するしかない!)
カガリは白いレースのテーブルクロスの掛けられた、ウッドテーブルに向かって、所在無げに座った。
が―――肝心のアスランの気配がない。
周囲をうかがったカガリが訪ねた。
「それで、その…アスランは?」
ミーアが手に持ったティーポットが<カチャ>と小さく震える。
ミーアは狼狽を見せないように気持ちを立て直した。折角あのカガリを上から見下ろしているのだ。この優位は絶対変えたくない。
紅茶を注ぎながら、ミーアは兼ねてから考えていたセリフを吐いた。
「え、えぇ、いるわよ。でも彼ったらまだ「生活に足りないものがあるから」って、今買い物に出てくれてるの。「雨降りそうだから、明日でもいいのに」って言ったのに、「急ぎたい」って。優しいわよね、彼。私のために。…それとも、アナタが来るとわかって余程顔を見たくないのかしらね?」
「……。」
カガリが俯いている。あのステージで華々しく輝いている人とは同一人物とは思えない程、表情は暗い。顔色も真っ青だ。
ここまで落ち込んでいる人間の精神を追い込むのは簡単だ。
ミーアは笑顔で紅茶の入ったカップをカガリに勧めた。
「どうぞ。美味しいわよ。…といっても、アスランが入れてくれたのよりは美味しくないかもしれないけれど。」
(なーんて、言っても知らないか…別に一緒に住んでいるわけでもなさそうだし。)
ミーアは一人カップを口に運び、その裏で笑む。
アズラエルの言うことがほぼ当たっていることは分かった。着ているものといい、全く女性としてのカガリのスキルは低い。「一緒に住んでいる」と言っただけで、このショックの受けようだ。要するに、カガリはアスランに好意を抱いているようだが、アスランはあくまで仕事上のパートナーとしてカガリのことは見ているものの、女性としては見ていない。
そうである以上、二人の私生活に接点などないはず。
あの曲―――『水の証』の歌詞―――最初はカガリに対して贈ったメッセージと思い込んで落ち込んだが、そうじゃない。やはりあの曲も歌詞もミーアのために作ってくれたのだ。
アスランが作る、いつも燃えるような勇気溢れるようなI.F.の曲とも全く違う。
落ち着いた、優しい歌詞と曲はまぎれもなくアスランの―――ミーアしか引き出すことのできない、彼の本当の力なのだ!
(やっぱりあの人の言った通りよ!私の力がアスランの可能性を引き出したんだわ!カガリじゃ全然だめなのよ!私じゃなきゃアスランはダメなんだわ!)
淡かった自信はすっかり確信に変わった。
もはや目の前の女性は用済みだ。後はアズラエルがアスランを説得してくれる。これで晴れてアスランのパートナーになった!
そう思うと…目の前の女が妙に哀れに見えてくる。ミーアは貧しい人に施しでも与えるかのように、優しく言った。
「紅茶嫌いだったかしら? もしよければコーヒー淹れるけど…。あ、そうそう!さっきね、アスランが「ミーアが大好きな『ラズベリータルト』買ってきたから、一緒に食べよう」って、ケーキ用意してくれていたの。折角カガリが来てくれたんだし、一緒に食べましょ♪」
そういって、白磁のデザートプレートに、真っ赤に熟れたラズベリーが敷き詰められたタルトを載せてカガリの前に置く。
すると黙り込んでいたカガリがようやく口を開いた。
「…ありがとう…ミーアさんは、優しいね…アスランみたいに気が利くし…」
普通褒められれば嬉しいものだが、優位に立っている自分に対して同等のような口調で話し事が気に入らない。ミーアは言葉に棘を含ませて得意気に言った。
「そうよね〜本当にアスランって優しいわよね〜私のために料理も作ってくれるし―――」
「知ってる…」
「え?」
「アスラン、いつもちゃんと大事な飲み物、用意してくれるんだ。私なんかのために…」
ミーアの唇がぎゅっと強く結ばれ、わなわなと震えだす。
アスランがカガリに対して優しいのは知っている。自慢気に言っているが、ケータリングの飲み物くらい、誰だって自分のついでに一緒に用意くらいするだろう。
今許せないのは「アスランのことは全て知っている」とでも言わんばかりに、彼を語るときの温かい口調が癪に障るのだ。
「そうね、昨日なんてね、ミーアが「お肉は太るし…」ってちょっと呟いたら、「そんなミーアのために」って、『小あじの香草のグリル』作ってくれたのよv すっごく美味しかったんだから! それで「美味しいv」って言ったら、彼こう言ったのよ。「カガリは偏食で付き合うの、大変だ」って。だから「ミーアは何でも美味しそうに食べてくれるから好きだ」って言ってくれたもの!」
こうなったら意地でも負けられない。ミーアは慌てて自分が優位に立てそうな話題に替えた。
「今度の曲もね、ミーアが「こういう曲がいい」って言ったら、彼凄いのよ。1週間不眠不休で作ってくれたの♪ 歌詞も「ミーアのことを想って作った」って―――」
「いつも包み込んでくれる…全ての炎のような思いも全て…」
「は?」
急にカガリが朴訥と話出した。ミーアがこれだけテンション高く「アスランのミーアへの愛情」を訴えているというのに。
だが、遮ることができない。
カガリの口調は穏やかだった。まるでミーアの荒れ狂う心を静めるかのように。
「…私の作る歌詞、いつも想いが先走って、激しいものになるんだ。アスランはいつもそれに合わせて曲を書いてくれるんだ。でもな、このままじゃアスランにも、聴いてくれる人にも申し訳ないと思って、ある時感謝を込めて、ちょこっと優しい言葉を綴ってみたんだ…」
するとスッ…と静かにカガリが息を飲んだ。そしてミーアの耳に信じられない言葉が届いた。
「『水の証をこの手に 全ての炎を飲み込んで尚 広く優しく流れる、その静けさに辿り着く…』」
「な―――っ!?」
絶句したのはミーアの方だった。
確かにこれはつい先ほど、PVとして流れたばかりだという自分とアスランの新曲の歌詞だ。アズラエルは今日の午後、初めて一瞬流したというが、たった一回で歌詞を覚えられるとは到底思えない。
無論、録画していて既に何度も繰り返し聴いている、とでもいうなら別だが、事前告知無しのPVだ。撮影した動画が流されているものは、ことごとくアズラエルが消去させたという。
ということは…
(この歌詞って…アスランの作ったものじゃなくって…まさか…)
カガリがアスランへ捧げた歌詞だったのだ!
そしてアスランはあえて未発表のその歌詞を、ミーアの曲に乗せたのだ。
―――「カガリへのメッセージ」―――として
どんなに身は離れても、彼の想いはカガリの傍にある、と
「違うっ!」
ミーアはテーブルを乱暴に叩いて立ち上がった。衝撃でカップが倒れ、紅茶が白いテーブルクロスを茶に染めていく。
「あれはミーアのために作ってくれたの!アンタじゃない!」
「ミーアさん…?」
「アスランに必要なのはミーアなの!アンタじゃない!アンタじゃアスランの力を引き出せないって言ってたもの!」
ミーアの眼がカガリを睨む。カガリの知る、人々を引き付けるあの青い愛くるしい瞳が、今は憎しみをありったけ詰め込んだかのように血走っている。
「曲だけじゃない!彼の全てに必要なのは私なの!!私じゃないとダメなの!」
「それはアスランが言ったのか?ミーアさんに。」
「そうよ!」
散々怒鳴り散らして、はぁはぁと息を切らすミーア。対して冷静なカガリ。先ほどまでとはまるで立場が逆転している。
そんなミーアにカガリは言った。
「ミーア…本当にアスランと一緒に暮らしているのか?」
「―――っ!」
(この期に及んで、まだ立て付く気!?)
ミーアが怒鳴る。
「そうよ!さっきっからそう言っているでしょ!」
「…アスラン、『魚』ダメなんだ…」
「え…?」
「さっき『小あじの香草のグリル』作ってくれた、って言ってただろ。アスランは作らないよ。」
「だからさっき、言ったでしょ!アスランが「カガリが偏食で、付き合うの大変だ」って言ってたって!だから私と一緒に住んで、好きなものも遠慮なく食べられるようになったって―――」
「…無理だよ。」
「何でよ!?」
必死に抵抗を続けるミーアに、カガリは悲しそうな表情で答えた。
「だって、アスラン、『青魚アレルギー』だもの。青魚食べると蕁麻疹が出るから、食べられないんだ。」
ミーアが驚きのあまり反射的に自分の口を両手で塞ぐ。
雑誌のアスランの記事は全て読み込んで把握している。その中には、いかにもファンの女性が好みそうな私生活のインタビューもあり、片っ端から熟読した。
だが、そんな話は一つも載っていなかった。
「う…うそ…」
「それにな。」
狼狽するミーアに、カガリは目の前に置かれた皿に視線を移した。
「『ラズベリータルト』一緒に食べるっていうのも無理。アスラン、甘いもの苦手だから。唯一桃なら食べるけど。…あとさ、気になっていたんだけど、シンクにあるカトラリー。一本だけ銀の部分が白っぽく濁ってるだろ。アルミでも普段使っていないと湿気で白くなっちゃうんだ。手入れしてないと。マグカップも茶渋がついていたの一個だけだし。もしアスランとお揃いで使い始めたにしては、1つだけ随分使い古してるよな。」
ミーアはフルフルと首を横に振った。
アスランは賢いがカガリはそうでもない。雑誌や音楽番組のインタビューでもそう感じていた。
単純で猪突猛進で冷静に周りを見られない性格(タチ)。それが「カガリ」だと思っていた。
でも今目の前にいるのは、アスラン張りの知性を持った相手だった。
―――この女には…敵わない―――
そして、アズラエルの言葉が三度、ミーアの心を抉る。
(―――「このままでは、貴女は『カガリ・ユラ』に一生勝てませんよ。歌でも…無論、「恋」でもね。」
恐怖を感じて、ミーアは獣を払いのけるように手を振って大声を上げる。
「違うわ!アスランはミーアと一緒にいるのよ!これからパートナーとしてずっと一緒にいるの!貴女とはもう「さよなら」だって言ったのよ!」
「えっ!?」
一瞬カガリが目を見開いた。
(―――「さよなら」)
この言葉がカガリに付け入る隙とみて、ミーアは畳みかけた。
「そうよ、「さよなら」だって言っていたもの!これからはミーアと仕事も生活も一緒だって!」
するとその言葉に今まで冷静だったカガリの感情が高ぶった。
(「さよなら」…ううん、嫌だ!やっぱり―――アスランを諦めるなんてできない!)
カガリも立ち上がり、声を張り上げた。
「だったらアスランの口から直接聞きたい。アスランは本当にここに戻って来るのか!?」
「そうよ!だからさっさと出て行ってよ!アンタがここにいつまでもいると、彼は帰ってこられないじゃない!」
「私はミーアじゃなく、アスランから聞きたいんだ! そうでないと私だって納得できない!」
真っすぐミーアを射抜く金の瞳。もはや圧されたミーアに勝ち目はない。
(こうなったら―――!)
ミーアはついに最終手段を投じた。
「アスランが言わなくったって、証拠があるもの!ミーアを抱いてくれたんだもん!」
「―――っ!?」
カガリが絶句する。呼吸すらしていないかのように微動だに出来ない。
それを見たミーアの表情がみるみる不敵に変わった。
「これ見なさいよ! これがどういうことかくらい、アンタもいい大人なんだから、わかるでしょ!」
ミーアが自分の携帯を見せつけた。
そこには一組の男女がいた。
身体の線が透けて見える衣装を身に着けているミーア。光の当たり方によっては殆ど裸身に等しい。
そして彼女が男性の首に腕を巻き付け、その豊かな胸が、相対する上半身一糸まとわぬ男性に押し付けられている。
絡み合うような二人
その女性の腰に逞しい腕を回す、その男性のシルエットが実像へと変わっていた。
「…アス…ラ…ン…」
カガリの金眼が見開き、震えながら画面を凝視する。
不安が絶望へと変わり、足元が崩され奈落へと落ちていく感覚。
ガクリとひざを折ったカガリに、ミーアが不敵に笑った。
「あははは!どう?これが真実よ!アスランはもう貴女なんかいらないの! 歌も心も体も、ぜ〜〜んぶミーアがいればいいの!わかったでしょ!? わかったんならアスランの帰りを待つ、なんて無粋な真似しないで、さっさと出て行って頂戴!」
「…いらない…私は…もう…イラナイ…サヨ…ナラ…」
「はぁ!?」
ミーアがカガリを見下ろす。
金眼の震えが止まっている。が、焦点が合っていない。
口からブツブツと抑揚もなく何やら呟いている。まるで壊れた人形のように。
「何よ…衝撃が強すぎて、壊れちゃった?」
ミーアはからかうように言い放ってカガリの顔を覗き込む。
(…アス…ラン…)
カガリはゆっくりと顔を上げ、ミーアを見上げた。
ミーア―――いや、金の瞳に映っているのは―――アスラン。
彼の冷たい翡翠がカガリを見下ろしている。
そして、彼は言った。
―――「さよなら、カガリ」―――
「ウ…ゥァアアアアアーーーーーッ!」
頭を抱えて慟哭するカガリ。その瞬間、ミーアは驚きのあまり尻もちをつく。
「な…何よ…」
ミーアは絶句する。カガリの変貌に
カガリが―――カガリの髪が急に伸び始めた。
いや、髪だけではない。爪も、そして―――口元から伸びた「牙」
ミーアを映した瞳は金ではなく、まるで血のような「真紅」に染まっている。
恐怖にミーアの腰が抜ける。
「ひっ!な…何よ、アンタ…こ、こ、こっち…来ないで…来ないでぇぇぇーーーーーっ!」
這いずるようにして逃げるミーアに伸びる手
そして―――
「カガリッ!」
ドアを勢いよく開け放って、アスランは部屋に駆け込んだ。
瞬間
<ピシャーン!>という落雷の音と共に停電となったのか、視界が暗転する。
激しい豪雨が窓ガラスを打ち付ける以外、静まり返った室内。
そして―――奥に進み出たアスランの翡翠に、その光景が飛び込んできた。
稲妻の光があたかもフラッシュのようになって、鮮やかに映し出したそのシルエット
ぐったりと倒れているミーア
そして彼女の細い喉元に口づけているカガリ
…いや、恐ろしく長く伸びた鋭い2本の牙が、ミーアの首筋に突き刺さり、そこから深紅の血液が床に滴り落ちている。
アスランの脳裏に20年近く前の光景がよみがえる。
カガリと初めて出会い、そして彼女の正体を知ったあの瞬間…幼心に父を守るため、ユウナの首筋に噛みついていた、あの瞬間を…
「カガリ…」
あの時―――救ってあげられなかった後悔が、アスランを突き動かしていた。
その名を呼んで、ゆっくりと彼女に腕を伸ばす。
彼の声に気づいた彼女が、ゆるゆると立ち上がる―――と同時にドサっと床にこと切れたように崩れ落ちたミーアの身体。
すると、うつろな金の瞳が、アスランを映す。
ポロリと一滴、そこから涙が零れ落ちた。
「…サヨ…ナラ…」
哀し気にその言葉だけを残して、彼女は部屋のさらに奥へと走り出した。
「カガリィィーーーッ!」
アスランが懸命に手を伸ばす。
だが、その指先に触れようとした瞬間、彼女はスルリと零れ落ちる。
窓を開け放ち、ベランダから稲妻と豪雨の降り注ぐ中へと、カガリは消えていった。
・・・to be
Continued.