日の暮れた都会の空はいつもより明るかった。
もう直ぐ雨の降る前兆だということを、ミーアは都会に出て初めて知った。
普通、昼なお、夜でも雨空は暗い。少なくともミーアが育ってきたところはそうだった。だが都会ではいつも以上に空低く流れる雨雲が地上のネオンを反射し、籠った様な明るい夜空になるという。
クッションを抱えながらぼんやりと窓際で空の行方を見つめていたミーアは、もう直ぐこの部屋を来訪するであろう足音に耳を澄ませる。
「…私『ミーア・キャンベル』です…」
<え…>
今から数十分前にかけた電話。
名乗った瞬間、電話の向こうの彼女が押し黙った。そして<カターン>という衝撃音がミーアの耳をつく。
余程の衝撃だったのだろう。多分驚きのあまり携帯をとり落としたようだ。…それはそうだろう。まさか彼の電話から女の子の声が聞こえくるなんて、欠片も思っていなかっただろうから。
(…慌ててる…)
ミーアの口角が自然と上がる。
「カガリでしょ? ミーアです。聴こえてます?」
<…何で? どうして…>
声が遠い。ノイズも混じっている。驚きに携帯を落とした衝撃で、スピーカーフォン状態になったようだ。
そのままの状態でいるところを聴くと、あの時…ミーアがSNSに誹謗愁傷を描き込まれた時と同じ恐怖感で、携帯を取り上げることができないみたいだ。
<どうして、アス―――いや、アレックスの電話を貴女が持って―――>
まだパニックに陥っているカガリの口調。それがなんか妙に可笑しい。
これがあの、『I.F.』の「カガリ・ユラ」だろうか。
感情の赴くまま、電話をかけてしまったが、つい一年前までは遠くから見守るしかできなかった人物が、今は自分の発する一言一言に見事に揺さぶられている。
(私が、あのカガリを翻弄しているなんて…)
妙な自信と度胸が据わった。今では完全にミーアの方が立場が上だ。
(だったら―――)
ミーアは強気の口調で答えた。
「「どうして」って、普通ここまでくれば、わかるでしょ?どういうことか。」
<ど、「どういう」って…>
「そりゃ「そういうこと」よ。私、その「アスラン・ザラ」さんと、今一緒にいるからよ。」
<―――っ!?>
電話の向こうでカガリが衝撃に息をのむ様子さえ、まるで目の前で見ているかのようにわかる。ミーアは声を押し殺して笑った。
相手はまだパニックが治まっていない。
なるほど…アズラエルの言ったことは一理ある。こうした男女の秘め事にはカガリは鈍感らしい。普通付き合っているなら、相手の携帯から女の声でかかってきた時点で直ぐに状況を察せるのに。
ユニセックス、というより「女の子」としては十分格下だ。こんな子を相手にアスランは、あんな素敵な曲を作っていたなんて。本当に可愛そうだ。
その愚鈍な敵は、未だに状況が整理できていないのか、回らない口で必死に問うてくる。
<「一緒」に…って…今、アス…アレックスと一緒にいるのか!?>
ちょっとイラつく。まるでカガリしか「アスラン」と呼んじゃいけないみたいにわざわざ「アレックス」と言い直した。
(もう私だって知っているのよ!アレックスの本名くらい!)
苛立ちを皮肉に込めて、ミーアは言った。
「そうよ!だって今、私と「アスラン・ザラ」は一緒に暮らしているんだもん!」
<―――っ!? う、うそ…>
「嘘じゃないわ。だってこうして現に、彼は携帯預けてくれているんだもの。それに彼はちゃんと「アスラン」って本名も教えてくれたわ!」
言ってしまった。嘘をついたことに、一瞬心の奥がチクリと痛む。だが
(…まぁ、一緒に暮らしたって3,4日間だけだけど…だから嘘は言っていないわ!)
後悔は一瞬でかき消して、電話の向こうの出方を待つ。
<……>
電話の向こうは絶句している。回らない頭を必死に回転させているようだ。余程のショックなのだろう。
(いい気味だわ。今までアレックス…いえ、アスランを独り占めしていた罰よ!)
畳みかけるなら今だろう。相手に思考の隙を与えないよう、ミーアは早口でまくし立てた。。
「どうしたの? 別に今更驚くことじゃないでしょ?あれだけ週刊誌とかワイドショーにも出ていて。本当に格言ってあるのね。「火の無いところに煙は立たず」って。だから―――」
<アスランは、今、そこにいるのか…?>
「え?」
あんなにパニクっていたはずなのに、急にしっかりとした声でミーアの話を抑え込まれ、今度はミーアが勢いに飲まれる。
<今一緒にいるって言ったよな!?だったら代わってくれ!!話をさせてくれ!>
「……」
ミーアは口ごもる。
(マズいわね…)
今まで調子づいていたミーアが焦る。感情の燻ぶるままカガリに電話をしてしまったが、カガリが自分の言葉に揺さぶられたので、せいぜい打ちひしがれて終わりと踏んでいた。
まさか、カガリが気持ちを立て直してくるなんて。
咄嗟についてしまった嘘をどう誤魔化すか…考える余裕はない。
振舞うのだ。アスランが、さも今、ここに居るかのように。
どんな時も姿勢を崩さないアイドルの演技力でもって、ミーアは無理矢理唇の震えを押さえつけた。
「そう?わかったわ。今替わってあげる。「アスラ〜ン、カガリがあなたと話したいって。」…え?…そう…わかった。…もしもし、今の聴こえた? 別にアナタと話すことはないって言ってるわ。アナタの声を聴きたくないから、いま彼に代わって、こうして私が代わりに電話して―――」
<ミーアさんの声じゃない。アスランの声で聞きたいんだ。それが本気なら私も覚悟を決める。>
「……」
凛としたカガリの声にミーアは気圧される。
それが『偶像』の自分と、『実力』のカガリとの差を見せつけられたかのように。
(このまま続けたら、嘘がバレちゃう…)
ミーアの焦りが頂点に達する、と同時に、大きな不安が彼女に押し寄せた。
アスランが出て行ったあと、彼が駆け込む先は真っ先に事務所…あるいはカガリの元かもしれない。
もし今の状況を長引かせているうちに、万が一アスランがカガリの目の前に現れたら…
(何とかアスランとカガリを引き離さないと。それから先は今から考えればいいわ。それに…)
ミーアは口角を上げた。
(カガリが失望する「最強の武器」を私は持っているんですもの!)
ミーアは圧倒されないように、すぅっと息を吸い込み、一気にカガリに言い放った。
「だったらウチにいらっしゃいよ。アスランと一緒にいるっていう証拠を見せてあげるわ。今から貴女の携帯に住所と地図を送るから、それを見て来て。」
<ブチッ!>と荒々しく切電し、ミーアは地図を添付した住所を送信した。
それからミーアは直ぐに自宅をセッティングした。
いつか好きな人と一緒に使いたいと思って買っておいた、お気に入りのお揃いのマグカップ。
カトラリーも、いかにも「つい先ほどまで一緒に使っていました」というように2組をキッチンのシンクに置いておく。
洗面所には歯ブラシを2本。タオルもスリッパも2つずつ、お揃いのものをわざと目に付くところに置いた。
こうしたアスランの気配と、あとこの携帯に収めてある「最強の武器」を見せたら、カガリはどんな顔をするだろう…
ミーアはもう直ぐ訪れるであろう、絶望に満ちたカガリの顔を想像し、クッションを抱えながら微笑した。
***
「はぁ、はぁ、はぁ、」
息が切れる。コンサートで2時間半、演奏し続けても疲れを知らないはずの身体が、今は鉛のように重い。
流石に約1週間、ロクな食事もとらなかったツケがここに回ってきたかと、アスランは喉元にせりあがってくる後悔を飲み込みながら、家へ―――カガリの元へとひた走っていた。
アズラエルの隙をついて、何とかキーカードを奪い、逃げおおせるまではできたが、不意だったため携帯を置いてきてしまったのは痛かった。携帯で交通機関を利用しているため、乗り物を利用することもできない。
かといって、あそこに戻れば、間違いなくアズラエルは二度と見逃すような失態はしないだろう。
それに―――
(彼女を一緒に連れてこられれば…)
後悔の念が過る。あの時、ミーアを共に連れてくるべきだった。
最初にアズラエルの元を一緒に尋ねた時は、浮かれていた彼女だったが、次にスタジオに現れた時の彼女は青ざめて切迫した表情だった。レコーディングも鬼気迫る様子だった様子から、彼女もアズラエルに追い込まれているのではないか、と想像できたのに。
だが、アズラエルの目的が何であれ、ミーアを必要としている以上、彼女に危害を加えることはないだろう。
寧ろ、今心配なのは「カガリ」だ。
あの時アズラエルは「カガリ」の正体まで匂わせた。目的が自分であるなら、脅迫じみた行為をするために、カガリに危害を加える可能性は十分考えられる。
しかも、彼女は今弱っている。
(そこを…アズラエルに付け込まれたりしたら…)
「くそっ!」
情けなさに悪態をつくが、今はそんなことすらしている余裕はない。
息も切れ切れに、それでも早く彼女の無事を確認したくて、無理矢理足を走らせていた。
既に鉛色を呈していた空からは、もう直ぐ雨が降り出しそうだ。
「はぁっ、はぁっ、はーーーー…」
ようやくマンションの前に辿り着き、全身で大きく呼吸する。
いや、まだだ。彼女の顔を見るまでは―――
額から落ちる汗も拭う隙も惜しんで、アスランは自宅へと駆け込んだ。
「―――カガリっ!」
大きな音も気にせず勢いよくドアを開き、そのまま室内へと駆け込む。
だが、妙に静かだ。
「…まだ眠っているのか…」
だとしたらありがたい。でなければ「お前、一週間もどこほっつき歩いていたんだよ!?」と怒鳴られ、お説教が延々続くに違いない。
いや、むしろ今は少しでも長く、彼女の声を聴いていたい。長い時間離れてこんなにカガリに飢えたことはなかった。
(触れたい、声を聴きたい、クルクルと素直に変わる表情を見たい―――!)
ノックする間もなくカガリの部屋に入る。
が―――彼女の姿はそこになかった。
「カガリ!?いないのか!?」
あれだけ衰弱していた彼女が、自らそう遠くまで出ることはない、と思いながら、リビングへと戻り、電気をつける。明るくなった室内のどこにもカガリの姿はなかった。と、そこに―――
「?これは…」
携帯が落ちていた。これは…カガリのものだ。
「何故、こんなところに…」
アスランが画面に触れた瞬間、画面が明るくなった。消電モードになっていたらしい。
だが、画面を見たアスランの表情が変わる。
カガリの携帯の着信は、まぎれもなく自分の携帯からのメールだった。しかも地図が添付されている。見たことも行ったこともない場所だ。
「―――っ!まさか…」
携帯はアズラエルのところに忘れてきた。つまり、彼が自分に成りすましてカガリに連絡した可能性が十二分にある。
(アズラエル!カガリをここに呼び出すつもりか!?)
「絶対にさせない!」
アスランは溢れかえる怒りのままカガリの携帯を握り、再び走り出した。
・・・to be
Continued.