・・・真っ暗だ
・・・何も見えない
息の詰まるような感覚と、まるで光の届かない深海みたいなところ
そこに、微かに光る赤い星が見えた。
(―――。)
その光だけが頼りのように、懸命にもがいて手を伸ばす。そこにあったのは
水の中に漂う、あの赤い石の指輪。私がかけてやった守り石。
ゆっくりと見えない底に落ちていく、彼の姿
(―――「っ!アスラン!アスラァァァ―――ン!!」)
精一杯呼んでも、彼の瞼は閉じたまま、あの優しい碧い光を放つこともなく、どんどん私の手の届かない澱みに落ちていく。
(―――「行くなっ!この子と私を置いて、どこに行くんだよ、お前!」)
お願いっ!手を伸ばして!!アスラン―――っ!!
「―――リさん!カガリさんっ!!」
「……ぁ……」
呼びかけに薄っすらと目を開けば、見たことのない真っ白な天井と、私の手を取って必死に叫ぶ空色の瞳。
「…ラ…クス…?」
「よかったですわ。気が付かれて…」
無二の盟友であり親友である彼女はホッとしたように笑みを取り戻した。曇りのない目には涙が浮かんでいた。でも、なんで彼女がオーブに…?
「…何故、ここに…」
「昨日のプラント駐在員監禁の一件です。プラント側としても放置できず、私も到着が遅くなりましたが、こうしてオーブに伺わせていただきましたの。」
そうだ、被害者はプラントの人間だ。国交の関係上、プラント側にとっても危機だ。ラクスが動いてもおかしくはない。
「…ここは…?」
「病院ですわ。カガリさんは今朝方御家で倒れられて、緊急で搬送されたのですよ。余程お疲れだったのでしょう。ずっと眠り続けて今は夜になりましたわ。」
倒れた…そうか、確かアスハ邸でミナとマーナが話しているのを聞いて……
「―――っ!!アスランは!?ラクス、アスランは―――」
「落ち着いてくださいな、カガリさん。先ずは今、お心と体を休めないと、お子さんが―――」
起き上がろうとした私を必死にいさめるラクス。
「子ども」という言葉で反射的にお腹に触れた。何故だろう、昨日あれだけ思いっきり遠慮なく蹴っていた足が、なぜか動いていないように感じる。
不安が増す一方だ。
お腹を抱える私に、ラクスはそっと私の頭に触れながら、諭すように話し出した。
「カガリさんは今、非常に危ない状態です。血圧が高くて、胎盤が剥がれる可能性があるとお医者様が。これが続けばお二方の命にかかわります。」
「でも、アスランは…アスランはさっき、MIAって―――」
自分でもパニックになっていることがよくわかる。質問も何もしどろもどろだ。頭の中が整理できない。赤ちゃんのこと、アスランのこと。
しかし流石はラクス。私の気持ちを汲んだように、優しくもう一度私の手を取り直して、そっと握ってくれる。その手のぬくもりが、じんわりと私の心を和らげていく。
「アスランのことはまだ詳細は判っておりません。通信機器や発信機の反応が途絶えたそうです。万が一に備えてサハク様がゴッドフレームでの出撃の準備をされております。そしてプラント側も自衛策と共に、キラもジェネシスの捜索にあたっています。何れも既に差配は済んでいますから、今はご自分のことをお考え下さい。」
…やっぱりすごいな、ラクスは。あっという間に状況を把握して、あっという間に対策を考えて指示を出して。自国の国民が監禁され、命の危機あるだけでなく、見えないジェネシスの影はプラントにも向けられるはず。それだけでも気が気でないだろうに、こうして私の心配まで…
それなのに、同じ代表なのに、私は…
「…情けないな…」
「カガリさん…?」
涙ばっかり溢れてくる。悪いと思ったけど、ラクスの手を乱暴に振り払って、自分の顔を隠した。
「…ごめん、ラクス…」
後付けに謝っても仕方なのに、ラクスはそれでも怒らない。そっと私の手では足りない程溢れる涙を一緒に拭いながら優しく囁く。
「ここは今二人きり。お話になりたいのであれば、いくらでもお話しください。でも、泣きたいときは、思いっきり泣いてもいいのですよ。」
あぁ、きっと天使が実在するとしたら、きっと彼女のようなんだろうな。
私はキリスト教は詳しくはないけれど、マリア様に受胎告知をした天使は女性だったけ。確か名前はガブリエル。
優しく思慮深さを持った天使。
当然、ラクスは天使じゃない。
でもなんか不思議だ。私のこのぐちゃぐちゃな気持ちを、全部吐き出したくなる。
きっとプラントの人たちも、この天使のような優しさと温かさと導きに、安心して身をゆだねられるんだろう。
それに引き換え私は、国民どころか私の家族さえも危機に晒してしまっているのに、何もできない。何もしてやれない!
「私…」
悔しさと情けなさの綯交ぜになった感情が、ついに唇から零れてしまう。
「…私、ラクスに嫉妬してた。」
「まぁ、そうなのですか?」
「あっという間に状況把握して、すぐに行動して、みんなを差配して、そしてこんな私のために寄り添ってくれるのに、私ったら…動揺してばっかりで軍令部に何も口出しできず、夫を心から送り出してやることもできず、守ってやることもできず。挙句、今度はこの子を命の危険に晒して…代表としても妻としても母親としても全部中途半端だ!それに…」
「…「それに」?」
喉の奥に、心の底に淀んでいた澱が一気に溢れかえって叫んだ。
「一番願っちゃいけないことを、何度も言いそうになったんだ!みんなに!「この子の父親を奪わないでくれ!」って。「駐在員の命より、アスランとこの子の命の方を守ってくれ!」って!!」
「……」
「……私は愚かだ…代表失格どころか、人間としても失格だ…この子にどんな顔をして母親だって言えるのか…」
吐き出してしまった。何もかも、自分の中の醜い部分を。
ラクスはきっと軽蔑するだろう。
そして、今ピクリとも動かないこの子も、きっと母親に失望しているんだ。
こんな親の元に、生まれたくない、って。
ひたすら泣きじゃくる私。するとラクスは「カガリさん」といつもの柔和さはなく、厳しい凛とした声で私を呼んだ。私には母親はいないけれど、なんかお母さんに叱られるみたいにビクンとした。そうしたら
「…私、実はずっと、ずーーーーっとカガリさんに嫉妬しておりましたのよ。」
驚いて涙が引っ込んだ。
そのまま彼女の顔を見れば、怒っているどころかにこにこと笑っている。
「…「ラクス」が…「私」に…?」
「はい。」
その済んだ空色は一つの曇りもない。ラクスは嘘を言う人ではない。でも、何故、私なんかに? 子供ができたことだろうか。コーディネーターは自然妊娠しにくいっていうし…でもそんなことにこだわるような人ではないはず。私の想像が全く及ばない。
「どうして…」
ラクスは一呼吸置くと、三度私の涙に濡れたままの手を握ってくれた。
「私、一度もアスランを笑わせられたことがありませんの。」
「…は?」
それが嫉妬とどういう関係が…
でもラクスは窓の外に視線を映して、遠くを見上げた。昔を懐かしむかのように。
「婚姻統制とはいえ、私もアスランも、お互いに悪い印象はありませんでした。アスランも適度な距離を保ちながら、優しく接してくださいました。目が合うと微笑んでくださいました。でも…」
寂しそうな吐息をついて、ラクスは続けた。
「「それだけ」なのです。心の奥を見せてくれないのです。心から笑ったり怒ったり悲しんで泣いたり。そんな本音を一つも見せてくれなかったのです。」
そうだったのか…私と最初に出会ったときから、アイツは普通に怒ったり笑ったり呆れたりしていた。臆面も隠さずに。
ラクスは続ける。
「彼のお母様が亡くなられた時も、辛い心を癒してあげられることもできませんでした。でもカガリさんには…カガリさんだけが彼の心を開いて、救ってくれたのです。アスラン・ザラを救ったのは、まぎれもなく『貴女』ですわ。私の力など、到底及びません。」
「私が…アスランを…」
「はい。」
そうだ、以前聞いたっけ。
(―――「アスランは、無口であまり表情を出さない」)
母親を亡くし、父親を目の前で亡くし、それでも耐えることしかしなかったアスラン。
私がどうやってラクスですら手こずった難問、アスランの心を開いたのか、よくは判らない。
でも、それが「相性」っていうことなのだろうか。
いや、そんな武骨な言葉で片づけたくない。
相性だけじゃ説明できないな。惹かれ合ったり別れたり、それでもまた求めあったり。
そう、これは―――『運命』だ。
『運命の赤い糸』。
いや、私たちの場合、『運命の赤い石』…かな。
その赤い石が繋いだ未来が、きっとこの子なんだ。
アスランと私の未来への贈り物。
お腹をさする私を見ながら、ラクスは少し拗ねたように言った。
「ですから悔しかったのですよ、私。クサナギのハンガーでお二人が私以上に昔からのお知り合いのように話されているのを見て。「何で私にも、カガリさんのようにお話ししてくださらなかったの!?」って。」
そんなラクスは今度は穏やかに、再び遠い目をした。
「私とてただの人間。醜い感情も沢山持っております。アスランがいながら、キラに惹かれ、アスランを傷つけた一人です。ですから、カガリさんがお考えになるような完璧な人間ではありません。私も自分の愚かさを思い知りました。ミーアさんを救ってさえあげられなかった…」
そういえば聞いたことがある。
自分の大ファンだったという少女を、議長に利用され、挙句目の前で殺されたという経緯を。
「私も救うことのできなかった命は沢山あります。でもその方々の命の分まで、平和を成し遂げたい。未来を作って残してあげる。それが私に課せられた役目。カガリさんは今はアスランの分もお子さんを守ってあげることが役目。それがアスランにとっても、オーブの皆さんにとっても喜ばしいこと。違いまして?」
「…そう…だな…」
そうだ。私のできることは、この子を守ること。そしてアスランの無事を祈ること。オーブのみんなを信じること。
だったら泣いている場合じゃない。強くならなきゃ!
「ありがとう、ラクス。泣き言聞いてもらって、少し楽になったよ。」
「よかったですわ。」
ラクスがにっこりと笑った。でも、それに応えようとした次の瞬間
「――――っ!」
「カガリさん!?」
「…痛…い…」
倒れた時と同じ鈍痛が、段々波のように襲い掛かってくる。お腹と私の胸につけられた心電図がアラートを知らせたのか、主治医と助産師が飛んできた。
ぐるりと引かれたた遮光カーテンの中に緊迫した空気が流れる。エコーを見ながら医師が言った。
「カガリ様、残念ですがこれ以上の血圧での妊娠継続は難しくなりました。胎盤が剥がれかけています。」
「じゃぁ…」
「すぐに帝王切開の準備に入ります。」
そんな…まだ予定日まで時間があるのに。今生まれたら、この子は生きていけるのか!?
その時、
「姫様!」
不安に押しつぶされそうになった私のもとに駆け付けたのは―――マーナ?
「どうしたんだ、マーナ。」
「申し訳ございません!私があのように口を滑らせたばかりに、姫様と、アスラン様とお子様になんとお詫び申し上げたらよいか!」
さっきの私以上に泣きはらしたのだろう。もう目が真っ赤だ。
「仕方ないさ。マーナはMIAなんて意味知らないだろう?責任はないよ。」
「そうは申されましても、このマーナ、一生の不覚でございます!もうとにかく姫様をお守りしなければと思いまして、藁にも縋る想いで…そう、こちらを―――」
そういってマーナ愛用のカバンから取り出したものは
「―――!マーナ、これって…」
そう、まごうことなき、久しぶりに元の主の元に戻ってきた、『ハウメアの守り石』。
「どうして、これをマーナが?」
「実は、アスラン様に言付かっておりましたのです。」
―――「マーナさん、もし、カガリの身に何かありましたら、これを彼女に届けてください。」
―――「こちらは…」
―――「『ハウメアの守り石』。俺を何度も救ってくれたお守りです。カガリは今大事な身体だ。俺が傍にいて守っていきますが、もし離れ離れになっていた時は、これを彼女に。こうすればいつでも俺は彼女のそばにいます。そして…必ず帰ってきます。彼女のもとに。」
「姫様がご懐妊されてすぐのことでした。常にそばでお子様共々お守りできるよう、アスラン様が姫様のドレッサーの引き出しに…あの何時も付けていらっしゃる、指輪のケースに入れておられたのでございます。」
そんな…私の、ずっと傍にあったなんて。指輪はペンダントヘッドにしていたから、ケースの中なんて開けていなくて気づかなかった。
そうか…ずっと、守っていてくれたんだ。ずっと傍にいてくれていたんだ。
「カガリ様、このまま手術室へ参ります。ご準備を。」
「わかった。」
祈るように両手を合わせるマーナの震える肩を、そっと抱いてラクスが見送ってくれる。
なんでだろう。あんなにあった不安が今は雲が晴れたようになくなっている。
きっと守り石のおかげだ。
大丈夫、アスランはこうしていつも傍にいる。
だったら、心配なんて一つもない!
お腹をさすりながら私は言った。
「私も戦う。だから、お前も絶対生きるんだぞ!」
そう―――生きるほうが、戦いだ。
・・・to be Continue.