C.E.71年3月8日
俺はこの日、初めて地球を知った―――
―――『この空を見上げて』―――
プラントに空はなかった。
あるのは鏡に映し出された「偽りの大空」。
それが当たり前に育ったこともあるが、幼年学校で聞かされた「本物の空」に対しても、俺はさして興味もわかなかった。
プラントの空は全て予定表の通り、疑似太陽が昇り、雨が降り、そして夜になり、朝が来る。
地球の気まぐれな空など、予定通りに振らない雨なんか、それこそスケジュール通りにいかず、煩わしいだけだ。
ZAFTに入隊し、初めて地球に降り立った時も、特に感慨もなかった。
クルーゼ隊長から一時的に独立し、部隊を預かったことや、再会したイザークの顔に残された傷を見て、戦争にどうにか勝つことだけで精いっぱいだった。
それに…泣き顔のあの幼馴染―――キラの事が気になって…
空だけが気まぐれかと思えば、ジブラルタル基地からカーペンタリア基地までの移動で、俺の輸送機体がトラブルになった。
一人遅れて後を追った、その時―――
俺は初めて彼女と出会った。
出会った瞬間はまさに「殺るか殺られるか」だった。
必死に命を奪い合っていた砂浜で、どうにか彼女を取り押えることができた。
その時のあの悔しそうな彼女の表情は、まさに雷でも落とさんばかりに形相だった。
なのに
「あー!気持ちいいー!」
何とか脱走を図った(?)はずが、見事に海に落ち、びしょ濡れ&砂まみれになって不機嫌丸出しだった彼女が、突如訪れたスコールに、嬉しそうに全身に温かい雨を受けていた。
気まぐれに降り出したスコールを喜んで受け入れる彼女に、俺はその時初めて一瞬空を見上げた。
さっきまで必死で、怒って、不機嫌になって、今度は嬉しそうに空を仰ぐ彼女。
まるでコロコロ変わる地球の空そのものだ。
無防備で、それでいて無邪気で…
その時の俺に、もう戦意はなかった。
「え…?」
彼女を戒めていた縄を解くと、彼女はクリンとした大きな目で、不思議そうに俺を見た。
「…武器を持たないお前が暴れたところで、大したことはない。」
「何だとぉっ!?」
途端に怒りを露わにする彼女。
ほら、またコロリと変わった。
「服の中にもカニがいるみたいだぞ?」
からかい交じりに揚げ足を取れば、冗談とは思わなかったらしい彼女が、思いっきり服をたくし上げた。
その途端、見たこともなかったふくよかな双丘の一部が露わになって、こっちが慌てる。
一方、当事者は全くそんなこと意に返さないように、落ちたカニと俺を見比べる。
その視線から逃れようとしたが、見事に足が岩場にはまり込んでいた。
「うわっ!」
今度波しぶきを立てたのは、俺の方だった。
「アハハハハ!」
そんな俺を見て心からおかしそうに笑う彼女。
なんか悔しい…
でも、何故か怒る気になれない。
呆れている…のとも違う。
あ、そうか
戦場に出てから…いや、『血のバレンタイン』以降、俺は心からの笑顔を見たことがなかった。
誰もが皆、母を亡くした俺を、評議会委員のパトリック・ザラの息子の俺を、腫物を扱うようにしていた。
気遣いなのだろうが、それがどこか心苦しくて。
でも
「ほら!お前も首のところ開けていたから、スーツの中、海水入っただろ?脱いでみろよ、今の天気ならあっという間に乾くぞ!」
いつの間にか、あのスコールはどこかへ消え去り、強い日差しが戻っていた。
目の前には、偽りのない太陽の様な明るい笑顔で手を差し伸べる彼女。
君にだけは、嘘をつかなくても、素直でいていい気がしたんだ。
宇宙空間に出ることが目的で作られているパイロットスーツは撥水できるから、脱いで一叩きでもすれば、直ぐに乾燥する。
一時脱ぎ捨て、足をそっと生まれて初めて地球の大地に触れてみた。すると
「…温かい…」
俺の驚く顔を見て、彼女はまるで自分の事のように嬉しそうに頷いた。
「な、気持ちいいものだろ? ちょっとスコールはあったけど、それ以外は天気も良かったし、それだけじゃなく、ここらへんはある程度地熱もあるからな。地面そのものが温かいんだ。」
「土が…温かい…」
プラントの足の下は宇宙空間だ。絶対0℃の空間が無限に広がっている。無論土は敷き詰められているが、土そのものが熱を持つことはない。
「きっとお前だって聞いたことあると思うけど、この大地はプレートが移動して、その熱で火山とかが起こるんだ。それだけじゃなく、地球の中心はすっごく熱が高いんだぞ。それにこの辺は太陽も高く上がるから、その熱も吸収しているしな。」
キュッキュと足の裏に感じる砂の感覚は、正直気持ちがいいとは言い切れない。だが、俺の無知を詰るでも、バカにするでもなく、彼女はそんな地球を知ってくれるのが嬉しいというように、笑顔で説明してくれる。それはナチュラルに…彼らの故郷である地球に偏見を抱いていた俺の心を洗い流していく。そして…それが何故か心地いい。
「ほら、みろよ!」
彼女が指さす先を見あげた。
「あ…」
言葉が出なかった。
この島に着いたときは海に溶けたような色をした空が、つい先ほどにはどす黒い雲に覆われ、大量の雨を降らしていたのに、今は淡いピンクの混じったオレンジに染まっている。
「うん、明日もきっといい天気だ!」
足を投げ出して岩場に座り込んだ彼女は、満足そうに空を見上げる。
オレンジにパープルが混ざり、やがてパープルがコバルトに溶けて、漆黒の空へと変わっていく。
(…これが…「地球」…)
隣で満足気に空を見上げている彼女の心を映したかのように、その変わりゆく色の美しさが、俺の胸を染めていった。
でも、空の色は、時に悲しみをも映し出す。
キラを撃ってしまった。そして死にきれずオーブの巡視艇に身柄を保護された俺を待っていたのは、真っ赤な斜陽の差し込む部屋と、彼女―――カガリの向けた銃口だった。
泣きながら俺を責めるカガリの言葉は、俺の心を抉った。
いや、俺だけじゃない。
彼女自身も心から血を流していた。
「殺したから殺されて、殺されたから殺して…それで最後は平和かよ!?」
涙に暮れる俺たちの心が流した血だとでもいうように、空は何時までも赤々と染め上がっていた。
そう、この時だけじゃない。
一度は終結したと思われた戦争は、再び戦火を燃え上がらせた。
自分にできることを探すために、俺は一度プラントに戻った。
不安そうに空に発つ俺をいつまでも見上げる彼女を残して―――
そしてディオキアで、ZAFTに復隊した俺と、道を違えたカガリやキラと再会した時も、真っ赤な空の下だった。
オーブの参戦を止めることもできず、ただ闇雲に戦闘の停止を呼びかけるしかできない彼女とキラに、いら立ちを募らせていた俺はカガリを責めた。
「君がしなけりゃいけなかったことは、そんなことじゃないだろう!?」
自分でも驚くほど、鋭い目で彼女を睨んだ。
「戦場に出てあんなことを言う前に、オーブを同盟に参加させるべきじゃなかったんだ!」
「それは…」
カガリが口ごもる。
いや、こんなことを言って責めたところで、本当はカガリだけの所為ではないことは判っていた。
必死に自身にできることを模索するカガリの傍にいるだけで、何もしてやれない自分が歯がゆくて、まだ父の亡霊に憑りつかれている自分から抜け出すために選んだ道。カガリやキラたちのために自分でできることを探したはずが、たどり着いたのは戦場。そして彼女たちは『敵』。
自分の思いとはどんどんかけ離れた運命に流されていくだけの自分。
その悔しさをカガリにぶつけてしまった。
彼女は何も言わない。俺を責めない。
その分、彼女の心から、また真っ赤な血が噴き出ていることを、あの空は教えていた。
その時…俺は彼女たちに、そして責めた自分にすら背を向けた。
そうしてその後知ったデュランダル議長の真意―――その狂った未来への道を正すため、俺はZAFTから脱走し、再び彼らの元へと下った。
あの嵐の空は、俺を責めていたに違いない。
カガリに責任を問い詰め、違和感を持ちながらも、ずっと偽り続けていた自分の心を責めるかのように。
シンに撃たれながらも、俺は生き残った。
ここまでしぶとかったのかと、自分でも呆れてしまう。
いや、どうしても守りたかったんだ。
この映りゆく空と、温かな大地を。
その2年前、同じように一度ZAFTを脱したのは、傲慢にも思えた父のやり方に疑問と疑念がやまなかった時だ。
生まれてから一度も逆らったことのなかった父に、俺は自分の気持ちを伝え、疑念を問うた。
父からの返事は、冷たい銃口だった。
肩を射抜かれた痛み…それ以上に、簡単に息子を撃ち抜いた父と、何もできなかった自分に、心が凍てついた。
凍り付くこの痛みを、どうしたらいいのか…
「お前、頭、ハツカネズミになっていないか!?」
その言葉に驚き顔を上げれば、会議中だったはずのカガリがそこにいた。
「一人でぐるぐる考えたって同じってことさ!だからみんなで話すんだろ!?そういう時はちゃんと来いよな!」
「すまない…」
こんな言葉しかでてこない。
つくづく自分はなんて情けなかったんだろう。
父も止められず、何もできなかった。
だが、彼女は一言も責めなかった。それどころか
「痛いよな…お父さんに撃たれたんじゃ…」
その言葉が心に響く。
触れようとしなかった心の傷、凍てついたそこが、やがて温かい手で包まれているような感覚に癒されていく。
「お父さんの事だって、諦めるのは早いさ!まだこれから…ちゃんと話しできるかもしれないじゃないか!」
カガリに言われた言葉で、心に張り付いていた氷が一気に溶けだす。
カガリはもうその時、オーブと共に失った彼女の父と話をすることすらできなかった。
でも彼女は俺に、曇り一つない笑顔で励ましてくれる。
その時、ふと思い出した。
あの、地球の大地に初めて触れた時のあの温かさ。
そうだ、あれは、まるで今のカガリみたいだ。
その温もりが欲しくて…愛おしい…
そう思ったとき、身体が勝手に彼女を抱きすくめていた。
「え…?」
「ごめん…」
「ご、ごめんって、お前―――」
「いや、だから、その…ごめん…」
この時、俺の守りたいものは決まった。
そうだ、あの時とこの想いは全然一緒じゃないか。
俺が守りたかったものは何一つ変わっていない。
そして今、それは危機に瀕している。
だったらいつまでもグチグチと臥せっている場合じゃない。
「俺は…諦めが、悪い!」
俺の守りたいものは変わらない。
君の気持が例えどんな決断をしていたとしても。
デュランダル議長がオーブを殲滅しようと画策していることは手に取るように分かった今、彼を止めるために、俺はオーブの軍服に手を通した。
そして俺たちを見送る彼女の指に、俺の贈った指輪はなかった。
飛び立つアークエンジェルを見送り、空を見上げるの彼女の表情に、既にあの日の無邪気さはなかった。
死をも恐れずただ皆の帰る場所を守る、さながら大地の女神の様な全てを悟った表情で。
だから俺は最後まで守るよ。そして…
そして、今、この時―――
オーブの大地に寝転がって空を見上げる。
あの忌まわしい戦いが2度もあったとは思えない程、澄んだ高い空。
そして背中に感じる、温かな大地。
母上、父上、ニコル、ラスティ、ミゲル、ハイネ…
この大地で、この空を守っている今の俺を、君らはどう思っているのだろうか…
すると、ふと目の前が暗くなった。
「おい、オーブ軍准将がこんなところで昼寝とは、良いご身分だな。」
上から俺を覗き込んできたのは―――カガリ
「昼休憩だよ。…いや、空が綺麗だな、と思ってさ。あの日みたいに。」
「はぁ…いつの空だ?オーブの空は何時だって綺麗だぞ!」
「いや、そうなんだけど、そうじゃなくて…」
「む〜〜一人で納得していないで、教えてくれてもいいじゃないか。」
むくれるカガリを見てふと思う。
あの時の空のように、彼女の表情が変わっている。
笑ったり、ちょっと怒ったり、でもどこか大人びて…
「俺が初めて見た、地球の空を思い出して。」
「…というと、私たちが出会うちょっと前くらいか?」
「いや、君と出会ったあの島の空だよ。」
カガリが少し驚いたように目を丸くした。
「だってお前、その前にはもう地球に降下していたんだろ?」
「あぁ…でも、初めて空を見上げたのは、君が隣にいた時だから。」
「な、なんか今、恥ずかしいことを言われた気がしたんだが…それにしても地球に初めて降下しても、何とも思わなかったなんて、随分と無感動だったんだな。…ま、今でも大して変わらないけど。」
そういって彼女が笑う。無垢な笑顔そのもので。
そして俺と同じように大地にゴロリと背を伸ばした。
「ホント、気持ちいいな。今の時期は暖かくなって。…なぁ、今のオーブ、お父様とか、アサギ、ジュリ、マユラ、オーブの人たちはどう思ってくれているかな…」
一瞬驚いた。
カガリも俺と同じような考えをしてくれたとは。
だから、俺も心偽らず言った。
「俺も今考えていたんだ。父や母、死んでいった仲間たちは、俺をどう思ってくれているだろうか、って。」
カガリはクスリと笑った。
「自慢していいと思うぞ。だってお前は落とされそうになったユニウスセブンとネオジェネシスの脅威から、この地球を守ったんだ。沢山の人が今、この空を見ることができているのはお前のおかげなんだからな。」
「買い被りすぎだよ。ウズミ様たちもこの大地を残してくれて、きっと喜んでいるよ。」
「だったらいいな…もう、この空が二度と焼かれないように…」
ふと視線を隣にやれば、カガリの表情が曇っている。
2度焼かれたオーブ、それを思い出しているのだろうか。
今の君は十分にオーブを守れているよ。いや、オーブだけじゃない、この地球そのものを。
もう、そんな悲しい顔で、空を見上げないで欲しい。
だから
「…?どうした、アスラ――ん……」
寝転がったままの彼女の上から、見下ろす様にそっと口づける。
瞬間、開いた金眼がゆっくり閉じていった。
焼かれた空は思い出させない。
悲しく見上げるときは、こうして俺が君の眼を塞ぐ。
その瞼の裏に思い描いてほしいのは、あの日、一緒に並んで初めて見上げた空。
そして今度こそこの手で、ずっと守り続けて見せる
―――「地球」を
・・・Fin.