「まずい…」
5月18日―――
広間の大時計は既に22時を20分も回っている。
コバルトブルーのドレスのスリットから覗かせる、女性なら誰もが憧れる曲線美を描く細い足。そこにきっちりと収まった同系色のハイヒールの踵をカツカツと大理石の床に響かせながら、カガリは乳白色のシャンデリアの光を避けるように壁にもたれる。
普段であれば、オーブの顔である代表として、こうした品を落とす行動はしない。
いわゆる「誰もが知っている外向きの品格高い姫君」を、窮屈に感じつつも演じることはできる。
しかし、現在そんな華麗な演技を見せる余裕は、刻一刻と秒針が動くごとに削られている。
(アレの準備はした。しかし、事は急を要するんだぞ!こんなところでのんびりしている場合ではないんだ。)
誰もが彼女の演技の変化に気づかない。いや、たった一人を除いては。
「カガリ、どうした?いつもの君らしくないな。…いや、寧ろ素が出ている、と言った方がいいか。」
「言い直さなくていい。」
落ち着いた臙脂のスーツを着こなした彼―――アスランが近づき様、そっと差し出してくれたオレンジ色のカクテルグラス。量は少ないが、つまりは「アルコール度数が高い」ことを意味している。
手ぶらでいるのもこの場の空気を壊しかねないと、洗練された所作でグラスを受け取り、舌先で舐める程度に味わう。飲みやすくするためだろうか、アルコールより強い甘みが舌を刺激する。
「君は今日の主賓だ。少しは壁の花になっていないで、広間に出ても…」
この男の口から積極的に誘い出すことは珍しい。普段であれば、勇気をもっていってくれた彼の功績に応えてやりたいところだが、
「だから困っているんだ。」
二度ほど口を付けたカクテルグラスを、通りがかったウエイターに預けて下がらせる。
主催だったら、客をもてなし、どんどん食事や飲み物を勧める立場だし、言ってしまえばこの場の流れさえも支配できる。だが主賓となると、もてなされる側だ。主催者の立場や来客への配慮も含めれば、勝手な行動はできない。無論、中座など以ての外だ。
「丁寧に対応すれば、一人一人からの酌が回ってくる。それだけで時間がどんどん無くなっていく。今日に限って、こんな重要案件があるというのに…」
そう呟いて俯く花の顔を、少しでも上げさせようとするかのように、テノールの囁きが耳からそっと花を潤していく。
「仕方ないだろう?皆、君の記念日を祝いたいんだ。それだけ愛されている、ということだろう。」
「お前の方が嬉しそうでどうする。」
「それは嬉しいよ。…大切な人が沢山の人達に愛されているなんて、俺自身がなんか誇らしい。」
そう言って口元を緩ませる彼は、本当に嬉しそうだ。
「ふ〜ん…だったら、私が広間の真ん中に行けば、「おめでとうございます」とばかりに男性陣がハグ&キスしてくるぞ。それでいいのか、お前は―――」
「それは困る!」
今度は急に素に戻った彼が表情を硬くした。
「ぷ…あははは。」
「そんなに笑うことか?」
今度は不機嫌に少し頬を膨らませた彼。素直に表情が顔に出るようになったのは、傍に居る影響か。いずれにしてもカガリの固い表情が、この時ばかりは安堵に綻ぶ。
(よかった。コイツが表情豊かになって。初めて出会った時は、なんか優等生の仮面を外せない、固い奴だと思ったけど、段々素直に表情を出してくれるようになって。
無論、私と最初に無人島で出会った時も、その後キラとの戦いで喪失に打ちひしがれた時も、感情豊かに本心で話してくれたから、まさかラクスやZAFTの仲間やミネルバの乗員たちから見たら、まるで180度違った印象らしかったけど。寧ろその方が意外だ。)
やっぱり彼にとって、何か違うのだろうか。キラと私は。
「…キラ…」
思い出したようにその名を呼んで、また折角花開いた表情がまた強張る。
時計はすっかり23時近くになっていた。
(拙い…今度こそ、本当に手遅れの事態になりかねない…)
表情を冷静に保つ技はすっかり身に着けた。
だが、無意識にカガリは再び床にヒールを響かせていた。
***
「まずい…」
こちらはそれより時間をさかのぼって17時40分。
「えと…アレはちゃんと準備したし、今から出れば、まだ間に合う―――」
「キラ…」
焦りの色を隠せない彼の背中にそっと舞い落ちる、淡い花びらのような声。
「ラクス、どうしたの?」
「大丈夫ですか?これはかなりの難易度の高い任務です。緊張を伴うかと思います。ですから、私も共に参りましょうか?」
少し緊張感を伴った彼女の表情。
(いけない。心配かけちゃダメだ。)
そんな彼女を解きほぐすかのように、微笑んで見せる。
「ううん。プラントに何かあったら、ラクスがいないと心配でしょ?プラントの皆も、ラクス自身も。」
「ですが―――」
「大丈夫。僕が居なくても、ZAFTにはジュール隊長やディアッカさん達もいてくれるし。」
「…」
「軌道上とスピードから算出して、あと10分以内にストライクフリーダムは発進しないと。心配しないで。ちゃんと無事に帰ってくるから。」
まだ何か言いたげな彼女の柔らかな頬にそっと唇を触れさせて、キラはヘルメットを抱える。
「じゃ、行ってくるね。」
「どうか、お気をつけて…」
祈るように両手を握り、空色の瞳は彼の姿が見えなくなるまで見送った。
<空気圧正常。カタパルトOK。発進準備完了。>
機動音と共に数々のモニターに光が灯る。
キラはブースターを踏みしめた。
「キヤ・ヤマト。ストライクフリーダム、発進します!」
こうして一筋の青い彗星がプラントから発進した。
たった一人きりの、特別任務を背負って…
***
「それでは、我らが代表とこの国の今後の発展を祈って、皆様、盛大なる拍手を!」
会場から、わっと割れんばかりの歓声と拍手が巻き起こる。
時間は22時45分。
思い思いのアルコールを収めた人だかりは、既に高揚しきっていた。
「ありがとう。今日のこの日、皆の心遣いに感謝する。これからもオーブと、そして未熟な私の指導と鞭撻のほど、よろしく頼むな。」
「カガリ様!」
「おめでとうございます!」
喝采と共に、主催が大きな薔薇の花束を抱えて、礼をもってカガリに手渡す。
「凄いな!こんなに綺麗な花束を貰えるなんて。みんなの今日の気持ち、大事にするよ。」
そう言ってそっと人垣からフェイドアウトを図ろうとするも、その心中とは裏腹に、ますますカガリを囲む人だかりが溢れてくる。
やっぱりアスランの言う通り、最初から相手をしてやっていた方がよかったか、と後悔の念に襲われそうになったその時、
「代表、そろそろ次のご予定が…」
いつの間にか隣に現れた彼が、皆にわかるような仕草でそっと耳打ちする。
嫌味にならず、それでいて皆が納得するような彼のその仕草と表情。元から端正な顔立ちと隙の無い身のこなしではあったが、一番の彼の武器は「誠実さ」だろう。奥ゆかしい故、彼が困ったように表情を少しでも曇らせれば、「あのザラ准将が!?」と余程困っているのではと、自然と道を開けたくなってしまう。お陰で今の彼の一声で人垣があっという間に見送りの隊列へと形を変えた。
「まだこの後、ご予定があるのですか?代表。」
「こんな日にまで仕事があると?」
次々に名残惜しむ人たちに、その深紅の薔薇に見合うような優雅な微笑を浮かべ、カガリは優しく手を振る。
「心配するな。大事ない。…ただ少々急を要する任務でな。」
大階段を降り、正面玄関を出ると、彼が既に準備していたのか、すぐそこには黒い車がエンジンをかけたままスタンバイしていた。
「皆、ありがとう!」
胸の上で手を振りながら、そう言い残してスルリと車に乗り込む。と――
「速攻、例の場所に向ってくれ!」
「速攻と言っても、法定速度以内だぞ?」
「構わん!とにかく早く突っ走ってくれ!!」
後部座席から、運転席に坐するアスランの首を絞める勢いで、素のカガリが叫んだ。
***
「あと3時間しかないなんて!」
もっと早く現場に到着し、任務遂行にあたる予定だったが、思いのほか算出速度が合わなかったらしい。
「大気の状態を、もうちょっと正確に入れて置くべきだったな…」
しかし、もう事は始まってしまっている。今更後悔しても時間は巻き戻せない。
キラは無線を入れた。
「こちら、プラントZAFT軍所属「キラ・ヤマト」。着陸許可をお願いします!」
***
「何でもっと早く着かないんだよ!」
車の中で焦れたカガリが声をあげる。
「だから無理だ。国家代表がスピード違反で捕まったらどうするんだ?」
「でも、このままだと、間に合わない!そんなことになってみろ。私はどう責任を…」
急にしょんぼりと俯くカガリ。少し小さい溜息をついて、アスランはギアをチェンジする。
「アスラン?」
「少し荒くなるぞ。しっかり掴まっていろよ、カガリ。」
「荒くなる?って――わっ!」
速度指定のない車の少ない狭いわき道に入ると、カガリが仰け反るようなスピードで、アスランがアクセルを踏んだ。」
・・・to be Continued.