穏やかな波の上を船は滑るように進む。

南洋の照り付ける日差しに、柔らかい海風は心地いい。風が弱いのは船乗りにはあまり思わしくないことだが、現在特に羅針盤は反応していない。つまり魔石の反応がない=魔物が出現していない、ということで、慌てる必要はないのだ。

私は甲板に出した木製のリクライニングチェアに座り、つい先ほどの寄港地で仕入れた本の山を読み込む。

「え〜と、「催促されて与えるのではなく、飼い主は自分の食事を与えてくれる存在だときちんと印象づけましょう。「オスワリ」や「マテ」など、号令を出して従ったら与えるようにしましょう。」か。そして「食べ物を守ろうとするタイプは、将来食事中に器に触ると咬んだり、唸るなど威嚇する犬になる可能性があります。食事は守らなくても大丈夫だと子犬が思えるように、食べている途中でフードや好物を追加するようにしましょう。」…ふむふむ…」

「お頭…一体何読んでいるんですかい?」

手下が恐る恐る私の背後から覗き込んでいる。

「見ればわかるだろう?」

私は顎をしゃくって隣に備え付けたテーブルの山に手下の視線を促す。手下はしげしげと眺めて呟く。

「『初めての犬飼い』、『犬のしつけ方、10の手順』、『ペットの上手な飼い方』、『飼い主がするべき犬の感情』etc…えーと、お頭、これって…」

「見ての通りだ。とりあえず成り行きとはいえ飼うことになった以上、しっかりしつけないといけないしな。」

気合を伝える私だが、手下は何だか気まずそうに指さした。

「あの〜、それって必要ですかい?」

今度は彼が指さした先を視線で促す。そこには

<キュッキュッキュ>

モフ手を起用に使って甲板のモップがけに勤しむアスランの姿が。さらに

「おーい、あんちゃん、ちょっとマストの具合一緒に見てくれや。」

「わかりました。」

というや否や、ヒョイヒョイと身軽に帆柱を駆けのぼって、あの自由に伸びる爪先でロープを結んでいる。

「…もはや躾どころか、言われる前に率先してやってくれて、色々役にたっているんですが…」

「……」

私は黙って今まで読み込んでいた本を<パタン>と閉じた。

 

正直面白くない。

いや、仕方ないが受け入れてやった以上、ちゃんと面倒を見なきゃいけないのだが、気づけばモフ…いや、アスラン・ザラはいつの間にかすっかり艦上生活に慣れていた。

口数は少ないが、与えられた雑務はきちんとこなし、おまけに手先…いや、この場合「爪先使い」が器用なのであちこちで重宝されている。

一応戦闘に備えて、海洋生物をはじめ、魔獣や魔物の知識もキサカが教授していたが、ほぼ一度の講義であっという間に飲み込んでしまった。

「カガリより物分かりが良くて助かる。」

そう言われた時には、むかっ腹が立ったが、気にしないふりをしていた。

そんな私に何だか言いたげな視線を向けてくるアスランだが、こちらが強い視線を向けると、俯いてしまう。

 

更にムカムカが募るのは、戦いの時だ。

小型の魔物が襲い掛かってきたことがあった。

一匹一匹は大した脅威にもならないが、これが多勢で来られると厄介だ。

「小舟を下ろせ!端から叩いていくぞ!」

「はっ!」

手下たちは早速準備に取り掛かろうとした、が、

「ちょっと待ってください!相手は海の生き物だ。こっちが海面に出たら機動性で圧倒的に不利だ。艦砲射撃で叩いたほうがリスクは少ない!」

そう言い切ったのは―――アスラン・ザラ。

いつもは口数が少ないのに、こんな時にはやたら堂々としている。

まるで一群の将みたいだ。

「…確かにアスランの言う通りだ。艦砲射撃の準備を。」

キサカまで彼の意見に同意する。

(ちょっと待てよ!私が艦長だぞ!!)

私は信じられない、という表情でキサカや手下どもを見まわしたが、キサカやトダカは表情を変えない。手下たちはどうしていいのかオロオロしている。

私は唇をかんだ。

「なら私の分だけでいい。小舟を下ろせ。」

「カガリ―――!」

キサカが止めるのも聞かず、私はツカツカと船長室を出た。

そして「い、いいんですか!?」と戸惑う手下を視線で威圧し、小舟を下ろさせる。

飛び乗った私は海面に群成す魔物に端から腰の剣で突き刺していく。

(どうだ!こっちの方が早くて確実だろうが!)

得意になって魔物の死体を浮き上がらせていく私、だったが―――

「カガリ!」「お頭!後ろに!!」

「え?」

艦上のアマギと手下の叫びを聞いて、私は振り返る、と、そこには大型の魔物が小舟に迫ってきていた。

「何だよアレは!? あんなデカい親玉がいるなんて聞いてないぞ!?」

魔物が口を開けて襲い掛かってくる。サーベルで一太刀浴びせたところでビクともしないどころか、むしろ私を一飲みにできる。

―――やられる!

私は思わず両目をギュッと瞑る。そこへ

「カガリィィイイイイイッ!」

上から魔物の親玉に飛び掛かってくる者がいた―――アスランだ。

彼の鋭い爪と強靭な蹴りの一発で、魔物が苦し気に跳ね上がる。そこに

「カガリ、腹は柔らかい!そこに突き刺せ!」

「う、うん!」

言われるまま、私はサーベルを突き刺す。すると親玉は暫く悶絶すると、腹を背にして力なく浮かび上がった。

それを見てか、小物たちはあっという間に散っていった。

「よ、よかった…」

小舟の上で思わず力が抜けてしまう。すると飛び移ってきたアスランが、私の頭上から大声で怒鳴った。

「君はなんて無茶をするんだ!あまりにも直情的過ぎる。少しは考えて行動しろ!」

エメラルドが鋭い眼光を放って一括する。真剣に怒っているのをはじめてみた。

「ご…ごめん…」

その勢いに飲まれて一瞬ひるんでしまった。

「いや、ごめん、大声を出してしまって…その…ケガはないか?」

すると今度は優しい表情に戻って、モフモフの手を差し出してくれる。

無意識にその手を取ってしまった。―――が、後で猛烈に怒りが爆発した。

(何で新入りの半妖に、説教食らわなきゃいけないんだよ!誰が一番偉いと思っているんだ!!)

 

以降、私はなるべくアスランに関わらないようにしようとした。

世話は手下に任せて置こうとしたが、何故かそこだけえらく忠実で、ちゃんと何をやったか私に報告してくる。そう、こんな風に―――

「カガリ艦長、甲板掃除とマストの補修、終了しました。」

別にいちいち報告してこなくてもいいのだが、以前それを言ったらしっぽがシュンと垂れ下がってしまった。

「わ、わかった。ご苦労だったな。休んでいいぞ。」

そう言うと、伏し目がちのまま佇むが、しっぽだけフリフリしている。…多分褒められて嬉しいのだろう。回れ右してこの場を後にするまでしっぽだけはご機嫌だった。

「今更、そんなもの読まなくてもいいんじゃないのか。」

先ほどまで手下がいたと思っていたのに、いつの間にか入れ替わっていたキサカがそう言ってきた。

「いや、一応犬…じゃない狼だったか、飼う以上は私が主人だときちんと教え込まないといけないしな。犬は順位をつける動物だというから、舐められたら困る。」

そう、先日の戦いの時のように、まるで自分の方が強い、と言わんばかりの顔をされては、私の艦長としての権威が示せない。なので、先ずは従順に飼い主の言うことをよく聞くようさせないといけない。なので、改めてこうしてHow to本を読んでいたのだが、

「カガリは以前、犬を飼ったことがあるんだから、大丈夫かと思ったが。」

キサカの台詞に、私は逆に驚いた。

「え?私、犬なんて飼ったことないぞ?」

「いや、以前、王城でどこからか野良犬を拾ってきて、面倒見ていたことがあっただろう。厨房から食べもの失敬してきて、ウズミ様にお小言食らっていたじゃないか。」

「…そうだったっけ?」

「あぁ、よく覚えているよ。」

キサカは懐かしそうな遠い目をして、遥か海原を見詰めている。

そんなことがあった記憶も無きにしも非ず。だが、何しろ幼すぎて詳しい記憶はとぎれとぎれだ。何しろ城もあの戦火で焼け落ちてしまい、家臣も四散した様子を虚ろに覚えているのが王城での私に残された最後の記憶だ。

(でも…そういえば、あの犬は一体その後、どうしたのだろう…?)

私もぼんやり水平線の向こうを見やる。すると

「敵襲ぅぅーーーーーっ!プリスター発見!」

見張りの手下が大声で叫びながら警鐘を鳴らした。

 

プリスターはお化けクジラだ。海のものなら何でも一飲みにする。正直航海で一番会いたくない相手だ。

「お頭、いかがしますか!?」

「絡みつかれたらお終いだ。速攻クサナギは砲弾を用意しろ。私はそれまで奴の気を引く。」

そう言って先んじて戦い挑もうとする私を、いきなり冷徹な声が止めた。

「駄目だ。そんなことをしたら、君が海に引きずり込まれることになる。砲弾の準備ができるまで、船を全力で避難させるべきだ。」

唐突に口をはさんできたのはアスラン。またコイツか!

やたら理路整然と御託を並べて、皆の関心を一気に煽る。

そして、それが求心力となって、今や配下の誰もが彼に一目置いている。

(私の…立場は…!)

溢れてくるこの感情を「悔しさ」というのだろう。

俯き、唇がワナワナと震えてくる。今までこんなことなかったのに!!

「もういいっ!お前らはお前らの好きに戦え!」

「カガリっ!」

キサカの怒鳴り声が聞こえてきたが、構うもんか!私は一人船尾に向かう。すると波間から小島のようなものがぴったりと追走してくるのが見えた。

間違いない、プリスターだ。

普通なら小島と間違うほどの大きさに育つプリスターだが、この船を追ってくる相手はまだ子供だ。岩場程度の大きさしかない。だったら海面に見え隠れしている岩のような2本の角、アレの下に頭がある。そこを狙えば私1人ででも勝機はある!

ボウガンを手に取り、見え隠れするその頭に向かって鉄の矢を連射する。

<グワッ!>

初めてプリスターの声を聴いたが、多分悲鳴に近いこの声は手ごたえがあった証。いっそ船を止めて、一気に複数人で狙えば、そちらの方が勝機があるのではないだろうか。

「おい、船を減速させろ!皆で一気に頭を狙って攻撃を仕掛け―――」

そう言いかけたときだった。

<グラ>

「え?」

船体が揺れる。足元がおぼつかなくなって、私は思わず後ろに倒れそうになる。すると

<ガクン!>

「うわっ!」

完全に下から何かが突き上げてきた。見れば2本の角はそのままのクサナギと距離は変わっていないのに、船だけが揺れている、いや、揺すられている。同時にトダカの声が轟いた。

「船長!それは頭じゃない、奴の尾っぽだ!」

「えぇっ!?」

てことは、プリスターの本体は―――

「船底の真下だ!艦長、早く掴まって!!」

そう言われて慌てて帆の固定用ロープに手をかけようとするが、

<ガターン!>

突き上げられた衝撃で、ロープから指先が滑り落ちる。つかみ損ねた。

「キャァアーーーーーーッ!!」

「カガリィィイーーーーーッ!!」

キサカの絶叫が木霊した。今までに聞いたことのない悲鳴にも似た声。それが何を意味しているのか、十二分に理解できた。

私は船から海に転落している。そして落ちる先には海上に顔を出したプリスターの大きな口。大きく開かれたそれは私を一飲みにするのを待ち構えている。

 

本当に、これで終わりなんだ。

呆気なかったな…

 

お父様との約束、果たさなきゃいけなかったのに…

 

ごめんなさい

 

愚かな私を許してくれ―――

 

一瞬にして脳裏に溢れてくる後悔の念。

あの時、つまらない意地を張らずに、アスランの作戦を聞いていれば、こんなことにはならなかっただろうな。

まさか、人生の最後に脳裏に浮かんだのがお父様よりアスランだなんて。

 

金眼が閉じていく。気を失いかけている私の目に最後に映ったのが、まさかアスランだったとは。

 

(…え?)

 

―――アスラン!?

 

「うぉおおおおおおおおっ!!」

落下する私を追って飛び込んできたのは、まぎれもなくアスランだ。

そして私に手を伸ばしてくれる―――が、ここで普通なら手を掴むことができるだろうに、それができない。

モフモフの手は、取ることはできても握り合うことができない。

私はプリスターの口の中に落ちた。生温かくて粘液が気持ち悪い。でもそう感じている一瞬のうちに飲み込まれるはず。

これで本当に一貫の終わり―――と思っていたが、だが、プリスターはなかなか私を飲み込まない。寧ろ藻掻いている。見上げれば、そこには閉じようとするプリスターの口をこじ開けているアスランがいた。

「カガリ、早く逃げろ!」

「う、うん!」

もがくプリスターに必死に抵抗するアスラン。私は這い上がって頭の上に出た。

「アスラン、そのまま押えていろ。私が急所を突く!」

そうして頭の天辺からサーベルを突き立てようとした、その時だった。

<ゴーー>

空気を切るような音がした。と思った瞬間、私の目に巨大なものが飛び込んできた。

<バッチーン!>

「ぐはっ!」

私は吹き飛ばされた。襲い掛かってきたのはプリスターの尾っぽだ。それにぶっ飛ばされたのだ。

「カガリーーーーッ!」

アスランが叫んでくれるが、私は瞬時に悟った。

(肋骨が逝ったな…)

息をするのが苦しい。声が出ない。何とかサーベルをプリスターの巨体に突き刺し、海中への落下は防げたが、もうこれでは攻撃は無理だ。

「アスラン…お前だけでも・・逃げろ…」

犬は耳がいいからこんな私の声でも聞こえただろう。あ、狼だっけ。いいや、今更どうでも。

だが、次の瞬間、耳にしたのが聞いたこともない悲鳴だった。

「ギャァアアアアアアアア!」

一瞬、アスランかと思ったが、違う…この地鳴りのような響きは、あんな小さな体から出るものじゃない。

プリスターだ。

プリスターが悲鳴を上げている。

必死に藻掻くプリスターはクサナギをその背に乗せたまま爆走する。とんでもないスピードで海域を迷走するため、振り回された私はついに剣に捕まっていられる力もなくなり、海に吹き飛ばされた。

<ドボン!>

「お頭ぁあああああ!」

手下たちの悲鳴が海の中まで聞こえてくる。今度はあの生温かい粘液ではなく、冷たい海の中だ。もう息もできず、今度こそ万事休す―――と思ったが、直ぐに私の腕が引き上げられた。

「カガリ、無事か!?」

キサカだった。小舟で押し寄せてくれたらしい。

「ゲホッ、アス、ラン…は?」

肺が痛み、途切れ途切れになる言葉を何とか紡ぐ。と

「それが…」

キサカが絶句している。彼の見詰める視線の先には、プリスターの口を―――引き裂いていく、アスラン。

しかし、彼の瞳は、あの穏やかな海のような優しいエメラルドではなく―――金色に輝いている。

「…『魔獣化』だ。」

「『ま…じゅう…か』?」

聞き慣れない言葉に、私はキサカの言葉を反芻する。普段冷静沈着で、船の誰より危機的状況でも動じない彼が、初めて私に驚愕の表情を見せながらこう言った。

「力を解放した魔族は、瞳が金色に代わるという。そうなるともう手は付けられない。」

「どう…いう…ことだ…?」

「文字通り、バーサーカーとなる。要はこの場にいるもの全員殺しきるまで止まらない。」

「っ!何…だって!?」

私はアスランを見やる。

確かにあの巨大なプリスターが暴走していたと思ったら、今度は身動き一つとれていない。それどころか口を切り裂かれ、もだえ苦しむプリスターに、更にあの鋭い爪が突き刺さり、体を引き裂いていく。

「あのプリスターを八つ裂きに…」

艦上も手下全員が見守る中、アスランはその強大な力で、クサナギと同じくらいあったプリスターを完全に沈黙させた。

「すげぇ…」

「あのプリスターをたった一人で退治しちまった…」

「すげえぞ、兄ちゃん!」

クサナギの艦上から、手下どもが手放しで大喜びし、歓声を上げている。

だが

「グルルルルル…」

まだその爪から血を滴らせながら、アスランは獣のように唸り声をあげている。口からは鋭い牙を覗かせて。

「おーい、兄ちゃん。もう戦いは終わったんだ。そんなに怒らんでも…」

手下の一人が声をメガホンにしてお気楽にアスランに声をかける。

だが、アスランの様子は変わらない。寧ろまだエネルギーを持て余し、獲物を根こそぎ狩らんと凄まじい妖気をまき散らしている。

「カガリ、早く艦上へ。」

キサカに促されるまま、傷んだ体を引きずるようにして甲板に上がる。その私を追ってか、アスランは簡単に一飛びで乗り込んできた。

「グルルルル…」

「やべぇ…」

「俺たちも引き裂かれるんじゃ…」

ようやくただ事ではない現状に気づいた手下たちは、もはや及び腰だ。そりゃそうだ。海の男が誰も恐れるあのプリスターを、たった一人で倒したんだ。そんな相手にどうやって人間が立ち向かえるのか。この張り詰めた緊張の空気が変わった瞬間にも、アスランはまさにこちらに襲い掛かろうとしている。

「もう終わりだ…」

悲壮な手下の声に、私は必死に考える。

(そうだ、こういう時は、どうすればよかったんだっけ…確か…確か…)

「グァアアアアアアア!」

理性を失ったアスランがついに飛び掛かってきた。

「うわぁああああ!」

手下の悲鳴に、私はその名を叫ぶ。

 

「アスラン!」

 

すると

 

<キーーーン>

アスランの首に下がっているハウメアが途端眩しく光り輝く。

(もうこうなったらやぶれかぶれだ!)

私は肺の痛みも忘れて、大声で叫んだ。

 

「『おすわりーーーーーーーっ!!』」

 

すると次の瞬間、

 

<ズドォオオオン!>

 

甲板にめり込まん勢いで、、見事にアスランが突っ伏した。

 

 

 

・・・to be Continued.