高齢化社会を自立的に生きる
冷たい風が吹く12月半ば、高崎市のマンションに窪田春子さんを訪ねた。
窪田さんの年齢知って驚く。もうすぐ90歳!しかし・初めてお会いした場所が,NTTのパソコン教室だった。40代、50代の方達が多かった中で、大丈夫なのだろうか・・
しかし、講習終了後、ワードを使った彼女の作品見て驚いた。しゃれていて可愛い、チラシ。
どんな方なのか知りたくなった。高崎女性懇話会のSさんから久保田さんの連絡先を聞いた。お話し伺いたい・・と電話すると快諾・・・当然ご家族と暮されていると思い訪ねたのだが・・
外は冷たい風が吹いていたが、窪田さんのマンションは温かな明るい空気にあふれていた。ご主人を亡くされて、一時期、郊外に新設された老人居住施設に入居されていたが、自立した生活には都市部が便利であると判断し、榛名の山ろくから高崎市のこのマンションに転居してきた。これもビックリ・・80歳を越して老人施設を出て、何もかも自分でこなさなければならない、高崎市内でのマンション暮らしを始めるとは!、、。
2DKのゆったりとしたつくりのマンションは、清潔に整えられていた。86歳になられる窪田さんは、週一回、介護保険サービスのホームヘルパーを依頼し、掃除を1時間してもらう以外、食事、洗濯、全て自立。伺ったときは、洗濯物を干しておられた。
窓際の明るい机の上にはパソコンがあった。パソコンを開くと横浜におられる娘さんのメールが届いていた。難病に指定されている持病がある。「でも、がんばりすぎるのよねえ。」メール、読ませていただく。暮れからのお掃除のこと、窪田さんが数日前からひいている風邪のこと。毎日、お互いに安否を尋ねあっておられるとの事だった。
パソコンは若者達の機械ではなく、シニア世代の生き方を支える大切な道具だと気づく。お元気でも高齢である。不安なこともあると思う。
老後を、どう充実させ、どう生きてゆくかは、私達が抱える大きな問題だ。家族に頼らない新しいき方への模索が始まっている。
窪田さんは、どんな生き方をされてきた方だったのだろうか。
お話を伺った。
焦土の中で
まず印象に残ったのは、戦後焼け野原の中で、2人の子供、お舅さんをかかえ、さらにお腹の中にまだ生まれていない娘さんのいた身体で、飛行場の不毛の土を耕して、サツマイモを収穫した話であった。窪田さんは横浜育ち。農業経験はない。体格も小柄。飛行場の固い土が掘り起こせたのだろうか。「それができたのよねえ。粘土質の、赤い硬い地面だったわよ。」驚くことには、ようやくサツマ芋を収穫したら、供出の要請がきたこと。
供出とは、収穫の一部を政府に納入することである。食糧管理法が生きていた時代であった。耕作面積におうじて供出量は指定されてきたそうである。厳しい話だ。
米軍キャンプでの日々
娘さんを出産したがお乳が出ない。ミルクを保健所に申請し、米軍キャンプへハウスメイドの仕事に出た。朝4時半に起床し、炬燵の火をおこし、芋入りのおかゆを作り、1.5キロ歩きバスでキャンプに行く。将校の家庭で、洗い物、子供さん達の世話などをおやりになったそうだ。キャンプ内は豊かな物資にあふれていて、室内は暖かく真冬でもブラウスで過ごせるほど。1年半で、体をこわし、入院となる。まだ幼いお子さんに会えなかったことがつらかったそうだ。
日本の驚異的な経済復興の中で、普通の市民生活を取り戻し、その後は順調な日々を送ることになる。普通の主婦としての日々を都市部で送る。
70歳のとき、75歳だったご主人を亡くされた。子供たちはもうそれぞれ独立し家にはいない。
群馬県の榛名山の麓に新しい施設が建設された。元気で働いていた女性達、老人でも自立生活の能力のあるひとたち対象の集合住宅だった。生涯独身であった皇室の女官の方たちが入所していた施設が前からあったそうだ。東京女子大卒の方達が多かったそうで、外国生活を長くしていた人も多かった。その考え方や意見を取り入れながら、創設者が作っていった居住空間だった。旅行、買い物、皆さん、積極的に生活を楽しんでおられた。台所は個人で自炊だが、お風呂は共同。週1.・2度買い物バスがでて、高崎スズランへ買い物に出る。五十戸、のうち、五戸くらいはご夫婦がおられた。独身者も、ご夫婦も、積極的に生活を楽しむ方たちが多かったということである。自然の豊かな、野生の雉が飛来する、美しい環境だったようだ。
YWCAで留学生達のお世話をするボランテイアをしており、その頃の知り合いとともに、カナダの施設へ、見学旅行したのもこの頃である。カナダの施設を訪ねる。ミセス樺山との出会い。
オタワにあるシルバーリビングハウス。十年がかりで、老人達が自分達で作った居住空間である。名称はユニタリアンハウスである。自治組織であり管理者はいない。中心的人物が、ミセス樺山だった。カナダの女性だが、鹿児島の名家に嫁ぎ、今は離婚し、樺山を名乗っている。小児麻痺で足は不自由なのだが、車は自在に運転でき皆を乗せてくれた。窪田さんと意気投合し、ぜひ、自分の部屋で一泊して欲しいといわれた窪田さんは、部屋に案内されてびっくり。ひどく散らかっている。お客様が来るからかたずけるという発想がない。
チリとほこりの中に日本からもち帰ったものなどが埋まっていた。食事は調理無しのドライシリアル。台所は使った形跡が無い。でも、意気軒昂に、女性の権利、自分の社会運動など、語ってくれたそうだ。
翌日、別なご夫妻の部屋に招待される。別世界のように素敵なインテリア、豪華な落ち着いた室内。
全くちがう。しかし、それぞれの違いを認め合い、自分達の生き方を楽しむ人々だった。
シュークリームを作ってご馳走したくなり、樺山さんに運転してもらってマーケットに行った。しかし、あまりにもたくさん粉の種類がある。シュークリームは失敗してしまった。
失敗しても、お菓子を作って皆にご馳走したいという気がおきるくらい、ユニタリアンハウスは明るい、自由な空気であふれていたそうだ。
榛名町の施設も、創設者が亡くなり、微妙な変化が生まれてきた。活発に生活を楽しむ人たちが減り、旅行や外出も減ってゆく。生活の質が微妙に変化してきた。そう感じ始めた窪田さんは高崎のマンションに移る決心をする。
80歳を越え、老人施設に入居するという話はきいても、其処を出て、一人暮らしをはじめるというのはきいたことが無い。できそうで、できない事だ。
現在の窪田さんは、理想的なグループホームを建設する手伝いをしたい、と、言う。窪田さんが何度も強調される大切なポイントは、老人達が自主管理できる生活の場であるということだ。
介護保険を利用し、自立した生活を作る。県内の既存の施設に関する感想など伺った。オンブズマン制度がやはり必要でしょう、と、おっしゃる。窪田さんのマンションには、ベッドが3つ、寝室は2つある。お友達がよく泊まりに来るそうだが、若い同居者がいてもいいと思うのよ、と、おっしゃる。
カナダではこうした形式の、血のつながらない人間同士の同居が進んでいると聞く。これも楽しいだろうなあと思いながら、窪田さん宅を辞した。
窪田さんの夢は、私達がえがく共通の夢でもある。勇気ある先輩の生き方に心からエールをおくり今後も、ご意見を伺ってゆきたい。