憲法の中の男女平等


日本国憲法の草案を作った女性、シロタ ゴードンさんを、高崎経済大学に招いて講演会を開きました。私はこの講演会を企画したスタッフの一員として、ベアテさんと、身近に接触できました。ベアテさんとお会いしたのは、東京・代々木の婦選会館での講演以来2度目でした。後援終了後、いっしょに食事できました。たった一言でしたが、私の質問に答えてももらえました。下記はその時の思い、その他を高崎女性懇話会の会報に載せる為にまとめたものです。

 五五年前,ひとりの若い女性が皇居のお堀端を歩いていた。アメリカ国籍のユダヤ女性22歳。歩きながら不思議な思いに駆られる。行き交う日本の女性の顔をみると、

「あなたの未来は今私が書こうとしている事項で決まるのよ」

そんな科白が口をついて出そうになった。

 日本国憲法の人権条項,世界で最も優れたものと評されるこの条項の、男女平等を明確にうたった第三章 二四条は、この若い女性、ベアテ、シロタ、ゴードンさんが起草したものである。

 

 一九九二年放映されたテレビドキュメント「日本国憲法を生んだ密室の九日間」(NHK)は、多くの日本人に衝撃を与えたと思う。日本国憲法の草案が連合軍総司令部(GHQ)民生局の二五名で作成されたこと。初めて知る、驚きをもって知った事実だった。この二五名の中に、ベアテさんが含まれていたのである。

 

 昨年十二月、高崎経済大学のキャンパス、イチョウの葉の美しく黄金色に染まった並木の中を、ゆっくりとした足どりで、歩いてこられたベアテさんの姿。五五年経過し,二十二歳の女性は,白髪の老人となっていた。たかさき女性懇話会がお招きし,講演会を開いたのである。500名,聴衆は集まるだろうか?不安だった。ベアテさんを知る人は多いのだろうか、それも心配だった。しかし、心配は無駄だった。風の冷たい冬の日である。しかも,高崎経済大学の講堂。わかりにくい道順。なのに、講演開始の1時間前から、車に分乗し,あるいはバスで、県内各地から多くの人が駆けつけてくれた。講演会場はすぐ一杯になった。

 

 焦土の中で作られた私達の日本国憲法。自由と平等と平和をうたうこの憲法を私達は深く評価し、そして、この憲法によって私達の人生や生活が守られてきた、このことがあらためて認識できた気がした。

 

 ベアテ・シロタ・ゴードン。

父親はレオ・シロタ氏。日本人の血の混じるロシア国籍のユダヤ人である。母もキエフ生まれのロシア人。2人は、ウイーンで出会い結婚する。ベアテさんはオーストラリア国籍の子供として生まれた。5歳でご両親とともに来日し、十年間日本で過ごす。幼児期から思春期に至るこの年代を、ベアテさんは日本で過ごし、育っていったわけである。講演は通訳無しの日本語で行われた。流暢な日本語だった。

 

 十年間の日本での生活の中で、

ベアテさんは日本女性の現状を肌身で知る。戦前の旧民法下では、女性の立場は、きわめて弱いものだった。参政権はなく、婚姻の自由もなく、お金を借りる自由すらない。親が娘を売る、という行為も違法ではなかった。私達は、旧民法の中身を、二十一世紀の今、もっと正確に知る必要がある。戦争終了後、しかし、当時の日本政府は、この旧民法とほとんど同じ内容で、新しい法の整備をしようとしていた。少女期のベアテさんは、日本女性の実情を深い悲しみと人間としての怒りの中で捉えている。

彼女自身、タイムの記者生活の中で、アメリカ社会の男女差別の壁に苦しめられていた。

 日本の官僚は保守的で巧妙である。民法で骨抜きにされないためにも、より具体的に女性の権利を憲法に盛り込もうとした、と、その苦心をベアテさんは語っている。

「日本には、女性が男性と同じ権利を持つ土壌はない。日本女性には適さない条文が目立つ。」当時の日本政府の強固な言葉だった。

 

 講演終了後、ベアテさんを囲み、食事をする機会があった。このとき、ロシア国籍の両親、出生はオーストラリア。人格が形成される大切な時期を日本で過ごし、やがてアメリカ国籍を取得したベアテさんのアイデンテイテイは、主にどの国にあるのだろうと質問した。ベアテさんは答えてくれた。自分がどの国に属するかは重大なことではない。また特に考えたこともない。心に深く残る言葉だった。国境を超えた、普遍的な視野で、ひとりの若い女性が、人間の理想の実現のための戦いをしてくれたのである。  
              高崎女性懇話会会報 青炎に寄稿