ビタ・セクシャリス もどる
「余計な前書き・・・前から性欲に焦点を当てて自分史を書きたいと思っていた。以前に何回か書いてみたが、あれもこれも書きたいと欲張って収束がつかなくなって書けなかくなってしまった。私のような異常きわまる性欲の精神史の人生を送ってきた人間は、まずこの世に二人といないと自負している。そして、それは単なる私の属性の一つとしての性欲史ではなく、私の持って生まれた宿命、感性、意志、決断、人生に対する私のスタンス、など私の全てを規定しているものだと思っている。今回、簡潔に纏められて書けたことは無上の喜びである」
幼稚園
物心がついて記憶に残っているのは幼稚園児の時からである。私は埼玉県草加市の松原団地で幼稚園から小学校卒業まで過ごした。といっても、小学校は合計5回も転校している。小児喘息のため二度ほど、喘息の療養施設に一年半ほど、親と離れて過ごしたからである。内気で虚弱体質なため幼稚園はつらかった。私にとって幼稚園は地獄だった。別に特定の子に虐められていたわけではない。私は集団が苦手というか怖かったのである。
「幼稚園行くのヤダー」
と毎日、叫んだ。私は記憶にないのだが、私は子供の時、ホットケーキが好きだったらしく、弁当はホットケーキにしてくれれば行く、と母親に頼んだらしい。それで実際、母親にホットケーキを作ってもらって幼稚園に通っていた。昼御飯の時、アルミニウムの弁当箱を開けると、私だけ毎日、毎日、ホットケーキなので園長が疑問に思って、母親に訳を聞いたらしい。母親も正直に訳を答えた。今思うと極めて恥ずかしい。なぜだか私は幼稚園のスクールバスを泊めている後ろの物陰を怖れた。あそこに何か怖い化け物がいるような気がして、怖くてしかたがなかった。幼稚園では、ほんの数人、私同様、内気で気の合った友達は出来たが、活発に遊ぶという事はなかった。ともかく私はゲマインシャフトの光景を見るのが怖かった。友達と遊べないので、一人で絵を描いたりするのは好きだった。家でも、一人で絵を描いたり、フラモデルを作ったり、地図を写したりと、そんな事をしていた。幼稚園の時に、家で私が描いたマンガを後に見つけたのだが、これが、驚くほど上手くて吃驚した。絵は普通だが、ストーリーがちゃんとあって、駒割りもしっかりしているのである。
小学生になった。
当然、私は小学校が嫌いだった。アレルギー体質のため、いつも鼻水が出て、それを服の袖で拭いていたので、袖がテカテカに汚くなった。小学校も怖く、元気な子供の共同体が怖かった。この頃から喘息が起こり出した。父親も伯父も喘息だったため、私が喘息になるのを怖れて、親は色々と足を運んだ。ある医院で心電図を測られて、これは一体何を調べるのだろうと、疑問に思って怖くなった。学校へ行くのにも吸入器をポケットの中に持たずには行けなかった。発作が起こると止まらないからである。神奈川県の二ノ宮に喘息の療養施設があると聞いて、親は私を其処へ入れる事にした。親と離れるのは、つらく、心細かった。
小学校二年の二学期に其処に入った。しかし入ってみると、それほど怖くはなかった。みんな喘息児で虚弱体質だったからだ。入って、初めの頃は、引っ込み思案の私は一人の女の子と毎日、ベッドの下に隠れてお喋りしていた。しかし校庭で保母さんと野球をしている子達に、「入れて」と私から言う勇気はなく、彼らを羨ましげに眺めていた。ある時、みなが校庭で野球している時、保母さんが、
「浅野君も入りなよ」
と誘ってくれた。表情には出さなかったが、この時、私がどんなに嬉しかったことか。私はみなと野球をした。これがきっかけで、私はここの集団に入る事が出来た。私は、トランプを知り、将棋を知り、独楽回しを知り、友達と遊び、ふざける事を知った。そして私に性欲の目覚めが起こり出した。私は同級生に一人の静かな可愛い女の子に目をつけた。もちろん私は、空想の世界でしか女性と手をつなげない。寮では、昼に一時間、ベッドで昼寝をとることになっていた。私はこの時、彼女との夢想に耽った。
それはこんな夢想である。
ある小屋がある。そこで私は彼女と変わった共同生活をするのである。私は彼女を裸にし、柱に縛ってインディアンのように勝ち誇る。彼女の物を全部、分捕り、彼女をみじめにするのである。食べ物は食べさせてやるのである。そういう生活がしばし続く。しかし、ある時、彼女は縛めから抜け、私を捕まえてしまうのである。そして、今度は逆に彼女が私を裸にして、柱に縛り、彼女が勝ち誇るのである。その永遠の繰り返しである。もちろん私はSMなんて言葉も概念も知らなかったが、それが最高に興奮する夢想の形なのである。私は物心つく時からSM的なものにしか興奮できなかった。
ある別の可愛いちょっとボーイッシュな女の子が一年下にいた。小学一年生である。寮には、彼女より年下の幼稚園児の威張った悪ガキがいた。彼は彼女を人のいない所に呼びつけて、パンツを脱いで、まんこを見せろ、と言い寄ったらしい。彼女は彼には逆らえないため、泣きながら、パンツを脱いだそうだ。私はそれを聞いた時、女の子の裸を見た悪ガキが羨ましかったが、同時に、裸を年下の悪ガキに見られてしまう彼女になりたい、という願望も感じた。勉強はやるだけの事をやる程度だった。寮の夕御飯では保母さんが回りに立っていた。ある時、私は、一人のきれいな保母さんに目をつけて、彼女の裸を想像した。何か、してはいけない事をしている罪悪感を感じて恥ずかしくなった。
この年、伯父が喘息重積発作で死んだ事を知った。
ある時、保母さんがこんな遊びをした。それは縄抜けの遊びである。生徒を集め、
「縛ってあげるから抜けてごらん」
と言って、子供達を縄で後ろ手に縛った。子供達は楽しそうに、はしゃいで縛られて、抜けようとした。保母さんも子供達も、単純にそれを、遊びとして楽しんでいた。しかし私だけは、その、後ろ手に縛る、という行為に何ともいえないエロティシズムを感じていた。そんな事で、其処には一年半、いて、小学3年の終わりに退院した。
4年になった。
私は松原団地にもどった。そして元の栄小学校に入った。だが、元気な子供には私はついていけなかった。近くの公園で野球に加わったが、体力が無く、みなにはついていけなかった。私はまたプラモデルだの地図の模写、だの漫画の模写だのと一人で遊ぶようになった。ある時、私はこんな絵を書いたのを覚えている。
女を木に縛って、リモコンの戦車や飛行機など色々なオモチャで女を虐める、というような絵である。しかし絵は上手くなかったし、また、あまりしっくりしなかった。何となく私の意にそわない絵だと思って嫌気がさして捨てた。
勉強はほどほどにやった。成績は普通だった。ただ図工だけは、いつも良かった。
何かの機会に、安藤広重の東海道五十三次の小さな絵を見て、気に入ってしまい、それがどうしても欲しくて、秋葉原の交通博物館で売っている、と聞いて一人で秋葉原に行って買ってきた。私は欲しいものがあると、どうしても手に入れなければ気がすまない執着心が強いのである。
ある時、クラスの男が朝の通学中に拾った大人の週刊誌を教室で広げていた。グラビアには女のヌード写真があった。男も女もキャーキャー騒いだ。私はなぜ女がヌードになるのか、わからなかった。女は裸を見られたくないと思うのが普通であり、やはり金のため、しかたなく脱いでいるのだろうと思った。金のためにヌードになる女をかわいそうだと思った。
学校の掃除のグループで、ある時、こんな遊びが流行った。それは5人の生徒の内、一人だけ、理由もなく仲間はずれにして、残りの4人が、肩を組んで「うらぎり」と仲間はずれにした生徒を囃し立てるのである。別に裏切っているわけでも、何でもない。別にいじめではなく、ふざけた遊びであり、遊びが終われば、また友達となるが、この人間の本能的な悪を楽しむためだけの、目的のない原始的な遊びが私には面白かった。私はそれにエロティックを感じた。SMにも、そういう要素があるからである。
4年が終わった。
5年になる時、私は静岡県の金谷小学校に転校することになった。
金谷は大井川を越した街であり、祖父の家である。私は母とそこに引っ越した。なぜかというと、父と母は宗教的、その他もろもろの考えの違いから、父親にやりこめられ、ノイローゼになってしまい、もはや一緒に暮らすのが不可能になってしまったからである。
金谷の小学校に転校した初日。先生が簡単な紹介をした。
「今日から、転校生が来ました。浅野浩二君です」
私はペコリと頭を下げた。直ぐに、教室の、ある席があてがわれた。その時の授業は、国語で生徒が順番に教科書を朗読していた。ちょうど私の前の人が朗読を始めた時、教室の外から、他のクラスの先生が、「先生。ちょっと」と呼びかけたので、先生は教室を出た。前の人の朗読がおわって、私の番になった。転校して、まだ10分もたたないのに、いきなり、私が読むべきかどうか、という事態になった。こういう場合、まだ、クラスに慣れていない、という事でパスするか、どうか、迷う人もいるかもしれない。しかし私は、ためらわず読んだ。それは、勇気ではなく、私には、ふざけた事をしたがる性格があるのである。
一人が拍手したのをきっかけにクラス全員が拍手した。
部活は体操部に入った。
私の部屋は、母屋と離れた小さな離れだった。ここは、伯父(母の弟)が結婚するまで使っていた部屋だった。
祖父は厳しい性格だった。祖父は、私の喘息が治らないのは、私の甘えた性格のせいだと思っていた。そのため、私から、やさしい人を全部、遠ざけた。伯父は、祖父の息子とは思えないほど、やさしい性格の人だった。大学を出て、実家に戻り、川崎鉄工所に就職し、きれいな人と恋愛結婚して、車で30分くらいの所に建て売りの家を買ったのである。
伯父はよく祖父と仕事の事で実家に来た。まだ言葉が話せない、よちよちの子供を連れてきた。伯父の妻も、友働きで、パートをしていた。そのため、私が、その子のお守りの役になった。
「おい。浩二。ちょっと、出かけてくるからタケシ見ててな」
そう言って、祖父と伯父は出かけていった。子供は、私に興味があるらしく、私の方を見ていた。母屋は広かった。それで、私はよく、畳の上で片足踏み切りの練習をした。きれいな前転飛びは、空中で体が反って、フワッと浮いた後、直立で着地する。私はそんな、きれいな完成された前転飛びは、その時、まだ出来なかった。しかし、体は反っていなくても、尻もちをつかずに何とか、回転することは出来た。子供は、まだ言葉は話せないが感情はある。私の前転飛びを見てニコニコしている。私も、ちょっと自慢するように、子供の前で何度も前転飛びをしてみせた。どうせ何の影響も与えないだろうと思っていた。
すると、あとで、祖母、が、タケシが最近、でんぐり返しを、よくしてる、と聞いて、驚いた。子供は、私の前転飛びを見て、マネをし出したのだ。私はそれを聞いて、自分が誰も見ていないのをいいことに、子供に下手な前転飛びを見せていたのを知られてしまって恥ずかしい思いをした。
伯父夫婦はとても優しく、頑固な祖父は自分だけ伯父夫婦の所に行った。しかし私には行かせなかった。私が優しい人と接すると、喘息が治らなくなると思ったからである。しかし私は伯父夫婦に会う事があっても、親しげな態度をとらなかった。私は、優しい人、好きな人からは、ことさら遠ざかろうとする。私はシャイなので優しい人の中にズカズカ入り込んでいくのが嫌いなのである。私はプラトニストである。なので無口で能面を装っていた。祖父は単細胞なので、そんな私の心など解るはずもなく、何を考えているんだか、分からない子供と見ていた。
ある日の真夜中、大きな叫び声で私は起こされた。
何事かと思って、飛び起きた。吃驚した。
母が暴れているのを祖父と祖母が必死で取り押さえているのである。祖父と祖母は母が舌を噛まないよう必死でタオルを口につめ込んでいた。母は錯乱状態で、私も祖父も祖母も誰だか分からなくなっていた。つまり発狂したのである。
その翌日に母は、精神病院に入院した。
しかし私は母に愛情を感じていなかったので、何とも思わなかった。
私は祖父の車の助手席に乗ることが、たまにあったが、その時、祖父の運転を興味深く見ていた。ギアチェンジの操作が面白かった。私も車を運転してみたいと本気で思っていた。野原でなら祖父が助手席について私が少し運転しても安全だろうが、祖父はとてもそんな事をさせてくれる人ではなかった。
ある日、朝から祖父はトラックに私を乗せて、木材を運ぶ仕事に連れていった。私はトラックの荷台に乗らされた。風を切りながら外が見れて面白い。学校の間近を横切った。生徒がグラウンドで野球をしている。知ってる顔もあった。私は彼らに気づかれないよう、身を伏せた。仕事場についた。木材が山のように積まれている。祖父の命令で私は重い木材を一人で肩に担いで運んだ。その日は朝早くから、夕方まで働いた。仕事量としても大人のアルバイトと同じだろう。だが、私はそれが嬉しかった。それは働く事の純粋な喜びだった。私だって、ちゃんと仕事が出来るという事が嬉しくて、木材がかなり重くても、いや、重ければ重いほど、一人前の仕事が出来る自分が嬉しかった。働いた後の昼ごはんのおいしいことといったらなかった。その日は晴天で太陽が眩しかった。しかし夕方になると、いささか疲れてきた。
学校は可も無く不可もなかった。
ただ、みな体力があって、先生はランニングを生徒の日課にしていた。そしてランニングした距離を足していって記録につけさせていた。こればかりは、ダメだった。私がクラスでドン尻だった。
泳げなかったので、夏の水泳の時間は見学に回った。
かけっこも、やはり勝てなかった。勝てないのは、やはり口惜しい。
体育の先生は体育大学出で、百メートル走を鉄砲玉のように走る姿にびっくりした。
一度、相撲をやったことがあるが、苦戦したが、見事に勝てて、その時はとても嬉しかった。
ある日の事、私は静岡市に行った。勿論、一人で行くはずはないから、誰かに連れて行ってもらったのだが、誰だが思い出せない。何のために、静岡市に行ったのか、その理由も聞かされていなかった。何をするところかもわからない。ただ、待合室があって、ちょっと大人の週刊漫画があったので、そっと見てみた。内容はよく解らないが、男と女が砂浜を走っている漫画の一コマがやけに記憶に爽やかに残っている。私は呼ばれて、ある部屋に入った。机の向こうに女の人が座っていた。彼女は私に色々なテストをした。同じ大きさの小さい箱を三つ並べて、どれが一番重いか、とか、丸い敷地の中にボールが入ってしまったら、どういう風に探すか、とか鉛筆で書かせたりした。何でこんなテストをするのか、わからなかったが、私は特に知りたいとも思わなかった。それより、若いきれいな女の人と一対一で話しているのが嬉しくて楽しかった。
後でわかったが、それは喘息の施設に入るための知能テストだった。別に知能テストなどする必要も無いだろうが、習慣でやっていたのであろう。私の評価は、「普通」とされた。私は彼女と話すのが楽しかったので、テストはちょっと、うわの空だった。しかし本気でテストに取り組んでも、やはり評価は、「普通」だっただろう。私も知能テストはそれなりに真面目にやったからである。ただ彼女は、冷めた目で私の知能をテストしていたのだと思うと、ちょっとさびしくなった。私は彼女に淡い想いを寄せていたのに。
そういう事で5年の初夏に、二回目の喘息施設に入ることになった。
金谷小学校には三ヶ月くらいしかいなかった。二回目の施設は、静岡県の伊東からさらに行った、川奈で降りて、バスで行った所にあった。川奈臨海学校である。ここで私は小学校卒業までの一年半を過ごした。
私が勉強するようになったきっかけは、この川奈臨海学園の時からである。ここは楽しかった。それまで私は学校の成績は普通だった。特に良くもなく、特に悪くもなかった。私はそれまでムキになって勉強する必要を感じなかったから、しなかったのである。人生の目的がわからなかったし、ムキになって勉強して多少、偏差値の高い学校へ入ったからといって、たいして変わりはないだろうと思っていた。それに私は塾まで通うガリ勉がエゴイストに見えて、みっともなく感じられた。ここの施設は、一クラスの人数が少なかった。生徒はみな、喘息児である。勉強のレベルは普通の学校よりは少し低い。勉強の出来る子と出来ない子が、はっきりわかれていた。入って間もない、ある算数の時間である。先生はある問題を出した。何の問題だったかは、忘れた。私はそれが解った。
「わかる人はいるか?」
と先生が言った。クラス一の秀才の山崎が、手を上げた。彼は問題の回答を言ったが、それは間違っていた。彼は真理の象徴だったから、黙っていたら彼の考えが正解になってしまう。先生は、すぐに彼の間違いを言わず、やさしく笑いながら、
「他の意見の人は、いるか?」
とクラスを見回した。私は、手を上げて、回答を言った。正解をわかっているのは先生と私だけである。そこで先生は、生徒達に、山崎と浅野のどっちが正しいと思うか、と生徒の判断を求めた。
「山崎が正しいと思う人は?」
と聞くと、ほとんどの生徒が手を上げた。
「浅野が正しいと思う人は?」
と聞くと、誰も手を上げなかった。
「本当にそう思うか?」
と先生は何度も念を押した。山崎と私の一騎打ちになった。授業がおわる直前まで先生は粘った。みなは、問題は、わかっていないのに、山崎が秀才という理由で、考えを変えようとしない。授業がおわる直前に先生は、
「正解は浅野の方だ」
と言って、問題を説明した。先生は人格の優れた人で、私を誉めなかった。だが、私はこの時ほど嬉しかった事はない。今まで、大人数のクラスで積極的に手を上げることなど引っ込み思案の私にはなかった。クラスが少数だったということも幸いしていた。私が嬉しかったのは、クラスの秀才に勝てたこともあったが、私にはもっと嬉しい事があった。それは発見だった。先生は差別やえこひいきを嫌う性格だったので、あからさまに誉めはしなかったが、心の中で私を誉めてくれている事は十分、わかった。
私は、その時、はじめて感動をともなった発見をした。
「勉強できると先生に誉められるんだ」
「勉強できると先生に愛されるんだ」
愛に飢えていた私は、それがきっかけで勉強に打ち込むようになった。私は愛されることを求めてひたすら勉強に打ち込んだ。成績は全科目、ぐんぐん伸びていった。勉強だけではなく、運動にも身を入れた。元々、私は、持久力はないが、運動は好きだった。その他、作文や絵など学校のことには全て身を入れた。山崎が退院した。そのため、私がクラスの首席になった。選挙によって私はクラス委員長に選ばれた。だが私はカタブツではなく、友達と大いにふざけもした。
6年になった。
一部屋は、5〜6人くらいで、6年生が室長になった。
勉強は、夕食後に勉強の時間が決まっていて大きな自習室でやった。ある時、横にいた友達が、おい、と言って話しかけてきた。ノートに何やら下手糞な絵が書かれている。彼は笑いながら、それでも熱心に説明した。それは様々な女の殺し方だった。
「この女は高い所から突き飛ばして殺す。この女は首吊りにして殺す」
などと笑いながら説明した。私は彼とは親しかったが、そんな残酷な事を考えていることに驚いた。それはサディズムなのか、残酷さなのか、はわからない。サディズムとは、たとえ相手を殺しても形を変えた愛なのである。しかし殺すのは女だけなので、やはりサディズムなのだろうと思った。(勿論、この時には、まだサドとかマゾとかいう言葉は知らなかった)私は自分の性欲の仲間を発見したようで、何となく嬉しかった。しかし私は、彼のサディズムには内心、大いに反発した。
「殺しちゃったら元も子もないじゃないか。捕らえて色々な悪戯をしていじめた方が面白いじゃないか」
と言いたかったが、私はノーマルな人間を演じていたので勿論、何も言わなかった。
ある時、テレビでこんなシーンを見た。男のグループと女のグループが共謀して大金を盗んだのである。山分けする約束だったが、男のグループは金を一人占めしてしまおうと、女のグループを裏切ってしまうのである。女のグループは怒って、男のグループの一人を探し出して捕まえてしまう。男は中年の、たよりない男だった。女三人は、男を女のアジトに連れて行くと、男のグループの居場所を言え、とせまる。しかし男は答えない。「じゃあ、仕方がないね。吐くまで責めるからね。さあ、服を脱ぎな」女に言われて男は服を脱ぎ、パンツ一枚にさせられる。女は三方から男を取り囲む。「さあ、裸踊りをしな」女に命令されて、男はパンツ一枚で、裸踊りをするのである。女達は笑いながら、「もっと腰をくねらせな」などと言って、男の尻をピシャンと叩く。男が吐くまで、この裸踊りの責めは終わらないので、男はいいかげん疲れてきて、「もう堪忍して下さい」と女に許しを乞う。しかし女達は許さない。
そんなストーリーだった。
私は激しい官能を感じた。私は、その男になりたい、とまでは思えなかったが、それは私が夢想で求めていた性欲の形態の、生々しい表現だった。
寮の保母さんに、わりときれいな人が一人いた。それが、男の保父さんと結婚することになった。生徒は彼をタカヤマジンと原始人のように呼んでいたことから、あまり格好いい男ではなかった。その二人が結婚したのである。これはちょっと、女の方が損をして、男の方が得をした結婚だと思った。保母さんは、タカヤマジンが、
「あまり外に行くなって言うの」
と寂しそうに語っていた。私は、その時、結婚生活というものが、どんなものか全くわからなかった。親しき仲にも礼儀あり、で、夫が妻の体に触りたい時は、「さわってもいい?」と聞いて、妻が肯いたら触るものだと思っていた。
「夜の保母」で書いた一年下のませたガキが保母さんに、「セックス」について聞いていた。私は、「セックス」という言葉は、その時、はじめて聞いた。もちろん意味などわからない。どうも男と女が裸になって何かするらしい。私は聞いただけで、生理的嫌悪を感じた。大人は、そんなおぞましい事をやるのか、と気持ち悪くなった。もちろん男と女がエッチなことをするのはいいが、そんな事は趣きがない。と思った。女が裸になるのはいいが男も裸になってしまったらエッチじゃなくなってしまうじゃないか。
小学校の頃は、テレビにせよ、漫画にせよ、私は、弱く可哀相なものが虐められる場面に、官能を感じた。
お転婆なためロケットに縛りつけられて打ち上げられてしまうコメットさん。
スカートめくりをする悪い生徒をお仕置きするため、女生徒達にスカートを履かせられてしまい、女生徒達にスカートめくりされ、困ってしまう男の子。
悪戯っ子にダイナマイトを尻尾につけられて泣きながら走っている猫。
悪戯の罰として木に縛られて一人ぼっちで空を見て溜め息をついている架空の動物。
髪の毛を何匹ものギデオンに引っぱられて困っているミクロイドSのアゲハ。
そういう弱い者が虐められて泣いているシーンに私は魅せら興奮した。
6年になり卒業が近づいてきた。ちょうどその頃、鎌倉に買っていた土地に家が建ち、松原団地から鎌倉に引っ越すことになった。中学からは鎌倉に住む事になる。中学はどこへ行くのかわからなかった。それで母の母校である東京の私立の自由学園という学校に行く事に決めた。入学試験があるので、勉強しなければ、と思った。しかし、どんな試験なのかわからない。それで、ともかく漢字の書き取りをやった。就寝時間後に勉強は出来ないので、夜中にトイレに行って、同室の一年下の子に、呼んでもらって漢字の書き取りをした。
冬になって試験を受けた。何か、いわゆる点数をつけるペーパーテストは少なく、面接も受験者全員でやる集団面接で、これが入学試験か、と驚いた。数日後に合格の知らせを聞いて嬉しかった。
中学生になった。
私は自由学園に入学した。入るや予想と違い、ひどい学校だった。雑用は何から何まで全て一年の仕事だった。寮には一年生から六年生までいて、上級生はやたら威張る。まず寮にいる上級生、全ての生徒の名前を覚えなくてはならない。一年は電話に出る役があるから上級生の名前を全部、覚えなくてはならないのである。覚えられない生徒は、「出来が悪い」生徒ということになり、いじめられる。朝食の後の掃除で、床を雑巾がけしていると、朝食に出ない朝寝坊の上級生達が部屋から出てきて、雑巾がけしている一年生を面白半分に蹴っ飛ばす。一体、何なんだ。この学校は。洗濯にせよ、一年は手洗いで、洗濯機を使ってはならないのだが、二年からは洗濯機を使っていいのである。万事、そんな調子である。学校の実態がわかるにつれ、私は失望した。
学校の体育ではクロスカントリーという4.5kmのマラソンがあった。上級生が笑って、
「地獄のクロスカントリー」
と言った。聞いてビビッた。普通の健康な人でも、地獄なら、持久力の無い私には一体どうなるのか?地獄の下は何なのだ?クロスカントリーが始まった。途中から運動誘発喘息発作が起こり出した。それでも、休むわけにはにかない。発作が起こっている時に、さらにハードなマラソンをするので、喘息はさらにひどくなっていった。呼吸が苦しく耐えられない上に、汗びっしょりで、チアノーゼとなり、足はガクガクで、頭は錯乱していた。それでも走らなくてはならない。拷問である。何とか学園にたどり着いた時は、まさに拷問が終わった時の気分だった。ちょっとこれは耐えられないと思って次回からクロスカントリーは休むことにした。
そしたら、クラスの剛のヤツがやって来て私の襟首を掴んだ。
「それじゃあ、俺達のクラスは完全出席、出来ないじゃないか」
と言ってビンタする。完全出席というのは、月の初めに男子部女子部合同の礼拝で行なわれるもので、前月、クラス全員が無遅刻、無欠席だと、よくやったと学園長やら教師やら生徒らが拍手するのである。私はとんでもない学校に入ったと思った。こんなのはナチスの全体主義いがいの何だというのだ。この学校じゃ、病気になっても休む事も許されないのか?それなら入学試験の時、体力の無い人間は不適格として落とせばいいじゃないか。そんな全体主義の教育方針なら入学式の時、徴兵検査して体力のないヤツは落せばいいじゃないか。私のような肺病は即日帰郷で落ちただろう。
学校では毎年5月に3000メートル級の登山があった。クロスカントリーも出来ないようなら、そんな登山は不可能だと思った。それで、先生に頼んで中学の三回の登山は免除してもらった。
土曜の放課後から日曜は外出、外泊が認められていた。
寮生活が嫌いな私は土曜に家に帰り、日曜の夜に寮に戻った。寮に戻る時には、たいてい駅前の書店に寄って、漫画を立ち読みした。書店の奥の暗い所に平積みされている、あるいかがわしそうな雑誌が私を激しく惹きつけた。ある時、店員の目を気にしながら、私はさりげなく、その雑誌を見た。その雑誌を初めて見た時、
「まさか」
と私は思った。その表紙はセーラー服を着た女が、後ろ手に縛られて、畳の上に正座している写真だった。私の疑問は、そういう物は、漫画や映画、その他、あらゆるストーリーの中で、エロティックさを表現するストーリーの1シーンとはなるだろうが、それ自身を目的として、つくられる程にはならないだろう、と思っていたからである。私は、その雑誌が気になって気になって仕方がなくなった。
2年になった。
二年になると生活がぐっと楽になった。二年になると、近くに住んでいる生徒は通学生となって、寮から出た。私の家は鎌倉なので、とても通学することは出来なかった。寮生活の嫌いな私は通学生がとても羨ましかった。
寮での昼食の後の食器洗いは、生徒がしていた。中学二年のある時、私と数人の同級生が当番で食器を洗った。食器洗いが済んだ後、一人の悪童(小沢)が、
「寮を探索しようぜ。吉田の部屋に行ってみようぜ」
と言って吉田の部屋に向かった。私もついて行った。なぜ吉田の部屋かというと食器洗いの一人の生徒が吉田と同じ部屋だったからである。誰もいない、静まり返った寮の探索は面白かった。人のいない間に他人の物をいじるのは、いい事ではないが、物を盗むわけでもない。吉田の部屋に入ると、三年の副室長の大きなアマチュア無線の機械などを、いじったりした。私は小沢とは親しかった。私は学校でも、よくふざける結構、面白いヤツと思われていた。実際、私は、ふざけるのが好きである。だが猥談では黙って笑っていた。私は性欲も一般的な中学生と同じような人間と装っていたし、また彼らも私をそのように思っていた。
小沢は吉田の引き出しを開けた。そして、その中から、ある妖しい表紙の本を取り出した。その本の表紙の絵は、客がレジに出す時、恥ずかしい思いをしないようにとの思いからだろう。物理的には、ただの女の顔の絵だった。しかし、厚い唇が半開きになって、背後の色使いも暗く、いかにも退廃、不徳の雰囲気が表れていた。女の顔は、見るものを妖しい悪徳の世界に呼び寄せているようだった。私は、激しい興奮に襲われた。それが、書店で見た種類の本である事には確信を持っていた。私は小沢の横で、少し後ろに立っていた。小沢は本をめくっていった。脳天を突くような激甚の興奮が私を襲った。はじめはカラー写真だったが、だんだん白黒写真に変わっていった。裸の女が、柱を背にして立ったまま縛られている写真が、項をめくるごとに次々と表れた。どの写真も基本は、柱を背に後ろ手に柱に縛りつけられているのだが、ある写真は女を辛くするために片足を吊り上げられていたり、ある写真は黒子のような男が毛筆で、柱の背後から女をくすぐっていたりしていた。
「ふふふ。なーんだ。これ」
小沢は、元気があって、助平だったので興味本位で見ていた。だが彼は、それに、ほとんど反応していなかった。それは、彼が勃起していなく、彼の口調や態度から明らかにわかった。
彼は、それを何かわからない奇態な写真と見ているらしかった。しかし私には激甚の興奮が起こっていた。それこそ私が子供の頃から求めていたものだったからだ。私の心臓は早鐘を打ち、マラは激しく勃起しズボンを押し上げていた。私は、それに興奮している事を気づかれるのを最大に怖れた。しかし、その写真から一時たりとも目をそらすことは出来なかった。それで私は腰を引いて勃起を気づかれないように、少し後ろにさがった。私は自分も小沢と同じように、奇妙なものを好奇心で見ている振りをした。結局、小沢には気づかれなかった。それが私がSM写真というものを見た初めである。それ以来、私の関心は、その写真と、その写真を手に入れることになった。
「ああ。あの写真集を手に入れて、裸で柱に縛られている女をじっくり見たい」
私は、つくづくそう思った。
通学生に三田というのがいた。彼は特にスケベだった。教室に三田がいないで、数人がいる時があった。
「おい。三田のカバン開けてみようぜ」
一人が言って三田のカバンを開けた。中にはエロ写真が入っていた。厚い紙で、女の部分は黒くモザイクで隠されていた。しかしそこを消しゴムで擦った跡がある。消しゴムで擦っても、モザイクがとれて、女の部分が見えてくるわけではない。それは単なる女のヌード写真だった。私はそれに何も感じなかった。私は単なる女のヌード写真には何も感じないし、女の其処の部分にも全く興味がなかった。
国語の時間に、古事記の伊邪那岐命(いざなきのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)が、男の余っている体の部分と女の体の足りない部分を結合して子を産むという話を聞いても私は何も感じなかった。しかし、谷崎純一郎の春琴抄の話のあらまし、で、女主人に仕える奉公人の男が、女主人のために自分の目を突く、という話のあらましを聞いた時には、何ともいえない、言い知れぬ官能を感じた。
掃除当番でゴミ燃しを三田と一緒にやるときがあった。高等科寮のゴミには、SM雑誌が入っている事がよくあった。私と三田でゴミ燃しをした時があった。高等科寮のゴミからSM雑誌が出てきた。私はそれがどうしても欲しかった。だが三田がとってしまった。とても残念で口惜しかった。三田は特にSMが好きというわけではない。エロ本なら何でも見たがるのである。
「おい。三田。お前はSM写真がどうしても欲しいわけじゃないだろう。エロ本なら何でもいいんだろ。しかし、オレにとってはSM写真は咽喉から手が出るほど欲しいんだ。どうか、くれないか」
と言いたかった。しかし三田はそれをポケットに入れて、帰ってしまった。三田が家でSM写真をじっくり見ているのを思うと、激しく嫉妬した。
物理の先生は、頭が良く、何事にも知的好奇心を持っていて、特に鳥に非常に関心を持っていた。そのため、物理の授業では、よくバードウォッチングをやらされた。私は鳥には興味が無く、もっともっと力学や電磁気学など、物理の教科書にある事をしっかり教えてほしいと思っていた。そう思っていたのは、私だけではなく、クラスの秀才の一人も、その事を先生に訴えた。まっとうな意見だと思うが、先生は、
「自由学園は詰め込み教育ではない」
の一言で一蹴してしまった。そんないささか強引な所もあるが、私は先生を嫌いではなかった。先生は自由学園を愛していて、校内を歩いている時に、ゴミがあると、それを拾うので、先生が歩いている時は、いつも両手にゴミを持っていた。
ある朝の礼拝の時である。先生は、ゴミ燃し場でSM雑誌を見つけてしまった。そして、そのことについて哀しく語った。
「今日、ゴミ燃し場で変な本を見つけた。女の人が縛られてる写真だ。そういうのは、頭のおかしな人達がつくっているんだ。生徒の中にそういうものに興味を持っている人がいるのは非常に残念だ」
高等科寮のゴミからの本だろう。生徒も、ちゃんと燃やすなり、寮に持って帰って見るなりすればいいのに、ふざけて燃やさないで置いておいたのだろう。私は先生が心を痛められたことが、つらかった。しかし、私はSMを、頭がおかしい、とも思っていなかった。SMとは異端的な性欲の形であり、また縛られた裸の女の写真には、何らかのエロティックな芸術的な美があるとも思っていた。先生とて、男の性欲や、女の裸体の美まで否定は、しまい。
寮でも学校でも、マスとかカルピスだとか、思わせ振りな口調で生徒達が言うようになった。私には何のことだか、さっぱり解らなかった。
3年になった。
私は自由学園が嫌いだったので、どこでもいいから他の高校へ行きたいと思っていた。しかし世間の高校受験とは、どのようなものなのか、わからない。世間の中学生は、高校受験にむけて、必死で勉強している様子が想像される。私は、英語、数学、物理は出来て、クラスでの成績は良かった。しかし、自由学園の勉強のレベルは世間のレベルに比べて低いだろうと確信していた。井の中の蛙である。レベルの低い学校で成績が良くても、世間のレベルでは通用しないだろうと思っていた。それに中等科から高等科へは、ほぼ全員が行く。高等科を卒業する時には、何人かが他の大学に行くが。それで、私も、他の高校を受験しようという気持ちは、全く思っていなかった。
ある時、私が求めてやまなかったSM雑誌を私はとうとう手に入れた。トイレの中にあったのである。それは写真集ではなく、小説が主だった。それでも、グラビアに数枚あった縛られた裸の女の写真には、激しく興奮した。私が、緊縛された裸の女の写真をじっくり見たのはこれが初めてである。SMの漫画もあって、それが物凄くエロティックで記憶に鮮明に残っているので、そのあらすじを書いておこう。
ある公園で一人の男がラジコンで遊んでいる。彼はアパートで一人暮らしをしている浪人生である。そこに女が通りかかる。彼女は高校の時の彼の英語の先生だった。「あっ。拓也君。こんにちは。ひさしぶり。勉強、はかどってる?」「あ。先生。久しぶり。お元気ですか?」「ええ。勉強、はかどってる?来年の受験、大丈夫?」「ええ。まあ、何とかやってます」彼はニヤッと笑う。「先生。僕のアパート近くなんです。ちょっと寄っていきませんか?」「ええ」そう言って女教師は彼について彼のアパートに行った。アパートに入って彼の勉強机を見るや、彼女は、「あっ」と叫んだ。雑誌から切り取った緊縛された裸の女の写真が壁に張りつけてあったからだ。彼は、いきなり女教師に襲い掛かり、彼女を裸にして後ろ手に縛りあげてしまった。「あっ。い、嫌っ。やめて」彼女は訴えたが、彼はニヤニヤ笑うだけである。そして、彼女の体を毛筆でくすぐったり、乳首に割り箸を取り付けたりした。男は彼女の女の中にリモコン式のローターを埋め込んだ。そして彼は彼女にパンティーを履かせた。彼は意地悪く、リモコンのスイッチを入れた。「ああっ」彼女はローターの振動に、髪を振り乱して激しく体をくねらせた。彼は、ローターの振動を一層、激しくした。そのうち、彼女に尿意が起こってきた。「お願い。トレイへ行かせて」教師は哀願したが、男はローターの振動をとめない。女は後ろ手に縛られた体をヨロヨロさせながらトイレに向かった。トイレは和式だった。女は便器を跨いでしゃがみこんだ。「お願い。パンティーを脱がして」女は顔を真っ赤にして頼んだ。だが、男はローターの振動を一層、激しくするだけだった。女教師は、とうとう我慢できず、「ああっ」と叫びながら、洩らしてしまった。その日、男は丸裸の彼女をベッドに縛りつけて、思うさま、責め抜いた。翌日、彼は彼女を後ろ手に縛ってコートを着せ、外へ放り出す。ローターの振動に耐えられず、彼女は人中で倒れてしまう。通行人達がコートを開くと、彼女は丸裸で縛られているので、人々は驚く。
というストーリーだった。
とてもエロティックだった。特に、女の方から、「パンティーを脱がして」と頼むのがエロティックだった。しかし一泊で、外に放り出してしまうのは、ちょっと勿体ないように思った。もっと、一週間くらい、監禁して、じっくりと悪戯した方がいいように思った。
しかし、その本は、湿っていて、汚かったので、とっておく気にはなれず、捨ててしまった。
中学の時には、クラスの誰とでも話せるようになっていた。私は、カタブツではなく、結構、ふざけるので、面白いヤツだとも思われていた。しかし、親しい友達というのは、出来なかった。女子部の生徒がバスケットボールの練習の時、男子部の校舎の裏を通る。ひやかしたりする生徒もいた。ひやかす、というのは、好きだからひやかすのである。しかし私は女子部の生徒には全く、関心がなかった。学校では、男女交際を禁止していた。しかし私は、むしろ、そういう規則がある事の方がいいと思っていた。
冬休みが終わると、逆パンダの顔の生徒が何人かいた。はじめは何だかわからなかったが、スキー焼けした跡だとわかった。生徒にはスキーが好きでスキーをする人が多かった。しかし、私はスキーには興味がなかった。そのかわり、私は水泳が、何とか上手くなりたいと思っていて、夏休みは、毎日、海沿いの市営プールに行っていた。由比ヶ浜から、海沿いの道を自転車で走る。由比ヶ浜海水浴場は男女で賑わっている。しかし私は海水浴場に入れなかった。男にせよ、女にせよ、みな友達と来ている。男一人で海の家に入るのは、暗いヤツだと思われそうで、そのため、海水浴場には入れなかった。
生徒の中には、授業や掃除をさぼって、寮で麻雀をするヤツも出てきた。私も一度、興味本位の付き合いで、やってみたが、全然、面白くも何ともない。勿論、私はマージャンのルールなど知らない。しかし、トランプのセブンブリッジは知っていたので、人についてもらいながらやってみた。学校でも、生徒はトランプとかマージャンとか、やっていたが、私には、全く面白いとも何とも思わない。学科の勉強の方がずっと面白い。私は彼らの退廃した精神が嫌いだったし、彼らの心理が全く理解できなかった。彼らはタバコを吸い、酒を飲むようになった。
高校生になった。
といっても、一貫校だから、試験などない。全員進学である。
「中学は義務教育だが、高校は義務教育ではない」
などと先生が、説教したが、私は勉強をおろそかにした事はないし、これからも、おろそかにする気はないので、説教される筋合いはない。たまたま、公立高校の英語の試験問題を新聞で見つけた。英熟語の試験だったが、ほとんど全部、答えられた。私は驚いた。世間の学校のレベルもそんなに高くはないんだな。こんな事なら、学園などやめて、一般の高校を受験した方が良かったと、かなり後悔した。
高校になって10人くらいの生徒が入ってきた。文部省の認める高等学校であるためには、他校からの生徒の受験を認めなくてはならない。大学部では他校からの受験生を認めないから、文部省の認める正式な大学ではないのである。
私は、その中の一人と親しくなった。名前は小高といった。彼は太ってて、つっぱってて、ませていた。彼はデブなのに、顔がひろいのである。なぜ、そんな彼と友達になったかというと、彼ほど私と正反対で人見知りしない人間はいないと思うのだが、なぜだか彼はクラスで親しい友達が出来なかったからである。学校外では、彼はたくさん、友達がいた。ロックンロールが好きなことや、オートバイが好きなことなどで、相性も合った。彼とは、たまに一緒に休日に映画を観たり、大磯ロングビーチにも行ったりした。
高校になって、はじめて登山に参加した。喘息で、体力がなく中学の時は登山は免除してもらっていた。3000メートル級の山は初めてである。前穂高に登った。予想していたほど疲れなかった。4.5キロのランニングが出来ないので、登山など、とても無理だろうと思っていたが、登山は、予想と違ってマイペースで登れたので、ランニングとは違っていた。
夏休みは、毎日プールへ行った。そして高一の夏休み中に、一週間、病院に入院して下鼻甲介の切除の手術を受けた。それまで私は、いつも鼻がつまって、口で呼吸していた。そのため、私の机の中は、噛んだ鼻紙で一杯だった。夜中、いびきがうるさいと、さんざん同室の人に嫌がられていた。それで主治医の先生の勧めで、鼻の手術を受けることにしたのである。下鼻甲介という鼻の中の肉をかなり切りとった。手術は良かった。おかげで手術後から、鼻で呼吸する事が出来るようになった。そして、高一の夏休みには、私小説「夏の思い出」で書いたように子供の工作教室に出た。あれは嬉しい思い出となった。私には、ああいうロリータ・コンプレックスもあるのである。
高等科から入った生徒にKというのがいた。彼はK建設の社長の子だった。彼には一年上と一年下に学園に入っている兄弟がいて、(学園は受験勉強をしなくても大学部まで行ける、受験勉強をしなくても遊んで過ごせる、という理由だろうと察するが)それで入ってきた。彼はスキーや運動が出来て、ハンサムだった。そしてなまいきだった。私が喘息である事を知ると、ある時、「やーい。喘息持ち」と囃し立てた。この時は、煮えくりかえるような怒りが起こった。私が喘息である事は、中学一年の時から、みな知っていた。4.5キロのマラソンが出来なかったし、登山も出来なかった。私は、瞬発力や敏捷性などでは他の生徒に劣っていないが、持久力だけは、ダメなのである。そのため、いつもポケットには発作止めの小さな吸入器(β2刺激薬)を入れていた。発作が起これば、それを吸入すれば、すぐに治まるので、私の喘息は、それほど重いものではない。中学からの悪友は、私がいつも、ポケットに吸入薬を持っているので、その事でよく私をからかった。しかし、それは悪意のないふざけなので、私も笑ってやり過ごした。しかし彼の罵りは、人を見下す悪意に満ち満ちていた。彼の本当の真意はわからない。しかし私は猛烈な憤りを彼に対し感じた。私は彼を憎んだ。この時、私は心の中で誓った。
「ちくしょう。みてろ。オレは絶対、あいつより偉くなってやる」
体力や運動神経では、彼にはとてもかなわない。しかし学科の成績では、私は彼なんか足元にもおよばないほどの優等生である。将来、どうなるかはわからないが、絶対、あいつより偉くなってやると、私は心に誓った。
数学は中学から私がクラスで一番だったので、数学の先生が、
「数学がわからなかったら浅野に聞きな。あいつはわかっているから」
と言ったらしく、夜、勉強してると、クラスのヤツが聞きにやって来た。私は丁寧に教えてやった。「やーい。喘息持ち」といったヤツも聞きに来た。私は彼にも丁寧に教えてやった。すると何だか憎しみが軽くなった。
生徒には、「あー。セックスしてえ」などと言うヤツもいたが、私はマラで女を突き刺したいという欲求は起こらなかった。私には生殖に対する嫌悪がある。病気の遺伝子がある。顔も悪い。こんな遺伝子は、この世から根絶すべきだと思っていた。あるテレビ番組で、「愛があればセックスしてもいい」の質問をボタンを押してYesかNoで答えさせて、その%を調べるのがあった。80%くらいがYesだった。私は、一般の高校生がそんな事を考えているのかと違和感を感じた。私は、
「愛があればセックスしなくてもいいじゃないか」
と思っていた。裸になって抱き合った後には、もう何もない。ベッタリくっついている何のドラマもない一組の男女となるだけである。セックスしたいけど、出来ないで苦しむ所に緊張感と面白さがあるのである。私は現実の恋愛など全く関心がなかった。勿論、女には飢えているが、それは性欲であって、恋愛ではない。
ある時、小高と晴海の東京モーターボートショーに行った。それは私の方から、行こうぜ、と誘ったのである。なぜかというと、モーターボートショーのポスターの女に恋してしまったからである。水兵帽をかぶり、ビキニで微笑んでいる彼女に私は恋してしまった。モーターボートショー自体はそれほど面白くはなかったが、ポスターがどうしても欲しく、イベントの事務所に行って、ポスターをもらった。それ以外でもポスターの女に恋する事はよくあった。現実に生きた女との付き合いはややこしい。こちらの思うとおりにならないし、理想の女性と思っても、付き合っていれば、嫌な面だって見えてくるだろう。しかし、ポスターの女は、時間と空間の中に固定されてしまって、その理想の笑顔や性格は変わらない。想像の世界で自分の好きなように付き合える。
また私はキスという行為を嫌った。他のハンサムな男が女にキスするのはいいが、私のように顔の悪い男にキスされる女は可哀相だと思った。私にとって女とは、征服すべき対象ではなく、手を触れるのも畏れ多い美そのものだった。自分には所詮、女には縁がないと思っていた。要するに私はウブで純情だった。
私の性欲は、ひたすらSMに向かった。
生殖に対する嫌悪、安直な男女の結合、何の葛藤も緊張もない男女の仲、などが嫌いだから、SMにしか関心を持てないのである。勿論、SMは女を虐めたい、という男の視点で女を見ているが、そう単純なものではなく、虐められて、惨めになっている女にも自分を感情移入している面がある。女をいじめる男にもなりたいし、男にいじめられる女にもなりたい、という両方の思いがあって、そのため、自分を特定の場所に置けない、もどかしさ、があるのである。しかし、そのもどかしさ、こそがSMの興奮なのである。
男根で女を突き刺したい、と思うようになる時、子供は大人になる。私にそれが起こらずSMでとどまっているのは、大人になりたくないからである。
休日に家に帰る時、横浜で、ある、さびしい横丁に小さな本屋にたまたま入った。そこにはSM雑誌が置いてあった。書店のじいさんは、のんびりしていたので、さりげなくSM雑誌をとって見た。裸の女が柱に縛りつけられていた。後ろ手に縛られ、乳房を挟むように、胸の上下を厳しく縛られ、女の割れ目には股縄が意地悪く食い込んでいた。何てエロティックな格好なんだと、一瞬で激しく興奮して勃起した。
SM雑誌は、表紙は暗いタッチの妖しい女の顔だった。書店のじいさんは、のんびりした様子だったので本をおそるおそる出して買った。買う時には、すごく緊張した。買った後は、最高に嬉しかった。だが、家にも寮にも置いておくわけにはいかない。もし万が一、見つかったら、死に等しい。ので、読んだ後は、残念に思いながら捨てた。だが、それほど惜しいとは思わなかった。私はまだ、自分の異常な性癖を受け入れることに、抵抗を感じていたからである。
そもそも女のアソコの部分の構造がわからない。クリトリスという言葉から、そういう物があるという事を知ったが、どんなものか、わからなかった。
SM雑誌で、クリトリスを絹糸で縛って吊る、ということを漫画でやっていた。ので、乳首のように、突起したものだと思った。
縛った女のアソコに、とろろを塗りつけて、女が、「痒―い」と悶え苦しむのもあった。すごくエロティックで、興奮させられたが、女にそんな事をするのは可哀相すぎると思った。家の食事が、とろろ御飯の時、その事が思い出されて、何とも恥ずかしく、嫌な気持ちになった。そのため、好きだった、とろろ御飯が食べにくくなった。
寮で、ある時、同級生の一人と話をしていた。たまたま、話がオナニーの事になった。
私がオナニーというものやオナニーの仕方を知らないことを言うと、彼はあきれた口調で言った。
「お前、オナニー知らないの?」
「知らない」
「知らないの、お前だけだよ。みんな、やってるんだよ。佐藤(クラスの真面目な生徒)もやってるんだよ」
「どうやってやるの?」
「エロ本見ながら、ちんちん握って、しごくんだよ」
「やってどうなるの?」
「気持ちいいんだよ」
そんな事で、よくわからないまま私はオナニーの仕方を教わった。
家に帰った時、ベッドの上で、教わったように、マラをゆっくり扱いてみた。エロ本は無い。だんだん勃起してきて、気持ちが良くなってきた。私は、しごく度合いを速めた。オシッコとは違う何かが、私の体内から出てくるのを私は感じた。
「ああっ。出るっ」
と、思わず叫んだ。白濁した液体が大量にほとばしり出た。
高校を卒業した。
私は奈良県立医科大学を受験し合格した。出来れば、近くの横浜市立大学医学部に入りたかったのだが、ここは、偏差値が高く受験したが落ちた。
その時、私は、過敏性腸症候群という、つらい病気が発症していた。私は、大学には籍は置いておいて、治療を受けたい、と父に言った。しかし、父は過敏性腸症候群が、全くわからず、また、わかってくれようともせず、ちょっと胃の調子が悪いくらいに考えていた。私は、もう言っても理解してもらえず、あきらめ、ともかく、特攻精神で、やれる所までやろうと思った。自分では、自分の体調はわかっているから、これでは、とてもストレートで卒業することは出来ないだろう。何年かで休学することになるだろうと確信していた。田舎の医科大学で、入学者はほとんど奈良か大阪だった。自己紹介の時、私が、
「東京から来ました」
と言ったら、みなが、おおーと叫んだほどである。
元々、内向的な性格である上、過敏性腸のため、クラスには全く馴染めなかった。クラスの生徒達は、みなギャーギャー、カラスのように叫ばずにはおれない生徒達ばかりだった。だが、三人、静かな生徒のグループがあって、私も内心、彼らと友達になりたいと思った。しかし、「仲間に入れて」と私の方から言う勇気はない。彼らの一人が、そんな私の気持ちを察してくれて、
「よかったら、こっち来ない」
と言ってくれた。こういう事を言うのは、勇気のいることである。私は彼に感謝した。おかげで彼ら三人と友達になれた。彼はギター部で、もう一人は写真部で、もう一人は文芸部、だった。生徒達は初めの二週間くらいは、授業に出ていたが、だんだん出なくなっていった。
私と同じように、神奈川から来た生徒がいた。彼とは同じ関東というよしみで、わりと話せた。彼は単位に関する情報を教えてくれた。
「いくら授業に真面目に出ても単位は取れない。単位を取るには、いかに、過去問と、授業のコピーをたくさん集められるか、が全てだってさ」
それで、クラスの生徒は、ほとんど、どこかのクラブに入った。クラブに入ると、先輩から過去問と、授業のコピーをもらえるからである。なら卒業するためには、クラブに入らなければならない。しかし、私は集団が苦手で嫌いだし、特に入りたいクラブもない。それに過敏性腸もあるので、クラブとの両立は無理だと思っていた。それでクラブには、入らなかった。そのため過去問を手に入れるのは、苦労した。三人の友達からもらった。
大学に入ってからは、ともかく辛い過敏性腸症候群を治してくれる医者を探して奈良県や大阪府の精神科クリニックや消化器科の医院めぐりをした。しかし、あまりいい医者はいなかった。精神科だの心療内科だのと標榜している所は特にダメである。それで、やっとのことで、割と相性の合う、頭の切れる消化器科の医院を近くに見つけて、その先生にかかることにした。奈良市にも、心療内科のいい医者を見つけて、そこにも通った。私は休日は、ほとんど奈良市の図書館に電車で行っていたので、ちょうど良かった。
しかし授業中も腹が痛く、手で腹を抓って授業を聞いていた。不安感も起こって、精神安定剤や睡眠薬を飲むようになった。友達との会話もうまく出来ない。
集団の中にいる事が苦痛で、アパートにもどり、一人になるとほっとする。親にも見つかる心配がなくなったので、SM写真集を買って、それがどんどん増えていった。緊縛された裸の女の写真を見ている時だけが、心が休まる唯一の時だった。縛られた女の写真は、いくら見つづけても飽きることはなかった。私は時間がたつのも忘れ、写真の中で様々な妄想の世界に耽った。SM写真集は、私の宝物だった。私はSM写真の中の女性に恋した。私は心の優しい人間なので、縛られている女性を見ると、虐めたいとは思わず、「お姉さん。きれいだよ」とか「痛くない?」とか「辛くなったら言って。解いてあげるから」とか、慰めるのである。ある時、SM写真集の一冊を捨ててしまったことがあった。その中に私の恋した女性がいた。私は、あせった。彼女にもう会えないかと思うと、耐えられないほどの気持ちだった。それで、それ以後はSM写真集は、捨てないことにした。SM写真集を買って、パラパラッとめくると、すぐに好みの女性が数人、見つかる。そして、彼女達に恋してしまうのである。好みでない女性は、勿論、見ないで飛ばす。しかし数ヶ月単位の時間が経って、ふと見ると、はじめに見た時に好みでなかった女性が、好みになってしまう、という事もあるのであった。それは、ちょうど縛られ方が、ある時は、胡坐縛りに惹かれていたが、いつの間にか好みが変わって、胡坐縛りには感じなくなり、柱縛りに好みが強烈に起こるようになったり、次には、吊るし縛り、に感じるようになったり、と変化することがよくあるのと似ている。また緊縛された女に対しても、ある時は、女性の乳房に惹かれていたのが、尻に惹かれるように変わったり、髪の毛に惹かれるように変わったり、と色々と変化した。
アダルトビデオも観たが、すべてSMである。私はノーマルなアダルトビデオでは、何も感じない。それでも、ペッティングのシーンなら、まだいいが、本番で男がマラを挿入し腰をゆするシーンになると、とたんに萎えてしまうのである。嫌気さえ起こる。SMビデオでも、気に入らないものの方が多いが、とても気に入るものに出会う事はあった。そういうのはダビングして、とって置いた。SMには、静と動があるが、私の好みは、静の方だが、女が羞恥に耐えている濃厚なSM的エロスが感じられるものなら、動でも良かった。
しかし私はやはり、何と言っても、ビデオより写真の方が好きだった。ビデオというのは、まさに、動いている、ものであり、静を好む私には動かない写真の方に安心を感じた。
SM小説も読んだ。どの小説もエロティックだったが、団鬼六のSM小説は、特にエロティックで文章がキラキラ輝いていた。
「花と蛇」では、静子夫人には、あまり興奮せず、ひたすら京子に興奮した。空手が出来て、勇ましく森田組に捕われた静子夫人をスパイとなって、潜入し、勇ましく暴れるが、捕らえられてしまう箇所に興奮した。あれほどの屈辱があるだろうか。
私にはSもあるがMも強くあり、私は京子に感情移入して、森田組やズベ公達に屈辱的な責めをされたいというMの興奮に浸っていた。それと団鬼六のSM小説では、「女教師」が非常に好きである。あれは、主人公の女教師がMで、氏のSM小説の中でも、マゾヒズムを特に強く感じるからである。沼正三の家畜人ヤプーは、マゾヒズム小説であるが、私はあれは好きになれない。作者に言わせると、谷崎潤一郎の作品は、うす味で、自分はもっと、女に完全征服されないと満足できないそうであり、小説も、完全なマゾヒズム小説である。私にとっては谷崎潤一郎の作品こそが完全共感する作品であり、作家である。勿論、谷崎の小説は、最後には女に征服されねば満足できないから、最終的にはマゾヒズム小説であるが、「少年」にせよ、「痴人の愛」にせよ、話の途中では女を虐めることもあり、谷崎にはSもあって、谷崎の小説はSM小説だからである。
大学に入ってからは、そういう自分の好みの小説に限らず、色々な作家の作品を片っ端から読んでいった。
それで小説を読んでいるうちに、自分でも小説を書いてみたいという欲求が起こってきて、とうとう私は書き出した。5〜6作品できたので、文芸部の小山君に見てもらった。当然全ての作品が絶賛されはしなかったが、気に入ってもらえるのもあって次号の文集に載ることになった。というのは、ここの大学では、文芸部は小山君の他には部員は2〜3人しかおらず、ほとんど潰れる寸前のような状態であり、また、文集は、文芸部員でなくても、誰でも作品を書いて載せてほしいと言えば、載せていたが、大学では作品を書きたいという人が、おらず、作品が集まらないと、当然、文集は作れないからである。生徒は、とにかく元気がありあまっていて、クラブは体育系や音楽系がすごく盛況していた。そもそも本を読む生徒がほとんどいなかった。つまり知性的な生徒がいないのである。その中で、小山君だけは、みなと違い旺盛な読書家で、また大学に入る前から、小説を書いていた。
それで、私の作品が載った文集が出来た。だが、活字になっても、さほど嬉しいとは思わなかった。一度、創作意欲に火がついてしまったら、もっともっと書きたくて仕方がなくなってしまったからである。しかし、それがきっかけで、小山君とは非常に親しくなった。
大学では二年間の教養課程から三年への基礎医学へ進級する時、かなり厳しい関所をつくっていた。私のクラスでは10人くらい落ちた。私は幸いにして通った。他の人は、過去問も十分持ってて、私よりはるかに有利で、私は、過去問も十分持ってないのだから、私の方が落ちるのにふさわしい人間なはずである。大学は一流ではないが、まがりなりにも公立の医学部なのだから、これは学力の問題ではない。なめていたとしか思えない。ちょうど、童話の、ウサギと亀の話と極めて似ている。
三年になると医学の勉強がはじまった。三年、四年は、基礎医学といって、病気の原理を学ぶ学問である。
三年では、組織学。解剖学第一。解剖学第二。生理学第一。生理学第二。生化学。
四年では、病理学第一。病理学第二。免疫学。腫瘍病理学。細菌学。薬理学。寄生虫学。衛生学。公衆衛生学。法医学。である。
生化学をはじめ、基礎医学の勉強は私をてこずらせた。私は理数系が得意とはいえ、数学や物理などのガチガチの理論的な勉強は得意だが、生物や化学などの大づかみな、流動的な学問は苦手である。しかし私は、負けん気が強いというか、劣等感が強いというか、自分に苦手なものは、何としてもそれを理解してやろうという気持ちが起こるので、熱心に勉強した。しかし苦手な勉強、過去問が手に入らない、過敏性腸症候群、という三重苦のため、基礎医学では単位がなかなか取れなかった。過敏性腸という、つらい病気は治るのか、はたして過敏性腸という病気を持ちながら医者という激務が勤まるのか、という事に悩まされつづけた。ノイローゼになり、それがひどくなっていった。私は、死を考え出すようになった。「葉隠れ」が座右の書となり、私は岡田有希子さんの世界に浸った。つらいことが起こると私は現実逃避して自分の世界に逃げる。こんな事なら医学部なんか入らなければ良かったと思ったりもした。親に休学したい事を話しても、相手にしてくれない。うつ病がひどくなり、とうとう四年の冬、休学した。荷物をまとめ、新幹線に乗った。いつもは新横浜で降りるのだが、東京まで行った。八重洲口に出て、タクシーに乗った。
「四谷四丁目にお願いします」
と言って、私はタクシーの後部座席のソファーにぐったりもたれた。なぜ、四谷四丁目に向かったかというと、四谷四丁目には、岡田有希子さんが、飛び降りて死んだ、サン・ミュージックのビルがあるからである。どうしても一度、見ておきたかったからである。皇居の外堀をまわり、四谷に入ると、緊張で心臓が高鳴ってきた。四谷四丁目で降りたら、コンビニの人か誰かに、サン・ミュージックの建物の場所を聞こうと思っていた。だがタクシーの中から、高橋・大木戸ビル、サン・ミュージックの看板が見えてきたのである。ものすごい興奮と感動が私を襲った。私はタクシーを降りた。ここが岡田有希子の死んだ場所だと思うと、感無量だった。人間の生まれた場所と死んだ場所とはその人にとって神聖な場所なのである。私は、岡田有希子にゆかりのある場所を見たく、何としてもビルに入りたかった。だが、誰かに見つかって怪しい者だと思われるのをおそれ、夜になるのを待った。夜になって、暗くなったので、私はおそるおそるビルに入った。そして階段を登っていった。屋上の戸は閉まっていて開かなかった。しかし、ユッコがこの戸を開けたと思うと感無量だった。私は何とかして、屋上に登ってみたくなった。それで隣のビルは屋上に登れたので、登った。私は、もし死ぬとしたら、サン・ミュージックのビルの屋上から飛び降りて、岡田有希子さんと自分の血を重ね合わせたいと思っていた。こんな事は変な考えなのだろうが、私はそれを本気で望んでいた。しかし6階では、打ち所によっては、死ねず、死に損なってしまう可能性がある。私はビルを降りた。そして、サン・ミュージックの見える近くに15階位の高層ビルがあったので、その屋上に登ってみた。下を見ると、人や車が小さく、ここなら確実に死ねる、と思った。私は、出来る事なら、できるだけ、岡田有希子さんの死んだ場所の近くで死にたいと思っていた。勿論、その時、私は、絶対、死のうと決断していたわけでは全くない。生きるか、死ぬかで迷っていたのである。勿論、生きられるものなら、何としてでも生きたかった。しかし死ぬ事を本当に考えて、ビルの屋上から下を見ると、背筋がぞっとした。ほんの一瞬ではあっても、固いアスファルトに叩きつけられる瞬間の痛みを想像すると、飛び降りは、死ぬ方法として、大変な勇気がなくては出来ない。さびしく一人電車に乗って、回りの健康な人達を見ると、自分はもはや、この社会の外の人間だと、感じられてきた。さびしかった。空が、世界が、全てが灰色に見えた。家に帰っても、父親は、うつ病を知らず、罵るだけ。
「死ぬ気で頑張れ」
「敵前逃亡するな」
と怒鳴るだけだった。私は、いざとなったら、死ねるための準備をはじめた。「完全自殺マニュアル」を買って、確実に死ねる方法を知ろうとした。それまで私は睡眠薬や精神安定剤を飲んでいたが、私の飲んでいるのは、マイナートランキライザーであり、これでは多量に飲んでも死ねないのである。メジャートランキライザーなら、致死量の目安があって、ある量のむと、死ぬ事ができると書いてあった。ので、何とか、それを手に入れよう、ある内科クリニックにかかって、メジャーを飲んでいるので、欲しいとウソを言ったが、処方してもらえなかった。家の近くの精神科にかかった。抗うつ薬が出されたが、ありがたい事に、抗うつ薬は劇薬で、致死量がある、と書いてあった。ので、精神科クリニックで、もらった抗うつ薬をためた。毎日、うつ病のため、廃人のような状態で何も出来ない。
私は、SM雑誌にのっていた、あるSMクラブに勇気を出して電話をかけた。死ぬ前に、せめて一度だけでも女の子の体に触れたいと思ったからである。なぜSMクラブかというと特別に理由はない。私は奥手で、風俗店の事は、他に知らなかったからである。別にSMをしたいわけではない。他の風俗の事を知らなかったからである。もちろんSMクラブが、どういう所かも、実体は知らない。電話をかけた。男の人が出た。
「あの。お願いしたいんですけど・・・」
私はおどおどと言った。
「Sですか。Mですか」
「Mでお願いします」
「どの子がいいですか」
「優しい子をお願いします」
「じゃあ、彩子さんが空いていますが・・・」
「では、その子でお願いします」
「何時に来られますか」
「二時間後くらいに・・・」
「では、池袋の駅についたら電話して下さい」
そうして私は電話を切り、電車にのった。
なぜMにしたか、というと、特別に理由はない。Sは3万でMは2万で、Mの方が一万円安かったからである。それに女の子を縛ったり、いじめたい、とも思っていない。
東海道線から品川で山手線に乗り、池袋の駅についた。店に電話すると、店の場所を言った。私はメモし、その場所に向かった。駅から五分とかからなかった。マンションに入り、ある一室の前でチャイムを押した。ドアが開かれた。
「どうぞ」
と男が手招きした。入ってソファーに座った。男がつめたい茶を持ってきた。だが私は飲む気になれなかった。私は奥手で風俗関係の事は全然、知らない。風俗関係の店では暴力団が関係しているのではないか、と怖れていたからである。茶に何か変な物でも入ってるのではないか、と半信半疑だった。
「女の子が来ましたのでどうぞ」
と言われて私は部屋を出た。私は女の子と歩き出した。顔は、かわいい、というか、きれいである。しかし気が荒そうな性格であることは喋らなくても、雰囲気からもろに伝わってくる。
「うわー。怖そー」
と思わず心の中で言った。優しい女の子、と言ったのに話が違うじゃないか。彼女と同じビルの別の部屋に入った。
「シャワー浴びてきて」
言われて私はシャワー室に入った。シャワーを浴びて服を着て出てくると彼女は黒いワンピースの水着のような皮の女王様ルックを着ていた。私は彼女の横の小さなソファーに座った。私は思わず、顔を廻して部屋の隅々を見た。
「ん?どうしたの。寒いの?」
彼女が聞いた。違う。部屋のどこかに隠しカメラが仕掛けてあって、プレイを撮影し、それがいい出来のものならアダルトビデオとして、販売されるのでは、という心配があったのである。もし風俗店が暴力団とつながりがあるのなら、その位の事、しかねないだろう。実際、アダルトビデオには隠し撮りしたのもしっかりある。彼女の様子から、隠しカメラは無い、と判断した。SMクラブで、どういう事をするのか、わからない。裸になるのは恥ずかしくて出来ない。しかし、きれいな女の子と、密室で二人きりになるのは生まれて初めての経験で私は最高に嬉しかった。私は彼女の顔をまじまじと見つめながら、
「うわー。きれいな人だー」
と感嘆の口調で言った。私には彼女のような人は勿体ないような気がした。別にお世辞いってるわけでもないのに、彼女は無反応である。
「SMクラブはじめて?」
「ええ」
私はおどおどと答えた。
「あの。手さわっていいですか」
「うん」
私は彼女の手を触った。柔らかい女の子の手を触るのは生まれて初めてで、私は、感動した。それは求めつづけていたが、絶対、手に入らないオモチャを手に入れた子供の喜びに似ていた。私は、心ゆくまで、柔らかい女の子の肌の感触を味わった。
「胸、触っていいですか」
私は欲が出てきて小声で聞いた。
「うん」
私は彼女の胸にそっと手を当てた。
「うわー。柔らかい」
私は、感動をことさら言葉に出して言った。はじめは触れていただけだが、少し揉んでみた。柔らかい。
「あんまり、そうされると、ちょっとダメ」
と彼女は私の手をどけた。やはり女だから胸を揉まれると感じてしまうのをおそれている様子だった。彼女は、先天的なハードなサディストだった。私を虐めたがっていたが、何をされるのか、わからず怖いので、少し話をした。彼女の言う事は一々、最もで、生まれて初めて私と同じ先天性性倒錯者と話をして、共感する所が多く面白かった。彼女は、こんな事を言った。
「私はわがままでサドだけど、マゾとかフェチとかの心理も、わかるよ」
「世の中の事は、ほとんどSMで説明出る面があるね」
「マゾは一生、マゾだから、歳をとってもやってくるよ。老人になっても老骨に鞭打って」
「お店の女の子にはマゾの子もいて、そういう子は時々みんなでいじめてあげるよ」
話すだけではつまらないので、私もだんだん彼女とプレイをしてみたくなった。
「じゃあ、鞭打ちして」
私は勇気を出して言った。私は上着を脱いだ。ズボンは恥ずかしくて脱がなかった。彼女は私の手首を縛って頭の上に上げ、カーテンのレールに縛りつけた。私は、この時、SMというより、たかが女の子。鞭打たれてもネを上げない男らしさを見せてやろうと思っていた。私は、「愛と誠」の第六巻の太賀誠が、鞭打ちのリンチを受けても根を上げない場面が好きで、それは私の座右の書の、お気に入りの場面でもあった。何か、私は憧れの太賀誠のようになれる気がして嬉しかった。
「じゃあ、いくよー」
と言って、彼女は鞭打ち出した。予想と違ってこれが痛いのなんのって。しかも彼女は全く手加減せず、思い切り鞭を振り下ろしつづける。
「うおー。うおー。うおー」
私は鞭打たれる度に悲鳴を上げた。それで方針変更して、せめて、彼女から止めてくれるまで我慢しようと思った。だが、彼女は止めない。とうとう私は我慢できず、
「ちょ、ちょっと、もう止めて」
と言った。彼女は縄を解いた。私は服を着て、再び彼女とソファーに座った。痛かった。しかし彼女はケロリとしている。本格的サディストである。
「あー。痛かった」
私は情けない口調で言った。
「でも、そうやって相手が悲鳴を上げるのを聞くのが私の快感だから・・・」
彼女はケロリとしている。本格的サディストである。しかし私は彼女ともう少し遊びたくなった。
「もっとソフトなのない?」
「じゃあ、仰向けに寝て」
言われて私は床の上に仰向けに寝た。
「膝たてて」
私は膝をたてた。彼女は私の腹の上に乗って、膝に背をもたれ、
「ふふふ。らくちん。らくちん」
と笑って言った。私は人間椅子である。
しかし、これは単調なので、しばしすると彼女は降りた。彼女はハードな事だけではなく、こういうソフトな事も好きなのである。だんだん私も慣れてきて、彼女に縛られてみたくなった。ただ裸になるのは恥ずかしかったから服を着たままでである。
「縛ってくれる?」
「どういう風に縛られたい?」
「どうでもいい」
「じゃあ、私の好きなように縛ってもいい?」
彼女は欣喜雀躍とした口調で聞いた。
「うん」
私が答えると彼女は、ホクホクと嬉しそうに赤い縄で私を縛りだした。
彼女は、仕事で嫌々SMクラブの女王様をやっているのではなく、まさに趣味と実益を兼ねているのである。彼女はホクホクした様子で、私を後ろ手に縛り、その後、前に廻して、縦横に縛った。私は、あまりゴチャゴチャした縛り方は好きではないが、縄を股にくぐらせられて、キュッと絞られた時は、うっ、と何とも言えないM女になったような羞恥が起こって頭がボーとしてきた。
縛り終えると、彼女は私を床に転がした。私は起き上がれない。
「ふふふ。芋虫みたい」
と言って彼女は笑った。
「起こしてくれない」
と頼んで私は彼女に起こしてもらった。
私は後ろ手に縛られたまま女の子のように横座りして目を閉じた。彼女は私の前に椅子を持ってきて座り、私の後ろ手の手首の縛めの縄尻をとって、私の肩にドッカと足を乗せた。私はM女になったような気分で頬が火照ってボーとしていた。しばらくこのままでいたいと思って黙っていた。
「よー。何で黙っているんだよ」
もう彼女とは会話しているのに私が黙り込んでしまったのを疑問に思ったのだろう。彼女はそう言って、縄尻をグイと引っ張った。それにつれて私の体が揺れた。
私は、いつも見ているSM写真の貞淑なM女の気分に浸っていた。生まれてはじめて味わう甘美な快感だった。出来る事なら、しばらくこのままでいたかった。
しかし時間になった。彼女は私の縄を解いた。
それが私が生まれて初めて女の体に触れた経験である。あまり優しい女の子とは言いがたいが、きれいな顔立ちだった。女の体に触れたのは、これが生まれて初めてである。世の中には、こんな甘美な世界があるのかと思うと死ぬのは勿体なくなってきた。
生きる方に私の意志が傾き始めた。
私は私を苦しめている過敏性腸を治してくれる医師を探し始めた。日本のどこかに、きっと私を治してくれる医者がいるはずだ。私は日本中駆け巡っても私の病気を治してくれる医者を探しそうと思った。それらの事は、「浅野浩二物語」や「過敏性腸症候群」に書いたので、あまり繰り返し書く気はない。しかし、それは読まずにこれだけ読む人もいるだろうから、また、これも一つの作品として完成させるために大まかな事は書いておこう。私は書店で心療内科の名医のガイドブックを買った。そして、それにのってた聖路加大学付属病院に行った。そこの心療内科の教授が、武蔵境にある、武蔵野中央病院を紹介してくれた。そこで私は、重症の吃音の診療内科医に会った。それが大変な力になり、また、その病院でやっていた集団療法も大変な力になった。私は生きようと思った。私は遅れている基礎医学の勉強に取り組んだ。決断したら、もう徹底的にやり抜く私の性格である。朝、起きてから夜、寝るまで勉強した。
テレクラというものも一度やってみた。「会って」と言ってもなかなか会ってはくれない。不思議な事に、別の二人の女の子から、全く同じような事を言われた。
「あなたは純粋すぎて、こんな所に来る人ではありません」
ある子は、「スレッカラされていない」と嫌そうな口調で言った。女はスレッカラされた男の方がいいのか?テレクラは面白くないので、その一度でやめた。
そして私は復学した。
復学したクラスは下のクラスだから知っている人は一人もいない。一人だけ、Kという入学の時、一緒で、留年した生徒がいた。私はKとは親しかった。基礎医学の単位は、ほとんど、とれていなかったので授業にも実習にも出席した。医学部は大学といっても、実習が多く、実習は、あいうえお順に決めて、席が決まり、また少数グループの実習も、あいうえお順なので、ほとんど高校のような感覚なのである。苗字で近い人に、杉山さん、という一人すごく可愛い子がいた。背が低く頬がふっくらしている。私は個室の中で、一対一でなら女の子と話せるが、集団の中では、女と話が出来ないので、彼女と話せなかった。ただ心の中では、近くに可愛い子がいた事が嬉しかった。彼女も私に好意を持ってくれていた。休学中にしっかり勉強していたので単位は全部とれた。そして無事、5年(臨床)に進級した。
5年では一学期は授業だけなので、ほとんどの人は出席しない。ポツン、ポツンと勉強熱心な人だけが出席した。もちろん私は勉強熱心なので出席した。そして授業が終わると教授や講師に質問しまくった。産婦人科の授業は、女の助教授だった。おばさんで、小さな声でボソボソ喋るので何いってんだか、さっぱりわからなかった。ただ、きれいで、やさしそうで授業する姿を見ているだけで心が和んだ。
過敏性腸の治療は関西では、豊中にある黒川心療内科に通った。黒川先生は、池見酉次郎のお弟子さんであり、池見先生が進めてくれた先生だからである。黒川先生もいい先生だった。
5年の夏休みが終わり、秋から臨床実習(ポリクリ)が始まることになった。臨床実習とは、大学付属病院で、実際の患者を診てする勉強である。ポリクリは一班が5〜6人である。当然、あいうえお順に決めていく。私が入る班に彼女も入ってくれたらいいな、と内心、期待していた。ポリクリ班の組み分けの紙が掲示板に貼り出された。私の班に彼女も入っていた。ヤッター。嬉しかった。5人で彼女がちょうど紅一点である。男だけの班はわびしい。女は二人いると多すぎる。可愛い女の子の紅一点が一番いい。
「いいなー。浅野君。杉山さんと一緒で」
とKが羨ましそうに言った。私は黙って、嬉しくないよう装っていたが、内心は嬉しかった。これから一年間、あの可愛い子と一緒に勉強できるのだ。そうしてポリクリがはじまった。
ポリクリの初めは小児科で教授の外来診察の見学だった。これはショックだった。それまで、分厚い医学書や顕微鏡ばかり見ていた勉強で、つまりは机上の勉強だった。しかしポリクリはまさに苦しんでいる患者を見る勉強である。勉強であると同時に感動であり、感動をともなった勉強だった。そこら辺のところは「浅野浩二物語」に書いた。ので、あまり繰り返し書かない。ポリクリはものすごく充実した勉強だった。朝9時〜午後5時くらいまでだったが、私は夜の12時まで勉強していた。おそらく日本一だろう。オーベン(上級医)の一言は宝石の価値があった。私はオーベンの話す事は全部ノートした。これも日本一だと内心、自負している。このポリクリの時には、私の価値観が変わった。それまで小説創作だけが価値のあるもので、学問はそれ以下のものだと思っていた。しかし、病める病人や、それを必死で治そうとしている、まさに生死のかかった医療。それに較べたら小説を書く事など、ちっぽけで、つまらない事のように思われた。また自分が驚くほど勉強熱心である事にも驚かされた。これは昔からそうであるが。勉強が面白くて、ほっておくと死ぬまで勉強してしまうのではないか、と思った。
ポリクリの時に、驚くべき事が起こった。
私は、アパートに、濃密なエロティックなSM写真集を何十冊も持っていた。これは、私の宝物だった。私のSM的感性は先天的なものである。私はSMという言葉を知る前から、小学生の頃からSM的なエロティックなものに、美しさを感じていた。SM的感性は、一生、無くならない私の属性だと思っていた。自分がそういう感性を持っている事に悩んだ事もあったが、大人になるにつれ、それは、人にはない、自分の個性として、心の内に誇れるほどまでになっていた。
それが、ポリクリの時、ある時、アパートでSM写真集をパラパラッと見た時の事である。それまで、そのエロティックさを美しいと思って疑った事のない写真集である。
私は思わず叫んだ。
「何だ。この写真は。変態じゃないか」
私は、そんな写真集を見てニヤニヤしている人間が、変態に思え気持ち悪くさえ思えてきた。
そして、それは、私が確固として持っていた信念が証明された事実でもあった。
私はそれまで、内向性と、SM的感性とは、絶対、関係があると信じていた。
「内向的性格とSMとは、絶対、関係がある」
という信念である。内向的な人間が、すべてSM的感性を持っているわけではない。しかし、私に関しては内向性とSMとは、はっきりと関係しているのである。
ポリクリの時には、完全な外向的な精神状態であり、その時にはSM的感性が完全に消えてしまったのである。
私は知らない人と一対一でなら、女の子と話す事が出来るが、グループの中では女の子とは話が出来ない。自然な会話が出来ないのである。人にナンパなヤツだと思われたくないからである。そのため、悪意は無いのに、ことさら杉山さんと全く話さないので、グループの他の男三人にも杉山さんにも、私が彼女を嫌っているという誤解を与えてしまった。
「杉山さん。嫌いなんですか?」
と聞かれた時には、吃驚した。考えてみれば、グループの三人の男とは普通に話すのに、杉山さんとだけは一言も話していなかった。女子医学生は真面目なのが普通なのだが、彼女はあまり授業に出なかった。ただ性格はしっかり、というか、ちゃっかりしているから単位はしっかり取る。彼女はレモンケーキを焼いて持って来てくれたり、何とカバンはベティーちゃんの大きな絵の描いてある真っ赤なカバンなのだから、ちょっとこっちが恥ずかしくなった。勉強より恋愛や遊びの方が好きなのだ。脳外科の助教授のレクチャーの時、(師は自分が文学や哲学に詳しく教養があることを自慢していた)自己紹介させられた。勿論、私は自分が小説を書いているなどとは言わない。人間、自分にとって一番、大切な物は言わないものである。それで趣味は、読書と答えた。話が哲学になったので、私は、キルケゴールが好きです、と言った。そしたら、翌週、彼女がキルケゴールの「死に至る病」を買って持ってきたので吃驚した。失礼だが、あれが彼女にわかるだろうか。キルケゴールの哲学は絶望の哲学であり、その絶望というものが捻転しているのである。ポリクリの時にはバレンタインデーもあって、その時、彼女はグループの四人にチョコレートを渡した。私はホワイトデーで彼女の似顔絵を鉛筆デッサンで描いてチョコに包んであげた。
そうして一年間のポリクリも終わった。6年の秋である。あとは卒業試験と医師国家試験である。
充実したポリクリがおわり、卒業試験、国家試験の孤独な勉強の日々にもどると、またぞろ、SM写真集のエロティシズムに美しさを感じ出すようになった。
そして私は卒業し、医師国家試験にも通った。
健康状態が悪く、医師の仕事は無理だと思ったが、親は私が医者いがいの仕事をつくのを許してくれなかった。それで、千葉県の国立下総療養所という精神病院で二年研修した。600床の精神科のみの病院である。なぜ精神科にしたかというと、精神科は楽だと思ったからである。それと、私は喘息や過敏性腸があって、心身症に興味があったので、精神科なら、心療内科とオーバーラップする疾患もあるだろう、と思ったからである。精神科というと、精神の薬を出して患者の話を聞くだけ、というイメージが一般の人にはあるのではないだろうか。確かに、開業したクリニックではそうである。しかし、病院の精神科医はそうではない。入院してくる患者は、(特に高齢者)は、内科の病気も持っている。成人病や肺炎、皮膚疾患が多い。そして向精神薬は副作用で、腸閉塞を起こしやすいのである。そして注射は勿論、高齢者は薬の副作用のふらつきによる転倒で頭を切る事もあるのである。だから傷口の縫合もしなくてはならない。胸部、腹部のレントゲンも読めなくてはならないのである。また脳梗塞など、診断はしっかり出来なくてはならないのである。患者に内科的、外科的な病気や怪我が起こると、ほとんどは近くの内科、外科クリニックに紹介状を書いて送る。精神病院にも内科医はいるが、大抵、週に二回くらいの非常勤で、それ以外の日は精神科医が対処しなくてはならず、そもそも夜の当直は一人で、当直の時、患者に内科的病変が起こったら、診断し、対処しなくてはならないのだから、病院勤務の精神科医は内科も理解していなくてはならないのである。
また、ここでもやたら勉強した。他の先生は、勉強嫌いで、私が勉強熱心なのを感心していた。しかし一年もすると、もう慣れた。精神科の患者は統合失調症がほとんどで、心身症の患者はおらず、何かよそよそしい感じがして、精神科がつまらなくなってきた。
病院では、なぜか婦長にかわいがられた。最初は女子病棟で、きれいな女の患者もいたが、かえってそういう患者の方がやりにくい。私の心は創作にしかなく、真面目だから医療も真剣にやったが、私は現実の女には関心がないのである。私は現実の世界の人間ではなく、空想の世界に生きている人間であり、ニヒリストであるからである。それに、どんなに優しそうな女も長く見ていると、スレッカラされていて、幻滅するだけだからである。半年の女子病棟が終わり、男子病棟に移ると、実に楽になった。それでも精神科は精神的ストレスがかかる。これは他科の医者より、ずっと大きい。ストレスがかかると、その発散として私はSM写真集やSMビデオを見た。SMの空想の世界が私の安住の場所だった。勿論、小説創作しか価値観にないから休日や当直では、小説を書いた。私と世間の人間とでは価値観が違うのである。この世でどんなに名を成し、社会的地位を得、金持ちになっても、死んだら何も残らない。小説とは、小さな世界であり、その世界こそが私の本当の現実の世界なのである。病院でも、飲み会とかは嫌いだった。病棟でも、上級医や看護士達と話すのは苦手だった。内向的な人間は、集団や社会に属する事が苦手で嫌いなのである。これは、もう物心ついた幼稚園の時からであることは、この作品の初めを読めばわかる。
そんなことで、二年の研修はやったが、その後つづけて病院に残るレジデントにはなれず、病院をやめる事となった。職がなくなるので、これからどうなるか収入の不安が強くあったが、あながち、やめたのは不安なだけではなく、ほっと、もした。私は厭きっぽく、十年一日の同じ事の繰り返しの仕事、というのはとても耐えられなかった。
ともかく収入が必要なので、今は医者に仕事を紹介する斡旋業者がたくさんいるので、それに頼んで、健康診断などアルバイト的な仕事をした。それを二ヶ月くらいした。白衣を着て、医者と呼ばれる自分に何か違和感を感じた。
ちょうど湘南にある精神病院で精神科医の募集があったので、週4日、当直週1日という条件で話がまとまり、千葉から湘南のアパートに引っ越した。130床のボロボロ病院である。雨漏りがして本当にボロボロである。誰かが、それを見たら誰も住んでいない無人の取り壊し前の建物と思うのではなかろうか。医療機器といったらレントゲンだけである。普通の人だったら最先端の医療に遅れるのを嫌がって来たがらないのではなかろうか。しかし私にとっては、そんな事はどうでもいい事だった。医者は院長と私の二人で、院長は院長室にいて、医局の部屋を一人で使えるので、人とのウザッたい関わりが嫌いで、孤独が好きな私にはちょうど良かった。それに私は、どうしても海に近い湘南にしか、住めないのである。これは異常なほどで、海に近ければ何処でもいい、というわけではなく、私は湘南の海しか愛せないのである。しかし、やはりここでもストレスはあった。医療は、習うより慣れろ、であり、精神科も内科も、別に医者じゃなくてもベテラン看護婦なら出来る面があるのである。医者は、ただサインをするという事が多い。ベテラン看護婦が医者より上手いのは注射だけではない。医療もかなり出来るのである。しかし縫合とか、法的に医者でなければ、やってはならない行為というものもある。それで経験10年のベテラン看護婦で性格の悪いのは、「医者の仕事なんて俺の方がうまいぜ」と思っているのが少なからずいるのである。思うだけならいいが、露骨にイヤミを言ってくるのもいるから、そういう看護婦、看護師、(特に婦長)がいるとウザッたい。私は特別な医者で、小説創作至上主義で、医者のプライドなんかないのに、露骨にイヤミを言う看護婦もいるので、そういうのはウザッたいのである。そもそも医者と看護婦は犬猿の仲なのである。それと精神科のほとんどを占める統合失調症の患者もストレスになる。統合失調症の患者の妄想は、患者にとっては現実なので、説明して納得させる事は不可能なのである。薬を出しても効かない患者は効かないのである。自分が病人だと思ってないから、精神科医を自分を不当に監禁しているニセ医者、と食ってかかるのである。それで、「退院させろ。退院させろ」と言いつづける。それが非常にストレスになるのである。精神科はもしかすると医療の中で一番ストレスのかかる科かもしれない。
小説の創作は、精神状態がいい時でないと出来ないのである。しかも私はストレスに弱く、そのため創作がはかどらず、精神科なんて選ばずに他科を選んでいれば良かったとつくづく後悔した。
休日は一日中、創作した。だが精神的、肉体的な体調が悪く書けない時は小説を読んだ。たまに女の肌が恋しくなって、風俗店に行くこともあった。だが時間も金も勿体ない。ので、好きな子が出来ても、ハマる事は厳しく自制した。だいたい1年に5〜7回くらいである。行くのは五反田にあるSMクラブだった。責め具がたくさん置いてある本格的なSMクラブではなく、素人のアルバイトの女の子の、名前だけのSMクラブである。なぜSMクラブかというと特別に理由はない。特にSMプレイをしたいわけではないが、少しはSM的な遊びもしたかったからである。ホームページがあって、顔を出している子もいるが、顔を出していない子もいる。しかし、同じ人間なのに写真うつりと実際とでは、かなり違っている事がよくあるのである。どうしても女の子の肌が恋しくなると、その日は、創作は諦め、店に電話した。
「あの。お願いしたいんですが・・・」
「はじめての方ですか。会員の方ですか?」
「いえ。会員です」
「どの子がいいですか?」
「××さんをお願いします」
そう言って私は、ホームページに載っている、その日の出勤予定となっている、写真で見て気に入った女の子を指名する。
「コースはどのコースがいいですか?」
「Sコースの90分をお願いします」
「何時に来られますか?」
「×時に行きます」
「わかりました。では30分前に確認の電話をお願いします」
「はい」
そう言って、私はアパートを出る。
電車に乗って、一時間半くらいで五反田駅に着く。駅前の喫茶店に入り、アイスティーを注文する。私は神経質で遅れるのを心配するため、いつも40位前に着く。文庫本を持っていくが、勿論、緊張のため読めない。30分前になると、確認の電話をする。
「もしもし。×時に××さんに、予約をお願いした浅野です。確認の電話です」
「はい。わかりました。では30分後にいらして下さい」
これで、これから女の子に触れるという実感が沸いてきて、緊張で心臓の鼓動が速くなる。喫茶店から店までは5分で行けるので、25分、待たなくてはならない。この25分が何と長く感じられることか。ようやく5分前になると、よし、と気合いを引き締めて喫茶店を出る。狭い路地を少し歩いて、とあるビルに入り、エスカレーターで4階で降り、店の番号の部屋のチャイムを押す。
ピンポーン。中でチャイムの音が鳴っているのが聞える。ガチャリと戸が開く。
「いらっしゃいませ。浅野さんですね。どうぞ」
きれいな女の人が出てきて手招きする。その店は、以前は男が受け付けをやっていたが、いつからか、女の人に代わったのである。
「××で、Sの90分コースですね。それでは指名料とホテル代で、3万5千円です」
私は財布から4万円だして、5千円おつりをもらう。もう本当に女の子を抱けるんだという実感が沸いてくる。
「ホテルは×ホテルと○ホテルの二つがありますが、どちらにしますか?」
「部屋の広い方はどっちですか?」
「×ホテルの方が、少し広いです」
「では×ホテルにお願いします」
彼女はケースに入った手書きの地図を私の方へ向けホテルの場所を指差して説明する。
「今、ここです。出た所にローソンがありますから、そこを真っ直ぐ行って、突き当たりの左手に、茶色のビルがあります。それが×ホテルです。部屋に入ったら、部屋の番号を連絡して下さい。女の子がすぐ行きますから」
一分の距離でも私は用心深いので、メモを取り出して、地図をササッと書く。そして私は立ち上がって部屋を出て、ホテルに向かう。メモした地図は、結局いらない。一分とかからずホテルに着く。受け付けで、ルームキーを受け取って、エレベーターで、部屋に入る。部屋に入ると、ほっとする。私は携帯で店に電話する。
「今、×ホテルの部屋に入りました。部屋の番号は301です」
「はい。わかりました。では、すぐ女の子が行きます」
すぐ、といっても、だいたい、いつも10分くらいしてから来る。その10分間の待ち時間の内に私は緊張のため、心臓の鼓動が加速度的に速くなってくる。
ピンポーン。チャイムが鳴る。
部屋は鍵をしていないが、女の子は、遠慮して、自分からは開けない。そっと戸を開けると、可愛い女の子が立っている。そしてニコッと笑って部屋に入ってくる。
「はじめまして。××です」
私は急いで部屋の戸を閉める。もう、こっちのものである。私の心臓ははち切れんばかりに躍動する。この部屋の中だけが、私の唯一の、生きている事を実感できる現実の世界である。勿論、私は、普段でも人とも話す。しかし、それは、「私」という仮面をつけた演技の私に過ぎない。言うことは建て前であり、本心は心の中にガッチリと仕舞い込んで、本心の心の交流などない。しかし、今は違う。私の仮面は取られ、素顔の私の心が表れる。もはや、何も隠す物はない。私は泣きたいほど嬉しくなり、服の上から彼女をそっと抱きしめる。ちょうどテレビドラマで恋人が抱き合うシーンのように。女の子の肌の柔らかい温もりが伝わってくる。
「よかった。可愛い子で」
そう言って私は、服を着た彼女を立たせたまま、「愛してる」「好き」「可愛い」などと言いながら、女の子の髪を撫でたり、首筋にキスしたり、起伏に富んだ柔らかい温かい女の子の体を触りまくる。私はその感覚をいつまでも忘れないように貪り触る。女の子も自分が好かれていることが嬉しくて、私のこの戯事に笑いながら、つきあってくれる。しかし、いつまでも服を着たままではいられない。ある程度、時間が経つと、
「ねえ。シャワーを浴びてからにしよう」
と、擽ったそうに言う。私としては服の上から触る方が興奮するのだが、女の子はそうではないらしい。道学者なる私は女の心を知る由もない。
私はSコースで入るが、女の子を縛ったりはしない。縛りたいとも思わないし、手間をかけて縛る時間が勿体ない。縛る事の興奮は女の自由を奪い、女を怖がらせる事にある。90分で確実に開放されると分かっている以上、縛る事には何の興奮も起こらない。
私は90分という限られた時間で、女の子の体の感触を心ゆくまで楽しむ。勿論、蝋燭なども時間の無駄である。私には女とは、壊れやすい人形のように思われてならない。だから、優しく大事に扱う。そして女の子が喜ぶ事をする。だから女の子も私を好いてくれるのである。フェラチオなどは、もってのほか、である。可愛い女の子に、自分のマラを舐めさせるなど、女の子が可哀相でとても出来るものじゃない。それにフェラチオなどされても私は何も感じない。
しかし、やがて終わりを知らせるブザーがピピピッと鳴る。
「もう時間になっちゃった」
女の子は言う。私と女の子はシャワーを浴びて、服を着てホテルを出る。手をつないで、店のビルまで歩く。
「また来てね」
彼女は、満面の笑顔で手を振る。私も、
「ありがとう」
と言って、手を振ってわかれる。
帰りは、もう優越感である。仲のいいカップルを見ても、
「オレだって女の子に好かれているんた。彼女をつくろうと思えば、つくれるんだ」
という自信があるからである。しかし個室の中だけでの90分だけの彼女というのは、時間が経つと、だんだん寂しくなってくる。
好意を持ってくれるとはいえ、女の子も仕事と割り切っている。私も普通の男のように、女の子と手をつないで街を歩いたり、ディズニーランドに行ったり、一緒に海水浴に行ったり、してみたい。金銭での契約としてではなく、友達として付き合いたい。ホテルの部屋の中だけの付き合いは、現実の付き合いではなく、さみしい。しかし店外デートの誘いは禁止事項である。それでも、やはりデートしてみたい。
それで、ある時、気に入った女の子に聞いてみた。
「ねえ。一度でいいからデートしてくれない?」
すると、あっさりと、
「いいよ」
と言ってくれた。メールアドレスも教えてくれた。来週の日曜日に駅前のマクドナルドで合う約束をした。日曜日に、マクドナルドに行って待ってたら、本当に彼女がやってきた。近くのレストランで食事をした。しかし、長い時間、話していると話題につきてきて、困ってしまった。内向性は世事に疎いのである。必死で話題を探そうとすると、ヘトヘトに疲れてしまう。それで、その子とはその一回だけのデートで終わった。私も、それ以上、デートしたいとも思わなかった。所詮、私は女の子とは縁が無いのか。と、さみしく思った。
数ヶ月して、またぞろ女の子の肌が恋しくなって、店に行った。そしたら、ものすごく可愛い子だった。性格も優しい。垢抜けていなく純粋で、何か自分を見せられているような気がした。その頃、私は仕事のストレスや精神保健指定医の資格取得のことで悩んでヘトヘトに疲れていた。医療の世界は汚い。医療界は、騙しあうのが、当たり前で、そんな社会に嫌気がさして、くたびれはてていた。人をだます事に全く罪悪感を感じていない人間がザラにいる。とくに権力を持った人間は、したたか、である。彼らには、太宰治の言うところの人間としての「苦悩する能力」が欠如しているのだろう。
そんな事で、その子と抱き合っていると涙が出てきて、止まらなくなった。私は大声を出して泣いた。
「何で泣くの?」
「幸せだから」
「誰かにいじめられているの?」
「職場の上司に」
「じゃあ、私をその上司と思って、いじめて」
「できないよ。そんなこと」
私は、幸せを感じながら、その子を抱いた。時間になった。
「メールアドレス教えてくれる?」
「うん。いいよ」
そう言って彼女はメールアドレスを書いてくれた。
「これ。僕が書いたんだ。よかったら読んで」
そう言って、私は彼女に自費出版した小説集、「女生徒、カチカチ山と十六の短編」を渡した。彼女はパラパラッと本をめくった。
「へー。お医者さんで作家なんだ。すごいね」
私は照れながら彼女を抱きしめて分かれた。
しかし翌週は行かなかった。休みの日は、やはり小説を書きたかったからである。ただメールの遣り取りはした。彼女とのメールの遣り取りは心が和んだ。
一ヶ月くらいして、また彼女に会いに行った。やはり、私は彼女の優しさに大泣きに泣いてしまった。時間になった。
「家くる?」
彼女が聞いた。
「えっ」
私は吃驚した。女の子にそんな事を言われたのは、初めてである。
「家って何処にあるの?」
「近くだよ」
「う、うん。じゃあ行く」
訳がわからないまま、私は彼女とホテルを出た。歩いて二分ともかからない所に、一階がローソンになっているマンションがあった。その中の一室が彼女の部屋だった。
「ここ」
と彼女は言った。ああ、なるほど、と私は思った。私は彼女の家とは、もっと電車に乗っていく離れた所にあるのだと思っていた。客が来て、彼女を指名すると、店が彼女に電話して、彼女はホテルに直行するのだ。こんな近くなら、夜、遅くなっても終電を気にする必要もない。一階のローソンで、せんべえを一袋買った。
彼女が戸を開けたので、私は、おずおずと入った。女の子の部屋に入るのは、生まれて初めてなので気が動転してしまった。さすが女の子の部屋だけあって、きれいである。
「うわー。女の子の部屋に入るの生まれて初めてだよ」
私は感動をことさら言葉に出して言った。
「そんなに女の子っぽい部屋じゃないよ」
そうは言うが、きれいに整理されている。少なくとも私の汚い部屋とは比べものにならない。私は気が動転しているので、何をしたらいいのかわかわない。
「座って」
彼女に言われて、私は壁を背にして座った。彼女も私の隣に座った。
「お腹すいてない?」
「ううん」
彼女は嬉しそうである。まるで欲しがっていた獲物を手に入れた人のように。実際、私は無口で大人しい。私は、何を話していいんだかわからないので、気も動転していたので、精神科に関する事を夢中で喋った。少し話してから、
「こんな話、面白くないでしょ」
と聞いた。
「ううん。面白いよ」
おそらく面白くないだろう、と思うのだが、彼女は嬉しいので、話の内容なんて何でもよかったのだろう。
その時、ピピピッと彼女の携帯が鳴った。
「はい。エミです」
ちょっと話してから、彼女は、
「はい。わかりました」
と言って携帯を切った。
「ごめんね。お客さん。来ちゃった」
そう言って、彼女は立ち上がって部屋を出て行った。無理もない。彼女は、そのお店で一番かわいい子である。性格も優しい。指名度は一番だろう。彼女がいなくなって、部屋はガランと寂しくなった。女の子の部屋に入るのは、これが初めてで、おそらくもうこんな機会は無いだろうと思ったので、部屋のあちこちを探して見た。ユニットバスはピカピカで、きれい。箪笥の引き出しを開けると、かわいいお洒落なセクシーな下着が20枚ほどあった。冷蔵庫の中は、ウーロン茶と、コンビニのパックのサラダがあった。自炊はしていないように思われた。小さな座卓の上に、金属のハサミの様な物と、爪楊枝ほどの大きさの小さなブラシと、いくつかの色で仕切られた小さなコンパクトのパレットがある。
「これ、いったい何する物なんだろう」
と、私は、金属のハサミのような物を、首を傾げて見た。さっぱり解らない。あとで解ったのだが、それは、睫毛を反らせるビューラーで、小さなブラシやコンパクトはアイメイクの道具だった。カバンを開けると、財布があった。財布をおいたまま出かけるというのは、あまりにも大胆、というか、無防備すぎる。私は財布を調べた。運転免許証があったので、本籍と本名をメモした。こういう陰で人の個人情報を調べるという卑怯な事はしたくなく、罪悪感に苛まされたが、彼女ほどの素晴らしい子との出会いは、今後、無いだろう、と思っていたので、彼女との縁を持ちたかったので、すまないと思いつつメモした。そんな事をしてるうちに、私の携帯にピッと音が鳴った。彼女からのメールだった。
「いい子にしてるかな?もうすぐ戻るよ」
と書いてあった。微笑ましくて嬉しくなった。彼女は私を子供のペットのように思っているのだ。実際、私は大人しく無口である。私は彼女のペットである。ペットは、ペットらしく大人しくしてなくてはならない。私は壁にもたれ、膝組みをして、彼女を待った。しばしして、ドアが開いて彼女が戻ってきた。膝組みして座ってる私を見るとニコッと嬉しそうに笑った。やはり私は彼女のペットなのだ。彼女は私の隣に腰掛けた。私は、また話し出した。時間が経って慣れてきたので、今度は割りと落ち着いて話せた。もう夜の十二時を過ぎている。もう終電もない。今夜はここに泊まる事になる。私は、落ち着いて色々な事を話した。彼女も嬉しそうに聞いている。私は気分がのってきて、話すのが楽しくなった。しかし、ふと横を見ると、彼女は、ボーとしたうつろな表情である。彼女に睡魔が襲ってきている事に私は気づいた。
「エミちゃん。眠いんだね」
「ううん。大丈夫」
彼女は首を振った。
「エミちゃん。眠いんだね」
私は再度、聞いた。
「ううん。眠くないよ」
「寝なきゃダメ」
私は彼女の手を掴んで立たせ、ベッドに彼女を横にした。やはり相当、眠かったらしく、ベッドに乗ると、すぐに目を閉じて、グッタリとベッドに横たわった。
「エミちゃん。マッサージしてあげるよ」
そう言って私は彼女をうつ伏せにして、マッサージをした。私は足首から脹脛、太腿、腰、背骨、肩、腕と念入りに指圧した。そして、それを何度も繰り返した。
「気持ちいい?」
「うん」
彼女は目を瞑ったまま頷いた。私は黙って、黙々とマッサージをつづけた。嬉しかった。私は時間の経つのも忘れて、ひたすら、マッサージをつづけた。
疲れと、マッサージの心地良さのためか、スースー寝息が聞えてきた。頬の肉がたるんで、完全に寝てしまった。私はマッサージをやめて、そっと彼女の寝顔を見た。耐えられないほど彼女が可哀相に思えてきた。
「なぜ、こんな可愛い、優しい子が、毎日、男に抱かれなくてはならないのか。彼女は男を選ぶ権利はない。男が指名したら、どんな男にでも抱かれなくてはならない。疲れた日や、嫌な男だってあるだろうに」
そう思うと彼女が可哀相で、可哀相で耐えられなくなった。こんな、可愛い、心の優しい子が、生活のため、金のため、そんな事をしなくてはならない事が私には耐えられないほど辛かった。こんな可愛い、優しい子は、お姫様のように、毎日、好きな事だけさせてやりたい。私は人生というものを呪った。私が彼女の父親か兄になって、彼女を守ってやりたいと思った。私が彼女の父親か兄だったら、決して、こんな生活はさせない。親バカと言われようが、何と言われようが、彼女に金の心配などさせず、最高に幸福な生活をさせてやる。彼女は、心が優しいから、金に不自由しなくても、決して悪い事などしない。彼女の寝顔はまさに目の中に入れても痛くないほど可愛いかった。そうは思っても、私にはどうする事も出来ない。私はどうしようもない、いらだだしさに、なすすべも無く耐えるしかなった。
時計を見ると、もう朝の4時を過ぎていた。私は彼女に気づかれないように座卓の上に置いてあった本(武田久美子という生き方)の下に五万円札を置いて、そっと彼女の部屋を出た。近くのネット喫茶で始発を待った。一時間半、待って、五反田駅から山手線の始発で家に帰った。家に着くと、睡眠薬を飲んで泥のように眠った。昼過ぎに起きて携帯のメールを見ると、お金のお礼のメールが来ていた。
翌週になって、病院勤務が始まった。だが私は、もう世間の男に対して持っていたコンプレックスが、かなり軽減されていた。私にもエミちゃん、という彼女がいるのだ。しかも彼女は、優しい上に絶世の美女である。まあ、本当の彼女とは、言いにくいが、家まで入って、たっぷりプライベートな会話が、金銭関係ではなく、出来るのだから、「彼女」と言っても、さほど間違いではない。彼女の事を「絶世の美女」と言ったが、本当に「絶世の美女」である。彼女が週刊マンガの表紙にグラビアアイドルとして載っても何ら違和感は無い。
彼女とはメールの遣り取りをよくやった。そして、それが楽しかった。しかし携帯の電話番号までは、聞かなかったし、私も言わなかった。彼女の携帯の番号を聞けば、教えてくれただろう。しかし私はわざと聞かなかった。それは。電話での遣り取り、をするようになると、あまりに深入りし過ぎてしまい、お互いの生活や仕事に、差し障りが起こる事を慮ったからである。私は自分の生活のマイペースは崩したくなかったし、また、彼女の生活のマイペースも崩したくなかった。それで、彼女との遣り取りは、メールにとどめた。
数週間後にまた彼女の家に行った。
仕事が終わって、そのまま車で行った。
彼女がメールて、「もっと眠りたい」と言ってきたからである。それも無理はない。彼女は店の女の子で、一番かわいく、指名度は一番だろうから、毎日、仕事が多いのだ。そして他の子は出勤日を決めてて、また、家は電車で離れた所にある。しかし彼女は、店のすぐ近くだから、店から頼まれると、彼女の優しい性格から断わることが出来ない。夜、遅く指名されても終電を気にする必要もないから、店も、彼女に頼んでしまうのだ。それで夜、遅くまで、お客の相手をすることになってしまう。
彼女は、私のメールや私と会うと癒される、と言って、何と私が店に行って、ホテルで抱いた後、三万円返してくれるのである。
ともかく、大切な女の子が、「もっと眠りたい」と言ってきたので私は車を飛ばした。せめて彼女の悩みを聞いてあげて、少しでも彼女を支えたいと思った。よく考えてみれは、私は精神科医でもある。
あらかじめ、メールで、「今日、行くよ」というメールを送っておいて、私は高速を飛ばした。マンションに着いて戸を叩くと、彼女はニコッと笑って出てきた。もう夜も遅かった。
「今日は車で来た」
「車、どこに止めたの」
「マンションの前」
「駐車場にとめなよ。駐車代、私が払うから」
こんな風に、ともかく彼女は優しくて相手の気を使うのである。ふと面白い事が思いついて、私は嬉しくなった。
「エミちゃん。駐車場どこにあるか、教えてくれない」
「うん」
彼女は、私と一緒に下に降りた。私は自分のオンボロ車の助手席を開けた。そして彼女を乗せた。少し意味もなく、五反田の街を走った。助手席に女の子を乗せるのは、初めてである。彼女とのドライブである。私は嬉しかったが、彼女も嬉しそうだった。そして、車を駐車場に入れて、彼女の部屋に入った。
二回目なので、もう緊張感はなかった。彼女と色々な事を話した。彼女があまり、可愛いので、私は彼女にファッションモデルとかレースクィーンとかに、応募したらどうかと聞いた。
「エミちゃん。エミちゃんなら絶対、ファッションモデルになれるよ。応募してみたら」
と聞くと彼女は手を振った。
「私、人と話すのダメなの」
と言う。実際、彼女は、風俗雑誌に目をつけられて、インタビューを申し込まれたそうだが、話が苦手なので断わったそうなのである。彼女は、そう内気には見えず、友達も人並みにいれば、冗談も言う。メールの文章もしっかりしている。人と話せないはずはないと思うのだが、やはり内気なのか、シャイなのか、控えめなのか、で、出来ないらしい。
「分数がわからないの」
と彼女は恥ずかしそうに言った。
「何がわからないの?」
「分数の足し算が・・・」
彼女はノートにシャープペンで、ゆっくりと、
「1/2+1/3=2/5」
と書いた。
私はウーンと唸ってしまった。非常に素直な考え方をする子だなと思った。どうやったら彼女に、わかるように説明できるか、頭を捻ったが分かりやすい説明の仕方が思いつかなった。それで、月並みな説明をした。
「まず分母を同じにしてから、分子を足すんだよ」
と言って、私はノートに、
「1/2×3/3+1/3×2/2=3+2/2×3=5/6」
と書いた。しかし、こんな程度の説明では、わからせる事は出来るはずはない。分数という概念がまず解らないのだから。勿論、彼女は首を傾げている。分数の足し算がわからないのが、彼女に自信をなくさせているのだろう。
「分数の足し算がわからなくても、別に社会生活には問題ないよ」
と私は言った。彼女はニコッと笑った。
私は彼女に色々な質問をした。
「お父さんの仕事は?」
「政治家」
「兄弟はいる?」
「姉と兄がいる」
「高校は共学だった?」
「ううん。私立女子校」
「外国に行った事ある?」
「韓国とオーストラリアに行った」
「確定申告はどうしてるの?」
「適当に書いてる。でも風俗マルサってのがあるらしいんだって」
その他、色々な事を質問した。
話が途切れた時、彼女は、真剣な顔で私を見つめた。そして、
「こーちゃんと喫茶店やる」
と言った。その口調は本気だった。(私のペンネームが浅野浩二なので、彼女は私を、こーちゃん、と呼んでいた)私は思わず微笑ましくなって、朗らかな気分になった。いかにも女の子らしい、かわいい将来設計である。私がマスターで、彼女がウェイトレスか。彼女ほど可愛いウェイトレスなら喫茶店も客が多く来るんじゃないか。だが、それは私のプライドを少し傷つけた。私は、まがりなりにも医者である。それは彼女も知っている。何で医者が喫茶店のマスターをしなければならないんだ?それで私は笑いながらこう言った。
「ははは。僕は精神科医だよ。じゃあ、僕がクリニックを開業して、エミちゃんには、受け付けをやってもらうってのはどう?」
「うん。それ、いいね」
彼女も嬉しそうに言った。しかし残念な事に私はクリニックを開業する気は全くないので現実には無理である。
そんな事を話しながら、もう夜も遅くなったので寝ることにした。
私はまた、彼女を少しマッサージした。
私は彼女と一緒には寝なかった。ベッドも小さいし、そもそも彼女の家では性的な事はしないと決めていた。彼女は、毎日、男に抱かれて疲れているし、また彼女が私を家に入れてくれた好意につけ込みたくなかった。私も、少し疲れていたので、マッサージは、少しにして、壁に寄りかかった。私は神経質で人がいると眠れないし、そもそも睡眠薬を飲まないと眠れないので、その日は徹夜した。
翌日になった。大学時代から徹夜勉強は慣れているつもりだったが、かなり疲れた。他人の部屋で緊張していた事と、夏で蒸し暑かったこともあるだろう。
10時ころ彼女が目を覚ました。
また少し話しをした。彼女は携帯で家に電話をかけた。
「お母さん・・・。うん。元気だよ」
彼女の実家は仙台で、家族には旅館で働いている、と言っているらしかった。
女の子と高級レストランで食事をする事は私の夢だったので、彼女に誘った。
「エミちゃん。どこかで食事しない」
「うん。近くにイタリアンが出来て、一度、あそこで食べたいと思ってたの。でも、今日やってるかなー」
それで、彼女と一緒に部屋を出て、そのイタリアンレストランに行ってみた。マンションから一分もかからない所だった。だが、残念な事に、その日は休みだった。
それでマンションに戻った。昼近くになった。
「今日、友達の誕生日のプレゼントを買いに渋谷の109に行くの。こーちゃんはどうする?」
「もちろん行くよ」
こんな願ってもない機会はない。私は喜んで答えた。女の子と一緒に街を歩くのは、長年の夢だった。まさに夢かなったり、である。彼女は別の服に着替えだした。残念な事に何か、ズボンを履いて帽子をかぶった。彼女には、それが、お気に入りなのか、今、流行ってるファッションなのか知らないが、私には極めてダサく見えた。せめて短いスカートにして欲しかった。
「エミちゃん。もっとセクシーなのない?」
「えっ?」
彼女は、聞き漏らしたのか、意味が分からなかったのか、首を傾げた。私は、仕方がないと諦めた。それに、私は彼女の家に泊めてもらっている、という立場である。私の欲求を強く言う事は出来ない。それで、彼女と一緒にマンションを出た。五反田駅から山手線に乗った。私の嬉しさは喩えようもなかった。まさに私は彼女と一緒に人中にいるのである。普通の、簡単に彼女をつくれる男や女なら、こんな事なんでもないことだろうが、私にとっては、まさに夢が叶っている状態なのである。私は嬉しさのあまり、車内の客に向かって、「この子、僕の彼女なんです。可愛いでしょう」と自慢したくなった。私はそういう非常識な事もしかねない人間である。しかし昨夜、睡眠薬を飲まずに一睡もしなかったため、疲れていたので、そうする元気が無く、しなかった。疲れてなかったら、しかねなかったかもしれない。渋谷駅に着いて降りた。そして109に入った。
彼女は、何にしようかと迷って、グルグル109の中の店を回った。店に入ると店員が、
「いらっしゃいませー」
と元気よく挨拶する。私は大得意だった。店の人は、絶対、私と彼女を恋人の仲と見ているだろうし、実際そうである。少し驚いた事に、彼女は私となら冗談も言うが、店の人に何か聞く時には、人が違ったように、小声で真面目に控えめに聞く。笑顔を全く見せない。やはり、彼女が言った、「人と話すのが苦手」というのは本当なのだ。やっと小物のアクセサリーを買った。そして、デパートの中華料理店で、一緒にラーメンを食べた。そして電車に乗って、五反田にもどり、彼女のマンションに入った。彼女は5時からの出勤で、もう5時に近かった。
「ごめんね。私、お店行く」
彼女が言った。彼女は、家から直接、ホテルに行く事もあるが、他の子のように、店に待機していて、指名されると店から行く事もあるのである。
「こーちゃんは、眠いだろうから、寝てって」
そう言って彼女は家を出て行った。私は、少し休んでから、また本の下に3万円置いて、部屋を出て、高速を飛ばして家に帰った。
その日は私にとって最高に幸せな日だった。その後もメールの遣り取りは楽しかった。ただ、やはり私は、休日は、おちついて小説を書きたく、彼女に会いにはいかなかった。いつでも彼女に会える、という安心感で精神的に満足できた。
だが、彼女からのメールの内容が、だんだん、仕事による睡眠不足の辛さを訴えるものが多くなってきた。彼女は精神的にも弱い性格で、情緒不安定になり、精神的にもまいってきた。私は、出来る限りのアドバイスをし、また精神科クリニックにかかるよう勧めた。だが、その年の暮れ、とうとう彼女は、仕事を止めて仙台に帰る、というメールを送ってきた。私は急いで彼女のマンションに行って、彼女と話したが、彼女の決意はゆるぎないものだった。もう店の人にも辞める事を話していた。彼女が東京からいなくなって、会えなくなるのは寂しいが、彼女の人生を決める権利は彼女にあり、私には、何も言う資格はない。お別れ、を言って帰った。年が明けて、彼女は荷物をまとめて仙台に帰った。彼女は旅館で働いていると親に言っていたが、風俗店で働いている事がばれてしまったらしい。ウソがつけない子なのである。だが、メールの遣り取りは、その後もつづけた。という事で、彼女とはメル友となった。毎日の夜通しの、きつい風俗の仕事から解放されて、彼女の精神も体も健康になって、メールの内容も楽しいものになった。
彼女と会えなくなったのは残念だが、彼女との付き合いは私にとって、非常に自信となった。
それまでは夏、海水浴場にも大磯ロングビーチにも男一人で行くのは恥ずかしくて、出来なかったが、もう恥ずかしさもなくなり行けるようになった。私にはエミちゃんという恋人がいるからだ。
私がこの世で最も興奮するのは夏の女のビキニ姿である。初めて勇気を出して大磯ロングビーチに行った時は、セクシーなビキニ姿の女達を間近に見て興奮し、思わず射精しそうになってしまったほどである。勿論、露出された外見のエロティシズムもあるが、それ以上に、夏の女の解放された精神に興奮するのである。私はヨーロッパのどんな美しい風景や音楽より、夏、湘南に来るビキニ姿の女の方が好きである。否、ビキニ姿の女というより、日本の夏という季節に海水浴と称し、自慢の体を披露し、あわよくば素敵な出会いを求めにくる女が好きなのである。私の好きな女にはかなり条件がある。まず日本人であること。6月頃から、お台場や海外で焼いて、あまりに小麦色にきれいに日焼けした女は、こだわりが強すぎて嫌である。スレッカラされた女は、肉体だけを愛し、その人格を愛さない。私が最も愛するのは、東京から来たOLかフリーターで、あまり日焼けしていない、それで、夏、自分の体を自慢しに、あるいは、天真爛漫な性格の何の特技も無い普通の女である。勿論、カップルであったり、子供を連れていたりしても全くかまわない。私は観照者である。勿論、私も可愛い彼女がいて、その風景の中に組み込まれたなら、どんなに嬉しいかしれない。しかし、そうでなくてもいいのである。彼女らは知っているのだろうか。この夏の太陽と青空と焼けた砂浜が、一瞬であると同時に永遠であるということを。確かに彼女らが楽しんだ夏の青春の一時は、事実というフィルムによって撮影され、過去という保存庫に永遠に保管される。しかしそのフィルムは、物理的には存在しない。ただ写真やビデオなどなんかに撮らなくても、彼女らが夏の1日を謳歌したという事実は永遠に存在しつづける。事実は存在し、事実は永遠に残るのである。しかし存在するのは事実だけで、楽しんだ行為や感情、美しい肉体は、全て消えて無に帰する。物として残るものは何も無い。確かに写真やビデオは、残るだろう。しかし行為というものは、完全に無くなってしまうのである。行為が存在しうるのは現在の中だけである。しかもそれは微分のように限りなくゼロに近い、ほんの僅かな瞬間の時間である。しかしそれも正しい表現ではない。そもそも時間が存在しない以上、限りなくゼロに近い、ほんの僅かな瞬間の時間というものも実は存在しないのである。つまり我々は幻という現実の中に生きているのである。しかし事実は存在する。行為というものは一瞬、一瞬、消えていくものである。そして私は、美しいビキニ姿の女を見る時、悲鳴を上げて叫びだしたくなる思いに駆られるのである。
「あなた達は怖ろしくはないのか。あなた達が謳歌している、美しい青春が、跡形も無く消えて無くなってしまう事が。それとも、あなた方は、美しい行為を実体のない事実というものの中に必死で刻み込もうとしているのか」
私は行為というものが全て無くなってしまう怖ろしさを知っているから、彼女がいなくても寂しくはないのである。だから私は小説を書かずにはいられないのである。
しかし、彼女らは意識しているのか、していないのか、わからないが、青春を事実の中に刻み込む事は、何と素晴らしい事であることか。事実はたとえ地球が滅びて無くなっても、存在する。それに較べると作った小説というものは滅びないが、地球が滅びてしまえば無くなってしまう。ただし、小説を書いたという事実は滅びない。私は現実世界に生きれないから芸術至上主義者であるが、彼女らの、生きている様は美しい。生きた、という行為の事実は、たとえ地球がなくなっても、宇宙がなくなっても、永遠に決して無くなることはないのだ。
昔は私は結婚しない事は、私にとって当然の事だった。それは私の信念であった。私が自分の生存の条件と和解する事は敗北だった。私の感性、私の理想の高さ、がそれを受け入れる事を拒否した。私は顔が悪い。喘息アレルギー体質で、人づきあいが出来ない内向的な性格である。頭もさほど良くはない。もし子供を生んだら、そういう私の特質を持った子供が生まれる可能性は十分ある。私はそんな可哀相な子供を生みたくないのである。可哀相なつらい人生を送らせたくないのである。悪遺伝子は撲滅するに限る。こんな遺伝子など、この世から抹殺すべきだと昔はゆるぎない決意として思っていた。しかし実際、どんな子供が生まれてくるかは、生んでみないとわからない。私は悲観主義なので、悪い方へ、悪い方へ、と考えてしまう。しかし、もしかすると、そう顔も悪くない、健康で元気な子が生まれるかもしれない。それはわからない。賭けである。しかし、また、そして哲学者というものは、最終的に賭けないのである。
夏、子供を連れてプールに来る人を見ると羨ましい。これは夏、海やプールに、子供を連れて来る男女に限らない。歳をとるにつれて、妙に子供が可愛く見えて仕方がないのである。私は、昔もロリータ・コンプレックスがあったが、今では、それがより一層、激しくなっている。私も結婚して、子供を生みたい。自分の子供が欲しい。女の子で、学力は普通で、勉強より遊びの方が好きな、数学の問題がわからなくて机の前でウンウン唸って困って眉を寄せているような、しかし、いつも天真爛漫な笑顔で私に話しかけてくれるような、そんな子供が欲しくて仕方がない。
私も親から、結婚して家庭を持つよう、さんざん言われてきた。私は医者で、医者は収入は十分あり、社会的地位も高く、そして本当は、顔もそんなに悪くない。だから、結婚して家庭を持ち、子を生み育てる事は、十分できる。しかし、私は自分の信念に基づいて、それを頑なに断わりつづけてきた。
しかし歳をとるにつれ、やはり家庭が、子供が、欲しくなってきた。
しかし、私は、やはり生涯、結婚しないだろう。過敏性腸は生活、仕事を著しく困難にしている。仕事と小説創作と家庭の両立は出来ないからである。仕事と家庭に追われ、自分の時間がなくなり、小説を書くことが出来なくなる事には私には耐えられない。実人生の幸福と、自己実現のどちらかをとるか、という選択に迫られたら私は、自己実現の方を取る。それに、私が、家庭に憧れる度合いは、そんなに大きくはないのである。たまさか、ほのぼのとした親子の光景を見ると、羨ましいと思う程度である。そして、たまさかの、ほのぼのとした親子の光景を一瞬、見るから羨ましいと思うのであって、実際、結婚したなら、家庭生活とは、何と単調でつまらないものかも十分、想像できる。それに愛などというものは、形を変えた自己愛、アルテル・エゴに過ぎない。それに内向的人間は、自分の世界というものを持っているから、一人でいても、他人が想像するほど、孤独ではないのである。
私が性欲の形として求めるものが、SMである、という事も十分、必然性があるのである。私には生殖に対する嫌悪がある。SMでは、女の股に縄を食い込ませるが、あれでは挿入が出来ない。だから、健全な男は、股縄を、一時の遊戯として、面白がってする事は出来ても、最後には、外して、男のマラを女に挿入しなければ満足できないのである。
中学生から高校生になる頃、子供は性に目覚め、男根で女の壁を突き破りたい欲求が生まれる。それは社会という壁でもある。男根で女を突き破りたいと思うように気持ちが変わる時、子供は、精神的に親の庇護から独立して大人になる。女の体の中に放出しようとする精子のエネルギーは、男が社会に放出しようとするエネルギーである。
私には、それが起こらなかったのである。だから私はアダルトビデオでも、ペッティングには興奮するが、本番行為には嫌悪が起こるのである。つまり、大人になれないのであり、また、なりたくないのである。
子供の時は、誰でもSM的な感性を持っていた。女の裸は見たいが、自分は裸にはなりたくはなかった。そして見る事が興奮だった。しかし、セックスというものを知り、裸同士で結合することに欲求が向いて行くにつれ、SM的な感性は減っていく。女と結合したい欲求とは、社会と結合したい欲求でもある。
SM的感性の人間とは、大人になっても、女に対して、子供の性欲の感覚でしか興奮できない人間である。大人になると、子供の時にはあった、ためらいがなくなってしまうから、本能に従った、ルールの無い、えげつない、どぎついエロティックな形となるのである。
一番猥褻なものは縛られた女の肉体である、とサルトルが「存在と無」の中で言っているがまさにその通りである。
私はそういう自分の感性が、あながち嫌いではない。なぜなら、もし私がそういう、いびつな感性を持っていなかったら小説は書けなかった事は間違いないのだから。
平成21年11月10日(火)擱筆