潮騒                  目次へ
     1996.4月

 初江は入社一年目の夏、みなが太陽を求め、海外へ羽をのばしにいく話を楽しそうにしているのを、ポツンと一人、黙って聞いているような子だった。同僚の、くったくのない笑顔の中にはどうしても入れなかった。退社からねるまでの時間も一人さびしいものだった。ゴハンを食べ、テレビをみて、風呂に入って眠る。その繰り返しの毎日。休日、渋谷や新宿へ少しお洒落してショッピングへ行くことくらいが単調な生活の中でのささやかな楽しみだった。結局はさびしい夕暮れとともに帰路につくことがわかっていても・・・。たまに彼女に話しかけてくる見知らぬ男もいた。そんな状態でむかえた一週間の夏期休暇だった。どこでもよかった。自分の存在の無意味さに耐えきれず、あてもなく電車に乗った。終着駅につくとローカル電車にのりかえた。そしてその終着駅で降りた。そこはさびしい漁村だった。薄曇りの天気だった、が、時おり雲間から夕日がもれる。少し寒さを感じさせる潮風に抗して彼女は海の方へ近づいた。
海は時おり日の光をうけてきらめいている、はてのない水平線が彼女をいざなった。その景色は今の彼女の心をそのまま表していた。彼女はさびれた漁の小屋に身をもたせた。
夕日が水平線に達しても彼女はそこをはなれられなかった。
「もし今、自分がこのままいなくなってしまえば・・・」
ふとそんなことを思っていた時だった。
「もし」
誰かが後ろから声をかけた。初江はふり返った。浅黒い、がっしりした体格の若者だった。だまっている彼女に若者は無遠慮に話しかけた。
「君。今日とまるところまだきまってないんだろう」
黙っている初江の手を若者はつかんで言った。
「だったら僕の所にきなよ。たいした所じゃないけど」
初江の了解もとらないまま若者は彼女の手をひいていこうとする。力が強いので抵抗することが出来ない。不安を感じだした初江は、
「はなしてください。私、旅館にとまるお金はありません」
と言った。若者は、どこふく風、と相手にしない。
「だったらアルバイトで旅館の手伝いしてよ」
電灯がちらほらつきはじめた。気の小さい初江はことわることが出来ない。それに相手の若者も朴訥だが悪い人間には思えない。やむなく初江は彼に従った。
「君、名前は」
「・・・初江」
「僕は新治」
旅館へつくまで新治は一方的に自己紹介をした。彼は父がいず、母親と旅館を営んでいること。夏は海水浴客でにぎわうが、他の季節は海釣りする釣り人のための船宿となっていること。などを話した。初江は黙って聞いていた。
旅館につき新治はいきおいよく戸を開けた。
「ただいま。かあさん」
「おかえり」
母親は新治のうしろの初江に気づくと、すぐ丁寧に、
「いらっしゃいませ」
と、言っておじきした。新治は母親に、彼女が客ではなく、金がないため、住み込みのバイトをさせてくれないか・・・とたのまれて、連れてきた、と説明した。うつむいている彼女を新治の母親はしばし思案げにみていたが、その表情はすぐに気持ちのいい笑顔にかわった。
「たすかります。じゃ、さっそく」
と言って母親は初江を厨房へ連れて行き、あらましを教えた。言われるまま初江は洗いものをした。母親はどの食器はどこ、と、丁寧に教えた。初江は内気だったが、のみこみがはやい。仕事も雑ではない。旅館には一組の客がいるらしい。にぎやかな話し声が聞こえてくる。新治の母親は、彼らが東京から来ている四人の釣り仲間だと初江に教えてくれた。なんでも役員クラスの人達だという。新治の母親にたのまれて、初江は配膳することになった。初江は、
「それは」
と言って断ろうとしたが新治の母親は初江に善をわたしてしまった。部屋からは釣り人達の今日の漁の収穫らしい話がにぎやかに聞こえる。初江が声を震わせて、
「失礼します」
と言って部屋に入った。すると一同の笑い声が一瞬ピタリと止まった。緊張から食器がカタカタなっている。もう少しでこぼれそうになった。あぶなっかしい。
「ありがとう。腹ペコペコだ」
一人がさりげなく言った。初江は無事、配膳をおえると、
「失礼します」
と言って部屋を出た。内心胸をほっとなでおろした。新治の母親は刺身のきりかたやもりつけも教えてくれた。その晩、初江は釣り人の釣った鰈をおかずにご馳走に近い夕食をうけた。新治が初江に用意してくれた部屋は海の見える四畳半の部屋だった。初江は風呂にはいって、床についた。アルバイトという感じがまるでしない。まるで自分が客のようである。見知らぬ場所ではなかなか寝つきにくい初江だったが寂しげな潮の遠鳴りを聞くともなく聞いているうちにいつしか心地よい眠りがおとずれた。
 翌日、初江が新治の母親に自分のするべき仕事を聞いた。が、母親は特に何もしなくてもいいと言った。なぜかと初江が聞くと、新治の母親はその理由を話してくれた。新治は自分の釣船が小さくてもいいからほしくて、工場でアルバイトして資金をためていたのだが、船はいささか値が高い。でも釣り客四人は新治が心根のやさしそうな素敵な女性を娶ったから祝いの祝儀に相当の額をだしてくれた。のだという。はじめは本当の事を言わず、隠し通そうかと思った。でも四人の釣り客は毎年くるおとくいさんだし、わかってしまう。それで、新治があなたを連れてきたいきさつを正直に話した。四人はちょっと信じられない、というような表情をしたが、それでもいっこうにかまわない、という。だからそれが理由だという。初江はちょっときつねにつつまれたような気がしたが、そんなものなのかと納得した。でもやはり、何もしないわけには行かない。
と言って色々な雑用を聞いてはこまめに働いた。四人の客は二泊三日の予定だったが,もう少しのばす、という。どうも、あなたのおかげらしい、と新治の母親は言った。
 三日目。四人は朝から乗合船で沖に出るが初江と新治にも一緒にこないかとさそった。
新治は釣り好きだったが、遠慮する、と言ったが、ぜひにと言う。四人は気さくな人ばかりである。初江は釣りは知らなかったが、責任のようなものを感じていたので、いかなければ、と思った。初江がまったく自分は釣りを知らない。というと、だからこそ海釣りの面白さを教えると四人の一人が言った。その日は凪だった。絶好の釣り日和。朝日に向かっての船出は心地よい。船はかなりの沖で停泊した。陸地が見えない。初江は少し恐怖を感じた。
板子一枚下は・・・。それに初江は泳ぎをしらない。釣り人は逞しい人間である。大自然と戦う人間である。四人の釣り人は初江に仕掛けをつけたロッドを渡した。初江にはわからないが、一人が、すこしでもブルッと手応えがあったら言うようにいって、各々、仕掛けをつくったロッドを海原に投射した。新治は艫に座ってみなの世話をした。四人の釣り人は、時々かかったと言って、力強くリールをまいた。新治はその時協力してあみですくった。釣り人は魚をつると初江に、これはかわはぎといって餌とりがうまくて釣り人をなやませる魚。でも味はとてもよく、刺身でも焼いてもうまい。などと、その魚について説明した。また、釣りや海のことをいろいろ教えてくれた。そうなると初江もだんだん自分も釣ってみたい欲求が起こってきた。だがぜんぜん手ごたえがない。待つこと数時間、初江は、「あっ」と言った。初江のとなりにいたある会社の社長のところに新治はいそいでいき、新治はいそいで役をかわった。社長は初江のさおを力強くつかんだ。たしかなあたりだった。社長は初江に言った。いいかい。まけ、といったら力強くリールをまいて。社長は魚のてごたえをたしかめながら適時、まけと言った。初江も真剣だった。格闘すること数分。ついに魚は姿をあらわした。やった。石首魚だ。初江にはわからないその魚は日の光をうけて美しい水のしたたりをひいている。
そのままじっとしてて、社長は初江にそう言い、慎重に指図して、ついにアミの中におさめた。みなが初江を見てパチパチと拍手した。初江にとってもこれほどの喜びを感じたことはなかった。

   ☆   ☆   ☆

 初江は一週間の休暇をその旅館で過ごした。新治の母親は彼女に色々な事を経験させてくれた。
その一週間は初江にとって最も充実した日々だった。
初江が帰る日が来た。新治は初江を駅に見送りに行った。
「本当にありがとうございました」
初江は自分の心がとてもすがすがしいのを感じた。電車が来た。新治は初江の住所も素性も知らない。新治は一瞬ためらいの表情を示したが、照れながら頭をかいて言った。
「また・・・来てくれる」
初江は瞬時に新治の気持ちを感じ取った。初江は誠実に、
「はい」
と答えた。初江は電車に乗った。思い出の景色が一望される。

   ☆   ☆   ☆

一週間の短い夏季休暇が終わった最初の出勤日。
同期の同僚は皆、海外旅行で日焼けしている。気をひきしめて、との課長の訓示。みな持ち場の席に着いた。初江の隣の同僚がふと初江に目をとめて聞いた。
「あなたもどこかへ行ったの」
初江は、
「はい」
と答えた。パソコンに向かってキーボードに手をのせた。単調な生活が始まる。しかし以前と全く同じではなかった。小さくはあったが、生きている事の喜びが心の片隅にあった。



一人よがりの少女

ある初冬の日のことである。
私は、横浜市立中央図書館に、行って、勉強した。
そして、閉館の5時に、図書館を出た。
私は、アイスティーが、飲みたくなって、近くの、マクドナルドに入った。
私は、アイスティーを、持って、二階の客席に、上がって、座った。
そして、アイスティーを、啜り出した。
二階の客席は、すいていた。
しかし、窓際の席に、一組の、女子高生と、男子高生、が、向き合って、座っていた。
客は、その二人と、私だけだった。
女子高生と、男子高生、は、彼氏彼女の仲なのだろう、仲が、良さそうで、さかんに、話していた。
二人の会話が、私の耳に入ってきた。
私は、二人の会話に耳を傾けた。
どうやら、彼女は、アイドル志望で、芸能プロダクションの、オーディションを、受けたのに、落ちてしまったらしい。
彼女は、さかんに、AKB48の、悪口を言っていた。
「高橋みなみ、なんて、大したことないじゃない。そもそも、AKB48なんて、いい加減なものよ。一人で、芸能プロダクションに、応募して、認められたんじゃ、ないわ。大勢、いるから、一人か、二人、ブスが、混じっていても、わからないじゃない。ねえ。そうでしょ」
そう言って、少女は、チキンマックナゲットを、ちぎって、バーベキューソースをつけて、男の子の口に、入れた。
「スマップにしたって、そうじゃない。あの中で、格好いいのは、木村拓哉だけじゃない。他の、稲垣吾郎、香取慎吾、中居正広、草g剛、なんて、たいしたことないじゃない」
そう言って、少女は、チキンマックナゲットを、ちぎって、バーベキューソースをつけて、男の子の口に、入れた。
「草g剛、なんて、たいしたことないじゃない。あれが、人気があるのは、スマップの一員だから、という理由だけじゃない。もし、草g剛、が、一人で、芸能プロダクションに、応募したら、プロダクションは、採用したと思う?採用なんて、しっこないわ。自分の実力で、タレントになったんじゃ、ないわ」
そう言って、少女は、チキンマックナゲットを、ちぎって、バーベキューソースをつけて、男の子の口に、入れた。
「AKB48だって、そうだわ。AKB48なんて、あんな大多数のグループが、今までに無かったから、受けたのに、過ぎないじゃない。で、AKB48が、人気が出たから、グルーブに属する、一人一人、が、アイドルになれた、だけのことじゃない」
そう言って、少女は、チキンマックナゲットを、ちぎって、男の子の口に、入れた。
男の子は、ニコニコ、笑顔で、少女の、発言に、自分の意見を言う、ということは、せず、黙って、少女の話を聞いていた。
また、少女も、うつむいたまま、顔を上げず、一人で話していた。
少女は、男の子を、話し相手とは、思っておらず、自分の思いを、誰かに話したくて、一方的に、男の子に、話しているのに過ぎない。
だから、別に、少女の、お喋りの、聞き手は、仲のいい、彼でなくても、誰でも、よかったのである。
こういう女は、結構、いるものである。
私は、彼女の、一人よがりさ、が、何とも、面白く、二人の会話を、黙って聞いていた。
その時である。
外で、大きな声がした。
警察のアナウンスだった。
「こちらは、横浜中区警察署です。今、アフリカから、上野動物園に、輸送中の、ゴリラが、車のカギを壊して、脱走しました。凶暴な肉食の人食いゴリラです。この近辺にいると、推測されます。大変、凶暴です。危険ですので、住民のみなさんは、外を出歩かないようにして下さい。そして、ゴリラを見かけた方は、すぐに、警察に通報して下さい」
私は、(ふーん。ゴリラが、街中をうろついているのか)、と、思ったが、私は、自分とは、関係のない、他人事だと、思って、気にかけなかった。
それより、私は、少女の話の方に、関心があった。
「あーあ。私も、芸能プロダクションじゃなくて、AKB48のオーディションを、受ければよかったな。そうすれば、私なら、間違いなく、受かったのに」
そう言って、少女は、チキンマックナゲットを、ちぎって、バーベキューソースをつけて、男の子の口に、入れた。
男の子は、ニコニコ、笑顔で、少女の、発言に、自分の意見を言う、ということは、せず、黙って、少女の話を聞いていた。
その時である。
私は、吃驚した。
なぜなら、大きなゴリラが、マクドナルドの二階に上がってきたからである。
私は、腰が抜けてしまって、動くことが出来なかった。
男の子は、ゴリラに、気づくと、出来るだけ、物音を立てないように、注意しながら、そっと、席を立って、抜き足差し足で、二階のマクドナルドから、出て行った。
ゴリラは、少女の、席に、向き合って、座った。
ハーハー、鼻息を荒くしている。
しかし、少女は、うつむいて、独り言の愚痴を、話そうとしているので、目の前の、ゴリラに、気づいていない。
「あーあ。AKB48の、オーディションを、受けていれば、私は、受かったのに。もう、募集、締め切りになっちゃった、から、出来ないわ。ねえ。私が、AKB48の、オーディションを、受けていれば、受かったのに」
そう言って、少女は、顔を上げ、チキンマックナゲットをちぎって、バーベキューソースをつけて、ゴリラの口に入れた。
「そうすれば、私は、アイドルになれたのよ。ねえ。あなたも、そう思うでしょ」
そう言って、少女は、チキンマックナゲットをちぎって、バーベキューソースをつけて、ゴリラの口に入れた。
少女は、自分の愚痴を言うことに、関心の全て、が行っているので、目の前に、ゴリラがいる、ということも、ゴリラを、見ていながらも、気づいていなかった。
その時である。
警察官と、機動隊の数人が、そーと、マクドナルドの、二階に、上がって来た。
警察官と、機動隊は、口に、人差し指を立て、「しー」、と、ゴリラを刺激しないように、ゴリラを捕獲しようとした。
「麻酔銃を打とうか?」
「いや。それは、危険だ。ゴリラを刺激する」
「少女の命が危ない。しかし、どうして、あの少女は、逃げようとしないのだろう?」
「きっと、恐怖のあまり、足が竦んでしまっているのだろう」
「少女は何か、ブツブツ独り言、を言っているようだが、なぜだろう?」
「きっと、少女は、もうダメだと、思って、神に、祈っているのだろう」
「では、仕方がない。ゴリラを、機関銃で、射殺するしか、他に、方法がないな」
「よし。それで決まりだ。では、私が合図するから、みな、ゴリラの頭を狙って、一斉に、撃て」
そう言って、機動隊員たちが、機関銃を、ゴリラの頭に向けた時である。
「あなた。さっきから、黙ってばかりで、少しは、相槌を打つなり、自分の意見を言うなりしなさいよ。高橋みなみ、と、私と、一人の女として、どっちが、魅力的だと思うの?あなただって、イケメンだから、草g剛、とたいして変わりないから、ちゃっかり、スマップに入れるわよ」
そう言って、少女は、怒って、顔を上げ、チキンマックナゲットをちぎって、バーベキューソースをつけて、ゴリラの口に入れた。
しかし、もちろん、ゴリラは、人語なと、わからないし、話せない。
「もう。いいわ。私、帰る」
そう言って、少女は、立ち上がって、スポーツバッグを、肩にかけ、スタスタと、その場を離れ、マクドナルドから、出て行った。
「しめた。少女が去った。もう、少女の身は、安全だ。あとは、どうやって、ゴリラを捕獲するかだ」
機動隊員の一人が言った。
その時である。
ゴリラは、立ち上がって、おとなしく、マクドナルドの二階席から、一階へ降りた。
「しめた。どういう気まぐれ、かは、わからないが、ゴリラが、外へ出てくれた。こうなれば、安全に、捕獲することは、容易だ」
機動隊員の一人が言った。
警察官と、機動隊員は、ゴリラが、マクドナルドの二階席から、出て行ったのを、後から追った。
そして、私も、マクドナルドの二階席を降りた。
警察官と、機動隊、は、何とか、ゴリラが、暴れないように、捕まえようと、輸送車の、観音開きの、戸を開けて、待機していた。
しかし、ゴリラは、自分から、輸送車に、乗り込んだ。
こうして、ゴリラは、無事に捕獲されて、上野動物園に、送られた。



平成30年11月16日(金)擱筆


「シェルブールの雨傘」

山尾志桜里と、山下貴司、は、共に、東大法学部で、同期だった。
二人は、法学部で、法律を学びながら、ゼミで、親しくなった。
そして、二人は、よく、デートを、した。
「君がきれいなのは、無理ないな。アニーの子役に選ばれたほどだから」
と、山下貴司は、言った。
「あなただって、素敵だわ」
と、山尾志桜里は、顔を赤らめて言った。
山下貴司は、イケメンで、東大で、女生徒の憧れだった。
二人は、ともに、一緒に、法学の勉強に打ち込んだ。
「僕は、将来、検察官になろうと思う」
と、山下貴司は、言った。
「じゃあ、私も、検察官になるわ」
と、山尾志桜里も言った。
二人は、無事、東大法学部を、卒業して、ともに、司法試験に合格して、司法修習を経て、検察官になった。

二人は、ある日、渋谷で、映画、シェルブールの雨傘、の映画を見て、その後、近くの喫茶店ルノアールに入った。
「山尾志桜里さん。僕は、心から、あなたを愛しています。僕と結婚して下さい」
山下貴司が言った。
「嬉しいわ。女にとって、一番、嬉しい言葉だわ。私もあなたを愛しているわ。山下貴司さん」
山尾志桜里は、目に涙を浮かべた。
「ねえ。山下さん。子供が生まれたら、名前は、何としましょうか?」
山尾志桜里が聞いた。
「うーん。そうだなー」
と、山下貴司は、考え込んだ。
「私に提案があるの」
山尾志桜里が言った。
「何だい?」
山下貴司が聞いた。
「女の子だったらフランソワーズ、男の子だったら、フランソワ、というのはどう?」
山尾志桜里が言った。
「うん。いいね。君が望むんだったら、そうするよ」
山下貴司が言った。
「嬉しい」
山尾志桜里が喜んで言った。

二人は、司法修習を終えて、検事になった。
山尾志桜里は、東京地方検察庁、千葉地方検察庁を経て、名古屋地方検察庁岡崎支部に着任した。
一方、山下貴司は、東京地検特捜部、法務省での勤務の他、在ワシントン日本大使館一等書記官・法律顧問、と、同じ検察官でも、司法修習を終えた後は、二人は、別々の道を歩んだ。
職場が異なって、フレッシュな気持ちで、二人は、それぞれ、仕事に夢中になった。
月日の経つのは、速いもので、会わないでいる間に、山尾志桜里と、山下貴司は、それぞれ、日本の政治を立て直す使命を感じ出した。
しかし、運命は残酷だった。
山尾志桜里は、権力の座に長くいて、腐敗した、自民党を嫌い、民主党で、政権をとって、日本を立て直そうという志に燃えていた。
一方の、山下貴司は、保守的な自民党を、改革しようと、燃えている、石破茂の水月会に入って、自民党を改革して、日本を立て直そうと、考えた。
山尾志桜里は、菅直人、鳩山由紀夫、小沢一郎、など、民主党の幹部に、勧められ、民主党から、愛知7区、から立候補し、182,028票、獲得して当選した。
一方の、山下貴司は、石破茂に、勧められて、岡山二区から、自民党推薦で、立候補して、当選した。
政党が全く異なり、政治的イデオロギーが、異なる間柄なのに、結婚する、というのは、国民の非難も、受けるだろうし、国民に、「やっぱり、政治家なんて、八百長だ」、と言われるのを、恐れ、二人は、付き合いにくく、なって、付き合いも、疎遠になってしまった。
そうこうしている内に、二人は、それぞれ、親しい人が、出来て、結婚した。
しかし、それは、本心ではなく、政治上の不本意な結婚であった。
第4次、安倍政権で、安倍晋三は、石破派の、水月会の、山下貴司を法務大臣に任命した。
ちょうど、外国人労働者受け入れ、の入管法改正案の法案で、国会は、もめていた。
山尾志桜里は、立憲民主党から、政府に、厳しい質疑をした。
そして、山下貴司法務大臣と、論戦を交わした。
しかし、山尾志桜里は、政府の方針を批判しながらも、山下貴司に対する、愛は、変わっていなかった。
山尾志桜里は、(山下貴司さん。ごめんなさい)、心の中で、謝りつつも、山下貴司法務大臣に、厳しい質問を投げかけた。
政府を批判するのは、野党の宿命である。
ある日のことである。
山尾志桜里は、買い物も兼ねて、まだ幼い娘と、渋谷に行き、喫茶店ルノワールに入った。
そこは、司法修習の時、山尾志桜里と、山下貴司が、最後に立ち寄った、喫茶店だった。
山尾志桜里は、(ああ。あの頃が懐かしいわ)、と、思いながら、娘と、サンドイッチと、紅茶を食べ、飲んでいた。
すると、ギイと、音がして、喫茶店の戸が開いた。
幼い男の子を、連れた男が入ってきた。
それは、山下貴司だった。
山尾志桜里は、びっくりした。
山下貴司は、幼い息子と一緒だった。
そして、山下貴司は、山尾志桜里の、隣のテーブルに着いた。
そして、ボーイに、サンドイッチと、紅茶を注文した。
「やあ。元気?」
山下貴司は、隣の、山尾志桜里に、話しかけた。
「ええ」
山尾志桜里は、頬を赤くして答えた。
「あなたは?」
今度は、逆に、山尾志桜里が、山下貴司に聞いた。
「ああ。元気だよ」
と、答えた。
「君と、最後に会ったのは、この喫茶店だったよね。覚えているよ。映画、シェルブールの雨傘、を見て、その後、ここで、サンドイッチを食べたよね」
「そうね」
「君は、シェルブールの雨傘、の、ヒロインの、ガソリーヌ・ドヌーヴ・・・じゃなかった・・・・カトリーヌ・ドヌーヴより、美しかった。今でも美しいよ」
「あなただって。今でも、イケメンだわ」
山尾志桜里は、顔を赤くして言った。
「あ、あの。山下貴司さん。国会で、意地悪な質疑をしてしまってごめんなさい。それに、あなたに対して、不信任決議案まで出してしまって・・・」
山尾志桜里が言った。
「いや。野党である以上、当然のことさ」
山下貴司が言った。
「いえ。わかっているわ。あなたは、誠実な人だわ。でも安倍政権に入閣した以上、強行採決は、悪いとわかっていても、安倍首相の意向には逆らえないのでしょう。あなたも、法案通過は拙速だと思っているのでしょう?」
「・・・・い、いや。そ、それは・・・そんなことはないよ」
山下貴司の言葉は苦しげな口調だった。
山尾志桜里は、ニッコリと微笑んだ。
「でも、立憲民主党は、しっかりした政党だね。与党と野党という立ち場は、違っても、僕は、一目、置いているよ」
山下貴司が言った。
「自民党でも、石破茂さん、と、水月会は、立派だと私は思うわ」
山尾志桜里が言った。
「ねえ。ママ。この人、だれ?」
山尾志桜里の娘が言った。
「この人はね、山下貴司さん、といって、私の昔の友達なの。さあ、挨拶しなさい」
山尾志桜里が言った。
「こんにちは。山下さん。私は、山尾フランソワーズと言います。よろしく」
と、山尾志桜里の娘が、山下貴司に挨拶した。
「ねえ。お父さん。この人は誰?」
山下貴司の幼い息子が、父親に聞いた。
「この人はね。僕の昔の友達なんだ。挨拶しなさい」
そう言われて、山下貴司の幼い息子は、山尾志桜里に、向かって、
「はじめまして。山下フランソワ、と言います」
と、ペコリと、頭を下げた。
「こんにちは。山下フランソワ君」
と、山尾志桜里は、フランソワの頭を撫でた。
山尾志桜里は、感激して涙を流した。
(ああ。この人は、私との約束を忘れないでいたのね)
山尾志桜里の娘と、山下貴司の息子は、すぐに、仲良くなって、キャッ、キャッ、と、はしゃいでいた。
外では、小雨が降り出した。
山下貴司は、時計を見た。
「君とは、もう少し話したいが、マスコミに知られると、週刊文春、や、フライデーなんかに、色々と、悪い記事を書かれるからね。そろそろ、別れよう」
「そうね。それが、私たちの宿命ね」
と、山尾志桜里が言った。
山下貴司は、立ち上がって、息子のフランソワを呼んだ。
「おーい。フランソワ」
山尾志桜里の娘のフランソワーズと、友達になったばかりの、フランソワは、父親に呼ばれて、父親の所に行った。
「山尾志桜里さん。では、さようなら。お互い、頑張ろう。また国会で論戦を正々堂々としよう」
と、山下貴司は、山尾志桜里に言った。
「山下さん。あなたも、頑張って」
山尾志桜里が言った。
「山尾志桜里さん。フランソワーズちゃん。さようなら」
山下貴司の幼い息子、フランソワは、そう言って、ペコリと頭を下げた。
そして、山下貴司は、幼い息子を連れて、喫茶店ルノワールを出ていった。


平成30年11月28日(火)擱筆