女神                            目次へ
 ふとしたきっかけで、10年も前の夏のある日の記憶が私のまぶたの内にあらわれた。それは永遠的ななにかである。私はその時、名状しがたい、ある永遠的なものを感じた。伊豆の臨海プールへ行った時のことだった。入り口で切符を買うのを待っていた。ほとんど肌の色に近いワンピースの水着の女性が手すりにかるくもたれている。なにげない表情の中にしずかなプライドと満足感がみえた。彼女はだまったまま、口元にかすかな微笑をたたえ、何を見るともなく二度とこない夏の一日を満喫していた。時おり、入場券を買う客の方へ顔を向けた。友達と水をかけあう姿は想像できない。動作がほとんどない。おとなしすぎる。日に焼けたあとがまったくみられない白い肌。かってな想像だが、そしてたぶん間違っていないだろうが彼女は泳ぎをしらないだろう。読書に熱中するようにもみえない。都会から来たものしずかなOLなのだろう。彼女は時間の存在と残酷さを知っているのだ。私は彼女の微笑の中にあるさびしさを感じとった。潮風が彼女の頬を時折うった。しかし彼女はそれを少しも意にかいさなかった。太陽が彼女の体をやいた。彼女はそれに身をまかせていた。だがいかなるものも彼女にふれることはできなかった。彼女もいかなる現実的なものを心の中で拒否していた。しかし、さびしさの中に彼女は何かを強く求めていた。私のような拙い書き手で彼女にすまない。しかし私は彼女をこの小さな文の中で永遠に若く、美しく生きつづける。






   鼎談
 深緑の五月のある風景。
ある駅つづきの、わりと大きな野外休憩場。私はベンチにこしかけた。少しはなれた所に直径6mくらいの大きなメビウスの輪のような彫刻があった。光のあたっている面が黒光りしている。そこに三人の女学生がたわむれている。二人が彫刻にのっているところを残りの一人が写真にとっている。やはり季節が彼女達にたわむれの行為を促すのだろう。キルケゴールの言う、あらゆるもののうちで最も美しい女性の青春、を彼女達は直感している。鼎談は最も友情の情景にふさわしい。二人は孤独、四人は雑多になる。二人の友情を残りの一人が写真にとり、三枚の写真が出来る。美しい友情の風景である。






   階段の上の女神
 女子高生が二人、建物の前の少し高い階段ん上で、近くのコンビニで買ったパンと飲み物を食べている。わざとやっているのか、わざとではないのかはわからない。自分らが歩行者の目線より高いところにいることはわかっているはず。暗黙の了解のロマンファンタジーの新手の遊び、かもしれない。「ねえ。ちょっと休んでいかない。」なんて言っているかもしれない。その勇気ある決断はえらい。方向性はまちがっていない。積極的にすすめるべきことではない。永遠性とは、人の記憶の中に自分が組み込まれること、ともいえる。二人はみごとに永遠性を勝ちとっている。






   詩人にならなかった人
 詩を書きそうな人だった。詩をかける人だった。細くて弱そうな人だった。だがその人は詩を書かなかった。なぜなら詩をかく人間は(芸術家は)暗い人間と思われることをその人は知っていたから。すばらしい芸術をつくるのに十分な美しい感性をその人はもっていた。しかし、その人はかろうじてこの世の中でみなと生きていけるたくましさ(およそその人の属性で最も不似合いな言葉)をもっていた。またもとうとした。その人は一人でいる時も孤独におちいらなかった。でもその人を現実に保つ生命の綱は糸のように細い。その糸がきれた時、その人は詩をかきだすだろう。なぜ世の中は詩よりも会話を大事にするのだろう。世の中と私とでは価値が反対だ。この世に詩人として生まれてきた人には詩をかかせるべきだ。だが糸が切れない以上、その人は詩をかかない。自分が生きた詩人であることをその人は生きている間に気づくだろうか。気づいてくれない、のでは、との心配が私の手を動かす。