自由学園の同窓会            もどる

平成21年の9月の最後の日曜日である。
私は机に向かって小説を書いていた。すると電話が鳴った。
「はい。浅野です」
「Y・Oです。知ってる?学園時代の同級生の」
「ああ。知ってるよ」
「あのさー。10月31日の土曜日、学園のホームカミングデーという公式行事があって、今年は俺達のクラスが行く事になってるんだけど、来れる?」
「ああ。行ってもいいよ」
「それから、その晩、名栗の旅館に泊まるんだけど、それはどう?」
「そうねー。泊まってもいいよ」
「わあ。それは嬉しい。よかったらメールアドレス教えてくれる?」
「いいよー」
と言って私はメールアドレスを言った。少しすると直ぐにメールが来た。自由学園とは卒業以来ずっと音信不通だったのに、どうして私のアパートの電話番号がわかったのか、については、たいして疑問に思わなかった。沖縄の母親に電話したのだろう。母親は自由学園の卒業生で、卒業後も自由学園と結構、つながりを持っている。そのルートで探し当てたのだろう。母親に電話して確かめたが、やはりそうだった。私は、ぜひ行こうと思った。奈良県立医科大学の卒業生名簿も送られてくるが、当然、全員が医者である。科が違っても同じ仕事なので大して興味がない。それに較べると自由学園の卒業生は、人によって色々な仕事に就いているだろうから、中学、高校と一緒にすごした同級生が、どんな仕事をしているかには興味があった。そもそも医者の世界は狭い。厚生省の診療報酬引き下げの締め付けと医療者側のイタチごっこ、がほとんど全てで、あまり日本の経済の影響を受けない。しかし公務員でなく、民間で働いている人は今の不況の日本の経済と、もろに戦っているだろうから、私よりずっと実感として世間を知っているだろう。その生の声も聞きたかった。しかし、私は緊張した所だと腸が動かなくなるので、泊まろうかどうかは迷った。そのあと、メールが何回か送られてきた。旅館で宴会をやった後、泊まらず車で帰るヤツがいて、数人は一緒にその車で帰るそうなので、私も乗せてってもらおうかとも思った。が、せっかく旅館に行くなら、泊まりたいという気持ちもあった。なので、泊まるという事にして、体調が悪かったら、泊まらず帰ろうと思った。メールでは、服装がネクタイで来て下さいだの、カジュアルでいいだのとの連絡だった。何か生徒達に自己紹介する事もあるのかもしれないと思って、何を話そうかと考えた。

そうこうしているうちに10月30日の金曜日になった。
いよいよ明日、自由学園へ行くと思うと緊張した。最近、上手く眠れる日と眠れない日があって、眠れるよう祈りたいほどの気持ちだった。だが眠気は起こっても、眠れない。時計を見るのが怖いので、パソコンをつけてインターネットのヤフーを見たら、朝の三時を過ぎている。こりゃー困ったな、と思った。明日は10時に自由学園に着かねばならない。駅すぱあと、で調べると、駅から、ひばりが丘の駅まで一時間44分かかる。では朝7時に起きなくてはならない。私はテレビと電話と携帯の三つにあるアラームを7時にセットしておいた。どうしても眠れない時は、デニーズに行って、ステーキ御前とチョコレートサンデーを食べると、眠れるのである。しかし、そうすると翌日、腹が張ってしまう。しかしどうしても眠れないので、駅前のコンビニに車で行って、少なめの焼きソバと焼き鳥とプリンを買って家に戻った。
「どうか、これで眠れますように」
そう思って布団の中で食べて、布団をかぶって目を瞑った。

   ☆  ☆  ☆

携帯の音で7時に目が覚めさせられた。
「ありがたい。眠れた」
眠れて良かった。食べた量も少なく腹もそう張っていない。歯を磨き、二週間前に転んで怪我した膝小僧の処置をして、7時半に家を出た。8時発の電車にのった。ちょうどギリギリに着くだろうと思った。戸塚で湘南新宿ラインに乗り、池袋で西部池袋線に乗った。どうせ便は出ないだろうから、学園の昼食や旅館の宴会では、あまり食べないようにしようと思った。全部、食べてたら腹が張って苦しくなって、そのため喋れなくなるだろうから。9時半に、ひばりが丘についた。久しぶりである。街もかなり変わっていて自由学園への行き方がわからない。なので、駅前のタクシーで行く事にした。タクシーに乗り、運転手に、
「自由学園まで」
と言った。すぐに着いた。9時40分である。守衛に正門の前に張ってある張り紙を指差して、
「HCDにきました」
とやや横柄な口調で言った。
「どうぞ」
と言われて敷地内に入った。誰もいない。私が一番である。だが、すぐに一人目が来た。私は一目でわかった。
「T・Mだろ」
「ああ」
だが相手は私をわからず、
「誰?」
と聞いた。
「浅野だよ」
「ああ。ジャガか」
「そうだよ。オレお前すぐ、わかったぜ」
人が来ないので彼に話しかけた。
「仕事なにしてるの」
「プータローだよ」
「うそー」
私はとても信じられなかった。
「いや。本当だよ」
そう言ってもまだ信じられない。冗談、言ってるんだろうと思った。
「お前、何してるの」
「医者だよ」
私は恥ずかしく小声で言った。相手は何も言わない。ので色々、質問した。
「子供いる?」
「いる。5人」
「ええー」
吃驚した。
「それで扶養義務はあるの?」
「ない」
次に少し大柄になったO・Nが来た。
「よう」
「やあ」
「ミュージシャンだろ」
「違うよ」
「え?だって、そう聞いたよ」
「違うよ」
「じゃ何してるの?」
「会社やってる」
「ふーん」

次にI・Mが来た。髪が白く老けてしまっている。
「よう」
挨拶したが黙っている。
「何してるの?」
「・・・」
「結婚してるでしょ」
彼は首を振った。
「テレビに出たって聞いたよ。何、話したの?」
「何も話してないよ」
「じゃ何でテレビに出たの?」
「観客として行っただけ」
なあんだ、と思った。

男子部の委員長らしいのが来た。
「こちらへいらして下さい」
私達、4人は彼に着いて行った。体育館の右横に新しい建物が出来ていて、そこに入った。食堂である。その二階の一つの会議室のような部屋に入った。H・Tが来た。彼は高等科を卒業した後、学部へ行かずミュージッシャンになった男である。
「よう(私)」
「やあ」
「すげーじゃん。Whikipediaまでのっちゃって」
「・・・」
「ホームページとブログ何回か見たよ」
「そう」
「飛行機で色んな所いくの楽しい?それとも面倒くさい?」
「まあ、楽しいね。飛行機のるの好きだから」
「結婚してるでしょ」
「うん。子供が男子部にいる」
「ええっ。そうなの」

その時、ドドッとみんながやって来た。
「ようー。ジャガー。久しぶり」
O・Mがふざけた、でっかい声で言った。
「ははは」
私は可笑しくなって笑った。かなり太ってしまっている。彼は親が大きな漬物屋で、私は彼の家にも行ったことがある。クラス1のふざけ者である。私の学園時代のあだ名は、ジャガである。何かジャガーというと格好いいように聞こえるが、ジャガイモの略である。O・Mは初等部からで、初等部からのヤツは、みな運動神経が良く、羨ましかった。しかし、あんなに太ってしまっては運動はもう出来ないだろう。というより、運動していれば、あんなに太ったりはしない。

男子部の委員長が来た。真面目そうで冗談など彼に言えるのかと首を傾げたくなった。
「先輩方の時の自治区域はどうでしたか」
私達に質問した。
「今の時代の君達はねー、ラフだろうげどねー。僕達の時は、そりゃーすこぐ真面目だったんだよ。もう、時間になるとサッと行って黙々と働いていたんだ」
私は、気分がハイになっていたので、冗談を言った。
「あ。こいつ。朝から頭がちょっとおかしくて・・・」
とO・Mがからかい半分に私を制した。
「では礼拝が始まりますので、いらして下さい」
委員長に言われて、我々はゾロゾロとついて行った。
礼拝は昔と変わらぬ体育館でやった。我々は生徒の後ろに座った。生徒達を見るとボーとして、覇気のある表情をしたヤツが誰もいない。賛美歌を歌った。我々が壇上に並んで一人ずつ自己紹介をすることになった。私は、簡単な自己紹介くらいあるだろうと思っていたから、何を話そうか、用意していた。しょっぱなから鳥居みゆきのヒット・エンド・ラーンをやろうと本気で思っていたが、何と名前だけである。バカにされてるような気がした。卒業生にたいしたヤツ何か、いないと思ってるのだろう。せめて私だけがジーパンによれよれの上着でスニーカーという普段着のラフな格好である事が救いだった。同級生は、みな大人になって角がとれた、というのか、人間が出来たというのか、おとなしく、つまらなくなってしまっている。私一人だけが、いまだに反抗期である。おそらく一生、反抗期で角がとれないだろう。角をとるつもりもない。
私達より22年前の卒業生も数人来ていた。その一人が少し話した。わかりきった事ばかり言って全然、面白くない。欠伸が出そうになった。私達のクラスから二人が話をした。これも全然、面白くない。わかりきった事ばかりである。分かりきった事でも、面白く話せば、面白くなるのだが、感情が入ってない。
その後、高三の委員長の話があったが、全然つまらない、というか、何いってるんだかわらなかった。
やっと礼拝が終わって、元の部屋にもどった。前にはH・Sがいた。彼の家はかなり大きな農場で牛を飼っていた。彼が一番早く、結婚したという事は母親から聞いていた。母親は学園とのつながりを持ってて、それで学園の情報を手に入れられた。
「牧場どう?」
「なくなった」
「ええっ。どうして?」
「経営できなくなった」
「じゃ仕事、何してるの?」
「介護の仕事してる」
「ふーん」
「ジャガは?」
「精神科医」
「どう?」
「これから高齢化社会で認知症の患者も増えるし、今がこんな時代だから、若者の人格障害も多くなって、需要はあるよ。リストカットなんて、かなりの子がするようになっちゃったじゃない」
「僕の長女もリストカットするよ」
吃驚仰天した。
「ええっ。どうして?」
「・・・」
「な、何で?」
「腕に傷がいっぱいある」
あまり根掘り葉掘り聞くと失礼で、相手もあまり言いたくないだろうからそれ以上は聞かなかった。
「昼食になりましたので、来て下さい」
委員長が入ってきて言った。我々は委員長について食堂に入っていった。
「適当に席について下さい」
私は、空いている席を見つけるのが下手なので、みな席に着いたのに一人とり残された。幸い、一つ空いている席があった。となりに教師がいる。
「ここ。いいですか?」
「うん。いいよ」
それで、その教師の隣の席に座った。食事が始まった。私は緊張している所だと消化管が動かなくなり、今晩、旅館に泊まって、また食べる事になるだろうから、腹が張らないように昼食は食べないようにしようかと思っていたが、やはり食べない訳にもいかず、半分くらい食べた。
「先生のお名前は?」
「辻村」
「そうですか」
なにか聞いた事のある名前である。はっと思い出した。私達が学生の時、学校に来た生物の先生の名前である。
「えっ?もしかして辻村先生ですか?」
「そうだよ」
吃驚した。私は先生の顔をまじまじと見た。変わっていない。髪も黒々としていて、顔も変わっていない。むしろ、私のクラスの同級生の方が、何と禿げて、腹が出て、老けてしまっているヤツの多いことか。私は感動した。
「うわー。お久しぶりです。先生、覚えてますよ。先生、正義感が強くて、寮でサボって、遊んでるワルと話し合っているの見て、すごい正義感の強い先生だなーと感心してたんです」
先生は、いかにも学園に似合いそうな先生だから、無理もないと思った。私は続けざまに、一方的に昔の思い出を語った。先生は黙ってにこやかに笑って聞いていた。
「今でも、ワルはいますか?」
「いない」
「無断借用とか、下級生いじめ、とか今でもありますか?」
「ない」
前や近くにも生徒が座っているのに、一言も話さず、感情も全く無い表情で黙々と食事し、まるでロボットのようである。私がベラベラ質問していると、先生は私の話をとぎるように言った。
「あまり、そういう事を言わないで。今は昔とは違って、そういう事は無いから」
何だか私は、少し虚しくなった。私達の頃は、ワルもいて、良い生徒もいて、ケンカしてドラマがあった。今の生徒は、まるで飼いならされた大人しい犬の集団のようである。若者のエネルギーはものすごい物である。そして、それをスポーツなり、遊びなり、あらゆる事に発散する事に価値があるのである。少なくとも私はそう思う。学校は変わったとつくづく感じた。
「冗談言ったり、笑ったりしたら、いけないって教育してるんだろうか?」
と思った。共産主義国家でも国民はエネルギーがある。ここの学校は共産主義以下である。反抗する生徒が出ないよう去勢しているのだろうか。生徒はみんなボケーとして、目に若さの輝きやエネルギーが全く感じられない。

食事が終わった。
食堂の前の芝生の中で記念写真をとった。私としては、サイドキックの姿を撮影してもらいたかったのだが、無理そうな雰囲気だったので、大人しく前列に並んだ。私は、こういう記念撮影というものが嫌いである。
記念撮影の後、学園の中を歩いて見て回った。男子部の大学部の委員長と女子部の大学部の委員長が案内した。女子部の委員長は黒い上下そろいのスーツだった。女の脚線美が後ろから見えて、尻がムッチリしていて、うわっ、セクシーと、思わず、ちんちんが勃起した。実は私は二年前に用事があって車で学園の近くに来たことがあるので、建物の様子は知っていた。
「私ね。二年前に学園に来た事があるよ。それで大芝生とか、大体見てるから知ってるよ」
「守衛は?」
「いた。卒業したから部外者で入れないけど、夕方だったもので、守衛がすぐいなくなってしまったから、入っちゃった」
誰もあんまり喋らない。ので私は後ろから委員長二人に話しかけた。
「いやー。うらやましいな。若くて。私も人生、もう一度、やり直したいよ」
委員長、二人はニコッと微笑んだ。大体、一通り回った。次に女子部に行った。女子部は昔から真面目で、今も真面目そうだった。私は女子中学生を見ると、ロリコンの血が騒いで胸がキュンとせつなくなるのだが、自由学園の女子部の生徒を見ても何も感じなかった。女子部は昔は制服が無かったが、今は制服が出来たようである。さすがに女子部はミニスカにルーズソックスの生徒はいない。私は委員長に聞いた。
「さすがにミニスカの子はいませんね。ミニスカを履く生徒はいますか?」
「少しだけど、いました。それとスカートの丈も短くなってきてます」
「ルーズソックスの生徒は?」
「履いてた人も僅かに、いましたが、ほとんどの生徒は履きません」
はは、女子部も変わったな、と思った。確かにミニスカにルーズソックスの生徒は見かけられない。
「じゃあ、娘にミニスカにルーズソックスを履かせたくない親もいるだろうから、それを売りにすればいいじゃない。娘にミニスカとルーズソックスを履かせたくない親は、ぜひ我が子を自由学園に入れて下さい、って宣伝すればいいじゃない」
などと私は委員長に言った。あながち冗談だけではないが、委員長はニコリと微笑んだだけだった。どう考えても自分が真面目な卒業生とは思えない。学園にいた時は真面目な優等生だったのに。生徒の時は、真面目だったが、大人になって不良になってしまったとしか思えない。みなと逆である。学園を一周して、羽仁吉一記念ホールという新しく出来た建物で、お茶の会をする事になった。右隣には、T・Kがいる。彼は自由学園の国語の先生である。私は、勿論、書く事の方が好きだが、読むのも好きで、近代文学は、ほとんど全部、読んで知ってるし、古典も多少、知っている。私は国語の先生になれる自信がある。それで、文学論を話せるかな、と多少期待してた。
「どんな事、教えてるの」
「夏目漱石」
「夏目漱石は、僕は、それから、が一番好きだよ。あれは姦通小説じゃない」
「・・・」
「学園にいた時、太宰治とか読んでいたじゃない。文学に入るヤツは大抵、太宰から入るんだよね」
「・・・」
「好きな作家は?」
「・・・。思想家の本、読んでいる」
と言って、三人ほど、名前をあげた。全然、知らない。何か、言いたくなさそうな感じである。しらけてる。
左隣にはH・Tがいた。彼は何か年をとったのか、学園時代のエネルギーが無い。彼はスキーを子供の頃からやっていて物凄く上手かった。ウェーデルンもコブ斜面も何でも出来た。SAJのバッジテストをしたら、1級は当然とれるだろう。その上の準指導員も取れるだろう。
「スキーやってる?」
「やってない」
「どうして?」
「忙しいから」
あれだけ出来るのに、やらないというのは勿体ない。私があれだけ出来たら、毎年、一と冬に二回は行く。運動にもなる。そもそも、卒業後、運動をしているヤツがいない。だから、老けてしまうのだ。タバコに酒に麻雀に、休日はごろ寝しているのだろう。私は絶対、老いたくない。だから、そんな物には、全て無縁である。運動もしている。水泳にテニスに空手である。水泳は2km、3kmなんて楽々である。そして私は老いに対する戦いが面白くさえある。いかに自分を鍛えて、老いないようにするか、この戦いに私はやりがいを感じている。
若さのエネルギーがあったヤツがどんどん老いていくのを見てると情けなくなってきた。私はH・Tに言った。
「オレ。空手できるよ。見せてやろうか」
「うん。見せて」
私は立ち上がり、正拳逆突きと、サイドキックをやって見せた。
「すごい」
「流派は何?」
「そうだね。まあ松涛館流だね。一週間だけ道場に通って、あとは一人で練習した」
ここでも私達のクラスより22年上のクラスの卒業生の一人の話があった。これも、ドつまらなくて、聞くのがバカバカしくなってきた。最後に教師が一列に並んで名前と教えてる教科を言った。もう、これで学校の行事は終わりである。バカにされてるような気がした。せっかく、鳥居みゆきのヒット・エンド・ラーンをブチかましてやろうと思っていたのに。帰る時、一人の教師が、
「やあ。久しぶりだね」
と声を掛けてきた。白髪でわからなかったが、はっと気がついた。矢野先生である。今は学園長をしている。矢野先生は資産家の息子である。自由学園を卒業した後オックスフォード大学を出て、学園に戻ってきて自由学園で英語の教師になった。ちょうど私達の時、戻ってきて学園の教師になった。女子部のかわいい卒業生と結婚して、家を建て、車はフォルクスワーゲンに乗っていた。資産家の息子だから、そういう芸当が出来るのである。しかし正義感が強く、男子部は坊主刈りなのに、当時は、坊主刈り、とは言いがたい位の長さの生徒もいた。それで、バリカンを持って寮に乗り込んできた事もあった。先生は、髪は白くなったが、変わっていない。懐かしさが込み上げてきた。
「いやー。先生。お久しぶり」
「先生、かわいい奥さんをちゃっかり物にして、フォルクスワーゲンに乗って、いい御身分でしたねー」
と笑って言った。先生も嬉しそうに笑った。しかし考えてみれば、今は学園長である。
こうして学校の行事は全て終わった。あとは卒業生がやってるという名栗の旅館での同窓会である。

5人、車で来たヤツがいたので、その車で行く事になっていた。しばし私達は校門の前で待った。

お通夜みたいである。みんな、何も話さない。昔だったら、人が二人いたら、無限のお喋りが始まったのに。何か若さがなくなってしまったようで、私は苛立たしくなった。
「何だよ。元気ないな。オレなんか絶対、老いたくないから体、鍛えてるよ」
そう言って、連続回し蹴りと横蹴りをした。
「すげーな。よく、そんなに足、上がるな」
と一人が言った。車が来た。私は、同窓会の幹事のワゴン車に乗った。助手席一人、後部席三人、その後ろ一人、運転者一人の六人乗った。車の中でも、私が話さないと、みんな黙っている。一人が、うつ病について聞いてきた。ので、私は色々話した。

「うつ病と、落ち込みとは違うんだよね。誰だって人生で一度も落ち込まないヤツなんていないよ。それで、落ち込んでる時、あー、オレ今、うつだよ、って言うじゃない。でもそれは、それでいいんだよ。弱音を吐く事で、一種の自己治療をしてるようなものだから」
「じゃあ、うつ病と落ち込みの違いは、どうやって見分けるの」
「そうだね。うつ病の人には、頑張れ、という言葉が、一番つらいんだよ。だって、うつ病ってのは、本人が頑張ろう、頑張ろう、と思っていても頑張れない病気なんだから。だからね、患者に、頑張れって言ってみて、つらく感じたら、それは、うつ病で、そうじゃなく、何とも感じなかったり、頑張ろうという気持ちが起こったら、それは落ち込みだね」
「なるほど。そういう方法で診断してるの?」
「いや。そんな事はしてないよ。ただ、そうやったら一番、はっきりとわかるだろうけどね」
「じゃあ、どういう方法で診断してるの?」
「そうね。色々な質問事項を書いたものに○×をつけさせて、ある点、以上だったら、うつ病ってわかるよ」
「なるほど」
「でもね。患者の話を聞いてれば、うつ病かどうかはわかるよ。うつ病の人は、食欲でないし、眠れないし、性欲もおこらないし。それに、うつ病になる人は病前性格がだいたい決まっててね。デリケートで、弱く、完全主義で、責任感が強く、罪悪感を感じやすいから」
「じゃあ、お前みたいな性格じゃない」
「そうだよ。だから僕は何回もうつ病になったよ」
彼は微笑した。
「それとねー。精神科医でも、やっぱり、うつ病の患者に、頑張れ、って言う人いるね。やっぱりねー、元気な人間には、うつ病はわからない場合があるね。それでねー、うつ病を一番よく解る人といったら、やっぱり自分がうつ病を経験した患者とか医者だね」
「オレもうつ病になって、医者にかかった事あるけど、何かあやふやでね。それで、うつ病を経験した医者ってのを本で見つけたから、その医者にかかったら理解してくれて、それで良くなったよ」
「そう。よくドクターショッピングはよくない、とか言うじゃない。でもあれは違うね。やっぱりねー、相性の合う医者を探さないとダメだね。相性の合わない医者にいくらついててもダメだね」
私は続けて言った。
「それとねー、うつ病になってる人ってのはねー、自分の好きな事、たとえばテニスだとかテレビ観る事だとかは出来るんだよねー。だから、怠け病と社会に誤解されるんだよ。うつ病ってのは社会の偏見が作り出している病気だからね」
等等と、話しているうちに熱が入ってきた。それ以外でも、ざっくばらんに色々な事を話した。

そんな事を話している内に旅館に着いた。4時半に学園を出て、一時間かかって、着いたのは5時半くらいである。ここは男子部の卒業生が経営している旅館である。紅葉しはじめた木々に囲まれ、すぐ傍にサラサラと流れる清流がある。都会から離れた清閑な場所である。旅館も大きく立派である。一度、こういう旅館に来てみたかったのである。勿論、かわいい彼女と一緒に。
しかし、このように都会から離れた場所に来る客が、どの位いるだろうか。宿泊料も高いし、経営は成り立っているのだろうか、と思った。特別、景色がいいわけでもないし、いい見所や名所、旧跡があるわけでもない。場所にブランドが無い。

後続車も着いて全員、そろったので旅館に入った。
食事の前に一風呂浴びるヤツも数人いた。私は入らなかった。おちんちんを見られるのが恥ずかしかったからである。風呂に入ったヤツもすぐ出てきた。大広間に全員が集まった。私は隅の方に座った。食事が運ばれてきた。幹事が挨拶して食事が始まった。食べても便は出ないだろうし、それによって腹が張るのを怖れていて、食べないつもりだったが、やはり美味そうな料理を目の前にすると、食べてしまった。私は味覚音痴なので、料理の美味さは分からない。しかし、コンビニ弁当やファミリーレストランの食事、都会のレストランの食事よりは明らかに旨いのは、わかる。

食事も半ばになると、幹事が挨拶して、一人一人の卒業後の人生のあらましを述べる事になった。
初めに指名されたのは、朝、最初に会った、子供が5人いて、バツ2で今はプーローと言ったT・Mである。プータローなどウソだと思っていたが、本当だった。彼は二回、結婚して、二度とも離婚し、子供は5人いて、前は芸能関係の仕事をしていたが、リストラされ、第二種免許を取りタクシーの運転手になった。しかし客を乗せて走っている時、事故を起こしてしまいタクシー会社をリストラされてしまった。今は職が無く、パソコンも持っておらず、職安に通っているという。
その次に誰かが指名され、話した。
私は三番目に指名されて話した。
中には会社を経営している者もいたが、親が社長で跡を継いでいるだけである。
父親が大きな漬物屋だったヤツも跡を継いで漬物屋になった。従業員が4人いる。
「売り上げが多くても、手取りの収入が少なく、経営が厳しいが。しかしリストラはしない」
と言ったのが印象に残っている。勤務医なんて、不況になっても、まず日本経済の影響を受けない。やっかいなのは、厚生省の診療報酬引き下げで、それと医療者側のイタチごっこである。厚生省の締め付けで出来ていた仕事が出来なくなる事もある。しかし医師免許があると、何科をやってもいいから転科すればいいし、また地方では医師不足で困っているから、贅沢を言わなければ職に困るという事はない。だから医者は世間知らずな面があるのである。だから世間の現状を知りたくて同窓会に出席したのである。
一人、年商40億の会社を経営しているヤツがいた。大したものである。
他は、大体、地味な会社員である。あるヤツは、大学部卒業後、ある会社に就職してその後、ロンドンに行き、帰国してから、リストラされ、ビルの管理の仕事についた。仕事に必要なため、勉強して電気工事士の資格を取ったが、第二種の電気工事士の資格がなくてはダメで、その資格を取ろうとしていると言った。
概ね皆、最初に就職した会社は転職している。そして結婚して子供もいるのが多いが、離婚したり、現在、離婚を考えて弁護士をつけて、協議中というのが非常に多い。むしろ、家庭生活が上手くいっている人の方が三人程度と、少ない。
そんな事で、話しているうちに8時半になった。

大宴会場を使えるのは、8時半までだったので、別の部屋に移動した。
私は部屋の隅で、H・Tと少し話した。彼は高等科を卒業してからミュージッシャンになった。彼は学園中から、もう将来はミュージッシャンになる事に決めていた。実際、彼は学園中から賛美歌のピアノを弾いていたし、特にジャズに惹きつけられていた。作曲もし、CDも出している。さらにWhikipediaに彼の名前が載っている。子供を男子部に入れている。しかし聞くと、近く離婚するという。理由は知らない。さらに本人から、色々な薬物に手を出した、と聞いて吃驚した。芸能人やミュージッシャンなら薬物に手を出すのは、わかるが、彼はそんなメジャーな世界のミュージッシャンではない。そんなにストレスがかかるとも思えない。それで色々、聞いてみた。
「ええっ。薬物やったの?」
「うん」
「どうして?」
「・・・」
私には、その理由が分からなかった。H・Tは言った。
「お前だって、東大医学部とか出てる医者には劣等感、感じるだろう?」
「いや。感じないよ」
私は自信を持って言った。
「彼らは人間コンピューター。独創性とか創造性が特に優れているわけじゃない。教授も言ってたけどね、彼らは大量の文献を読ませると、それを読んで理解するスピードは速い。でも独創性とか創造性が特に優れているわけじゃない。教授が言ってたけど、彼らも勿論、発見とかする事はあるけど、それは、ほとんど二番煎じ。彼らが何か発見した時には、その発見はもうすでに他の誰かが発見しているというケースがほとんどだって」
「つまり情報処理能力が速いってことだろ」
「そう。私もね、東大出の医者を何人か見てきたけどね、物事の本質が全然、分かってないヤツがいるからねー」
「そうだよな。政治家なんて東大出ててもバカな事するヤツいるもんな」
私は口に出して言わなかったが心の中で異論を唱えた。
「それは違う。東大出の政治家はワルなのであって、バカじゃない。しかし東大出の医者の中には、本当に物事の本質が分からないバカがいるのである」
彼は医者の世界を知らないから無理はない。医者の世界では東大出も私立も関係ない。医学部に入学する時の成績と、卒業する時の成績と、卒業後、伸びるかどうか、この三つは全く関係ないのである。そもそも医師国家試験にしても、東大生でも落ちるヤツはいるし、私立医学部の学生でも通るヤツはいる。さらに言えば医者なんて、知性的な仕事でも何でもない。もっとも、私が東大出の医者に劣等感を感じないのは、口にこそ出さね、今までずっと小説を書いてきて、これからも一生書くつもりだからである。しかし彼はそうは私を見ていないようだった。そして言った。
「音楽の世界でもね、劣等感、感じるんだよ。周りは、どこどこ音楽大学出とか、そういうのばっかりだからね。オレは音楽大学、出てないから」
「そうかなー。だって音楽っていうのは、いい曲か悪い曲かのどっちかじゃない。学歴なんて関係ないんじゃないの?」
と言っても彼は首を縦に振らない。私は聞いた。
「音楽の才能ってのは、先天的なもので絶対音感があるかどうかでしょ」
「違う」
「どう違うの」
「絶対音感というのはね、先天的な才能じゃない。誰でも身につけられる。三歳までに、ドレミと聞いて、ピアノを見ないでドレミを打てるかどうか、なんだよ」
と彼は言ったが、あまり納得できない気分だった。私は、素晴らしい曲を作曲できる才能は天才だけのものだと思っているからである。

ふと見ると、移動した部屋で、残りのヤツが卒業後の人生を語っていた。私は急いで、そっちの部屋に行った。H・Tもその部屋に移った。残りの数名が卒業後の人生を語った。
出席者全員が語り終わると、ざっくばらんな話しになった。
私の隣には、クラスで秀才のH・N君がいた。彼は学校時代、私より秀才だった。父親が東芝の商品開発の研究部門の秀才で、彼の秀才は父親ゆずりだった。彼に本気で受験勉強させれば、東大理三も合格できるかもしれない。少なくとも東大の理系学部は確実に入れる。中学3年の修養会の時、堂々と「将来は経済学者になろうと思う」と彼は言った。クラスのみなが聞いていても全く違和感がない。学園時代は、フランス語、ドイツ語、を独学で勉強していた。それほどの秀才だった。しかし彼は大学部に進学した。私は母親から、H・N君が、大学部卒業後、東工大に行ったと聞いたので、聞いてみた。
「H・N君。学部卒業後、東工大に行ったんでしょ」
「いや。行ってないよ」
「えっ。そうなの。今、何してるの?」
「携帯のソフト作ってる」
私は携帯のソフトとはどんな物なのかと少し考えてみて私のイメージを言った。
「ソフトっていうと、パソコンのソフトが頭に浮かぶけど。でも携帯とパソコンは、ほとんど、つながってるでしょ。何かパソコンでソフトを作って、それを携帯に送ってる、ってイメージがするんだけど、どうなの?」
「そう。その通りだよ」
そう言って彼は携帯の画面を見せてくれた。スキーのモーグルの連続写真が写っている。彼ほどの秀才にはもっと大物になって欲しかった。
「いやー。H・N君には経済学者になって欲しかったな」
私は残念そうに言った。彼は苦笑いしている。
「経済学者になりたかった、というのは父親の反動でしょ?」
「うん。そう」
彼の父親は理系の秀才で彼も理系の秀才だったため、自分に無い大きなものを目指しているのだと思っていた。理系の研究者は、商品開発という小さなものを対象とするが、経済学者の研究対象は日本さらには世界という、この上なく大きな生命体である。夢が大きいなと思った。だが今は携帯のソフトの設計者である。結婚もしている。
「子供いる?」
「いるよ。進学校に通わせている」
「それもしかたないよね」
「君のように目的を達成した人間って羨ましいよ」
言われて私は照れ笑いした。確かに、当時の目的は達成したが、そのあと本当の目的が見つかって私は一心に奮闘しているのである。しかし小説創作の事は言わなかった。

幹事が、今日、来なかったヤツの近況を言った。同じく理系の秀才のKは弁理士になったそうだ。スポーツ万能だったOは、浅草でバーテンダーをしている。その他も、学生時代は、能力も志もエネルギーもあったヤツが、何とも、およそ学生時代の頃とは似つかわない地味な仕事をしているので、寂しくなってきた。

もう11時になっていた。O・Mはこれから車で帰る。明日、仕事があるからである。私も昼御飯も、夕食と食べて、緊張しているので便が全然、出ず、擬似性腸閉塞で腹が張って苦しく、もう十分、同級生の話も聞いたので、一泊する予定だったが、帰ろうと思った。私は便秘で腹が張ると苦しくなって、うまく喋れなくなる。それでO・Mに頼んだ。
「ねえ。車、乗せてってよ」
「ダメだよ。4人も連れてくから、乗る場所ないよ」
「オレ、体重、軽いから大丈夫だよ」
「・・・」
「じゃトランクの中でいいから」
だがO・Mはウンと言わない。
「だってもう電車ないぜ」
「飯能駅に車とめてある」
私は見え透いたウソを言った。
「おーい。ジャガが逃げようとしてるぞ」
彼は皆に聞こえるように言った。もう私も諦めた。別に人見知りで泊まりたくないのではない。緊張した所だと便が出なくなって腹が張って苦しくなるから、泊まりたくないのである。しかし腹の張りの度合いは、そうひどくない。たった一泊である。明日の昼には自由になれるのである。それに、せっかく行った旅館には一泊したいというアンビバレントな思いもあった。それで、諦めて泊まる事にした。緩下剤を飲んで、トイレに行って、いきんでみた。しかし出ない。何度もいきんだ。すると、少しだが、ガスが出た。便は出ないが腸が動いた感じが伝わってきた。腹の張りが、少し軽くなった。やった、これなら明日なんとかなるだろうと思った。もう皆寝ている。人がいる所だと、どうせ緊張して、眠れないから徹夜しようかと思った。だが布団に入ってみた。やはり喋りつづけて、疲れたのか、ほっとした。睡眠薬を飲んでみようかと思った。睡眠薬を飲んで、眠れればいいが、眠れないと、翌日、眠くなってボーとなるので、どうしようかと迷った。多分、眠れないだろうが、もう自棄になって睡眠薬を飲んだ。

        ☆  ☆  ☆

翌朝、目を覚ました。
「やった、眠れた」
朝、目覚めて一番に感じた喜びは、眠れた喜びである。今日、帰れるから、もう怖い物なしである。時計を見ると7時である。私は起きて旅館の土産売り場を見たり、旅館の屋上の風呂を覗いてみた。クラスのヤツがいなかったら入ろうと思っていたが、一人、入っているヤツY、がいたのでやめた。私は旅館を出て、外に出た。木々が紅葉しはじめ、黄色く色づき始めていた。清流がサラサラと流れていて、心が和む。Yが出てきた。風呂から出て、外の景色を見に来たのだろう。彼は学園時代、スポーツ万能で、私は彼を羨んでいた。しかし、今は、ほとんどスポーツはしていないという。ゴルフとサッカーをたまにやる程度だと言う。
Sがランニングから、帰ってきた。こんな旅館に来てまでランニングをするとは、大したヤツだと思った。昨日、聞いて知っていたが、彼はホノルルマラソンに出場する予定で、毎日、走っているという。

もう、そろそろ朝食になるだろうと旅館に戻った。座敷に入るともう、すでに何人かいた。朝食は、和風で量が少なかったので全部、食べた。
そして我々は旅館を出た。
「またいらして下さい」
と旅館の女将が言ったが、同じ旅館に二度行くつもりはない。我々は車に分乗して名栗の植林地に行った。そこは自由学園の所有地で、学園の時、一週間、労働に行った事がある。かなりの労働量だったが、労働の喜びをつくづく感じて楽しかった。山の中の小屋に寝泊りするので、食事は自炊で、風呂もドラム缶である。しかし、一週間だけだから楽しかったのであって、あれが本職になって、毎日、あんな肉体労働だったら、たまったものじゃない。
それにしても、何でわざわざ植林地を見学に行くのだろうか。単に近いからか。それほど見たいとも思わない。
だんだん山の中に入っていって、鬱蒼とした高い杉の木が見え出した。道もドライブウェイでカーブの連続である。自転車族が多い。坂道で、よくこんな所まで来るなと思った。
「あれって、いいよな。確実に足の筋力鍛えられるから。でもよくこんな坂道じゃ、かなり疲れるだろう」
「そんな事ないよ。性能がいいから、疲れないらしいよ」
「ええっ。そうなの?じゃ、趣味でやってるの」
「でしょ。でも当然、足も鍛えられるだろうね」
「あの自転車ね、いいのだと100万以上するのもあるよ」
「ええー」
私は吃驚した。そして次は暴走族が通った。爆音をならして、改造してあって、どう見ても健全な二輪愛好会とは思えない。暴走族は、こんな田舎道までよく来るものだ。しかしコーナーリングが面白いだろうし、警察もやってこないだろう。しかし暴走族とは自己顕示欲が強くて自分らを人に見せたいために走るのだから、都会で走るのが普通ではあるはずだ。

そんな事で、とうとう休憩所に着いた。あとは、歩きである。我々は杉林の中の山道に入っていった。皆、坂道で息切れしだした。私は、体力落すの嫌だから、また、気の向いた時だけではあるが、運動もしているので、たいして疲れなかった。かなり歩いた後、林の中に小屋が見えてきた。完全に記憶が蘇えった。それまで、そこで働いた事や、印象のある事は、覚えていたが、小屋の様子や周辺の様子は忘れてしまっていた。しかし、小屋を見て、小屋から見た周りの様子を見ると、昔の記憶が蘇えった。昔と全然、変わっていない。小屋の中で私が寝た場所、生徒が言った冗談までも思い出されてきた。
「ここ。野外キャンプするには、いい場所だな。あるいは、ホームレスが寝るのにも。夜は寒いだろうけど、地下鉄の駅でダンボールの中に寝るよりはいいな」
私はそんな事を言った。
「T・Mは今日からここに住めよ」
などと皆はかなりきつい冗談を言った。彼は職なしだから確かに、住と衣は確保されるだろう。しかし金がなければ食は確保されない。金があっても食い物を売ってる所まで行くには車でもかなりの時間がかかる。彼は車も持っていない。現実的に不可能である。そこでも記念写真を撮った。そして引き返して休憩所に戻った。わざわざ山小屋を見るためだけに行くのは無意味なように思っていたが、実に感無量である。しかし、幹事は見れば記憶が蘇えって感無量になるだろうと思って計画したわけでもあるまい。偶然の一致である。

そしてまた車に乗り込んで、山を降りた。かなり走ってやっと市街地に出た。西武池袋線の駅がある。
「ここでいい」
と言ってI・Mが降りた。そして車はまた走り出した。乗っていた我々4人は、どこかで昼飯を食べる予定である。
「どうして、I・M、降りたの?」
「何か12時に仕事で誰かと会うんだって」
時計を見るともう12時である。結局、彼は何も話さなかった。仕事の事も聞いたはずなのに、よくわからないし、結婚もしていない。なぜ結婚しないのだろう。私は、悪遺伝子撲滅という信念に基づいて結婚しない主義なのに、彼はそうではあるまい。まあ、人生長くやっていれば、誰にでも、人に言いたくない嫌な事情を抱えている事も当然、あるだろうから、そんな事じゃないかと思った。車には4人になった。私は助手席に乗り換えた。
「ねえ。この車、いくらした?」
私は運転している幹事に聞いた。
「120万」
「どひゃー。新車でしょ?」
「うん」
私はとても車に40万以上かける気は起こらない。私は外見はボコボコの、中古の30万で買った激安車を車検12万で通して、乗り継いでいる。残りの二人はHとYである。
幹事が、二人目の子供を生むのに苦労している事を語った。今、日本は不況で生活は苦しく、彼は正社員だが生活は楽ではないはずだ。子供一人生んだら育てるのに金がかかる。
「どうして二人生むの?」
「女房が二人欲しがっているから」
何と単純な理由なのだろう。ということは彼は収入は結構、いいのかも知れない。そこから話がバイアグラになった。
「バイアグラって凄いね。本当に立つんだから」
一人が言った。私は医者なのにバイアグラの事は知らない。それで聞いた。
「バイアグラってどういう物なの。立つって聞いているけど。飲むと性欲が起こるの?」
「いや。飲んでも性欲は起こらない。飲んでエッチな事を考えると立つんだよ」
「一粒いくら?」
「千円くらい」
「じゃあ、どんな風になるか、試しに飲んでみようかな」
私はそんな事を言った。

ふと私は、ある事を思いついて、運転している幹事に話しかけた。
「ねえ。沖縄の母親に一言、電話してくれない。浅野は元気で凄く真面目だったって」
「うん。いいよ」
幹事は答えた。私は親の暴君ぶりをここぞとばかり暴露した。
「オレ。親と話す事も出来ないんだよ。電話しても、居ても留守番電話にしてあるから。オレの親はねー、自分の思い通りにならないと気がすまないんだよ。結婚して家庭を持って子供を生まないと、人間として半人前扱いするからね。もう、結婚しろー、結婚しろー、ってうるさくてね。親は人前では善人面してるけど私に対しては横暴の限りをつくすからね。もう親とは完全に断絶状態だから」
「わかった。じゃあ電話しとくよ」
幹事が言った。
「昼食、どこで食べたい?」
「どこでもいいよ」
そういうわけで、あるファミリーレストランに入った。テーブルを挟んで二人ずつ並んで座って向き合った。

正面のYは学園時代、スポーツ万能で羨望の眼差しで見ていたが、今では、ゴルフとサッカーを時たま、やるだけである。腹に脂肪がついてしまっている。しかしその程度は軽い。長く結婚せず、独身貴族だったが、少し前にやっと結婚した。勿論、彼女として付き合っていた女性とである。彼女が妊娠してから結婚した、ということだから、出来ちゃった結婚である。彼の妻はハワイのフラダンスを教えているということである。
「外国、何処と何処に行った?」
私は皆に聞いた。
「ハワイでしょ。ロサンゼルスでしょ。あとドイツとイタリア」
Yが指を折りながら答えた。幹事は、
「トルコとイスラエル」
と言った。Hは何も言わなかった。が、外国、どこにも行ってないはずはない。
「オレ、外国どこにも行ったことないよ。さして行きたい所も無いけどね」
と私はいささか自慢めいた口調で言った。
「でも、一度、ブラジルのリオのキリスト像、見てみたいな。あと、ニューヨークの地下鉄とかも乗ってみたい。それとローマのコロシアムも見てみたい」
よく考えると結構、行ってみたい所はある。しかし何が何でも行きたいわけではない。だから行かないのである。Yはハワイに何回か行っている。
「ハワイ。日本人、多いでしょう」
「うん」
「ドイツ一度、行ってみるといいよ。カルチャーショック受けるから」
「そうかなー。多分、何とも感じないと思うよ。オレ、沖縄には行ったけど、全然、感動しなかったもん」
そんな事でレストランではハワイの話になった。
「ハワイはねー。マウイ島より、近くの島の方がいい」
「どうやって行くの?」
「飛行機で」
「モーターボートとかでは行けないの?」
「船は大型客船だね」
「サーフィンやったでしょ」
「うん」
「Yは運動神経がいいからサーフィンなんて簡単でしょ」
「いや。難しいよ。ロングボードは簡単だけどショートボードは難しい」
「うん。ショートボードは難しいよな」
Yの隣に座っていたHが相槌をうった。やはり、ハワイには、当然のごとく行っているのだろう。
「ハワイのホテルはねー。パック旅行でも一部屋いくら、なんだよね。で結構、高いんだよね。だから、泊まるんなら、たくさんで泊まった方が得」
「じゃあ、ホテルに泊まらないで、キャンプ場にテント張って、寝るってのは、出来ないの?」
「出来る。テント貸すのあるからね。でもハワイは海風が強いから、半袖じゃだめだね。長袖着てかないと」
それは沖縄も同じである。風が強いのである。
「ハワイは年中、気温が高くて湿度が低いからね」
「じゃあ、最高じゃない」
「ハワイは冬、行った方がいい。夏は皆、行くから混んじゃうからね」
「ハワイ行くと結構、自由学園の卒業生に会うんだよね」
私の隣の幹事が言った。トルコとイスラエルと言ったが、ハワイもちゃんと行っている。ハワイは、当たり前過ぎて言わなかったのだろう。幹事は、婦人の友社、で働いているから、自由学園の卒業生だとわかってしまうらしい。だが、卒業生と分かったからといって別にどうという事もないような気がするのだが。結構、気を使うらしい。
そんな事を少し話した。私は友達がいないから、こういう人にとっては当たり前の事をするのが凄く嬉しかった。やはり、泊まってよかった、とつくづく感じた。物を知るのには本や雑誌を読むより人に聞く方が手っ取り早いのである。

食事が終わって、レストランを出た。車に乗って、すぐに飯能駅に着いた。Yは方向が違ってバスで、停留所に向かった。手を振って別れた。私は幹事に、
「母親に、浅野。すごぐ元気でしたよ、って電話しといて」
と手を合わせて頼んだ。
「うん。わかったよ」
と幹事は言った。あとは私とHの二人になった。共に池袋まで行く。彼は、これから静岡に行って、それから山梨の甲府に行くらしい。彼は山梨で介護の仕事をしている。彼は父親が牧場を持ってて牛を飼っていたのだか、牧場は潰れてしまったらしい。外国の安い牛肉に勝てなかったのだろう。彼は、私達のクラスで一番早く結婚した。22才で女子部の卒業生と結婚したのである。子供は女の子、二人である。だが、妻とは、上手くいっておらず、離婚協議中だという。電車に乗ったが、座れず、立ったまま話した。昨日、長女がリストカットしてると最初に聞いて吃驚していたので、その事について恐る恐る聞いてみた。
「どうして離婚するの?」
「・・・」
性格の不一致が離婚の理由とは考えられない。
「嫁姑の関係が悪いの?」
「いや。悪くないよ」
「娘さん。どうしてリストカットするの?」
「・・・」
あまり、人の事を詮索するのは、好きじゃないが、つい、どうしてか、理由が知りたくて聞いた。
「リストカットの原因てさあ、親の虐待が多いじゃない。虐待してないでしょ?」
私は上目遣いに恐る恐る聞いた。子供を虐待しているとは思えない。
「妻がしてるんだよ」
「ええー」
私は吃驚した。私の頃の女子部は、それはそれは真面目だったからである。それは今でもそうで、昨日、女子部を見た時もミニスカにルーズソックスの生徒はいなかった。自由学園の女子部だけは今時の女子高生とは違う。彼の妻は女子部出である。
「ええっ。なんで?女子部って真面目なんじゃないの」
私は極めて雑な見方の質問をした。
「いや。妻はね、娘の首絞めたり、『お前なんか産まない方が良かった』とか言うんだよ。それが、つらくて娘はリストカットしちゃうんだよ」
「ええー」
私は吃驚した。
「奥さん。どうしてそんな事するの?」
「妻もね、母親は義理の母親で、虐待されたんだよ。それで子供を見ると、そのフラッシュバックが起こってしまって、娘に対しても同じような事をするんだよ」
「ふーん。なるほど」
私は、だんだん納得してきた。
「だからね。娘は下の娘には優しいんだよ。それでブログとか書いててね、自分の思いを書いてるんだ。オレ、娘のブログをよく読んでるよ」
「そう。書いて発散するのって非常にいいんだよ。心の中に自分の思いを閉じ込めちゃうと、ストレスが溜っちゃうからね」
「それでね。娘はね、自分が虐待されて辛い思いをしたから、将来は大学の心理学部に入って心理の勉強をして臨床心理士になりたいと思ってるんだ。妻とは、どうしても一緒に暮らせないからオレの所に来ちゃうんだ。だからもう離婚するしか仕方がないんだよ」
「なるほど。完全に辻褄があうね。完全に納得した」
そんな事を話しているうちに池袋に着いた。池袋で彼と別れた。私は池袋の喫茶店に入った。Hとの二人きりの会話は、緊張した。私はアイスティーを注文した。もうこれで、完全に一人きりになれて、私はほっとした。すぐに便意が起こってきてトイレに入った。腹の中に溜っていた便がドドッと出て、スッキリした。やはり私は人の中では緊張してしまって、便が出なくなる。やっぱり私は、一人きりでいる時が一番ほっとする。私は、今回の事をエッセイとして書いてみようと思った。


平成21年11月8日(日)擱筆