西方の人                  戻る                                                                  1996.3.26

キリストは無免許医である。現代なら彼は医師法違反で逮捕されたであろう。

 聖霊をけがしてはならない・・・とは道徳のことである。処女懐妊も、ないとはいいきれない。ブラックジャックのピノコがいい例である。生物界で処女生殖はいくらでもある。

 キリストはジャーナリズムに殺された。そうなる運命を彼は知っていた。彼は弟子にヘビのごとくさとくといいながら、自分は(ヘビの聡さをもちながら)そうは生きなかった。彼の頭の良さからすれば、もっと長生きできた。それをしなかったのは、彼の宗教が永遠になるためであり、彼自身は自分の運命に自分の意思をいれることを拒否したのである。

しかしキリストが若くして死ななかったら、ミケランジェロはピエタを彫めなかった。少なくとも美しい芸術的なピエタは。

 もし十字架のイエスが老人であったら、キリスト教に対する魅力は下がったに違いない。

 キリストは自分の言動のすべてに未来における影響を知っていた。事実その通りになった。

 キリストは戴然と二元論的な言い方をしているが、根本において一元論である。「神は善人の上にも悪人の上にも同様に雨を・・・・」などのコトバにそれがよく現れている。
 ではなぜ二元論的な言い方、考え方「善人と悪人」「天国とゲヘナ」など・・・をしているのであろう。それは言葉の便宜的使用にすぎない。

 本心は聖書にかかれていない。いくら聖書をよんでも本当のことは、わからない。これはなぜか。イエスは、それを意図的にかくしたのである。それはなぜか。人々が智恵を悪用することをおそれたからである。アダムとイブが楽園から追い出されたのは智恵ゆえである。「おさな子をそのままにしておきなさい」と諫めた彼のコトバにそれがよく現れている。

 それにしても幼な子のイエスが無心に父ヨセフの大工仕事を手伝っている姿は想像しただけでも愛らしい。イエスは一心にカンナをふるいながら、「お父さん、おわりました。今度は何をしましょう」と問う。ヨセフは一仕事終えて、キセルで一服している。(オットむこうの人はキセルなんか使わないんだった)
彼は全人たる父がもつ淡白にして、重い愛情のこもった口調で、「よし。今日はこれでおわりにしよう」と言って、おもむろに立ちあがる。
イエスは、お腹ペコペコなのでお腹をキューキューいわせ「今日の御飯は何かなあ。カレーだといいなあ」と思いながら父ヨセフのあとをトコトコついいていく。(オット、インドじゃないんだから、カレーはないんだった)。ああ、想像しただけでも、何と美しい情景なのだろう。そんな純情な少年がどうして、屁理屈ばかりこねる、へそまがりで、なまいきな青年になってしまったのであろう。実際、彼の行くところ、口ゲンカがたえない。「おさな子を、そのままにしておきなさい」とは彼自身にも、あてはめるべきコトバでは、なかろうか。

 それにしても、青年になったイエスはどうして女人に、もてなかったのであろう。彼ほどハンサムで頭の切れる若者が・・・・。イエスが十二弟子をひきつれて、歩いている。そこへパッと木陰か無垢な少女が顔を赤らめて、目をあわすこともできず、口元をふるわせ「こ、これ、読んで下さい」と言って恋文をわたす。そして一目散に走り去っていく。そんなことが一回もなかったというのは、実に不思議なことである。彼は、それほど魅力がなかったのか。そんなはずはない
イエスは特定の女性を愛することがゆるされない人間であり、もし、そんな告白をされたら、彼は返答に窮し、必然、丁寧な説明を述べ、ことわることになる。 しかしどんなにていねいに説明しても彼女は失恋に心をいためるであろう。結果としてイエスは、美しい心情の持ち主の心をキズつけることになる。そんなことが、あってはならないようにと、天なる父が他人に見えざるシェルターを、たえずイエスを中心に半径10mに設置しておいたのであろう。

 ユダ。ユダの裏切りは、この宗教を、より激しく焼えたたせることになった油である。キリストも、それを知っていた。だからキリストもとめなかった。

ペテロ。ペテロは最も人間的な役を演じた。キリストよりも、もっと人間的である。最も感情移入しやすい人物である。しかし、それを現世の人間が自己弁護の道具にするのは卑怯である。

十字架に手足を釘でうちつけられた・・・聞いただけでで狂せんほどの痛みに感じられる。そして、その事実も、キリスト教を強固なものにしている。しかし物理的にいえば打ちつけられつつある時の痛み、および、その直前の精神的な恐怖感は、事実、狂せんほどの痛みであるが、時間がたてば、痛みの感覚は低下する。それと入れかわるように精神の苦痛が増大してくる。しかしキリストは孤独のうちに死ななかった。となりに同志がいた。

 ピラト。公正さは理知の異名であることをピラトは示した。頬づえをついた聞き方の方が背筋をのばしたきき方より公正なのかもしれない。だが。ピラトは良くも悪しくも大理石のイスに腰がくっついていしまっていた。

 いばらの冠。金の冠をかぶせる方がもっとザンコクである。そのアンバランスさを想像してみるがいい。彼らはザンコクさに、ひとひねりする能力がなかった。

 いったいキリストはどのくらい多くの本を読んだのであろう。キリストが熱心に図書館がよいをしたのでもなかろう。なのに、なぜ、すべての方面において学者以上の本質的発言が出来たのであろう。人間の直感力がどんな膨大な知識よりもすぐれていることをキリストは証明している。そして、すぐれた直感力は1をきいて10(100)(1000)(∞)を知る心理状態である。

 キリストよりもバラバを。
この劇は、すべての登場人物が、細部にいたるまで少しもムダなく構成された最高傑作である。どんな名脚本家も、どんな名俳優も、これほど見事なものをつくることはできない。

 奇跡。キリストが多くの奇跡をおこなったことを信じますか、と多くのクリスチャンは科学者に問いつめる。しかし私は、かくも唯物論に毒されながら、奇跡を否定する気にはなれない。だが私はキリスト教徒になる気など毛頭ない。

芸術。キリスト自身はダビデのように立て琴をひかなかった。詩もつくらなかった。説教と救いに終始した。しかしキリストの生き方は後に膨大な数の芸術家の心を動かし、無数の芸術を生みだした。キリストは芸術に対する感性がなかったのであろうか。ちがう。芸術の主体になる人格には芸術(いわゆる創られた芸術)を求める気持ちは、はおこらない。

奇跡。おそらくは一部は精神療法、一部は気象の直覚、一部は信者の信心、信者の催眠、のこりはわからない。そして本質的な観点から、イエスの行った奇跡は存在するだろう。人並みすぐれた精神や情熱は不可能を可能にしてしまう。

イエスの欠点。イエスはかなりずるい人間だ。忍耐強いと同時に短期でもあり、せっかちでもあり、心が弱くもあり、おこりっぽくもあり、辛辣に人を批判もした。それらすべてが彼が人間であることを証明している。彼は少し、仏の寛容と慈悲を知るべきだった。

哲学。
キリストは哲学を知っていた。いったいいつ、どのようにして学んだのであろう。おそらくこうだ。聖書から、人との会話から、世間を見るうちから。彼のすぐれた直感力によって、本を読まずに哲学を学んでしまったのである。天才は現実の中から常人では見出しえない形而上学を見出してしまう。

ヒゲ。
それにしてもどうしてイエスは床屋にあまりいかず、不精ヒゲをそらなかったのであろう。私はその理由を、毎日ヒゲをそるという世俗的な行為をきらった、からだとは思わない。彼は、生きている間もそうだが、死後多くの画家が彼を描くことになることも知っていた。その事の計算ゆえである。ヒゲは実体をかくすのに有効である。「人は聖なるものの実体をみてはならない」それを画家および、後世の人へ訴えたのであろう。そして、それは事実そうなっている。

「悪法も法なり」と言ってソクラテスは毒をのんで死んだ。イエスはあくまで自分の正当性を主張した。ソクラテスは哲学の種をまいた。二人の死後、世界はどうなったか。ソクラテスのもとから分派がおこりはしたが、剣によって血を流したあった、ということは聞いたことがない。だがイエスの死後、キリスト教は多くの分派にわかれ、数えきれないほどの血が流れ、ヨーロッパ中世を暗黒の時代にしてしまった。いったい、どちらの方がいい人であろうか。

 イエスはいったいどんな顔をしていたのであろう。身長何cmで体重何kgだったのであろう。彼はどんな本をよんで成長したのであろう。彼が切手あつめとかのシュミをもっていた、との記載は聖書にない。つくづくザンネンに思うのは当時、カメラやテープレコーダーがなかった、ということである。しかし後に画家達に描かれたイエスの顔は実際より美化された事は間違いない。もっとも、実際は、もっと魅力的な顔をしていたかもしれない。画家達は血の通った人間を静止した時間の中に固定してしまった。すぐれたイエスの彫刻を見ていても彼の本心は、わからない。彼の本心を知りうる手段は、ただ聖書だけである。そして聖書はまるで生きている人が目の前にいるかのごとく、生々しく語っている。

イエスは感情の起伏が激しいところがある。しかしイエスが偉大なのは、感情を放出する時、一般人のように知性をかなぐりすててしまわなかった点にある。彼の言動は、いついかないる時でも、彼の魂に頑丈な鎖でつながれていた。聖書は一字一句にいいたるまで矛盾がないのである。聖書に、自分の好みのコトバだけぬきだしてそれを守り、他は目をふさいでしまうというクリスチャンは、イエスという人を本当に知ることができない。

 キリストよりもバラバを。
彼らは、自分達に理解できる心の持ち主の罪人より、彼らに理解できないものを悪とした。(悪としたかった)それは彼らのプライドゆである。しかし結果としてみれば、彼らは頭の悪い人達だった。しかし現代においても「キリストよりバラバを」は平然と行われている。しかもその中に、教会にかよっている人が少なくない。

 バプテスマのヨハネ
結果として水戸黄門となっている。キリストに、あのオトボケ、おどろかし、おそれさせ、の気持ちが、全くなかったであろうか。かほどに人間的な人間が。しかしそれは邪推である。彼の心は澄んだ泉のごとく透明であった。むしろイエスはヨハネの行為の美しさに感動し、謙虚を実感したにちがいない。しかし、おどろいたヨハネに言ったイエスのコトバはちょっぴり、ザンネンにも思う。もう少しコトバを選んでほしかったものである。

 つくづくザンネンに思うことは、現代の科学では、まだタイムマシンがつくれない、ということである。(百閧ヘ一見にしかない)

真理。
救世主(メシヤ)は飯屋にしくものではない。「人はパンのみにて生くるにあらず」は真理かもしれない。しかし人はパンがなくては絶対生きられない。

 ぶどう園のたとえ。
朝から働いていた人間が不平を言うのはもっともなことである。こうすれは問題ない。「主人は、日が暮れて、仕事がおわった時、雇用人の一人一人を少しはなれた場所によびよせて、他の人にきこえぬよう、そっと耳元でお礼を述べ、他の人に見えぬよう、そっと契約した金額の賃金を支払い、彼が踝を返して家路につくのをみまもった。そして彼の姿が見えなくなるのを確認して、次の雇用人の一人を同じようにしてよびよせた」
さすればキリスト教の教義に矛盾せず、しかも不平を言う人間もでないですむ。イエスは人間の心のエゴを先回りしてたえず見抜いていた。しかしエゴをあまりにも露骨に批難してしまった。しかしぶどう園のたとえは訂正しないでいいのである。彼は啓蒙主義者(enlightment)なのである。

右の頬を打たれれば左の頬をも差し出せ。
もちろん矢吹丈の使ったノーガード戦法である。敵は相手の心理がわからず精神が混乱してしまう。敵はクロスカウンターをおそれて逃げ出してしまう。いや、やはりそれは違うかもしれない。もしかすると相手の憎しみの炎を鎮めるためかもしれない。マハトマ・ガンジーの非暴力、不服従と似ているような気がする。

盗作・・・仏教聖典を読んだ時、どうみても、これは新約聖書をかなり盗作してると感じずにはいられなかった。

キリストとは何者か
この問いに答えることはそう難しくはない。彼は神の子の代理人になった人間である。乃公出でずんば止むをえす、と思って神の子の代理人になった人間である。この世の諍いを鎮めるのに他に優秀な人間がいなかったからである。しかし彼を人間ではなく神の子と言っても全く差し支えはない。生物学的には彼は人間だが、物事の本質的な意味でとらえるなら、彼は神の子といって何ら間違いはない。仏教の阿頼耶識で解釈すれば全く矛盾はない。

平和ではなく剣を
私がこの地上に来たのは平和をもたらすためではない。私が来たのは平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのである。私は人々をなかたがいさせるために来たのである。私は人々を敵対させるためにきたのである。(マタイ伝10章34節)
その意味が極めてわかりやすいキリストの言葉である。しかしミッション系の学校で礼拝の時、この箇所をだす学校はほとんどないだろう。

恐れるべき人
体を滅ぼしても魂を滅ぼせない人達を恐れてはならない。それよりも魂も体も地獄で滅ぼすことの出来る方を恐れなさい。(マタイ伝10章28節)
これも、その意味が極めてわかりやすいイエスの言葉である。

悪魔の試み
高い神殿の上に立ったイエスに悪魔はこう言った。「あなたが神の子ならとびおりてみよ。『神が御使いに命じて、あなたの手を支え、身が地面に打ち当たることがないようにされる』と書いてあるではないか。
これに対し、イエスは、「主なる神を試みてはならない」とも書いてある。と言って飛び降りなかった。(マタイ伝4章5節)
もし飛び降りていたらどうなったか。もちろん地面にたたきつけられて即死した。

へらず口
十字架に手を打ちつけられた時、イエスはこういった。
「父よ。彼らを許してやってください。彼らは自分達が何をしているかわからないのです」
これは敬虔な祈り、無上の人類愛、であると同時に、へらず口でもある。黙っていればいいものを。イエスは死ぬ間際まで、へらず口を言いつづけた。

テスト
「聖霊をけがしてはならない」・・・これは、あなたはキリスト教に入信するかどうか、と試しているテストである。

「あなたの罪は許された」・・・キリストは、こういう傲慢な事を言う事で、ことさら、自分の立場を不利にしていった。こういうことさらな傲慢な発言は、一見、マニーリールドハイトにも、見える。しかし、そうではない。彼は、四人のベシュライバーに自分の発言を書きとめさせる必要があった。
およそ、宗教においては、教祖は傲慢でなければならず、信徒は、従順でなくてはならない。

「心のうちに女を見るは、すなわちするなり」・・・多くの人は、とてつもなく、厳しい教えだ、と、思うだろう。しかし、はたして、そうだろうか。視姦、と言うコトバは、宗教を持ち出さずとも、ちゃんとある。
しかし、よく、聖書を読んでみたまえ。その後に、つづきは書かれていない。だからどうなのだ。だから、それは、同様の罪である、とは、どこにも書かれていない。
「心のうちにするは、すなわちするなり」、は、「心のうちに見るのは、犯すのと同じような事である」という、説教、説明だけに過ぎない。その罪の軽重については、キリストは述べていない。その罪を犯したら、ゲヘナに落ちる、とは、言っていない。宗教においても、罪には、それに応じた罰の軽重があるのである。

もし私が、キリストと同時代の人間で、あったら、私はキリストに石を投げなかった、だろう事には絶対の自信がある。それは、もちろん私の人格が、どうこうとは関係なく、私の天邪鬼の性格からである。もちろん、私は神など信じてはおらず、救われたいなどとは毛頭、思っていない。私はイデオロギーなど関係なく、一対百のケンカをしている人を尊敬する。

踏み絵・・・単純に疑問に思う事だが、なぜ、彼らは踏み絵を踏んだのだろう。踏み絵は、単なる形であり、幕府が巧妙につくった偽のキリスト像ではないか。踏み絵を踏む事は、自らの意志で死を選ぶ事であり、自殺行為と同じである。命を粗末にする事は神の御心ではない、と彼らは考えなかったのであろうか。

「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」(主よ。主よ。どうして私を見捨てるのですか)
この「私」は、人類の異名である。

宗教冒涜
少し前の事である。母は教会にかかさず、通っている。ある時、母が軽い気持ちで、ある教会での出来事を語った。母は軽い気持ちで語ったが、私の直観力はピンと、それが、とんでもない事だと感じた。それは、こんな事である。
医者で教会に通う敬虔なクリスチャンがいた。彼の故郷は、東北で、聖書を東北弁風に訳して、東北の人に親しみやすい風に紹介しようと、しているとの事だった。何か自分に出来るライフワークをしようというと思ったのだ。それは別に悪い事ではなく、むしろ良い事である。しかし、話を聞いていて、ある箇所で、とんでもない事だと私は感じた。それは、その人が、聖書の、「汝の敵を愛せ」という箇所を、「あなたの敵を大切にしなさい」と書いた、という事を聞いた時だ。これは、とんでもない宗教冒涜だ。訳書というものは、自分の解釈を入れてはいけないのだ。ましてや宗教書においては。聖書は全国の言葉に訳されているが、訳者は、原文に忠実に訳さなければいけないか、という事にどれほど神経を使っていることか。訳というものは、自分の解釈を入れてはいけないのだ。訳書ではなく、自分の解釈文なら、どうとでも書いてもいい。しかし、訳書とするなら、自分の解釈は、入れてはいけないのだ。聖書で、「汝の敵を愛せ」は、英語では、「Love your enemy」である。「あなたの敵を愛しなさい」である。文語なら「汝の敵を愛せ」であり、訳に齟齬はない。そして、キリスト教における、愛の定義は、これなのだ。これはキリスト教の厳しい、そして最も重要な思想であり、常人では、それを実行する事など不可能な、あまりにも理想の高い思想である。
これを、厳しい教えだからといって、薄めてしまって、「あなたの敵を大切にしなさい」などと、変えてしまったら、どうなるだろう。色々な弊害、読む人に解釈の誤りが起こってしまうだろう。嫌いな人、ケンカしている人でも、いつか、和解し、いつか自分に有利になる時が来る事もあるだろうから、嫌い抜いてはいけない、という処世術、人生の戦術ととらえてしまう人も出るかもしれない。外交などまさにそうである。日中間の、靖国参拝、戦争責任、経済問題、など、日中間では外交がギクシャクしているが、何も日中間だけではなく、外交の基本は、「あなたの敵を大切にしなさい」である。そして、これは自国を守るための戦術である。
そのように、「汝の敵を愛せ」を「あなたの敵を大切にしなさい」と自分の解釈を入れて、薄めて訳してしまう事は、大変な宗教冒涜なのである。
「あなたの敵を大切にしなさい」は、「あなたの敵を大切にしなさい。いつか和解する時がくるかもしれないから」とか、「嫌いな人を一時の感情で、嫌い抜いてはいけない」だとか、変な処世術に解釈されてしまう危険が出てしまうと思う。
キリスト教の「汝の敵を愛せ」は、仏教における、プンナの旅立ちの時の心構えと同じなのだ。
母親に、「それは大変な宗教冒涜だ」と言っても、親は全く聞く耳を持たなかった。一生、理解できないだろう。なぜなら、かれらは、「見ても見ようとせず、聞いても聞こうとしない」からだ。最も私も全くの無神論者だから、ムキになる気などさらさらないが。