団地の思い出                      目次へ
 小学四年の時のことを書いておこう。私はその一年を東京に程近いところにある公団住宅で過ごし、団地の中の小学校に通った。私は小学校を四回も転校したが、この団地こそ、私が物心ついてから、小学二年の一学期まで過ごした、ふるさとである。二年の二学期から三年の終わりまで、ある理由で親から離れて、ある施設で過ごし、四年から再び団地に戻ってきたのである。新学年の当日から、みんなガヤガヤさわいでいた。私はこういう無秩序な無政府状態が一番ニガ手なので、「はやく先生が来て静かになってくれないかな」とばかり思っていた。担任となる先生は、新しくこの学校に赴任してきた先生らしく、どんな先生だろう、優しい先生だといいな、と思った。
教師が来た。女の先生だった。私は先生を見るや、ほっとすると同時に、何か、先生が男でなく、女であることがうれしかった。そもそも教師というものは、きびしいものであって男にふさわしい職業と考えていたので、(知性においても腕力においても)女の教師というのは、それだけで単純でない、複雑な感情を起こさせる。ちょっとでもスキあれば、いじめてやろうというような。平均的な容姿はかえって親しみを増した。特に優しくもなく、キビしくもなく、くもりのない良識的な性格は、うれしくもあり、少し寂しくもあった。なぜ小学校の教師を選んだのか、とても興味があって知りたかったが、もちろんそんな失礼なことを聞くことなど出来ない。先生が女であることのうれしさは、授業が女の透き通った、やさしい音色で聞けることの喜びだった。女というものは存在しているだけで人の心をなごませる花のようなものなのだ。先生としては、生徒はよけいな事など考えずに、学科の勉強に励めばよく、自分の存在は、むしろ無にしようとする。が、生徒としては、よけいな事の方に関心が向く。彼女は、こだわりのない良識的な性格だった。肉づきのいいことが、自分を小四の生徒に、性愛の対象にしている、などとは思わなかっただろう。こだわりのない性格とあいまって、彼女はよくジャージで教壇に立つことがあった。本人はその方がリラックスできるからだろうが、肉体の起伏がジャージに貼りついて、水着のようにあらわになって、一部の生徒を悩ましているとも知らずに。
生きることに少しのギモンも感じず、生徒はおとなしく素直に勉学に励み、彼女が規定しているところの立派な大人に指導することが、彼女が自分の役割と信じて疑わない、澄んだ単純さ、が彼女の魅力だった。女の魅力とは、物事を複雑に考えない平明さにある。単純な性格の人は人の心を複雑にする。
こっちは彼女を女とみているから、あの胸の中に抱かれて、優しい愛撫をうけたいと思ったり、こっそり着替えを覗きたいと思ったり、逆にそんなことを実行して鬼のように叱られたいと思ったりした。

 (詩)
ある時の国語の時間の時、詩を書く課題を出した。テーマは自由だった。が、私は大変困惑した。私は詩というものがチンプンカンプンだった。散文はわかっても、韻文の詩はさっぱりわからない。子供ながらに学問には敬意を払っていたので、文学として認められた詩人や、その詩には芸術的価値があるんだろうとは信じていた。しかし、私はそれまで詩と言うものを読んで感動はおろか理解出来たものさえ一つも無かった。また、詩というものを書いてみたいという欲求など全くなかった。詩という、分けの分からないものは受け付けられなかった。そんな生徒に、詩をつくれなどというのは無理難題である。詩というからには詩らしいものでなくてはならない。詩というものは、末尾の言葉を反復し、分けの分からないものだった。分けのわかるものは詩ではないと思った。分けの分からないものなど創りようが無い。ので、大変困った。詩は絵で言うならピカソの絵のようなシュールレアリズムな物のように見えた。他の人を見るに、自分に理解できないものでも、それらしいものを雰囲気で創ってしまえる。しかし私にはあらゆる事において、そのような恥知らずなことは私の心にこびりついている良心から絶対できなかった。詩というものは鑑賞力のない者にとっては何か分けの分からない気取った気障な言葉の羅列に見えてしまう。が、鑑賞力のある人間から見れば一字一句たりとも取り替えることのできない、言葉を組み合わせて造られた高等芸術なのだろう。分からないだけにその神秘性から、小説や随筆などの散文の言語芸術より、もっと高尚なものなのだろうと思った。道は二つに一つしかない。自分の良心に妥協して、詩らしいものを書くか、己の良心に忠実に、「私には詩はつくれません」と書いて白紙答案を出すか。である。しかし白紙答案を出す勇気も持てなかった。みんなそれぞれ何か書いている雰囲気なのに自分だけ何も書かなかったら気まずいし、みんな書いているのに私一人だけ書いてなかったら、後で呼び出されて、「どうして何も書かないの。」と注意されるのでは、とも思った。それほど私は気が小さかった。結局、何も書かないまま提出した。後で呼び出されて注意されるかもしれないことは覚悟していた。結局私はしかられることより、自分の良心に偽らないことの方をとった。教卓にみなの答案が集められると、先生は一通りざっと目を通した。
この後、信じがたい事態が起こった。
先生は、和やかな口調で、
「とてもいい答案があります。書いた人の名前は言いませんが、これから読みますからよく聞いていて下さい。題は、ふくろう、という題です。」
と言って滔々と読み始めた。優れた詩才の持ち主を自分のクラスの生徒の中に見出した喜びと、みなに詩とはこういうものだということを伝えて発奮させたいという思い。の他に、半ば詩に感動して我を忘れて、気分は言葉に感情を込めて無心に謳い上げる一人の詩の朗読者に高揚していた。先生の朗読だけが滔々と流れている静かな教室の中で突然、先生の前にいた一人の生徒が大声をあげて笑い出した。咄嗟にこんな厳粛な授業中に大声で笑うなんて、なんて不謹慎な、と思った。先生もそう思ったのではないかと思ったが、先生の対応は違っていた。あまりに笑い声が大きい上、笑いつづけるのをやめないので何事かとの疑問が起こったのだろう。首を伸ばし、
「ん。なに。どうしたの。」
と、笑っている生徒に聞いた。彼は机上にのっている国語の教科書の後ろの方の、あるページを言って、
「これとまったく同じ。」
と言って笑いを止めた。先生は青ざめた顔つきになり、いそいで生徒が言ったページを開いて、生徒が書いた模範答案と、教科書に採用されている高名詩人の作による詩とが同一のものであるかどうかを検証しだした。皆もそのページを一斉に開いて、そこに書かれている詩を読み出した。私もそのページを開いてみたが、私は詩はわからないし、聞いても何の感慨も起こらないので、開いても内容は頭を素通りして何もとどまらなかった。ただ「ふくろう」という題まで同じであることに仰天した。生徒の作品が完全な教科書の盗作であることを確かめると先生の顔は前と一変して鬼のような怒気で満ち満ちた。そして盗作した生徒の名前を名指しして、立ち上がり、拳を握り締めて悪漢生徒の方に駆け寄った。
「どういうつもりだ。」
怒りのため、握り締めた拳が飛んできそうなほどだった。不良生徒は、恐れて教室から逃げ出した。不良生徒を取り逃がしたため先生は仕方なく教壇に戻ったが、とても授業を続けられる雰囲気ではなかった。われわれ生徒のほうは傍観者のゆとりがあったが、先生はとてもそんな落ち着いた気持ちには戻れなかった。人の心というものは全く推測できないものである。盗作した生徒はクラスの中で友達とふざけることはあっても大それた、教師の手に負えない逸脱したことをするようなことはなかった。私は特に気が小さかったので、まず何よりもそんなことを平気で行える神経の図太さにあっけにとられた。カンニングもここまでいくと、気の小さい私には、無神経さ、の、強さが勇壮なものにさえ見えた。盗作するなら出来るだけバレないよう、人知れぬところにあるものを持って来るべきであり、タイトルはもちろん、内容も小学生の力量のものと思われるよう、少し表現も未熟にするべきだ。然るに彼は学校で使っている教科書から、タイトルから内容まで丸写しした。いったいどういう神経をしているのだ。授業が進んで、その詩にあたれば、ばれることは保障されているではないか。その時怒られる事が怖くはないのだろうか。いかに頭の弱い犯罪者でもここまで知恵を働かすことをしない者はいないだろう。いったい彼の精神構造はどうなっているのか。全く理解に苦しむ。

 だが同時に私は他の生徒は、おそらく気づいていないだろう先生の気まずさに何とも、くすぐったい心地よさを感じていた。それはこうである。数多い生徒の作品の中から本物の詩人の作品を選び出せた先生の鑑識眼。さすが教師というものは本物を見出せる鑑識眼の頭の良さがあるんだな、と感心させられた。特に私は詩はチンプンカンプンだったので詩の鑑識眼を持っている先生を仰ぎ見る思いだった。ピカソの絵と、ピカソの絵を見てピカソモドキの絵を描いた中学生の絵、とを仮に私が見せられたとしたら私は価値の判断を誤るだろう。
盗作した生徒は恐ろしい無神経からなのだろうが、これは結果として先生の実力を生徒がテストするという不埒なイタズラになっている。それが面白かった。先生は合格であり、また失格でもある。詩人の価値ある詩を見逃さなかった点は合格である。しかし盗作された詩は韻を持った難しい抒情詩であり、とても小学生の国語力で作り出せるものではない。小学生にしては出来すぎているという鑑識眼は当然持っていなくてはならない。それが出来ず、まんまと騙されてしまった鑑識眼のなさを皆に知られてしまったようなものである。

(野球解説者)
昼の給食の時、先生は教壇で黙ってみんなと食べた。食事中は休み時間と同じだから、みんなはワイワイ騒ぎながら食べた。彼らは食べる事と喋る事のどちらの方がよりうれしいのか、私にはわからない。やはり両方うれしいのだろう。喋る楽しみを優先させるために、食べるのを後にする生徒というのはいない。給食が終わった後の昼休みの時がみなのエネルギーが最高潮に爆発する時だった。みな、それぞれ自分の好きな事をする。一部の、よほど運動好きな生徒はグランドに出て行く。が、休み時間は30分と短く、またグランドは教室と少し離れていたので、わざわざグランドに出て行く面倒くささを嫌い、教室がグランドと化す。狭い教室の中を歓声を上げながら駆け回る。
 他人の席の所有権を侵すことは出来ないから、気の合う友達の隣の席に着くことは出来にくい場合もある。が、そこの席の子が駆けずり回っていれば可能である。だが彼らは誰とでもわけ隔てなく話せるし、前後左右の席の子はすでに管鮑の交わりであるからさほど不満足を感じない。
 先生は昼休み、教員室へ戻る事もあったが教室に残ってデスクワークしている事も多かった。教員室に戻らないで、教壇にいると一人の生徒がいつも先生の所にやってくる。そして先生にプロ野球の解説をエンエンと始めるのである。どこのチームの何という選手はどうだの、それぞれのチームの特徴だの、勝敗の予測、だのを得々と語り聞かせるのである。私も野球マンガは好きだったし、プロ野球でも有名な選手は知っていた。しかし彼はよほどプロ野球の試合はテレビで欠かさず見ているのか、その知識量は相当なものだった。私も当時はプロ野球はけっこう好きで、テレビで試合を見ることは多かった。しかし、防御率だの、自責点、だの難しい用語は全くわからなかった。プロ野球はリーグ戦だから優位の順というものも全くわからなかった。他の男の生徒もプロ野球は概ね好きで、試合はテレビで見ていたが、彼ほど深く知っている生徒はいなかった。し、小学生の関心は多岐にわたるからプロ野球だけにそんなに強い関心をもっている子はいない。しかし彼は自分の知識を誇示したい欲求が強く、生徒の中でプロ野球の事を語り合える友を作れなかった。そこで先生が彼の知識誇示欲求の餌食となった。先生が昼休みに教員室に戻らないで教壇にいると、その子が先生の所にやって来て、プロ野球の解説をトクトクと始めるのである。実に嬉しそうな自慢げな表情である。私が聞いていてもサッパリわからない。ましてや女はプロ野球になんて興味を持ってない子の方が多い。先生もプロ野球に関心がないことは、何一つ、自分の方から意見を言えない事からわかる。
 昼休み、先生が教室に残っている時は一人で何かのデスクワークをしたがっているのに、先生は心の広い性格だったので、話し相手のいない生徒の話かけを無下に断ることが出来ず、彼に付き合って相槌を打っていた。この生徒が先生をどう思っていたかはわからないが、人間は関心のない事でも、相手に合わせるために相槌を打つこともあるという事を知っていたのだろうか。生徒たちははしゃぎまわったり、ペチャクチャお喋りしたり、自分達の話題に夢中だから先生は眼中に無い。
 私は昼休み一人ぼっちだったので、この悲劇はいやでも目にとまり、先生を同情するとともに、先生の心の深さに感心し、また、小学校の先生という職業も決して楽なものではないな、としみじみ思った。

(友達)
勉強は全科とも良くなかったが、勉強が出来ないという事に劣等感をまったく感じなかったので、何とも思わなかった。自分は将来、何になるんだろうと他人事のように考えたが、全く分からなかった。父親がサラリーマンだったので、自分も将来はサラリーマンになるんだろうな、と思っていた。小学四年生だったから、資本主義経済の仕組みなんてバクゼンとしか分からなかった。サラリーマンになるなら、どこの会社でも似たようなもので、ガリ勉になっていい大学に入れば、一流会社に入れるのだろうけれど、出世欲など全く無かったので、ムキになってガリ勉になって、一流会社に入りたいなどという気持ちは起こらなかった。また、一流会社に入るという目的のためにセッセと勉強している生徒がひどくエゴイスティックで魅力の無い、つまらない人間に見えた。母親も教育ママではなかったのでテストで悪い点をとっても全く叱られなかった。また、生徒の中にはガリ勉とも違って勉強しなくても全科トップの成績の秀才もいた。もちろん、私もそういう生徒は、すごいな、と思い、うらやましく思った。しかし私は秀才に対してもさほど引け目もシットも感じなかった。彼ら(外向的人間)は、学科の成績は良くても、人間心理の洞察力がこっけいなほどニブくて鈍感だと思うことがしょっちゅうあったからだ。それにくらべると私は性格が神経質だろうからだろうが、生徒の本心を一瞬のうちに察知してしまう。無理して努力して考察するのではなく、直観力によってピーンと反射的に気づいてしまうのである。またクラス会議の時の生徒の思想的な発言でも、少しでも道理に外れた不正確な点があると瞬時にそれを察知した。彼らは友達が多いから物事に関しては何でも知っている。しかし抽象的、観念的な思考力や人間心理の洞察力は私の方がずっと優れていると内心思っていた。クラスの誰も気づかない事を自分一人気づいていることには多少、優越感を感じた。秀才に対しても劣等感を感じなかったのは、物事の本質を見抜く能力は私の方が優れているという自負があったからだ。しかし私は途中から入った転校生であり、もともと内気で気が小さく、クラスの中で堂々と自分の考えを述べることなどとても出来る性格ではなかった。また、他の生徒のように自己主張したいという欲求なども起こらなかった。いじめられてはいなかったし、また、現代のような陰湿ないじめはなかった。何が嬉しいんだか知らないが、みんな毎日ピクニックのようにはしゃぎ、ふざけあっていた。そもそも私は学校というものが嫌いだった。怖くさえあった。あの黴くさい校舎。一時たりとも笑いを止める事なく喋りつづけずにはおれない、あの物凄いエネルギー。それは他の生徒にとっては、学校へ来る楽しみなのだろうが、もともと喘息で内気でエネルギーの無い私にとっては得体の知れない恐怖でしかなかった。他の人にとっては友達と話すことが楽しみなのだろうが、私にとっては友達と話すことは苦痛以外の何物でもなかった。他の人は無限に話題があるが、私には彼らの百分の一くらいしか話題が無く、いつ話題が途切れるかを恐れながらそれが、ばれないように冷や汗タラタラ流しながら、あたかも分かっているかのように相槌打つ会話など苦痛以外の何物でもない。だからといって私は彼らをバカにして一人、超然とした態度をとっていたわけではない。私とてみんなと同じように、たくさん友達をつくってワイワイはしゃぎ合いたかったことか。昼休みになると必ず、校庭に出てキャッチボールする二人組の生徒がどんなに羨ましかったことか。
 観念的な、物事の本質を見抜く直観力や人間心理の洞察力は人一倍秀でていると思いながらも、人の考えに誤りを見出しても、それは心の内に秘めて、自分の考えというものは絶対言わなかった。あいつは自己主張する生意気なやつだ、と思われるのが怖かったし、みんなと違う考え方をする異分子だと思われて仲間はずれにされるのが怖かったからだ。だから私は机に座ってじっとしている有っても見えない空気のような存在だった。
 それに私は自分の直観力を心の内で誇っていたわけではない。そんなものを誇る気持ちなど全く起こらなかった。そんなヘンテコな能力が何の役に立つというのだ。何の誇りになるというのだ。そんなものより、気兼ねなく話し合える一人の友達の方が、どんなに長時間しゃべりつづけても疲れない精神的体力の方が、ドッヂボールやソフトボールのようにみんなとやる運動についていける肉体的体力の方が、どれほど羨ましかったことか。
 友達といえば、類は友を呼ぶで、四人くらい私と同じようにやや内気な子と友達になることは出来た。といっても、私の方から、「友達になって」と声をかける勇気などない。普通の子は、「友達になって」などという事などしない。数人でお喋りしている人達を見るとスッといつの間にか会話に加わっていて、その時からもう友達関係である。これを誰彼ともなく出来るので、クラス全員と友達になるのもわけはないのである。しかし私にはそんな神業はとても出来ない。掃除当番とか、小グループに分かれて勉強するような機会が、友達をつくれる、ありがたい唯一の機会だった。こういう機会ではいやでも話さなくてはならない。そして私は人と話すのはニガ手だが、こういう小グループに入れられた時に話せないほどの内気ではなかった。だからといって、その機会に小グループのみんなと友達になれたわけではない。あまりにも元気な子とは、その場では何とか話せても、それがおわってバラバラになってしまえば、元気な子は元気な子の集団に戻り、爆発するように、ふざけあい、笑いあう。彼ら、彼女らにとっては、その時こそが心が休まる時なのだろう。しかし私はとてもじゃないが、そんな中に入っていく勇気などない。かりに無理して入っていったとしても彼らの爆発的なエネルギーについていけず、弾き飛ばされるだけで、スゴスゴと、出来るだけ気づかれないようさりげなく去っていく事になるのは目に見えていた。しかし一回でも話す機会を持てた事は大きな前進だった。それまでは廊下で出会っても挨拶も出来なかったが、一回話した後では挨拶なら出来るようになれる。
 また私もそういう、あまりにもエネルギーの差がありすぎる子とは親しい友達になりたいとは思わなかった。つかれるだけである。小グループでまとまる機会には、話していても疲れない、エネルギーがほどほどの子と話す機会を持てて友達になれることが嬉しかった。いや、必ずしもエネルギーの多い少ないが友達になれるかどうかの条件ではなかった。もちろんエネルギーの少ない子は波長が合いやすく友達になりやすかった。しかしエネルギーが多いかどうかよりも性格が合うかどうかが大きかった。エネルギー過多の子はたいてい私と話をしていても退屈してしまい、自然と疎遠になってしまう。彼らは休みなくギャースカ騒ぎつづける子でないとダメなのである。ギャースカ人間はギャースカしてない人間を胡散臭げな目で見る。ギャースカ人間は、人間とは絶えずギャースカするものだと思っているから、ギャースカしてない人間を見ると不可解に思ってしまうのである。
 しかし中にはクラスの誰とでも話せる外交的な子なのに、性格的に話が会う子もいた。同情してくれているわけではない。そういう子は性格が大らかでのんびりしていた。

(津田)
クラスの中でどの子が一番かわいいかという品評会は、当然あったが、私は一回か二回程度、友達が話しているのを関心なさそうな素振りを見せて聞いていた。うちのクラスでは津田という子が一番かわいいというのが男の側の圧倒的な意見だった。しかもクラスのレベルだけではなく、学校中でも、津田はかわいいということになっているらしい。同じクラスだから当然私は津田を知っている。確かにかわいい、というか、きれい、といって誤りはない。しかし私は何でそんなに男に人気があるのかわからなかった。私は内心、津田とは別の、ちょっと背の高い、ロングヘアーの子に恋焦がれていて、その子が一番かわいいと思っていた。口数は多くは無いがしっかりした性格で、少し大人っぽさを感じさせた。それがいっそう、魅力的だった。何度、彼女を想像の内に思い描いたことか。
 それに比べて、津田は、かわいいといっても間違いではないが、見ようによっては平均的な容姿で、何でみんなが津田、津田、というのか不思議で仕方がなかった。津田は平均的な背丈で、髪は茶色で、両頬にはトレードマークのように適度なソバカスがついていた。津田はともかく開けっぴろげで明るい子だった。男女問わず誰とでも話し、男のように大声で笑う。女らしさ、や、つつましさ、というものが感じられなかった。男のようにはしゃぐ性格だったからともかく目立つ性格だった。女は女同士でまとまりがちだったが、津田はそうではなく、男の誰とでも話す。男も津田と話すのは面白い。津田は男を異性として意識することが無く、自然体で活発で明るいのである。津田の魅力とは、容姿の美しさもあるだろうが、それ以上に性格の魅力なのだろう。
 男と接する機会が多いから男の方でも女といえば津田が一番最初に意識されてしまうのだろう。小学四年の当時には、そうは思わなかったが、今思い返すと、津田の明るい屈託ない笑顔ばかりが魅力的に思い出され、当時、恋焦がれていた子の魅力は、今では全く色褪せてしまっている。やっぱりみんなの価値基準の方が私より上だったのだ。人間の魅力とは、容姿よりも性格なのだ。
 津田は性愛の対象にもなっていた。こだわりの無い性格だから、水着姿を男に見られても抵抗を感じていなかった。団地の中の小学校だったので生徒はほとんどが団地に住んでいた。私は四階だったが、津田は、目と鼻の先の団地の一階に住んでいた。学校の行き帰りの時、津田の家の前を通る。私は津田とは親しい仲ではなかったので、万一、学校外で津田と出会ったら気恥ずかしいなと思ってヒヤヒヤしていた。ある時、友達が津田の噂をしていた。それによると津田は夏は、裸でベッドに寝ていることもあって、津田の裸姿を見た生徒がいるというのである。団地は狭いし、家族もいるのだからウソなんじゃないかと思った。しかし津田の家は一階なので、通りがかれば中は見えるし、津田のあけすけな性格からすると、むし暑い夏には風呂上りなど、そんな格好でベッドに横になる事もひょっとするとあるかもしれない、とも思った。夏、見に行こうぜ、などとも友達は言う。思わず津田が裸で家の中を歩いている姿が想像されてしまい、心臓が高鳴る。もし本当なら、こんな素晴らしいことはないので、ぜひ見に行きたいと思った。それ以来、津田の裸の噂が本当なのかどうか、気になって仕方がなくなった。津田の裸が想像でイメージされてしまう事も彼女の魅力の一つとなった。こんなデマも津田の性格のおおらかさだからこそ起こりうるのである。

(掃除)
クラスで私はほとんど目立たない存在だった。が、もともと内気で小心な性格だったため、別に何ともなかった。成績はどの科もパッとしなかったが図工だけはいつもよかった。几帳面な性格のため、絵を写実的に丁寧に描くのでそれが評価された。夏休みに、後楽園球場に、巨人、中日戦を親と見に行ったので、「夏休みの思い出」というテーマを出された時、後楽園球場を思い出しながら描いた。そしたら先生がうまい、と誉めてくれて、みんながゾロゾロ、私の絵を見に来た。クラスの中で一番目立つヤツで、毎日、教室に鳴り響くほどでかい声でジョークばっかり言ってるヤツが来て、「うっまーい」と歓声を上げた。私は彼のようなエネルギーの化け物のような生徒には、相手にしてもらえることは一度も無いだろうな、と思っていてたので無上に嬉しかった。もう一つ驚いたことがあった。私はあんまり目立ちたくないため、あんまり丁寧に描いて突出することを恐れてたので、わざと力を抜いてテキトーに描いたのだ。それが予想以上に評価されたことが、驚きだった。他の生徒は押し並べて絵が下手である。彼らは子供の頃から外で遊んでいて、性格が、荒削りで大雑把だった。が、私は三歳の時からずっと喘息で性格も内気で、人と遊ぶことが無く、いつも家でプラモデルを作ったり、おもちゃを作ったり、地図を筆写したりしていたので、几帳面な性格とあいまって、図画工作だけはいい成績だった。しかし私としてはそんな事よりもクラスの人気者に声をかけてもらえた事の方が、ずっと嬉しく、図工の成績何かどうでもよかった。
 嬉しかった事といえばもう一つある。私は物心ついた時からずっとこの団地で育ってきた。だから私のふるさとはこの団地である。小学校に入った時も、当然この小学校で六年過ごすことになるんだろうと思っていた。しかし三才で発症した私の喘息は治らず、ガンコにつづき、多くの医者にかかっても、いろいろな治療法を試みても治らなかった。私の喘息は父方の遺伝によるもので父も父の兄も喘息だった。特に伯父の喘息はひどく、発作で一晩中眠れない日などしょっちゅうだった。結婚することもなく、小さな会社でひっそり働き、最期は喘息重責発作が止まらずに死んでしまった。私は子供の頃から他の元気な生徒のように自分の人生というものを夢を持って建設的に考えることは出来なかった。伯父のそんな最期を聞き、また、自分を省みても一時たりとも発作止めの吸入器を手放すことが出来ない自分を思うと、私も伯父と同じように人並みのまともな人生など送れないだろうと子供心に思っていた。だが親は何とか私の喘息を治そうと治療法を探していた。それで二つ離れた県に、喘息児専用の病院つきの施設があると聞き、小学校三年の一年間、私は親と離れて、その施設で過ごす事になった。
 だから私は小学校二年の一学期まで団地の小学校に通い、一年半、その施設で過ごした後、四年で再び団地の小学校に戻ってきたのである。小学校一年、二年の時は、友達などほとんどいなく、別にいじめられは、しなかったが、学校嫌いはひどかった。友達を自由自在につくれて、いっつも大声で笑っている元気な他の生徒というものが、それの出来ない馬力のない私には不気味でこわかった。三年の一年間を親と離れて、施設で生活する事になることを聞かされた時はさみしさで泣いた。しかし入ってみたら、わりとすぐ慣れた。みんな私と同じ喘息児で、エネルギーが無いヤツが多く、劣等感に悩まされることから解放された。友達も出来たし、虚弱集団だから集団スポーツにも参加できて、運動も好きになれた。しかし四年でもどってきたら元の木阿弥に戻ってしまった。やっぱり健康な人間の集団では、精神的にも体力的にも、ついていけるほどのエネルギーは無かった。しかし一年半、親から離れて施設で過ごした事は、多少は効果があった。
 二年の時、私は津田と同じクラスだった。話したことなど一度も無かったが、津田は女なのに活発で目立つ子だったので、いやでも印象に残った。
 四年で戻ってきた時、偶然にも再び津田と同じクラスになった。津田は目立つ子なので、私は津田のことは憶えていたが、私は、居ても居なくてもわからない様な存在だったので二年のわずかな一時期、津田と同じクラスにいた事など、津田は憶えていないだろうと思っていた。四年の始めの時、自己紹介など無かった。クラスが上がったため、クラス変えが行われて、顔ぶれが変わったとはいえ、一つの同じ学校の中であり、しかもすでに三年過ぎている。クラス変えしても、再び一緒のクラスになったヤツもいる。さらに彼らの友達をつくるエネルギーはとどまるところを知らないから、同じ学年の生徒間では、みんなだいたい知っていて、友達関係が出来ているから、先生の方でもあらためて自己紹介させる必要など無い、と思ったのだろう。
 実際、彼らは四年の始めの日から、うるさいほどガヤガヤ騒いでいた。転校生が来れば当然自己紹介させるが、私は二年の一学期までは居て、戻ってきた生徒であり、あらためて自己紹介させる必要は無い、と思ったのか、ちょうど四年の新学期から戻ってきたので、気づかず、見落としたのか、それともクラス替えが行われた新学年のはじめだから、新しいクラスメートという条件は皆同じだから特に転校生として自己紹介させる必要はないと思ったのか、それはわからない。しかしあんなガヤガヤした集団の中で一人ポツンとしてしまう性格の私には一人だけ自己紹介をさせられるなんて恥ずかしいことをさせられずにすんで、むしろ助かった。しかし生徒の中では私を知ってるヤツなどいないから、他の生徒は、私を「見たことないやつだな。どっかから転校して来たやつなのかな」と見ていた。というより一人でポツンとしている私など居ても居なくてもどうでもいいような存在だったから、そんな関心さえ持つヤツもいなかった、と言った方が正確である。こうなると、一年半過ごした喘息児の施設が懐かしくなる。あそこでは、みんな私と同じ喘息もちで劣等感を感じないですんだし、エネルギーも私と同じように少ない子が多かったから、心を開いて笑い合える友達もたくさん出来た。というより、施設の子は全員知ってて、誰とでも話せた。むしろ何もしないで一人でポツンとしていろ、と言われたらその方が苦痛で、いつも友達とふざけあったり、遊んだりしていて、自然体で、疲れずに楽しく生活できた。自分の言いたい事も堂々と言えた。エネルギーのない喘息児、といっても絶えずベッドに寝ている半病人じゃない。発作が起こらない時は普通の子と同じである。寮のとなりに病院があり、医者や看護婦がいて、発作が起こって止まらなくなれば、寮の保母さんが来てくれて処置してくれる。喘息は、いつ発作が起こるかわからない予期不安、発作が起こった時、いつ止まってくれるだろうかという不安感が関与しているのだが、施設ではそういう不安が無いから、ちょっとやそっとのことでは発作は起こらないから、みんないつも元気で、普通の子と変わりないのである。だが、やはり平時でも世間一般の健康な子と比べると精神的、肉体的エネルギーは劣る。
 四年で団地の小学校に戻って世間一般の健康な子の中に放り込まれた時、つくづくそれを感じた。私はまた再び一人でポツンとする内気で無口な子に戻ってしまった。一年半の治療で、多少の自信がついたとはいえ、彼らの圧倒的なエネルギーにはとてもついてはいけなかった。
 しかし喘息の施設で一年半過ごした経験は、私に元気な子に対する見方を変えた。オレ達は好きで一人でポツンとしてるんじゃない。一人でポツンしてるオレ達を変人のように見るけれど、オレ達だって君らのようにワイワイふざけあいたいんだ。友達になりたいんだ。だけど君らのようなケタはずれなエネルギーが無くてついていけないから仕方なくポツンとしてるんだ。お前らにオレ達のつらさがわかってたまるか。勝手にバカみたいにギャースカ騒いでろ。
 性格が合うわずかな子とは友達になれたけど、本心で語り合えるほどにはなれなかった。せっかく出来たわずかな友達は大切にしたかったから、出来るだけ彼らに合わせるようにした。もともと孤独には慣れていたので学校を離れれば一人でいても寂しくはなかった。私はまた、家で一人で遊ぶ内気な子にもどった。だが学校の中で一人ぼっちというのは寂しかった。私は「空気」のような存在だったが、別にそれでかまわなかった。
 私は二年の時、津田と同じクラスだったことを憶えていたが、津田の方ではその事を憶えているのかどうかが、ずっと気にかかっていた。
 二年の時は私は一人も友達のいない全く人の目につかない生徒だった。一方、津田は男女問わず、無数の友達がいて、いつも笑い合っていた。だから私の事なんか憶えていないだろうと思った。
 ある掃除当番の時だった。十人くらいだった。その中に津田がいた。男は概してふざけたり、とぐろをまいて、お喋りしていた。津田は一人でまじめに掃除していた。私も黙って掃除していた。津田は明るすぎて、私のような内気で無口な人間が話しかけるのは恐れ多いことだと思った。津田に話しかける資格があるのは、無限のエネルギーがある子に限られるのだ。そんな事を思って机を運んでいた時だった。津田が突然、みなに聞こえるほどの大きな声で言った。
「私、浅野君、知ってるよ。二年の時、同じクラスだったもん。三年の時どこ行ってたの?」
あのときほど嬉しかったことはない。