コレクター                 もどる

かなり前に、「コレクター」という映画を観た。これは、「名作」らしい。男(フレディー)が、女(ミランダ)を捕まえて、監禁する映画である。たいていの人は知っていると思う。まず、これを単なるポルノグラフィーと観る人は単純な人である。これは、単なるポルノグラフィーではない。もっとも、エロティックにして、話を面白くしようとする意図は、当然ある。しかし、これは、単なるポルノグラフィーではない。ある点、思想映画である。はじめは、そう思わなかったから、見る前から、だいたいストーリーは、見当がついていたので、たいして見たいと思わなかった。たんにネクラな人間が持ちやすい心理を表現したものだろうと思っていた。しかし、そういう映画は、内容として不健全になるので、つくれなかっただけで、それを真っ向から表現したパイロティシズムが、この映画の唯一の美点だろうと思っていた。それで、レンタルビデオ店で、わざわざ、借りて観る気もしなかった。ので、ずっと観なかった。第一、捕らえられた女のミランダは、魅力を感じなかった。しかし、ある時、テレビ番組表で、見つけたので、一応、見ておこうと録画した。
観て、予想と違い、かなりいい作品だな、と見直した。これは単なるポルノグラフィーではない。(もっとも、女が犯されるシーンは無いから、ポルノグラフィーでさえない)これは、かなり、思想的な、いい作品である。男は、自分の論理をしっかり持っていて、その論理に従って行動しているのだ。男は、自分に理解できる思考の限界を自分の論理として、社会に挑戦している。男は、自分に理解できる思考の限界を、人間の社会に対する認識であるべきだ、という主張を持っている。「知るを知るとなし、知らざるを知らざるとなす。これ知るなり」と、論語にあるが、そういう点からすれば、この男は、「知っている人間」である。私が、この映画で、一番感動した場面は、というより、その場面しか感動していないのだが、男がミランダに、ピカソの絵を見せて、「これは、いい絵なんだろう」と、言う場面である。男は、自分がピカソの絵の価値がわからないことを告白している。それに対し、ミランダは、得意げに、ピカソの絵の素晴らしさを説明する。ミランダが本当にピカソの絵の価値を理解できているのか、どうかは、わからない。もし、ミランダが、美術大学の卒業生だったり、絵画に、特に造詣が深く、絵画を深く勉強していてピカソのキュービズム、シュールレアリズムを理解しているのなら、本当にピカソの絵を素晴らしいと感じる感性を持つことは可能である。鑑賞力というものは、勉強によって、身につくものである。しかし、どうも、あの映画を観るかぎり、ミランダが、絵画をそこまで深く勉強しているとは、思えない。一般の人間の絵画の理解力ていど、であろう。ピカソの絵画の価値を最初に見抜いたのは、絵画の専門家で、しかも、そうとう優れた理解力を持った人間だろう。天才を理解できるのは天才だけである。その人が、ピカソの絵が、どうして優れているかを説明したのである。それゆえ、一般の人は、ピカソの絵を、いい絵だと、わからないまま、敬するようになったのである。ミランダのピカソの絵の価値の説明は、絵画専門家の説明を、そのまま言っているのに過ぎない。ピカソの絵を、いい絵だと、本当に感じる感覚まではには至ってないだろう。そして、それが、一般の人間の認識の仕方と同じである。そして、一般の人間の認識の仕方には、誤りがあるのである。つまり、絵画専門家の意見に洗脳されてしまっているのである。一般の人間には、ピカソの絵を、いい絵だと本当に感じる感性までは、持てないだろう。ここで、一般の人間の物事に対する認識の仕方の誤りであるということが、この映画で表現されている。皆が言うから、そして、専門家が認めるから、真理だと無条件に信じる人間の認識の仕方の安直さである。もちろん、絵画専門家の説明によって、頭では、その価値の意味を理解できる。しかし、いい絵だと感じる感覚までは、持てないだろう。しかし、いい絵だと、思って見ているうちに、いい絵だと、感覚までが無意識のうちに洗脳されてしまうのである。これが、多くの人間の認識の仕方である。これに対して、男は、「自分はピカソの絵の価値はわからない」と、ことさら、強調して言っている。男はピカソの絵の価値を否定はしていない。「わからない」と言っている。男は、こうミランダに問い詰める。
「巨匠が、いい絵だというから、いい絵なんだろう」
「こんな絵をいい絵だと感じられる人間は百万人に一人だけさ」
このフレーズは、非常に素晴らしい。一般の人間の認識の仕方が、専門家の意見によって、洗脳されていることを、この男は主張しているようなものである。この男の物事に対する認識の仕方の方が、ずっと優れている。この男は、童話の、「裸の王様」と似ている。「裸の王様」で、本当に正しい認識をしていたのは、群集と少年の、どっちだったであろう。要するに、ミランダは、知ったかぶり、であり、この男はミランダの知ったかぶりの物事の認識の仕方に対して挑戦しているのである。そして、この男は、そういう認識の仕方で行動しているのである。この場面は非常に素晴らしい。一般の人間が、専門家の発言によって集団洗脳されている、ことが、この映画で、表現されているのである。
私が、この映画を素晴らしいと感じたのは、この場面だけである。他は、あまり、たいしたものには感じられなかった。男の行動には、ずるさ、も、矛盾もある。必ずしも自分の理論に忠実ではない。また、ラストが、よくわからない。男はミランダを殺すが、それは、映画だから、たいした問題ではない。が、ミランダを殺した後、ラストで男は、自分の理論に誤りがある事に気づき、さらに別の女を拉致監禁しようとする。自分の理論に従って行動しようとするのはいいが、男の自分の理論の誤り、が、よくわからない。日本語訳だったので、よく、わからなかった。訳者が、わかりやすいように、訳してくれれば、よかったのに、と、残念に思った。そして、このラストで、男が自分の理論の誤りを、どうとらえたのか、が、この映画の価値を大きく左右する。およそ、映画はラストの出来、不出来が、映画のよさを決定する。しかし、どうも、ちゃんとした理論は無いように感じられた。そういう点、この映画は、完全な傑作とは、言えないように感じた。しかし、「コロンブスの卵」の価値、と、男の認識の仕方には、非常によいものがあり、その点は、この映画の優れた点である。