文学論                    戻る


志賀直哉は文芸評論家を「無用の長物」と言っているが、そうは言えまい。確かに谷崎さんが「文章読本」の中で言っているように、自分で小説をつくる人の方が、正しく他人の作品を評価できる、という面もある。しかし小説家は、強烈な自分の個性、好み、を持っているから、自分の好みに合わない作品を正当に評価できなという事も無きにしも非ず、だろう。小説家だって読むのは自分の好みに合うものに傾きやすい。嫌いな作品、自分の好みに合わない作品を熟読するだろうか。その点、文芸評論家は、あらゆる作品を読んでいて、中立の立場で作品を評価しようとする。文芸評論家とて、文芸評論だけでは食っていけない。翻訳、時事問題の評論、作家と同程度に多忙であろう。


渋沢龍彦・・・三島由紀夫の追悼の文の中で、「私の中の文学者は私の中の市民と敵対している」「文学者とは超越を志向するもの」とやや得意げに言っている。が、これは渋沢龍彦だけにしか当てはまらない。渋沢は三島のエロティシズムの面をきちんと述べているが、文武両道には触れていない。三島の「葉隠」の、ものが二つになるが悪しきなり、には触れていない。

太宰治・・・「如是我聞」で痛烈な志賀直哉批判をしている。が、当たっている点もあるが、かなり、自分の欠点を暴露してしまっている。慧眼な読者には全部わかるだろう。

芥川龍之介・・・一番大きな自殺の理由は、自分に「詩的精神」の無さだったろう。小説家の精神的進歩はおそろしい。価値観がかわると、自分のつくってきた作品すべてが無価値に見えてしまう。

森鴎外・・・「森鴎外」ああ、山椒太夫でしょ、知ってるよ、で、おわりになってしまっている人もいるのではないだろうか。

梶井基次郎・・・「檸檬」は、読みやすく、気持ちのいい文だが、梶井の作品は、すべて、「檸檬」と、同様に優れた作品である。他の作品は少しも「檸檬」に劣っていない。「冬の日」、「蒼穹」、「冬の蠅」などは、詩的な美しさという点で「檸檬」以上。

佐藤春夫・・・「田園の憂鬱」これがわかる事が文学がわかる必要かつ十分条件。詩人である。谷崎も詩情をもっているが、佐藤春夫の詩情に憧れていた。

田山花袋・・・自然主義=間違い、と決めてかかるのはどうか。自然主義=間違い、のセリフはほとんど洗脳に近い。洗脳されてしまった人もいるのでは。田園の風景の描写は詩的で美しい。文学は既存の文学に対する批判から新しい文学が生まれる。文学とは何かを真剣に考え、しっかりとしたテーゼを堂々と打ち立てた花袋の功績は大きい。そもそも自然主義も立派な文学の方向の一ジャンルである。

菊池寛・・・天才でないようなレッテルをはられているようだが、菊池寛は天才である。天才とは情熱家の異名。宮城音弥、クレッチマーの天才の定義。「父かえる」、「恩讐の彼方」他、菊池寛以外の作家で誰が書けよう。

国木田独歩・・・「びっくりしたい」確かに人間は経験によって社会と馴れ合いになってしまっている。タイムマシンがあって、過去か未来の世界に行けば、びっくりしない、人間はいないだろう。

源氏物語・・・光源氏が恋した女達が複雑に関係されていないストーリーのため、自然に面白く読める。かりに複雑にしても・・・それでも面白いだろう。紫式部のストーリーつくりの才能ゆえ。

清少納言・・・紫式部と敵対。「枕草子」は、源氏物語と違って、文句のつけどころの無い日本の名エッセイの代表。

小説とは何か・・・志賀直哉の第三期の小説群は、エッセイのような感じもすれば、日記のような感じもする・・・小説とは何か・・・こんな定義をしてみてもいいのではないか。読んでみて、ああ小説だな、と思えられるようなものであれば、それは小説。

石川啄木・・・「二筋の血」実に味のある文章。内容も素晴らしい。なぜ啄木は俳句ばかりが評価されて、小説があまり知られてないのだろう。

樋口一葉・・・井原西鶴の文体。テンポがいい。

織田作之助・・・「夫婦善哉」は西鶴の文体。内容が盛り沢山で、かわいいパロディーっぽい。

島崎藤村・・・小説の処女作「破戒」が、美しい自然の描写あり、緊張感あり、深刻なテーマであり、素晴らしい。「夜明け前」は、よほど読書の好きな人でないと通読は困難なのではなかろうか。

有島武朗・・・「生まれ出ずる悩み」芸術を志す人なら皆、感動するだろう。「一房の葡萄」他、かわいいが、子供が語っている話という設定のため、子供の書く文章にしなければならなかったところが苦しいところ。作者もその枷で悩んだだろう。

川端康成・・・三島由紀夫によると、川端康成と志賀直哉は、「いい文章を書くが、文体はない」と書いているが、そういうのを読むと、三島にとっての文体の定義とは何か、という事が興味が出てくる。「掌の小説」は、みな、しっかりした文体のあるミクロコスモス。

永井荷風・・・「すみだ川」は、なんと谷崎の潤沢ある文章そっくりなことか。谷崎と荷風は、こういうところで文学的血縁を持っている。「すみだ川」を谷崎が書いたと言っても誰も疑わなかっただろう。

堀辰雄・・・一ひねりされた味のある愉快な文章。ラディゲ、他、フランス心理小説の文体を意図して取り入れた。日本の古典を題材にしたのも素晴らしい。

三島由紀夫・・・小説、戯曲、エッセイ、評論、はては手紙まで、三島には手を抜いた作品というものが一つも無い。三島はしめきりを確実に守る作家だった。三島の作品はどれも二つか三つ、ユーモアがあるが、しめきりに追われた適度な疲れが三島をユーモラスな心理状態にしたのだろう。あれだけ、あらゆる文学作品を読んでしまうと、自分は書けなくなる危険性がある。書き手ではなく、読み手でおわってしまう危険性がある。作家を志すものは、読み過ぎに絶えず、気をつけるべきだ。三島が、あれだけ読んでも書けるのは、先天的なテーマをいくつも持っていたためと能動的ニヒリズムゆえ。能動的というより、情熱的ニヒリスト、と言った方がいい。

泉鏡花・・・格調のある幽玄な作品。本当に、おばけの存在を信じていたから、作品も鬼気迫る感がある。

谷崎潤一郎・・・「三島君。金色の死をひっぱりださないでくれ。恥ずかしいじゃないか」と極楽の蓮の台の上で松子夫人と肩を寄せ合ってグチを言っているかもしれない。変態性欲の一言でかたずける評論家のいる中、一人、眼光の鋭い芥川は氏の詩的精神を正しく評価していた。代表作を「刺青」にするから、一部の人にはわからない。処女作は、「少年」にすれば、罪のない子供のいじめあいごっこ、として、ほとんどの人に理解されただろう。

中島敦・・・あれだけ優れた作品を書けるのに、自己告白を他人に見抜かれはしないか、と怖れて作品を燃やそうとしたところを家人に止められた。極めてシャイ。漢学の素養が作品に滲み出ている。

住井すゑ・・・論理というものをしっかり持っている稀有な人。彼女に論戦して勝てる人はまずいまい。

宮沢賢治・・・日蓮宗は他派を折伏するが、賢治も父親を改宗するよう訴えた。法華経の信者、作家、農芸科学者、教師・・・優れた人はやらなくてはならない事が多いので、身がいくつあってもたりない。

小林多喜二・・・「党生活者」は、スリルがあって結果、面白い。

夢野久作・・・「ドグラ・マグラ」ちゃかぽこ節はユーモラスで面白い。精神科の開放治療は、偶然にも九州大学医学部で最初に行われた。「瓶詰め地獄」はラストのつけ方が実に見事。

吉行淳之介・・・「夕暮れまで」格調ある名文。エッセイは実にユーモラス。

倉田百三・・・「出家とその弟子」形式は戯曲だか、ほとんど小説。

浅野浩二・・・作品の出来にムラがあるが、過敏性腸症候群による腹痛と、それによる通年性うつ病に耐えながら書いている事を酌量して見るべきと思われる。

エミール・ゾラ・・・荷風が心酔したのも無理はない。文章も思想も荷風に似ている。

ドフトエフスキー・・・ラスコールニコフの思想は麻原のポアと同じ。

オスカー・ワイルド・・・唯美主義だが、「幸福な王子」のような素晴らしい名短編も書いている。

ダニエル・デフォー・・・「ロビンソン・クルーソー」は、漂流記ではなく、信仰書。

スタインベック・・・「赤い子馬」はたして、あれほど感動的な話しが自伝であろうか。

ジョージ・バタイユ・・・吐き気をもよおす真実を書いた作家。それまで、誰も本気で取り組んで考えようとしなかった人間の闇の心理をしっかりと言葉で書き表した天才。

松本清張・・・森鴎外派。リアリズム。

司馬遼太郎・・・夏目漱石派。鳥瞰的。

小説家・・・小説家は自分は頭はからっぽでもいい。いかに優れた作品を多く書いたか、である。ただインプットの量が少ないといいアウトプットも出来ないから、そのためインプットするのだ。もちろん読書より体験の方が大事。もちろん読書より取材の方が大事。

推理小説・・・小説はすべて、推理小説と言えなくはない。読んだ小説の筋がさっぱり思い出せない、では、一時の娯楽に過ぎない。もちろん読まないよりは読んだ方がいい。

古典・・・頭にとどまる文。古典は確かに頭にとどまる。和文、漢文とも。