武道・スポーツ上達法 目次へ
まず言っておきたい事がある。文の中で、断定的な言い方をしている所もあるが、もちろん世の中には、当てはまらない人もいる。しかし文章において、いちいち、「そうでない人もいるが・・・」とか、「全員がそうではないが」と言い続けるのは、面倒であり、また、文章にインパクトがなくなってしまう。文章は60%くらい当てはまるものなら、断定的に言い切った方が、インパクトが出るのである。私の性格を誤解されたくないので、野暮な前置きを念のため・・・。
小説以外のものはほとんど書く気がしないが、一応、武道、スポーツについて書いてみようと思う。まず私のスポーツ歴に関して述べよう。私はスポーツは見る方ではなく、やる方である。テレビでもスポーツなどほとんど見ない。私の出来るスポーツは、空手、水泳、テニス、スキー(他、オートバイ、転回運動)である。
空手は若い頃から始めて、もうとっくに十年以上経っている。とっくに基本から、全ての技をマスターし、達人の域である。もちろんコンクリートブロックもレンガも割れる。始めたのは関東だったので松濤館流の伝統空手道場に一週間ほど通った。が、一週間で行くのをやめた。つづかなかったからではなく、家から離れていた事と、一週間も道場へ通ったら、空手はわざわざ道場に通わなくても、独学で身につけられる自信がついたからである。私は独学タイプである。空手に関する本をたくさん買った。たいていの空手独習本は読んだが、その中でも一番優れているものは、空手家の南郷継正氏の本である。他の独習本のほとんどは、同じような事しか書いてなく、また、それらは空手をマスターした上級者のための本である。が、南郷継正氏の著書は、空手を始めようとする初心者に役立つ本であると同時に、空手のあらゆる事を理論的に書いてある。この本から私はどれだけ学んだことか。
キックはダイナミックな連続技を身に付けたかったので、アクション映画を録画して、繰り返し見て研究した。と言うとブルース・リーの映画と思うだろうが、私が空手を始めた頃、熱心に研究したのは、ブルース・リャンの「帰ってきたドラゴン」である。ブルース・リャンは韓国空手テコンドーの達人であり、そのダイナミックな足技、連続技はブルース・リー以上であった。
ともかく空手に関して私なりの雑感を述べてみよう。
「型」について
多くの人(特にフルコンタクト系の人)は、「型」の練習は実戦に役立たないから無意味だ、と言う人もいる。私は、分からないものは切り捨てる主義ではなく、やってみる主義なので「型」の練習は熱心にやった。というより、空手は「型」があるから独習が出来るのである。また、私は空手に、強さ以上に美しさを求めていたので、達人の演じる美しい「型」を身につけたくて、「型」の練習は熱心にやった。
結論から言うと、「型」の意味を私は本当には理解していない。もちろん何万回とくりかえして練習した「型」は、内的欲求によって、やりたい欲求は起こってくる。私は平安五段が好きであり、「型」といえば平安五段しか、やる気がしない。あと平安二段の始めの部分である。「型」の意味は「気」が臍下丹田に移る、という事に意義かあると思われる。空手はパンチにせよ、キックにせよ、すべて臍下丹田が中心となっているのだが、「型」の練習は、意識を脳から丹田に移す効果がとてもよいのである。ブルース・リーの言う「オートマティズム」の訓練と言ってもいいだろう。
私的、「型」の意味論
私は空手の歴史を本格的に研究しているわけではないので、これは私の想像である。
武術の発祥は中国の少林寺から生まれた少林寺拳法である。僧達が武道を訓練した意味はわかりやすい。僧は仏教の修行に肉体的な修行も欠かせなかった。日本でも座禅や荒修行などがある。「肉体の鍛錬なしに精神の鍛錬なし」だからである。だから修行は武術でなくても何でもよかったわけである。だが、「遊び」が動機として生まれたスポーツとは違い、武道は肉体と精神を鍛えるのに最もふさわしかったのだろう。また、権力者や外敵から寺を守る必要もあった。日本の空手は沖縄から発祥したが、「型」は一人で行うものであって、二人で行う「型」というものが無い。これは禁武政策によって、一切の武器を奪われた琉球王国の哀しい歴史と関係があるのである。が、映画でもよく見るように、少林寺拳法では、一人での「型」の練習も多いが二人での約束組手の「型」の練習が非常に多い。これは当然である。一人での「型」の練習より、二人での約束組手の練習のほうが、より鍛錬には効果がある。
その結果、戦い方の研究がどんどん発達した。だから少林寺拳法は閉鎖された格闘技となった。だが、あくまで少林寺拳法の目的は心身の鍛練であり、ストリートファイトに強くなることではない。しかし、拳法を身につけた僧にとっては、「俺は強くなった。強い相手と戦いたい」と思う感情が起こってくるのは当然である。そしてその感情に負けて、掟を破って、他流派と戦う僧が出てきたりもした。しかし、そういう者は少林寺の厳しい規則によって厳重に注意され、罰をあたえられ、それでも言う事を聞かないものは破門された。
次にムエタイについて述べてみよう。
ムエタイは言うまでも無く修行のためではなく、格闘スポーツとして発達した。当然ルールがあり、グローブをはめて戦う。約束組手ではなく、ルールのあるケンカ格闘技である。ので、ムエタイファイターは実戦のケンカでも強い。
スポーツは、まずルールが決められる。そして、ルールの中で相手に勝つための最高のテクニックが研究し尽くされる。少林寺拳法は、勝つことが目的ではなく、肉体を鍛えることが目的であるため、フットワークに難があり、このため実戦には難がある。しかし、ムエタイは、ほとんどケンカと同じようなものなので、フットワークやディフェンスが高度に発達し、それは実戦で役立つフットワークであり、ディフェンスである。
では「少林寺拳法」「ムエタイ」と比較して「空手」について考えてみよう。
「空手」は、修行のためでもなく、格闘スポーツとしてでもなく、護身術として沖縄で生まれた。沖縄独特のものという意見もあるが、やはり、中国の南派拳法が沖縄に伝わったのだろう。琉球王国では、中国の福建省との交易が盛んであったのは、紛れもない事実であり、また、「空手」は中国の南派拳法と非常によく似ている。
では「空手」は何のために生まれたか。
それは琉球の哀しい歴史による。沖縄は江戸時代、薩摩藩(現在の鹿児島県)の属国として支配された。薩摩藩は沖縄が独立しようと反抗するのを恐れて、何度も禁武政策をとった。戦いの道具である刀を奪った。しかし武器がなければ、支配者の苛政は強まる一方である。法律もいいかげんな当時では、自分たちを守るために、どうしても奪われた刀に替わる武器を持たなくてはならなかった。そのため考え出されたのが「空手」である。沖縄人は手や足を武器のような威力が出るような訓練を必死で模索した。そして、運動神経の優れた才能のある男達の長年の研究、訓練の末、ついに大変な威力の出る体の動かし方を見つけたのである。それが「空手」である。
だから「空手」の目的は、自分の体を、奪われた刀の替わりになるような武器にすることにあった。詳しいことは知らないが、手足を武器にしたまでは良かったが、「空手」を身につけた空手家は、もっぱら、全身を武器にする事と、破壊力の追求に専念した。だから「空手」は単なるパンチ、キック以外に、肘、膝、まで武器にし、手足の技の使い方も手刀、抜き手、鉄槌、掌底、など、体をあらゆる方法で武器化した。
あとは破壊力の追求である。破壊力の反動で手足を痛める事がないよう、手足を巻き藁や鉄の砂袋(サンドバッグ)で鍛え、そして身につけた破壊力を確かめるため、レンガや瓦をよく試し割した。だから「空手」の目的とは手足の武器化であり、試し割りが「空手」の目的と言ってもいいだろう。「空手」では実際に戦う方法の研究はほとんどなされなかった。何故かという、詳しい事は知らないが、おそらくこんな理由からだと思われる。
1空手家の戦う有事の時の仮想の相手は、刀など、武器を持った兵士であり、そういう相手に対しての戦い方は研究しにくかった。
2太極拳同様、破壊力を追求した体の動きはフットワークとの両立には難があった。
3「空手」は有事の時のための護身術であり、有事はそんなにしょっちゅう来るわけではなく、実戦での戦い方を研究する必要を感じなかった。「空手」は、有事の時のための備えであり、空手を身につけた、という事だけで安心感をもてた。
4禁武政策のため、公然と格闘術を練習することが出来なかった。そのため組み手の練習は出来なかった。
などと思われる。
それでも「空手」にも戦い方を研究した結果できた「型」があり、三本突きのような約束組手の訓練があった。
では、私なりに「空手」の「型」の意味を述べてみよう。
ちょっと変った「たとえ」だが、こんな「たとえ」で述べてみよう。
空手を訓練して、身につけた空手家は大喜びした。
「俺はこんな破壊力を身につけた。俺は手足を武器化した。もうどんな奴が俺を攻めてきても俺は自分を守れる」
だが有頂天にひたっていたのも数日である。空手家は、ある恐ろしい事実に気がついた。
「空手を身につけているのは俺一人じゃない。他にも空手を身につけている奴はいるだろう。もしそいつが俺に襲いかかってきたら俺はどうすればいいのだ」
こんなことから空手家は破壊力を身につけただけでは安心できなくなってきた。戦い方をも研究しなくてはならないと思うようになった。その敵とは、もちろん自分同様、空手家である。空手家は相手が空手の突き、蹴り、などで攻めてきた時、どうそれを受け、反撃するかを研究しだした。その結果、出来たものが「型」である。空手の「型」も、同じ空手家を相手として考案されたという点で、空手も少林寺拳法、同様、戦う相手が空手家だけという閉鎖的な格闘術となった。(最も少林寺拳法と違って、他流派と戦ったからといって破門されることはない)
空手の受け、(手刀受け、下段払い、等)は、相手が空手で攻撃してきた時のものであり、空手のパンチ、キックに対して考えられたものであり、空手のパンチ、キックは破壊力はあっても、実践的なパンチ、キックではないのであるから、空手の受けはケンカでは全く役に立たない。
つまり空手の型とは、発祥の歴史に関係してつくられた物であり、どんなに型を訓練しても実戦では全く役に立たないと言っていいだろう。もっとも「型」も達人によって相手が攻めてくる事を想定して戦いに対応できるよう、徹底的に研ぎ澄まされてつくられたものである以上、そのまま役に立つことはなくても、「型」の訓練は空手家にとって全く役に立たない、とは決していえないだろう。「型」は達人によって無駄なく、合理的につくられた物であるため、「型」を訓練することは空手家にとって気持ちのいいものであり、それのみを追求した「型名人」というものも出てくる。
ともかく、「型」の妙味を味わうことが出来なければ、本当に空手の妙味を味わえてはいない、とも言える面があるだろう。
以上が、私の「型」に対する考えである。
後ろ回し蹴り不要論に対して
後ろ回し蹴りはダイナミックで破壊力もあるが、動作が大きく、かわされやすいので不要であるという意見がある。
私としては、この論は反対である。私自身、空手に強さ以上にダイナミックな足技の美しさを求めて始めたので、後ろ回し蹴りは、はじめの頃から熱心に練習した。
まず私は戦いにクリーンファイトとダーティーファイトという言葉を用いたい。
その意味を説明しよう。ボクシングの試合でもわかるように、第一ラウンドは両者、肉体も精神も敏捷であり、フットワークは軽やかであり、スキもない。だが実力伯仲し、なかなか勝負がつかず、最終の15ラウンドにもなってくると、心身ともに弾力を失い、敏捷性はなくなり、軽やかなフットワークはベタ足になり、ガードも緩み、両者とも気力だけで戦っているといった状態になる。第一ラウンドの戦いがクリーンファイトであり、最終の15ラウンドがダーティーファイトである。
まず言えることは、後ろ回し蹴りはクリーンファイトではかわされやすいが、ダーティーファイトではヒットしうるということである。気力だけで戦っている以上、わかっていてもよけられない、ということである。
他にも、後ろ回し蹴りのメリットは多くある。後ろ回し蹴りは見栄えがいいので、映画では多用されているが、それは映画だからである。実戦では廻し蹴りがほとんどメインとなる。後ろ回し蹴りは十発に一発、あるいは一試合中、一発も出さない、という使い方をすべきものである。
試合が長引き、ダーティーファイトになってくると廻し蹴りだけでは単調になり、かわされやすくなり、また、同じ技を使いつづけることによって筋肉の疲労も激しくなる。こんな状態になった時、後ろ回し蹴りをたまに使うことにより、別の部位の筋肉を使うことにより、筋肉の疲労が分散される。
私はあまりテレビを見ないが、極真、その他、フルコンタクト空手の達人は皆、後ろ回し蹴りの使い方の要領を心得ている。
また、クリーンファイト、ダーティーファイトともにヒットさせる目的ではなく、間合いが近づきすぎないよう、あしらうため使うことも非常に有効である。ムエタイのティープ(前蹴り)と同じ使い方である。
また、ストリートファイトでは、廻し蹴りでは足背、または足槍(つま先)で蹴るが、下手に蹴って突き指する可能性もあるが、後ろ回し蹴りでは突き指することがないのも利点の一つだろう。
また、ストリートファイトではヒットさせるためではなく、華麗な後ろ回し蹴りを素人である相手に見せつける事によって、相手が空手家であることを知らしめ、敵の戦意を喪失させる利点もある。(このことは酔拳の中でも述べられている)
南郷継正氏も宮本武蔵も「技の多きを誇るなかれ」と言っているし、ブルース・リーも戦いの弊害として、「身につけた全ての技を使いたくなる欲求」をあげている。それはその通りである。大切なことは「使えない」と「使わない」の違いである。それは武術そのものでも同じである。
又、後ろ回し蹴りを使えるようになると足技の連続技が一挙に増え、空手の蹴りの練習が多様的になる。廻し蹴りだけでは足技が単調になり、練習も味気ないものとなる。
実戦で有効か、無効か、という観点からだけで物を見る見方は考えが狭いように思われる。
スピンキックについて
一回転しない後ろ回しけり。あおり蹴りとも言う。ブルース・リーが「ドラゴン危機一髪」の中で怒りを爆発させた時に出した蹴り。これも訓練する価値はある。実戦で使うことはまずないであろう。もちろん、後ろ回し蹴りより破壊力は落ちる。その上難度が高く、身につけるのが難しい。映画では複数の敵に囲まれた時、後ろや、斜め後ろからの敵の攻撃に対して使っているが、実践では、そううまく決まることはまずない。では何のために訓練するのか。それは空手のフットワークを身につけるのに非常に有効だからである。空手のフットワークはテニスのフットワークと同じであり、まず、蹴る(打つ)用意の形をつくる。そしてその形のまま、敵(ボール)のところへ行き、そして蹴る(打つ)
サイドキックも廻し蹴りもそうだが、空手の蹴りのフットワークはみなこうである。そのフットワークを身につけるのにスピンキックは非常に有効なのである。
フルコンタクトと寸止め空手の違い
これはよく言われるところだが、フルコンタクトも寸止めも同じ空手であり、力の出し方は同じである。では何が違うか。これは一言で言うと、キックで言えば、力を発揮するときの時期が、寸止めでは早く、フルコンタクトでは遅いのである。寸止めやプロテクター付のポイント制のフルコンでは、早い時期に力を出す。あとは足は物として動き、バーンと棒のように相手に当たる。一方、フルコンタクトの達人の蹴りは力を出す時期が遅いのである。これは当てる事によってポイントを取ろうとするのを目的として蹴っている寸止めに対し、フルコンタクトでは、相手にダメージを与える事を考えているからそうなるのである。見た目ではフルコンタクトでは、寸止めのように蹴りは俊敏ではなく、スローである。空手道ではパンチにせよ、キックにせよ、体のウェートを乗せることによって破壊力が出るのだが、フルコンタクトでは足が相手に当たってからグッとウェートを乗せるのである。またフルコンタクトでは寸止めと違って、標的にしっかり当たるよう、しっかりねらいをさだめて蹴っている。一方、寸止めではポイント制なので、標的をしっかり狙う必要がないため、蹴りは雑である。フルコンタクトの蹴りがきれいにヒットすると、その破壊力は相当のものであり、まさに一撃必殺のダメージを相手に与える。
カンフーでは、寸打、尺打、というように、スピードをつけて相手にダメージを与えるパンチではなく、当たってから力を出し、内臓にダメージを与えるというが、フルコンタクトのパンチやキックもそれに似ているのだろう。(もっとも私は空手しか出来ず、カンフーの原理は全くわからないのだが・・・)
テニス論
私がテニスを始めたのは中学一年からである。私の入った中学は進学校ではないが、歴史の古い私立校で、中高一貫していた。女子校として出来、男子部は後からつくられた。一般の学校と違って、多彩な部活というものがなかった。そのかわり、生徒は全員、サッカー部、バスケットボール部、テニス部の三つのうち、どれかに入らなくてはならなかった。私は喘息で、体力がなく、どの部にも入りたくなかった。しかし規則である以上しかたがない。持久力のない私にはサッカーなど論外である。それで私は体力がなくても出来そうなテニス部にイヤイヤ入った。しかし、上級者の美しいスイングやラリーを見ているうちに、テニスにあこがれるようになった。私は「美」が至上の価値観なので、私もテニスの美しいフォームやラリーが出来るようになりたいと強く思うようになった。
テニス(硬式)について述べよう。
まず硬式テニスは難しいものである。グランドストロークのラリーがつづく(中級者)ようになるまでにはかなりてこずるものである。テニスではボールに近づきすぎたり、振り遅れたりするということが起こる。ネットを挟んで相対しておこなう球技(ラケットを使うものと使わないものがある)バトミントン、バレーボール、卓球、軟式テニス、羽子板、等である。こういうスポーツではボールに近づきすぎたり、振り遅れたりする、という現象は初心者でもまず起こらない。ではなぜテニスだけが、ボールに近づきすぎたり、振り遅れたりするという失敗が起こるのであろうか。それはこういう理由による。バトミントンを例にとろう。バトミントンでは向かってくる羽根に対して、直線的に近づいて、羽根が打点に来たときに素早い手首のスナップで打つ。バレーボール、卓球、軟式テニス、等みなそうである。しかし硬式テニスでは、ボールに直線的に近づいてはダメなのである。初心者が目測を誤って、ボールに近づきすぎてしまうのは、バトミントンの感覚でボールを打ち返そうとするからである。またテニスではボールが重く、スピードがあるため、打ち返すためには直前の手首のスナップではダメなのである。テニスのスイングを見ればわかるが、テニスのスイングは野球のスイングと同じであり、しっかりと構え、体のウェートをのせて打っている。また、そうしなければテニスボールは打ち返せない。つまり、テニスでは打点までいく、という行為と、ウェートをのせたスイングをするという二つの行為をしなくてはならないのである。テニスのショットは、相手が打ったと同時に打つ構えをつくり、そしてその構えのまま、打点に近づき、そして打つ、のである。バトミントンなどでは相手が打った瞬間に構えるということはしない。相手の打った羽根(ボール)に、直線的に近づき、打つ直前に手首のスナップで打つ。だから目測を誤って近づきすぎるというような事は起こらないのである。テニスが難しいのは、来るボールに対し、反対の動作をしなくてはならないからである。つまり、近づいてくるボールに対し、打つ準備をするためにラットを引く(テークバック)という動作を早い時期からしなくてはならない。これはバトミントンなどと違って、人間が生来的に持っていない動作であり、非日常的な動作であり、違和感がある動作である。初心者でいきなりこのような、人間が生得的に持っていない動作が出来る人間はいない。ボールを打つためにはそういう人間が生得的に持っていない動作をしなくてはならないため、初心者ではまごつき、目測を誤ってボールに近づきすぎたり、振り遅れたりするという事が起こるのである。テニスが上達するには、この非日常的な動作をグラウンドストロークの打ち合いを繰り返し練習して、体がその運動を覚えてくれるのを待つしかないのである。
ではテニスに関して思うところをいくつか述べよう。
まず、テニスのレディース・ポジションにおいて「踵を浮かせろ」と言い、「ボールを良く見ろ」というのがテニスの基本の教えである。もし、これ以上の説明がないのであれば、これほど誤った教えはないのである。むしろ、そんな事は言ってはならない事であり、その教えを忠実に守ったら、いつまで経っても上達しないであろう。「ボールを良く見ろ」ではなく、「ボールを良く見てはならない」のである。
まずレディース・ポジションの「踵を浮かせ」について。
どんなスボーツでも、初心者でも踵は浮いている。ボクシング、卓球、バレーボール、剣道、などは初心者にやらせれば踵は自然に浮くだろう。これは相手の動作を待っている時、相手が行動をとった時、すばやく反応しようという意志があるために自然に踵が浮くのである。しかし初心者に硬式テニスをやらせると自然には踵は浮かないのである。これはなぜか。それは他のスポーツでは相手が動作を起こした時、こちらは直接的(直線的)な動作を素早くすればよいから、踵が浮くのである。しかしテニスでは相手がボールを打った瞬間、それを正確に打ち返すために必要なことは、素早い動作ではないのである。相手が打ったとき、打点を予測して、打点に素早く行く事は出来る。しかし、それから打つ準備(テークバック)をしたのでは振り遅れるだけである。だから初心者は踵を浮かせてもうまく打ち返せないため、踵を浮かす必要を感じなくなり、ベタ足になるのである。一方、軟式テニスはこれでいいのである。軟式テニスでは、相手が打ったと同時に素早く打点へ行き、手首のスナップで打つ。しかし硬式テニスの打ち方は、まず打つ準備(テークバック)をし、その構えのまま打点へ行き、そして打つのであり、そうしなければ打ち返せないのである。テニスで必要なのは素早い動作ではなく、ワンバウンドするボールの動きを感じ取るリズム感なのである。特に初心者に対しては、ゆるいボールが送られるので、待ち時間はたっぷりある。「踵を浮かす」事など全く無意味なのである。
では「踵を浮かせ」の本当の意味を述べよう。
一言で言うと、物理的に踵を浮かせるのではなく、精神的な踵を浮かせる、という意味なのである。相手が打ったボールをいかに素早く打つ準備を整え、正確に打ち返そうかと考える事がテニスでの反応であり、その精神があれば、踵は自然に浮くのである。さらに言えば、精神的に意識する対象はどんどん早いものになっていく。相手がどこへ打つか、であり、相手がボールを打つ前から、相手がどこへ打つかを予測することになっていく。もちろん試合と練習とでは違う。試合では、相手は打ち返しにくい所へ打ってくるのであり、練習では相手が打ちやすいところへ打ちあう。バックハンドの練習をさせてやろうと、バックへ打つこともあるだろう。つまるところ、考えるべきものは、相手のクセ、であり、相手の性格である。そして、クセや性格は、打ち合いを少しすればわかってくるのである。
「ボールをよく見ろ」の誤り。
次にこれについて述べよう。これほどいいかげんで誤った教えはない。まさに逆である。「ボールをよく見てはならない」が正解なのである。「ボールをよく見ろ」と言われると、初心者はボールを一時たりとも目を離さず、ボールを凝視するよう考えてしまう。しかしこれほど、スポーツにおいても、日常生活においても危険な事はないのである。対人恐怖症もこれによって起こる。「視点が固定してしまう事」ほど危険な事はないのである。車の運転が例としてわかりやすので、それで説明しよう。車の運転においてドライバーはどこを見ているであろうか。前方の信号機だろうか。前方の車だろうか。違う。車の運転においてドライバーはどんな事態が起ころうと、それに素早く対応できるよう、全体を注意深く、バクゼンと見ているのである。もし、前方の車に追従して走っている時、ドライバーの視点が前車のブレーキランプに固定されてしまったら、どうなるだろう。これほど危険な事はない。ドライバーは前方の信号や歩行者も見ていなくてはならないし、横道から飛び出してくるかもしれない車や歩行者にも注意を払わなくてはならない。野球やバレーボールなどでも同じである。見るべき(というより、考えるべき)ものはボールではなく、チーム、および敵チームの心、つまりその場全体である。では、テニスにおける「ボールをよく見ろ」の本当の意味は、「ボールの動きを位置感覚でしっかりとらえよ」なのである。人間は物を見る時、その物を直接見なくても、視野に入ってくる物は位置感覚によって、見れているのである。また、一度見れば、その後、目をつぶっても、位置感覚が働く。人間の位置感覚が非常に精度の高いものであることは誰でも知っているだろう。ワープロをブラインドタッチで打てるのは位置感覚のおかげである。ピアノ演奏者は鍵盤なんか見ていない。ピアノ演奏者は目をつぶっても演奏できる。私もオルガンを少し練習したことがあるが、どんな曲でも目をつぶって演奏できるまでになった。テニスでも同じである。絶えず頭で考えているべき事は、相手の心である。テニスでの「ボールをよく見ろ」は、スイングでボールがラケットに当たる瞬間のことである。「ボールをよく見ろ」は、スイングのフォームの注意なのである。テニスのスイングのフォームは野球同様、長い期間をかけて訓練しなければ身につかない。そして、スイングのフォームに欠点があったり、不安定だったりすると、ボールが当たる瞬間、ボールをしっかり見れていないことが起こる。
以上が、「ボールをよく見ろ」の本当の意味である。
オートテニスについて
オートテニスは、上達に有効だ、という意見と、無効だ、という意見がある。私のオートテニスに対する意見を述べておこう。テニスの上級者がオートテニスで練習している所を見た人がいるであろうか。おそらくいないであろう。私自身、一度もその光景を見たことがない。上級者にとってはオートテニスの練習は無意味だからしないのである。ある上級者が、オートテニスをやってみて、調子が狂った、と言ったのを聞いた事もある。これは、人間との打ち合いが「生きたボール」であるのに対し、オートテニスのボールは「死んだボール」だからである。オートテニスのボールを「死んだボール」から「生きたボール」にしようと、スピードや方向をランダムに出るような機能が加えられたが、そんな事をしてもオートテニスのボールは「死んだボール」なのである。初心者が振り遅れに対応しようと、オートテニスのスピードを上げてみたり、ランダムにして、練習している所を見た事があるが、こういう人は初心者といえど才能のない人である。ではオートテニスは全く無意味か。私なりの意見を述べよう。上級者にとっては全く無意味であろう。しかし初心者にとっては無意味ではない、と私は考える。ただし正しい使い方をしなくてはならない。テニスでは振り遅れるからといって、オートテニスでスピードボールにする事は逆効果である。ランダムにすることも無意味である。オートテニスではスピードも方向も一定にし、同じ球を繰り返し打つことが正しい使い方だと考える。オートテニスは打つフォームが出来ていない初心者にフォームをつくるのに多少の効果があるのである。オートテニスは初心者のフォームつくり、の為の物と言っていいだろう。最も、オートテニスで出来たフォームはオートテニス用のフォームであり、人との打ち合いに、そのまま使えるフォームではない。テニスのフォームはあくまで人とのグランドストロークの打ち合いの中で、上手くなっていくものである。しかし、オートテニスを反復練習する事によって、打率100%となり、狙った所へはどこへでも正確に打ち返せるほどになると、オートテニス用のフォームが完成する。ここまでいくと、テニスで大切な、ラケットを握る時の手首の固定が身につくようになるのである。この、手首の固定だけは人との打ち合いでも効果があるのである。そして、人との打ち合いの練習に戻っても、振り遅れそうになっても、手首の固定が出来ていれば、強引にボールを返すことが出来るのである。そうするとラリーが続くようになる。テニスで一番大切な事は、グランドストロークのラリーが続くようになる、という事である。テニスの全ての技術は、ラリーを続けている時に上達する。オートテニスで手首の固定が出来、振り遅れによって返せなかった球も、強引に返せるようになり、続かなかったラリーが続くようになる。ラリーが続くようになれば、後はもうしめたものであり、後はたいした苦労もせず、体が勝手に上達していく。以上がオーテニスを練習する正しい意味であると私は考える。
スキー論
私の高校では二年の時に、スキーの授業があって、全員スキー場へ行って、一週間スキーの授業を受けた。そのためか、学校ではスキーの好きな生徒が多かった。スキーは金も時間もかかるし、私はスキーにはたいして興味がなかった。私は反骨的な性格で、我が道を行く性格であり、人の尻馬に乗ることは大嫌いである。一方、水泳を熱心にやる生徒はほとんどいなかった。スキーは金も時間もやたらゴテゴテかかるが、水泳は海水パンツ一枚で、入場料二百円でプールで丸一日練習できる。私は海のロマンチシズムと美しいクロールを身につけたさから、皆のやらない水泳は熱心に練習したが、スキーは、やる前から反発心を持っていた。スキーはスポーツではあっても、金持ちのやる贅沢な娯楽だと思っていた。しかしスキーに行ったら、上級者の美しい滑りに魅せられるようになった。スキーのうまい生徒は多く、スキー検定で一級を持っているものも多く、さらにその上の準指導員の資格を持っているやつもいた。スキースクールのインストラクターをアルバイトでした事のあるやつもいた。上級者のウェーデルンは実に美しく、見事だった。だが、スキーを体験した後でも、ぜひスキーをやりたいと思うほどには魅せられなかった。そのためやらなかった。スキーは金と時間がかかり、ゴテゴテしてて、わざわざスキー場に行くのが面倒だからである。当然のことだが、一週間の練習では何とか滑れるようにはなったが、パラレルの完成は無理である。しかし後に、空手をはじめて、空手が上達していくにつれ、運動上達の理論がわかるようになって、その理論を実際に試してみたくなって、スキーを再び練習してみたい欲求が起こってきた。もちろんスキーの技術書をたくさんかって読み、スキーのビデオも録画して繰り返し見た。そしてスキー場へ行ってスキーを一人で練習するようになった。
スキーについて思う所を述べよう。私のスキーの実力は、パラレルターンで緩斜面、中斜面を滑れるレベルである。コブや急斜面、ウェーデルンは出来ない。ので、中級者のレベルだろう。初心者、中級者、の練習について考えてみたい。初心者はスキースクールに行く。それはそれでいいだろう。しかし私は中級者のスキースクール通いに対して疑問を感じる。スキーに限らず、日本のスポーツスクールはまるでメダカの学校である。幼稚園の先生と生徒のようである。生徒は自由に考えるという事をせず、先生が説明し、手本に滑ってみせ、同じ事を生徒にやらせる。そして、出来ても、出来なくても「はい。よく出来ました」とニコニコ笑って手をたたいてほめる。まさに幼稚園である。スクールの経営上、そうせざるを得ない点もあるが、実に無駄が多い。まず待ち時間が無駄である。そして生徒にせよ、先生にせよ、総合的な価値観というものが観点にない。スキースクールでは、狭いボーゲンの形で足の屈伸運動、体重の乗せ方、を練習させることで生徒を上達させようとしている。教師の価値観は、生徒の技術を上達させる事だけであり、生徒はあまり何も考えていないことが多い。しかし水泳なら、海水パンツ一枚で、二百円出せば、何時間でも温水プールを泳ぐことが出来る。しかしスキーでは、板、靴、服、などで何万もかかり、スキー場へ行ってホテルに泊まらなくてはならない、から、交通費、宿泊費、あわせれば、一回スキーに行くのに何万とかかる。その上スキースクールを受ければもっと金がかかる。個人レッスンなどすごく高い。スキーは水泳の三百倍以上の金がかかるのである。まず、スキーに行くなら、価値観というものを考えるべきである。高い金を出してスキーへ行って、スクールの無味乾燥な足の屈伸運動の練習をし、たいして上達しない、では、あまりにも金が勿体ない。せっかく高い金を出して、スキーに行くなら、うんと自由に滑って、楽しみ、さらに技術も上達させたいものである。人間の価値観は、自分が東京で取り組んでいる会社での仕事、事業であり、それが全てであり、スキーをやる意味とは、疲れた息抜きに白銀の雪山を見て、ホテルで温泉につかり、山菜を味わい、スキーで滑って楽しむことにある。スキーに行って楽しくなかったではおかしいのである。これはコーチの価値観が技術の上達のみにとらわれてしまっているから、こんな事が起こるのである。スキーなんて出来なくても日常生活に何の支障もないのに、コーチは生徒を完全なレベルまで上達させなくてはならない、と思ってしまうから、こんな事が起こるのである。また、中級車でパラレルターンが出来る、相当うまい人(ああ、ああなれたらいいなあ、と初心者がうらやむほどの人)でも上達が止まってしまうと面白くなくなって、もうスキーはやめてしまおうか、とさえ思ってしまうものなのである。人間がスポーツで楽しいのは、技術が上達したその瞬間である。上級者になって、ウェーデルンが出来、コブも急斜面も新雪も、どんな事でも出来るようになると、そういう心理は起こらなくなる。いくら滑っていても楽しいのである。この、中級者から上級者への壁をどう突破するか、である。
私は文学の喜びを知ってから、スポーツを捨ててしまった人間なので、スキーなど、もはや十年以上やってなく、私の考察はいささか机上の考察である。ので、当たっているかどうかは保証の限りではない。まず、人間の運動の特性として、出来る事を繰り返しやっても上達はしない。技術は出来ない事をやることによって上達する。なら、中級者にとって必要なことはゲレンデ選びであろう。滑れるゲレンデを滑っていても上達しないし、手も足も出ない急斜面では、滑れないし、また、危険でもある。自分の技術のレベルでは、何とか降りてこれるが、自在には滑りこなせないゲレンデを滑れるようになる事がスキー技術の上達になると私は思う。そういう練習はスキースクールの足の屈伸練習と違って、パラレルで自由に滑れるし、やりがいがあって面白いであろう。私はこの方法が、スキーを楽しめるし、技術も上達しうる最も良い方法だと思っている。
スキーではイメージトレーニングが非常に有効である。スキーでは、つい朝一番から、早く滑りたいとあせってしまい、滑っているうちに疲れてきて、自分が滑りやすい決まったコースで滑ってしまいやすい。しかし、出来る事の繰り返しでは上達は起こりにくい。ゲレンデの状態をまず、頭の中にしっかり入れ、右はあの地点でターン、左はあの地点でターンと自分が楽には滑れない、難しいコースを想定し、ホテルでそのゲレンデをイメージし、自分の決めたコースを滑っている自分をイメージすることは有効であると思われる。「短いターン。長いターン。など、一、二、三、と自然にリズムを考えるようになるだろう」イメージトレーニングは、かなり有効であり、また、金もかからない。そうして難しいゲレンデをいくつもの難しいコースで滑れるよう練習し、そのゲレンデを自在に滑れるようになった時には、スキーの技術も上達していると私には思われる。
以上、スキー論。
バクテン論
私の高校では十月に体操会というものがあった。男子部ではデンマーク式体操、組体操、などをやった。また、転回運動の出来る数名の者が、転回運動をやった。私も選ばれた。私は前転跳び(ハンドスプリング。片足踏み切り)が出来たからである。あとヘッドスプリング(頭跳ね起き)、ショルダースプリング(肩跳ね起き)も出来た。
だが、ロンダートからの抱え込みバク宙は出来なかった。と言うよりもしなかった。それはアキレス腱を切るのが怖かったからだ。実際、先輩で、転回運動でアキレス腱を切った人もいた。オリンピックでも体操競技は観るのも好きだったが、体操ではアキレス腱を切る可能性があるのも十分知っていた。若くて十分な勢いのあるロンダートが出来たので、そのまま抱え込めば、ロンダートからの抱え込みバク宙も出来ただろう。勇気を持てなかったのが残念である。バク転もやってみたが、うまく出来るようにはならなかった。なので、危ない後方系は出来ず、安全な前方系しか出来なかった。
それから六年間の医学部の勉強に入り、卒業して研修病院に勤めるようになった。私は、いい歳をして再びバク転に挑戦した。理由は、高校の時、出来なかった事が悔しかったのと、空手、水泳、テニス、スキーなどを練習、研究し、出来るようになって、運動の上達の本質がわかってきて、今なら練習して出来るようになる自信が十分すぎるくらいあったからだ。私はチャレンジスピリットの塊のような人間なので、この欲求は抑えられず、私はマット体操の出来る数少ない体育館を探して、バクテンの練習をした。いい歳をした文学好きの医者がバク転の練習をするなど、実に滑稽である。体操の本は書店では見当たらなかった。ので、ユンピョウのデビュー作「モンキーフィスト」(猿拳)をビデオにダビングして、繰り返し見て研究した。ユンピョウの「猿拳」は、以前、見たことがあり、その人間離れしたカンフー、転回運動の能力に驚いた。ユンピョウの転回運動は、オリンピック選手並みである。映画の中でバク転が十分出てくるので、研究に助かった。ビデオでコマ送りにして、何度もバク転の本質的な運動要素をあれこれ考えた。ビデオを頭に焼き付けるほど見ても、実際に体育館に行くと、ビデオの研究は役に立たない。運動は、あくまで実際に自分の体を動かすことによってしか上達しない。そうわかっていても、ついビデオを見てしまうのでのある。ビテオを見て仮説を立てる→実際に体育館へ行ってやってみる→仮設が否定される。しかし、体を動かして練習する事によって、上達したり、新しい感覚が起こる→それによって、新しい仮説を立てる→家に帰ってビデオを徹底的に見て、新しい仮説が確固としたものになる→また体育館に行く。その繰り返しである。そしてついにバク転が出来るようになった。運動の何が面白いといって、仮説を立てて、すぐにそれを検証できる所にある。私は明らかに研究者タイプだが、どこの大学の医局にも属していない。運動の研究に比べると、医学の研究なんて、時間ばかりかかる上に、ほとんど役に立たない、ろくでもない論文がほとんどである。私は、博士号をほしがる多くの医者を内心、アホだと思っている。「博士号はバカが欲しがるものである」というのが、私の考えである。博士号は、自分が将来、開業するとき、医院の待合室に、額縁の中に入れて、もったいずけるアクセサリー以外の何物でもない。また、大学の医局は封建的、徒弟的であり、博士号をもらうかわりに殿様(教授)に絶対服従する奴隷になる事など私にはとても出来るものではない。また、博士号の論文は、ほとんどが先輩の全面的な指導によって書かれた物であり、自分が研究したものと、はたして言えるであろうか。また、研究好きな人が金をもらって代筆する事もザラである。教授にゴマをすって、教授の車を毎日きれいに磨いても博士号はとれる。そんなものが、果たして「研究」などと言えるであろうか。最も博士号も玉石混合であり、中には本当に研究好きな人間の書いた価値ある研究論文もあることも事実である。
ともかく私には医学の研究なんかより、運動の研究の方がずっと面白いのである。私の運動神経は、特に優れているわけでもなく、特に劣っているわけでもなく、普通の人のレベルである。高校の頃は、ともかくうまくなることだけが目的だった。だが、いろんな運動を練習しているうちに、自分の上達の限界なども見えてくる。もちろん私は、中級者、上級者になっても、オリンピックの選手にはとうていかなわない。しかし多くの運動をやっているうちに、運動の上達の理論というものがわかってきて、その研究の方が面白くなってしまったのである。今では、もう、上手くなれる、なれない、は、全く興味がなく、研究の面白さが目的となってしまった。運動の研究は面白いのである。しかし私はもうこれ以上、未知の運動に挑戦しようとは思わない。し、運動も今ではほとんどやっていない。創作が阿片であるように、運動も阿片であり、その面白さにとりつかれると、中毒患者となる。創作至上主義の私にとっては、創作の中毒患者になることは良い事であっても、運動の中毒患者になってはならないと、厳に自分を戒めている。
さて、バク転であるが、バク転を練習しているうちに、色々な事に気がついた。運動は、色々な事をして遊ぶことが大切だ、という事だ。遊びが独創性や研究心を生むのである。体操においては、バク転が上手くなるためにはバク転の練習だけをしなくてはならない、とは言えない。バク宙を練習する事もバク転の上達に寄与するのである。後方への回転力を鍛える、という点でバク宙の練習もバク転の練習の要素を含んでいるのである。私は一回だけの単発のバク転しか出来ない。しかも、安全には出来るが技術は完全ではない。美しいスピーディーな連続バク転を見ると惚れ惚れする。バク転が上達するためには、連続バク転の練習をするべきであろう。もちろん、初めからスムースにつながらなくても、一回転ごとに間があいても、いいから、連続する必要がある。上達するにしたがって、だんだんスムースにつながっていくようになる。なぜ連続することが必要かというと、連続することによって、バク転の一回転の各時期において体の力を入れる部分と力を抜くべき部分を体が覚えるからである。
以上、バク転論。
水泳論
私は関東の海のない県で育ったが、小学校の時、喘息治療のため、二回ほど、各一年半、計三年、親と離れて海が近くにある臨海学校で過ごした。そのため、潮騒を聴き、海を見て育ったためか、海は私の故郷であり、私は海のない県には住めないのである。大学は海のない盆地だったため、とても寂しかった。別に海が見えなくてもいいのである。近くに海があるという事実に私は安心を感じるのである。最もロマンチックな性格の私から考えて、幼少時に、海辺で育たなくても、海を恋するようになっただろうと確信している。私は小学校の時、浮き身さえ出来なかった。これは体力のせいである。普通の元気な子は夏、親や友達とプールに行き、水と戯れる。水と遊んでいるうちに平泳ぎを覚えるようになる。最も、平泳ぎといっても、完成された平泳ぎではなく、効率の悪い平泳ぎである。みんなが泳げるのに、泳げないのが恥ずかしくて、体操の水泳では見学にまわった。また、海水浴に行った時、海の中に放り込まれて、おぼれ、助けられるという惨めな経験をした事も一度ある。それで中学に入ってからは夏休みは頻繁に海の近くにある五十メートルのプールに通って泳ぎを練習した。泳げない劣等感からではなく、海のロマンチシズムにあこがれていたからである。中学からの私の家は、海に遠くなく、自転車でいそいで行けば三十分で海に出れた。もちろん理屈っぽい私の性格から、水泳の本を何冊か読んだ。しかし中学時代、運動の本質がまだわかっていなかった当時は、ヘタに考えてしまい、これは上達に逆効果だったと今ではわかる。スポーツの上達に書物の教科書など必要ないのである。人間には運動を繰り返すことによって、正しい運動が出来るようになる能力を誰でも内在的に備えているのである。運動神経の優れた者は本など読まなくてもどんどん上級者になっていく。で、ともかく熱心に練習したため、立ち泳ぎが出来るようになり、平泳ぎが出来るようになった。が、普通の人並みのレベルに達しただけであり、平泳ぎでは五十メートルであり、クロールでは二十五メートル程度である。これでは泳げると自信をもって言えるレベルではない。手の動きを色々変えてみたりしたが上達しなかった。
私が水泳が上達したのは大学に入ってからである。一年、二年の教養課程では、時間にゆとりがあった。また、私は胃腸が弱く、冬は冷え性がひどかった。そんな時、温水プールで泳ぐと胃腸の具合が良くなった。また、大学に入った時には、空手はかなり上達しており、運動の上達の本質的な論理もかなり見えていた。私の運動考察の原点は空手である。運動上達の本質的な原理は全てのスポーツにおいて同じであり、応用が利くのである。それで大学に入って、水泳を練習したら、たいした期間もかからず、平泳ぎもクロールもどんどん上達した。私は速く泳ぐより、遠泳が好きであり、最高どのくらいの距離、泳げるか試してみた事がある。クロールで三百メートル(二十五メートルを六往復)が限度だった。これでは本当に泳げると自信をもって言うことは出来ない。水泳の上級者は何キロ泳いでも疲れることがない。イギリスとフランスの間のドーバー海峡(三十キロメートル)を泳げる者もいる。何キロという距離を疲れず泳げるようでなければ、泳げるとは言えない。しかし私はクロールの技術は頭打ちになったな、と感じていたし、また、もうそれ以上練習しても、それ以上に技術が上達することはなかった。手足の力は完全に抜けており、呼吸も問題はなかった。私はなぜフォームも問題なく完成されているのに、三百メートルが限度なのか、の疑問を考えた。水泳の完成とは、何キロ泳いでも疲れを知らないという事である以上、何か技術的な欠点があるのではないかと思った。ともかく技術が頭打ちになり、また、勉強も忙しくなってきたので温水プールへ通うこともなくなった。
だがである。これは最近の事なのだが、夏、プールに行った時、三百メートル以上泳いでやろうとムキになって泳いだら、何と一キロ以上、疲れることなく泳げたのである。最も往復数が多くなるにつれて、往復数を忘れてしまったので泳げた正確な距離はわからない。しかし一キロを越したことは確かである。一キロまでは数えていたからである。しかも一キロ越して泳いでも疲れることがなかった。何キロまで泳げるか測ってみたかったが、それは出来なかった。プールでは一時間ごとに十分の休憩の規則があったからだ。泳ぎ開始から泳ぎ中止まで、休息なく泳ぎ続けたので、時間的には五十分泳ぎ続けたことになる。泳ぎ中止になった時にも、疲れてはおらず、「まだまだ泳げる」というか、「いくらでも泳げる」と感じていた。大学の時から技術は頭打ちになって、変わっていないのにこの進歩はなぜか。それははっきりとわかっている。限界の三百メートルくらい泳いだ時、限界を感じたが、根性で突破したからだ。突破した後では実に楽になった。これはマラソンで言うところのデッドポイントを越したということである。デッドポイントに来た時、これが限界だと思ってしまったことが、大学の時の考えの誤りである。大学の時点でフォームに技術的な問題点はなかったのである。また、これは私の喘息、体力のなさ、とも関係がある。私より明らかに技術の劣っている人が、私より長距離泳いでいるのを見たことがあるが、不思議で仕方がなかった。私は瞬発力では人に劣らないが、持久力は明らかに平均より劣っている。
また、私の泳ぎのレベルは達人のレベルか、というとそうは言えない。水のキャッチはしっかり出来ているし、フォームも力が抜けていて問題はない。では何が問題か、というと、私は遠泳用にゆっくり泳ぐ練習しかしなかった点ではないかと思われる。しかもこの考察も本当に正しいかどうかはわからない。運動の理論の事は、私はたいていわかるが、この事はいまだにわからない。
クロールはある程度速く泳ぐものであるということも関係しているかもしれない。実際、クロールの達人は、ゆっくり泳ぐ人は少なく、たいていある程度の速さで泳いでいる。これはクロールは、速く泳ぐほうが気持ちがいいからであるからであろう。クロールで泳いでいる人はみな、ある程度スピードを出して泳いでいる。
そしてクロールの達人はサーフィンのように波の上に乗っかっているような人もおり、一つのストローク毎にリズミカルに体が上下に動いている人もいる。クロールの上級者がする事は、水のキャッチだけであり、あとは何もする必要がなく、体が勝手に前方にどんどん進む、と書いてあったが、クロールも本当の上級者になると、その快感はエクスタシーそのものであり、もはやその快感をやめる事の出来ない中毒者となる。
温水プールで水泳が上手くなろうと、フォームが十分出来ていないのに、がむしゃらに泳いでいる人がいるが、あれには問題がある。スポーツは根気よく反復することが大切なのだが、疲労は上達の大敵である。この矛盾する事を解決する方法は一つ。ちょっと疲れてきたな、と思ったら数秒か数分、休みのインターバルを入れることである。数秒か、数分の休みで、疲れは十分とれるので、疲れがとれたら再び泳ぐのである。
以上、水泳論。
有閑夫人と熱血男
スポーツ上達に必要な最も大切な事の一つを書いておこう。ある、ちょっと誇張した例を言おう。あるテニススクールに二人の人が入門した。一人は有閑夫人であり、一人は、何としてもテニスが上手くなりたいと思っている熱血中年男である。このうち、どっちの方が技術が上達すると人は思うであろうか。おそらく熱血男が上達し、有閑マダムは上達しない、と思うのではないだろうか。しかし、事実は逆である。上達するのは有閑マダムであり、熱血男は上達しないのである。それは何故か。それは有閑マダムは、テニスは別に上手くならなくてもいいから、スクールに来る友達とおしゃべりを楽しみたい、と思っているのが目的であるのに対し、熱血男は何としても上手くなろうと意を決しているからである。これが、理由だと言うとますます分けがわからなくなるだろう。逆ではないかと思うだろう。ではその理由を説明しよう。スポーツ上達の原理は次の二つのことが必要だからである。
一つは、1「ぜひ上手くなりたいという意志を持っている事」である。
もう一つは、2「なかなか上達しなくてもそれを気にせず、続ける意志を持ち続けること」
である。
この二つのうち、前者1より、後者2の方がずっと大切なのである。
有閑マダムの場合、スクールに来る目的は技術の上達ではなく、友達とのおしゃべりを楽しみたい事である。だから副目的である、テニスの技術は上達しなくても、大して気にならないのである。だからなかなか上手くならなくても、つらくなくスクールに通い続けられるのである。
一方、熱血男は前者1は持っている。しかしスポーツは体が上手くなってくれるのを気長に待つしかなく、技が高度なものであれば、短期間で容易には上手くならず、まさに雨垂れが石を穿つのを待つほどの忍耐力が必要である。これは上手くなりたいと強く望んでいる熱血男には非常につらいものである。なかなか上手くならないので、スクールへ通うことがストレスになってくるのである。また、コーチの「踵を浮かせ」だの「ボールを良く見ろ」などの注意を真剣に受け止めて、意識がコーチの教えをしっかり守ろうとする事に向いてしまう。しかし多くのコーチは表面的に現れている末梢的な体の欠点を述べる事は出来ても、本質を教えられる人は少ないのである。技術が上達していけば末梢的なことは自然と直っていくので、そんな事は注意する必要はないのである。ギコちない運動をしている初心者が、運動中に意識できる事は、一つか二つが関の山である。「ボールを良く見ろ」と言われれば、「ボールを良く見る事」だけに意識が使われてしまう。そして「ボールを良く見ろ」の注意が誤った注意であることはすでに述べた。初心者が運動しながら意識できることは一つか二つが限度である。優れたコーチとは、その人が、今の時点において意識しなければならない本質的な一つの注意とは何か、を見抜ける人である。無意味な末梢的な注意をして、生徒が無意味な注意に意識を取られてしまっては上達しうるものも上達しなくなってしまう。スポーツは続けることがすべてであり、根気よく続けていれば、体が少しずつ正しい動作へと変化していってくれるものなのである。人間は、病気においては、自然治癒力が存在するように、スポーツの上達においては自然上達力なるものが備わっているのである。コーチは何も注意などせずとも、続ける生徒は上達する。また、末梢的な事に意識を向けさせるより、意識を大脳から消すことの方がずっと大切である。
以上が、有閑夫人が上達して、熱血男が上達しなかったり、上達しないつらさで、「俺には所詮運動の才能はないんだ」と思ってスクール通いをやめてしまって上達しない理由である。
体力と運動神経について
これについても私見を述べよう。どこの学校でも未知のスポーツをやらせて、上達の早い生徒がいる。これが運動神経である。一方、長距離マラソンをやっても息切れしない生徒がいるだろう。これが体力である。結論から言うと、体力と運動神経は基本的にまったく関係がないのである。しかし運動神経がすべてである運動の上達というものに体力は多少、関係があるのである。テニスにせよ、水泳にせよ、運動は同じ運動を根気よく繰り返すことによって上達する。どんな運動でも初心者のうちは、運動がぎこちなく、上級者なら、疲れず楽々何時間でも続けられる運動を、初心者では数倍のエネルギーを使わなければならず、上級者とは比べものにならないほど、筋肉を酷使しなければならない。言うまでもなく、体力のある者はこれに耐えやすく、体力のない者はこれに耐えにくい。なので、体力と運動神経は、直接の関係はないが、体力と運動の上達には関係があると言えるだろう。
ブルース・リー論
ブルース・リーに関して私見を述べようと思う。ブルース・リーは、大変思考の深い人間であり、研究心の旺盛な人間であり、生前に思いついた事をすぐ書く習慣があったので、ブルース・リーの、物事の本質を書いた短文は非常にたくさんあり、それがブルース・リーの死後ブルース・リー語録としてまとめられて出版されている。また、彼の創始した截拳道の弟子やリーと交流のあった人達のリーについて思う所を述べたものも出版されており、人間ブルース・リー論はほとんどなされているので、もう書くことはほとんど無いので、まだ私が読んだ事のない、私のブルース・リー論を少し書いておこうと思う。私が本腰を入れてブルース・リー論を書くと、きりがなくなる。
まずブルース・リーは、我の強い他流派のけちをつけるお山の大将だったとか、天才だったとか、意見が分かれている。まず、ブルース・リーはまぎれもなく天才であり、人格も非常に謙虚で、思いやりのある優れた人格者だったのである。ブルース・リーを直接知っている載拳道の弟子はウソの美化ではなく、みな彼の能力と人格の偉大さをうれしそうに語っている。ブルースの悪口を言う人は、彼を直接には知らないジャーナリスト達である。
私は空手を始めたときには、当然ブルース・リーの映画は見ていたし、書店でブルース・リー語録の本も見た。しかし私は当時、ブルース・リーの著書を読んでみたいとも思わなかった。当時はもっぱらブルース・リャンにあこがれていた。テコンドーの達人リャンの方がリーよりずっとダイナミックで美しい足技だったからである。また、空手を学び始めた頃はもっぱら、技の上達だけが価値観だったので、リー語録も読む気がしなかった。空手の練習を続けて、ある程度、技が上達した時、リーの「魂の武器」という、戦い方や武術論をリーが書いた本を勝って読んでみた。しかし文章がさっぱりわからなかった。やたら難しい言い回しをしている。それで私はリーの文才のなさと人格をあなどった。「この男はわざと難しい言い回しをして気取っているのだ」と思った。で、本はツン読になった。しかしである。さらに空手の練習を続けているうちに技が上達していった。スポーツはある時、ぼっと上手くなるものである。運動生理学では、粗協調が起こったという。医学的に言うと、脳の神経細胞にシナプス結合が起こったということである。上手くなった時にはすべてが一気に上手くなる。煉瓦やコンクリートブロックが割れ、腹から気合いを出すことが出来、あらゆる技「突き、受け、蹴り」が上手くなるのである。今まで出来なかったものが一気に出来るようになる(だからスポーツは面白いのである)そんな経験を何度も繰り返すうちに私はついに上級者になった。また、内向的な性格だったので、哲学に関心が向き、どんな哲学書も読みこなせるようになった。そうなった時に、再びブルース・リーの書いた武術論を読んでみた。すると、わかるは、わかる。また、文章もわざと難しい言い回しをしているのでは決してなく、色気など全くなく、きわめて自然に、また読者にわかりやすいよう書かれた文章であることを感じた。ブルース・リーはむしろ名文家である。価値観が百八十度ひっくり返ってしまった。リーの哲学は一言で言って、実存主義哲学なのである。実存主義哲学とは、一言で言って、世界の原理を研究する哲学ではなく、自分がどう生きるかを研究する哲学である。戦闘法やリーの哲学をいちいち述べる気はしない。リーの本を買ってリーの名文を味わう方がいい。ちなみにリーの本は武術のテクニックの解説書ではなく、人間の生き方、人生の目的、といった内容の哲学的な本であり、武術をやってない人でも読んで大いに役に立つ本である。「と宣伝してあげたのだから、どうか拙作「女生徒、カチカチ山と十六の短編」「文芸社」も買って下さったらうれしいなーと思う今日この頃である。太宰治、谷崎潤一郎の作品等、近代作家の名作のパロディー化したものが多いので、読書、活字が嫌いな学生のための文学入門書として少しは役に立ってくれると思います。読み易いので肩が凝らずに読めます。買ってくれる人もいないし、近く品切れになります」
と百パーセント効果のない宣伝はこのくらいにして、リー論に戻ろう。一つだけ説明したい事があるので説明しよう。リーは「型」「流派」にとらわれるな、と力説している。一方、「行動パターンを確立してしまえ」と言っている。これは一見、矛盾しているように聞こえる。リー自身、映画で観られるように、いくつかの攻撃パターンを持っていた。右のリード足の回し蹴りの連続から左の後ろ回し蹴り、右横蹴りからの左の後ろ回し蹴り、右三日月蹴り(擺脚)からの左後ろ回し蹴り、など、他にも多くある。
このようにリーは「行動パターンを確立している」。一方、「型」「流派」」にはまるな、と力説している。これは矛盾しているように聞こえるが矛盾していないのである。一言で言えば、「体で反応せよ」という事なのである。リーは愛国心の強い人間であり、人種差別に対する怒りの強い人間で、作品の中でもそれを表現している。最たるものは「怒りの鉄拳」である。これはアクション映画というより、徹底した反日(=愛国心)映画である。
リーは香港に戻るまで、アメリカで載拳道教師、映画俳優として生計を立てていた。最も代表的なものは、子供用の連続テレビ番組で、「正義の見方もの」の「グリーンホーネット」である。この映画からもわかるが、リーはアメリカで人種差別の屈辱を味あわされた。「グリーンホーネット」のリーは、かっこいいとは言えない。あくまで、ハンサムで背の高いアメリカ俳優のホーネットが、難事件を解決する主人公であり、リーはホーネットの手下、雑用係り、である。アイマスクをし、奇妙な東洋武術を身につけている謎の東洋人というのがリーの役だった。(日本の忍者みたいな役)しかし、この屈辱的な役をやった経験が、後のリーの主演作品が大ヒットしたのに役立っていると思われる。
映画を見る人は武道家ではなく、武術にたいして関心のない一般の人である。「グリーンホーネット」をやる中で、リーは一般の人が、東洋武術家に、何を期待し、どう振る舞えば客が喜ぶか、という事を理解してしまったのだと思う。「ドラゴンへの道」を最初に観た時に、東洋武術の達人は、技だけではなく、精神も達人であり、底の知れない仙人のような感じを受け、その神秘性に感激した。おそらく他の人もそうだろう。リーはその神秘性を逆手に取ったのである。
また、リーは大変な読書家であり、蔵書として非常にたくさんの武術書、哲学書があった。リーは日本の武術も日本の武術家なみに研究しており、カンフーとは何かを説明するのに、宮本武蔵の、飛ぶハエを箸で捕まえる話を例に説明したりしている。また、ヌンチャクはブルース・リーの映画によってカンフーの武器と誤解してしまった人も多いだろうが、ヌンチャクは日本の空手の武器であり、中国武術にヌンチャクはないのである。またリーの武術の原点は詠春拳という流派の中国拳法であるが、若くしてそれをマスターした後、他流派の中国拳法をどんどん研究していった。また、リーのキックは空手(=テコンドー)のキックであり、リーはテコンドーの友人から、後ろ回し蹴りや、空手の蹴りを学んでいる。極真空手のハワイ道場でも、空手を学んだ事がある。巨人の星、等、スポーツ根性ものの劇画原作者で極真空手の黒帯でもある故、梶原一騎氏は、この事実に感激し、ブルース・リーの師は極真空手のハワイ支部長のブルース・オテナであると、漫画の中でも書いている。しかしリーはアメリカに行く前に香港で、若くして詠春拳をマスターした武術の達人であって、他流派への入門は自分の武術を深めるための研究に過ぎない。だから他流派は一時的な入門や見学である。リーは独学タイプの人間であり、他流派入門は、他流派を研究したり、必要な技を取り入れたりするための一時的入門に過ぎない。リーは自分自身の中に自分の教師を持っており、リーの本当の先生とはリー自身である。他流派は自分の技の向上のために利用したに過ぎない。
リーは空手、柔道、合気道をマスターしているアクションスターの倉田保昭とも親しく、リーと武術の話をしているが、リーの武術の知識には歯が立たなかったと言っている。リーはオリジナリティー(独創性)のある人間であり、三日月蹴り(擺脚)からの後ろ回し蹴り、リード足の連続からの後ろ回し蹴り、などはリーのオリジナルテクニックである。また、リーのヌンチャクの振り方もオリジナルである。リーはボクシング、ムエタイ、テコンドー、空手、合気道、フェンシングなどをどんどん研究していき、技を身につけていった。
リーの映画を見るとわかるが、武術の心得のある人間と、無い人間とでは、立った姿を見ればすぐわかる。また、どんな武術でも上達していくと、技だけではなく、精神も武術家になっていくものなのである。最近、NHKの連続テレビドラマで「宮本武蔵」をやった。私はほとんどテレビを観ないが、「宮本武蔵」は、二回か三回観た。多くの武術に関心のない人は抵抗なく観れただろうが、私にはとても観れたものではなかった。「武蔵」は日本の武術家の代表であるのだから、武蔵役にはマスクのいい男ではなく、どんな武術でもいいから、多少でもいいから、武術を学んだことのある人を武蔵役にしてほしかったものである。武術は二十四時間体制のものであり、歩いている時でも、武術家と非武術家とは違うのである。精神も武術家であるから面構えも武術家独特のものになっていくのである。テレビの武蔵役からは、外見も精神も全く武術家が感じられなかった。
ブルース・リーは「我」の強い人間だったという意見がある。が、リーは著書の中で「オートマティズム「我がなくなること」の大切さを述べている。この意見の違いは次の説明で事足りる。
「ブルース・リーは、我、を消す強力な、我、を持っていた」一方、
「多くの人間は我を消す強力な我を持っていない」
ブルース・リーの人気は彼の死後も衰えることがない。それは彼が天才だからである。ブルース・リーは天才にして、世間でスーパースターとなれた、非常に数少ないラッキーな人間の一人である。もし「グリーンホーネット」程度で終わったら、彼は世に多くいる、世に認められることのない不運な天才の一人として一生を終えてしまっただろう。
ブルース・リーの人気の秘訣は、彼が武術映画のパイオニアである、という点もあるだろう。また、「技の上手さ」と「子供の頃から、子役の映画俳優で、演技が上手く、アクションを効果的に見せる演出法を知っていた」という、二つの能力があったからだ、という意見もある。それはもちろん正しい意見だ。しかし私はもう一つ別の理由もあると思う。それは彼のすぐれた人格である。彼ほど愛国心の強い中国人はいないだろう。彼ほど人間の差別心を憎んだ人間はいないだろう。彼ほど研究熱心だった人間はいないだろう。これが、ブルース・リーの人気がいつまでも衰えない理由だと私は思う。
また自分で言うのは非常に僭越な事だか、私の性格はブルース・リーの性格に非常によく似ている。そっくりだ、と思う点も多い。内向的で、観念的な事をとことんまで突き詰めて考える。強い自我(哲学者のキルケゴールが言っているが、これは、持っている事を人に気づかれると非常に危険な物なのである)があり、研究心が強い。孤独であり、流行やファッションには全く興味がなく、我が道を行く性格である。私はブルース・リーの箴言が好きだが、私はブルース・リーからいかなる思想的影響も受けていない。ただ、ブルース・リーの著書を読んで自分の性格との共通点を見出したに過ぎない。