浅野浩二物語              もどる

「終戦の詔勅下る。多数殉忠の将士の跡を追い、特攻の精神に生きんとするに於いて考慮の余地なし」(最後の特攻隊員)

 子供の頃から不安だった。自分は何のために生きているんだろう。寄りすがれるものがない、拷問のような恐怖感。生来、体が弱く、一日というものが、まるで人生の一生のように感じられた。夕方になると、一日の疲労が出てくる。夜は死を予想させた。明日、生きてられるという保障はない。いや、明日が必ず来ることは分かっている。しかし、明日何をすればいいというのだ。今日、何をすればいいのか、という疑問が明日になれば、わかるわけではない。生きていることに対する根本的な疑問。何が楽しくて、人間は生きているのだろう。大人になると、ある快感があるらしい、ことを知っても大人というものには、何の魅力も感じられなかった。毎日、同じことを繰り返し、イヒヒの楽しみをして、何の疑問も感じず、幸福そうにしている大人というものは、たんに世間を知っている、という点を除けば、単なる満足した豚にしか見えなかった。大人の真似をして、煙草を吸う友人もバカにしか見えなかった。自分には拠り所がほしかった。
学校に入ると教科書というものがあてがわれた。それは拠り所となった。大人の中でも、学者といわれる人達が、価値があると判断して決めたものは真理だと思った。それを修得できなければ人間的欠陥があるように思われた。また、困難であるが故に戦いがいがあるものでもあった。人とのおしゃべりに心の安らぎは得られないが、勉強の方には、安らぎを感じられた。そのため、小学校は成績優秀で卒業した。勉強が出来るため、クラス委員長にもなった。しかし、だからといって、勉強だけで心の拠り所、の、悩みが解消されたわけではなかった。プラモデルから、地図をうつすこと、導線でモーターをつくること、から、運動へと、心の拠り所を求めていった。

中学になった。私は母の出た歴史の古い、明治時代に、ある女の思想家によってつくられた東京の私立の学校に入った。私は学校の寮に入れられた。私は、入った時から、この学校も、寮も大嫌いだった。
中学の時、数人の、同級生が文集をつくったり、マンガを一生懸命画いたりしていた。たいへんうらやましいと思った。が、自分にはお話しをつくる能力などない、と思っていた。文集の中には、見事におもしろい、と思う作品が一作あった。大変な才能だと思った。だが頭のいい友人が書いたお話しは、人を笑わせられるものではなかった。マンガを一生懸命、朝の礼拝の時間までかいていたが、りんかくがはっきりしない、横目でみても、読みたいとも思えるキョーミをそそるものではなかった。彼らは創作意欲は強くても、結局は自分の才能のなさに見切りをつけることとなり、一時の夢として、文集もマンガも諦めてしまった。この学校ではスポーツをやることが義務づけられていたので、テニス部に、イヤイヤ入った。この学校の、初等部からきた生徒は、幼児からスポーツで鍛えられていて、運動神経が発達していて、どんなスポーツをやっても上達が早い。私は、子供の時から、美しい運動に憧れていて、運動は嫌いではなく、側転や前転飛びは出来た。私もクラスの、特に初等部出の運動の上手い同級生に憧れて、スポーツに、心の拠り所を求めようとした。

高校になった。といっても、中高一貫校なので、クラスメートは同じである。ある時、寮のトイレで、SM雑誌を拾った。人に見つからないよう、こっそり読んだ。SM小説が、いくつかあったが、どれもエロチックで、興奮させられた。SM小説は、早読み、飛ばし読み、が出来た。同時に私はSM作家に対して羨望を感じた。人はどう思ってるか知らないが、SM作家だって、立派な作家である。職業に貴賎なし、という観点ではない。私は先天的にSMエロスに美しさを感じるのである。SM作家という職業が羨ましく、自分もSM作家になれたら、どんなに幸せだろう、と思った。しかし、それは夢の夢だった。SM的感性は、あっても、とても自分には小説を書く文章力なんてなかった。ので、それはとどかぬ夢としてあきらめるしかなかった。
ある時、天啓が突如として私に下った。
「私の学力なら、国公立の医学部にギリギリ入れるかもしれない」
こんな低レベルの学校で、何の目的もなく、付属の大学に行って、つまらないサラリーマンになるなんて、ばかげている。よし。やってみよう。こうして、私は自分の人生の目的を、医学部に入る事に決めた。さほど医者になりたい、とは思わなかった。国公立の医学部は難関だからだ。難しいから、挑戦するのだ。他のやつらみたいに、遊んで、怠けて、どっかの会社に就職して。そんな、つまらん生き方など、ばかげている。そんなの人生を棒にふるようなものだ。男の人生は、もっと、大きな志を持って、困難な事に挑戦していくことだ。入れるか、入れないか、なんて問題じゃない。困難な事に挑戦する事に価値があるのだ。こうして私は受験勉強の猛勉強を開始した。

私は医学部に入れた。出来る事なら、近くの公立大学に入りたかったのだが、入れなかった。第二志望の関西の公立医学部には通った。親の喜びようといったらなかった。
だが、入った後で、私は、すぐにまた、虚無感におちいった。医学部に入る事が、人生の目的だったので、目的を達成してしまった後には、もう目的はない。医者には、さほどなりたいとは思っていない。高校の時と同じである。医者なんて、そこらへんにゴロゴロいる。このまま勉強して、医者になって、どこかの病院に勤めて・・・。勤務医なんて、所詮、サラリーマンである。自分の仕事を毎日、繰り返すだけ。先が見えている。男の人生とは、絶えず、困難な目的に向かって突き進む、事にしか、私はその意義を見出せない。
それに学問なんて、所詮、他人のつくってくれたものを覚えるだけのことだ。私は東大を主席で卒業した人より、中卒で、面白い作品が描ける漫画家の方を、ずっと尊敬する。
内向的な性格のため、また、過敏性腸のため、クラスには馴染めなかった。
しかし、数人の同じやや内気ぎみの性格の人とは、友達になれた。
その中に、文芸部の小山君がいた。
「よかったら、君も文芸部に入らない」
そう言って、誘ってくれた。
しかし私は、とても安易に、「入る」とは言えなかった。文芸部に入るなら、小説を、書かなくてはならない。私は、創作したい、という欲求は、子供の頃から、非常に強く持っていたが、小説を書く能力などない。今まで、一度も小説など書いた事などない。自分が何を書きたいのか、何を書けるのかも、わからない。
小山君は、子供の頃からの、すごい読書家で、小説も書いていた。
数ヶ月、過ぎて、文集が出来たので渡してくれた。小山君の小説もあった。が、文章が読みにくい上に、話もよくわからない。本格的な小説の文章を書ける事は、すごいが。ちょっと、読者にわかりやすいように書こう、という配慮が無いように感じられた。これでは自己満足で書いている小説だ。
個人スポーツは、好きだったので、大学に入ってからも、テニススクールに入ってみたり、温水プールに行って、泳ぎを練習したりした。で、満足できるほど、かなり上手くなれた。が、だんだん、スポーツというものが、むなしく感じられだした。上手くなれば、やってて気持ちがいいし、自分に誇りが持てる。しかし、死んだ後には、何も残らないじゃないか。
また、大学の講義を聞いているうちに、だんだん、医学、や、医者になる事にむなしさを感じるようになってきた。学問なんて、所詮、他人がつくってくれたものを覚えるだけじゃないか。医者なんて、いくらでもいるし、死んで、いったい何が残るというのだ。
そんな思いが、意識の潜在下でどんどん膨らんでいった。
ある時、それは高校の時と同じだが、突如として、天啓が私に下った。
「小説家になろう」
それは、客観的に見れば、とんでもない思いだろう。今まで、一度も小説というものを書いたことがない上、何を書きたいのか、何が書けるのか、全くわからないのである。しかも、私は小説を書く技術を全く持っていない事には、絶対の自信を持っていた。しかし、情熱だけは、冷めるどころか、どんどん熱くなっていくばかりである。ゼロからの出発である。
その日から、私は日本の名作文学を手当たり次第に、読み出した。多読でもあり、精読でもあった。楽しむために読むのではない。小説の書き方を知るための勉強として読んだのである。

読んでいるうちに、だんだん自分も書いてみたい欲求がつのっていった。とうとう私は作品を書き出した。今まで一度も文芸的なものは書いたことがなかったので、骨が折れた。
私は自分の頭の中にある今までの経験で、美しいと思った事を、文章にしだした。もちろん、小説など、書けないから、作文である。しかし、たとえ作文であっても、必死で全力を入れて書けば、頭の中にあるイメージは、ほとんど食い違い無く、文章にすることが出来た。

5〜6作品が出来上がった。学校に持っていった。
小山君に見てもらった。彼は、いつも文庫本を持ち歩いていて、「もう、この世に読む本がなくなった」と言ってるくらいの、読書家だった。
作品は、内容的には少し幼稚だな、と思うものもあったが、しっかり表現できている事には自信があった。小山君が何と言うか、ドキドキ、ハラハラものだった。
読み終わって、小山君は、作品を私の所に持ってきた。
「これと、これと、これは良いよ」
と言って、4作、認めてくれた。
その中で、特に、「忍とボッコ」を、気に入ってくれた。
これは嬉しかった。他の作品は、小説にはなっていなく、エッセイのようなものだったが、「忍とボッコ」は、理屈っぽくは、あるが、かろうじてお話になっている。私にとっても、「忍とボッコ」は、気に入っている自信作で、書き上げることができた時は最高に嬉しかった。私の小説の処女作は、「忍とボッコ」である。
私の作品がのった文集が出来た。が、たいして嬉しくはなかった。
私はプロ作家にまで、なれる自信は、全く無かったが、私の創作に対する情熱は、「忍とボッコ」の、一作で、おわりになって、満足できるほどのものでは、とてもなかった。ともかく、もっと、もっと書きたかった。
だが、書きたい、書ける、事は最初の六作で、書き尽くしてしまった観があった。他に書けるものは無かった。なので、それからは、毎日が小説のネタさがしになった。朝から寝る間際まで、小説を書くことばかり考えていた。
だが書けない。私には、小説に出来るような体験もないし、精通している小説のジャンルもない。それで、再び、文学作品を読みまくった。私にとって、小説を書けるようになる一番いい方法は、小説を読む事だと思った。精読はディテールの勉強になる。さらには、インスピレーションの降臨もある。小説の中の、何気ない一文から、小説のネタを思いつく事がある。
私は、それ以来、ノートと鉛筆を手放せないようになった。そして、ちょっとでも、小説のヒントになりそうなものが、頭に浮かんだ時は、直ぐにそれをノートにメモした。
創作熱が高まるのにつれて、大学の授業は、興味が無くなっていった。他の生徒は、自分とは価値観を異にする無関係の人達に見え出した。
「彼らは現実的、世俗的なものを求めて汲々と努力している人達で、私は精神的なものを追い求めている人間だ」
だからといって、私は医学の勉強をおろそかにする気は全くなかった。せっかく入った医学部である。もう、二年間の教養課程もすんでいる。それに、いくら価値観が創作がすべてになったからといって、プロ作家になれる自信などない。さらに、いくら、医学嫌いになったとはいえ、私は負けず嫌いであり、勉強好きである。嫌いとはいえ、勉強も、わかれば面白くもある。
四年になった。三年、四年は基礎医学といって、病気の原理を研究する学問である。

基礎医学になって、生化学をはじめ、基礎医学の勉強は私をてこずらせた。私は理数系が得意とはいえ、数学や物理などのガチガチの理論的な勉強は得意だが、生物や化学などの大づかみな、流動的な学問は苦手である。そして、医学部では、生物や化学などの勉強が得意である事が大切なのであって、数学や物理などは、全くわからなくても全く問題はないのである。
私自身、その事は医学部に入る前から、十分自覚していた。私の適正から考えて、私は理工学部に入って、本田技研に就職し、自動車の設計技術者になるのが、私の適正に合っているとは、十分わかっていた。そもそも私は医者になりたい、とは全然、思っていなかった。それなのに、なぜ医学部に入ったかというと、それは医者に対する復讐からである。
私は三歳の時から喘息で、小学校の半分の三年間は、喘息の養護学校で過ごした。私は虚弱体質で自律神経系が弱く、冬は冷え性に悩まされた。中学になっても、喘息は完治せず、成人喘息に移行してしまった。そして医学部に入る前に過敏性腸症候群という、つらい胃腸病が発症してしまった。そして過敏性腸症候群は、後天的に発症した病気とはいえ、それを発症させる過敏な体質、素因を先天的に持っていた、という点からすれば、私の過敏性腸症候群も先天的なものと言える。
つまり、私は生まれてから、今日に至るまで、そして一生、医者なしには生きていけない宿命をもって、生まれてきたのである。患者なんてみじめなものである。医者なんて、えばったヤツばかりで、患者はペコペコ頭を下げつづけるだけ。医者なんて、いばったヤツばかり。そんなやつらに、一生、頭を下げつづけなくてはならない屈辱。こんな屈辱に私が耐えられるはずがない。よし。医者になってやる。医者になって、えばった医者どもに復讐してやる。そう思って私は医学部に入ったのである。

そういう自分の適性を無視して変な動機で医学部に入った人間は、当然、入った後、苦労する。医学は、自分の適性に合わない苦手な学問である上に。私は内気で、友達も数人しかいない。日本の大学はレジャーランドなどと言われているが、文系は知らぬが、少なくとも理系、特に医学部は、けっしてレジャーランドではない。毎日、毎日、実習にあけくれ、覚える量は膨大である。
さらに、大学を卒業するのに必要なのは、頭ではない。いかに、過去問と、授業のノートのコピーをたくさん、集められるかにかかっている。そして、情報である。あの先生は、今年で定年退官だから、みな通す、とか、単位取得に関する詳しい情報である。つまりは、大学を卒業できるかどうかは、友達がいかにたくさんいるか、にかかっているのである。部活に入っている事は、絶対必要条件である。
私は、作品を発表したため、小山君とは、いっそう親しくなったが。ここの大学の文芸部は貧弱で、部員は、ほんの数人しかおらず、過去問も授業のノートのコピーも、少ししかなかった。友達がいないため、単位に関する情報も全然、わからない。
苦手な勉強の上、過敏性腸の苦痛に耐えての勉強のため、毎日ふうふう言いながら勉強していた。過去問が手に入らないため、単位が取れず、追試につぐ追試。創作したい欲求は、おさえて、嫌いな医学の勉強の毎日だった。私は医学部に入った時から、過敏性腸に悩まされつづけていた。こんな健康状態で、医者なんて出来るのだろうか。
医者になんて、たいしてなりたいとも思っていない。創作したいが、勉強の毎日で出来ない。そもそも、過敏性腸のため、生きている事そのものが苦痛なほどである。過敏性腸のため、要領が悪く実習では、みなに迷惑をかけてしまう。毎日が生き地獄だった。将来に対する不安。創作は生き地獄からの逃避でもあった。私は、死、を考えだすようになった。「葉隠れ」が、私の思想となった。
「生きて恥をかくよりは死を選ぶが武士」
私は岡田有希子に、激しく惹かれ、彼女は私にとって神に近い存在になった。
私の、岡田有希子に対する憧れは、異常なほど、激しくなっていった。
私は何とかして、彼女に近づきたいと思った。
私の生きがいは、創作だけになってしまっていたので、彼女の一生を、小説にしてみたく思うようになった。だが、小説らしいものを書く文章力がない上に、勉強、勉強の毎日で、悠長に小説など書ける時間などない。それでも、彼女の資料をもとに、何度も小説にすることに挑戦した。なかなか、上手く書けなかった。書いては、書き直しの繰り返しだった。しかし、これが文章力を鍛える練習になった。
ようやく四年の一学期がおわり、夏休みになった。夏休みといっても勉強の毎日である。しかし、集団嫌いの私にとって、夏休みは、救いだった。そもそも私には集団帰属本能というものがない。集団の中にいると、呼吸が苦しくなって、腸閉塞が起こってくるのである。私には一人でコツコツやる仕事が向いている。そういう点でも、私は作家になりたかった。
夏休みにも、ユッコの小説を書いてみようとした。だが、上手く書けない。
それで、まずは文章力を鍛えようと、高校一年の時の、嬉しかった思い出を小説として書いてみようと思った。私は、自分の経験をダラダラ書く私小説など、小説ではないと嫌っていた。そんなもの、絶対、書くまいと思っていた。
だが、文章の練習である。発表するつもりもない。それで、軽い気持ちで書き出した。書き出してみると、以外にも油がのってきた。これは、小説になる、小説として完成させたい、と思うように気持ちが変わった。また、小説に対する考えも変わった。別に私小説でもかまわないじゃないか。話が面白くて、緊張感があれば、いいじゃないか。私小説の「私」を、ある名前にかえれば、いわゆる普通の小説になる。ただ、それだけの違いじゃないか。これが、小説らしい小説を書いた私の最初の作品である。タイトルは、「夏の思い出」とした。生まれて初めて小説を書いたので、骨が折れた。だが、8割かた書けて、特に、書きたい山場を思い通り書けた時の嬉しさといったらない。私は自分に自信が持てるようになった。
自信がついたので、ユッコの小説化に、とりかかった。無理に凝らずに、軽い気持ちでサラサラッと書いたのが、かえってよかった。タイトルは、「ある歌手の一生」とした。
二つの小説を書いた後は、もう勉強一辺倒である。
四年の夏休みがおわった。二学期が始まった。また、実習と、猛勉強の毎日である。実習、実習の毎日。過去問も授業のノートのコピーもないため、勉強の要点がつかめない。友達がいないため、単位取得の情報もわからない。追試につぐ追試。
冬になった。私にとって冬は地獄の季節である。冷え性。過敏性腸の腹痛がひどくなり、耐えられないほどになる。うつ病も起こってきて、思考がスムースに出来なくなる。頭に雑念が起こって、集中力も思考力も低下してしまう。
街で、ジングルベルの歌が耳に入ると、ジングルベルの歌が頭の中で、鳴り響いて止まらなくなる。
二学期の期末試験が始まったが、単位は全く取れない。将来に対する不安が拍車をかける。もう、ノイローゼになってしまった。うつ病もひどい。もう、何を見ても感動しなくなった。感情がやられ、思考力も働かない。堂々巡りのノイローゼ状態である。
親に、休学したい旨を伝えても、相手にしてくれない。
喘息は、親の愛情を受けられなかった子供に起こるのだが、私も親の愛情を受けた事は一度もない。
私はとうとう、期末試験を無断欠席した。
そして、休学することになった。
心も体もボロボロの状態で、私は荷物をまとめ、新幹線に乗り、家に帰った。しかし、私の父親はわがままな暴君で、叱り、罵るだけ。
「いつまで休む気だ」
「敵前逃亡するな」
「死ぬ気で頑張れ」
母親は父親の横暴によって、ノイローゼになり、精神に異常をきたし、精神病院に入院したこともあるほどである。母親も自己主張が強い上、石頭で自分の考えが絶対、正しいと信じきっているような我の強い性格である。
私は父親にも、母親にも一度も愛情を感じた事がない。
家に帰った時は、うつ病がひどく、自分では何も出来ないような状態だった。本の一行を一時間かけても読めない。もう、私は、死を半分、覚悟していた。
この過敏性腸症候群では、生きていく事が出来ない。
近くの精神科クリニックに行っても、医者は何を言っても聞く耳を持たない。
私は、「完全自殺マニュアル」を買って、確実に死ねる薬と、それを手に入れる方法を考えた。薬局で、
「××を十箱下さい」
と言ったら、薬局の人は、訝しそうに、
「何で、そんなに買う必要があるんですか」
と、聞き返した。
ので、数軒、薬局をまわって、わけて買った。
毎日、確実に死ねるビルを探して、屋上にのぼってみた。とびおり、は、打ち所によっては、死ねずに、死に損なう可能性があるからだ。
ビルの屋上で、一人で膝組みしてると、涙が出てきた。
うつ病といっても、休学した時の、うつ病は、双極性うつ病といって、昼間は、廃人のように、何も出来ないが、夜になると、人が変わったように元気が出てくる。
私は、在学中にひらめいた、小説の構想、それは頭の中だけには、しっかりあるイメージを書いてみた。手が勝手に動いているという感じで、一気に書けた。
その時、書いたものは、「砂浜の足跡」、「高校教師」である。他にも書いたが、満足できるものは少なかった。
作品が書けると最高の満足感である。満足できる作品が書けると、死ぬのはもったいない気がしてくる。
自殺において、死に対する恐怖とは、自分の将来に対する判断の誤りの恐怖感である。
将来に対し、100%絶望だと、確実にわかっているのなら死は怖くない。しかし、99%絶望的でも1%でも、希望の可能性があるのなら、それを自分の判断で捨ててしまうのは、大変な勇気がなくてはできない。現在、どうにもならない壁にあたって、生き地獄であって、死んだ方がましだと思っていても、1%の希望は、もしかすると将来、10%にも20%にも膨らむかもしれない。これは、もはや、自分では判断できない事だった。
私は、自分が完全な絶望なのか、それとも、そうではないのか、正確にアドバイスをしてくれる人を探そうと思った。それは、言うまでもなく、過敏性腸症候群にくわいし専門医である。私は、書店で、心療内科の名医ガイドの本を買い、ある大学病院の心療内科の権威の大学教授に、かかった。
その先生は、あまり、やさしそうではなく、権威的で、能力もあまりたいしたものではなかった。
それまで私は私と同じ過敏性腸症候群で悩んでいる人との出会いを求めていた。同じ病気を持っている人と親しくなれたら、共感しあい、励ましあって、生きていける強い自信を持てる。病気は、症状が似ていれば、似ているほど共感性が持てる。それで、休学してから、過敏性腸の自助会を探してみた。だが、見つからなかった。「薬物中毒の会」や、「自殺防止の会」や、「神経症の会」を探して、出てみた。確かに、生き地獄で頑張って、生きている人との出会いは、力になった。しかし、みな、外向的な人ばかりで、症状も違い、あまり、仲間として励ましあえる気持ちは持てなかった。
私は先生に集団療法を受けたい、と言った。そしたら、集団療法をやっている、いい病院があるから、と言って、ある心療内科の病院を紹介してくれた。
たいして期待していなかったが、わらをもすがる思いで、その病院へ行ってみた。
診察室に入って、先生が、話し出して、びっくりした。同時に涙がでて止まらなくなった。その先生は重症の吃音だった。

ひとこと話すのにたいへん顔を真っ赤にして、てこずっている。話しベタなんてレベルではない。それは間違いなく日常生活や職業に支障をきたしている不治の病だった。ひとこと話す度に苦しみ、動悸を起こしている。その先生が今まで歩んできた苦しみの人生が瞬時に想像された。ひとこと言う度に血圧が上がっている。まさに自分の身を犠牲にして生きている。先生の吃りも、心身相関の心身症である。間違いなく、先生は自分が苦しんだ経験を役立てることが自分のミッションだと思って心療内科を選んだのだ。先生は医者の能力は特別優れているというわけではなく、普通だか、先生は確実に人を癒している。能力ではなく、その存在が、人を癒しているのである。私は大変な力を与えられた。
「こんなハンデを持った人が医者をやっている。やれている。なら私も、どんなに苦しくても頑張らねば」
重症の病気を持ちながら、医者という職業が出来るのだろうか、というのが、私の一番の悩みだったので、それに耐えて、医者という仕事をやっている先生の存在は、私の悩みを一瞬にして完全に吹き消した。
こんな素晴らしい先生にもっと早く会えていれば・・・と、つくづく思った。
その病院でうけた集団療法も大変な治療になった。みんな生きるか死ぬかで悩んでいて、まさに生き地獄の中で何とか生きようと頑張っている患者ばかりだった。集団療法はたいへんな治療になった。

一人の人との出会いが、人生を左右することがある。
私はその先生との出会いによって、もはや、迷いは無くなった。
どんなにつらくても、生きよう、生きなくては、と思った。
私は復学にそなえて、遅れている勉強をはじめた。思い込んだら、全てを忘れて一事に打ち込む私の性格である。朝おきてから、寝るまで、全ての時間を基礎医学の勉強に打ち込んだ。創作欲は、強くあったが、創作は、一時、中止した。創作欲にまかせて創作し、医学の勉強をおろそかにしてはならない、という意識が強く働いた。将来、どうなるかは、わからないが、ともかく、ちゃんと卒業し、国家試験に、通る事は、けじめとして、やり抜かねばならない、と思った。
先生との出会いや、集団療法のおかげで、病気の症状は、ありながらも、精神的な悩みは、ぐっと軽減された。
そして私は復学した。休学中に、しっかり勉強しておいたため、基礎の単位は全部とれ、無事、五年(臨床)に進級できた。五年に進級できた時は嬉しかった。他の学校は知らないが、私の学校では、五年の一学期は実習もなく、楽で、講義の出席者も少なかった。
が、私は講義には全部、出席した。講義がおわると、私は先生に質問しまくった。
五年の一学期は、余裕があった上、精神的にも落ち着いていて、楽しかった。
だが、私は医学は、けじめとして国家試験に通るまでは、しっかりやろうと思ってたが、心は創作にしかなかった。私はまた、堰を切ったように書き出した。私の書くものは、ラブコメディー的なもので、官能的な感覚を含んだものである。SM小説を書くことは、私の夢だったので、挑戦して書いてみたが、どうも子供っぽくて、本格的な大人のエロ小説は、私には書けないと、思った。ちょうど、ラブコメディー小説の募集があったので、休学中に書いた「高校教師」に手を入れて完成させ、投稿した。おちた。
五年の夏が過ぎ、二学期が始まった。付属の大学病院でのポリクリ(臨床実習)が、はじまり、医師国家試験の勉強も本格的になった。また、創作は完全な一時中止で、国家試験と臨床実習の勉強、一辺倒になった。
が、ポリクリは、私にとってショックだった。基礎医学は、分厚い医学書や顕微鏡で、医学の原理を学ぶ学問である。しかし、ポリクリ(臨床医学)は、まさに、病気で苦しんでいる病人を診る学問である。最初は、小児科だったが、診察している教授が、神に見えてきた。同時に私の手は、私の意志とは関係なく、勝手に動き出した。教授の言葉は、全部、ノートに書き写さねばならない、という衝動が、私の手を、一瞬の休みもなく、動かしつづけた。
私は、教授の診察に、人類の偉大なる歴史を見た思いがした。
「ああ。人間が、神に挑戦している」
小学五年くらいの膠原病の女の子がきた。ステロイドの副作用で顔が変わってしまっている。
「この子は学校でいじめられていないだろうか」
涙が出てきた。
「何でこの子はつらい人生を送らねばならないのだ」
「この子に何の罪があるというのだ」
ポリクリは、基礎とは違う、やりがいのある、感動をともなった勉強だった。
私は、一言もらさず、すべてをノートし、嫌がられるほど質問しまくった。
病気を持った人が、自分の苦しんだ経験を人のために役立てようと、医者を志す人がいる。夢として、諦めてしまう人もいるが、実際、医者になる人もいる。そういう人は、医者として伸びるのである。それと、おなじ原理である。
何も、全ての病気を経験しなくても、一つの病気を経験していると、病気や病人に対する見方が健康人とは変わってしまうのである。
ちょうど、車を持っている人は、自分の車との比較という視点で車を見るようになるから、全ての車に関心が向くようになる。車は一台でいいのである。しかし車を持っていない人は、車に関心を持てない。
犬を一匹、飼っている人は、どの犬を飼うかという選択の時点で全ての犬に関心が向くように。
世の中の事は、全てそうである。
私は、自分の病気の経験を人に役立てよう、などという高邁な思いから医学部に入ったのではさらさらない。しかし、結果として、そういう心理になったのである。
病気を経験している人は、間違いなく、病人の苦しみがわかる医者になれる。
ポリクリは、実に充実した勉強の機会だった。
だからといって、私は医者になろうとは、思わなかった。医学部を出て、何になるかは、わからないが、私はもう、小説を書くことにしか、生きがいを見出せなかった。ともかく、医師免許は取ろう。医師免許を持った小説家になろう、という不埒な事も考えていた。
ポリクリでは、夜の12時を越す事もザラだった。しかし、これも、医学部を出たら、もう患者を診たり、医学を学ぶ事は無いだろうから、これが、見納め、最後の機会だから、精一杯、勉強しておこう、と考えたのに過ぎない。
しかし、ポリクリは、ともかく充実していた。人生で、これほど充実し、関心が外に向いた事はない。
ポリクリの時に、驚くべき事が起こった。
私は、アパートに、濃密なエロティックなSM写真集を何十冊も持っていた。これは、私の宝物だった。私のSM的感性は先天的なものである。私はSMという言葉を知る前から、小学生の頃からSM的なエロティックなものに、美しさを感じていた。SM的感性は、一生、無くならない私の属性だと思っていた。自分がそういう感性を持っている事に悩んだ事もあったが、大人になるにつれ、それは、人にはない、自分の個性として、心の内に誇れるほどまでになっていた。
それが、ポリクリの時、ある時、SM写真集をパラパラッと見た時の事である。それまで、そのエロティックさを美しいと、思って、疑った事のない写真集である。
私は思わず叫んだ。
「何だ。この写真は。変態じゃないか」
私は、そんな写真集を見てニヤニヤしている人間が、変態に思え、気持ち悪くさえ思えてきた。
そして、それは、私が確固として持っていた信念が証明された、事実でもあった。
私はそれまで、内向性と、SM的感性とは、絶対、関係があると信じていた。
「内向的性格とSMとは、絶対、関係がある」
という信念である。
ポリクリの時には、完全な外向的精神状態であり、その時にはSM的感性が完全に消えてしまったのである。
だが、充実したポリクリがおわり、卒業試験、国家試験の孤独な勉強の日々にもどると、またぞろ、SM写真集のエロティシズムに美しさを感じ出すようになった。
内向的な人間が、すべてSM的感性を持っているわけではない。しかし、私に関しては、内向性とSMとは、はっきりと関係しているのである。

そして私は国家試験に通った。が、困った事に、それからどうしていいか、わからない。関西は、いやだったので、実家にもどった。私は小説を書く事だけが、生きがいであり、出来れば、プロの小説家になりたい、と思っていた。私の適性からして、一人でコツコツやるような、仕事にしたい、と思っていた。過敏性腸で、とても、医者の仕事が勤まるとも思えない。だが、暴君の親は、私が医者になる以外には、ゆるしてくれなかった。
そのため、しかたなく、研修医になるしか、なかった。
私は、過敏性腸に悩まされてきたのだから、消化器科か、心療内科、をなぜ、選ばなかったのか、と思う人もいるだろう。
私は医者という仕事に、生きがいを感じられないのである。医者というストレスのかかる仕事に、やりがいを感じて、やっている人は、偉いと思う。しかし、私はそういう価値観を持っていないのである。そもそも長時間の手術をする外科など、過敏性腸の身で出来るはずがない。それで、できるだけ、楽な科にしようと思った。心療内科では、東邦大学が、関東であったが、私立のため、給料、月5万。しかも、入局希望者が多く、難しい英語の論文の入局試験を課していたため、無理だった。それに、よその大学の医局に入るのは抵抗があった。ポリクリでも見ていたが、よその大学からの入局者は、余所者の観が、どうしてもある。
それで、関東の国立の精神科単科の病院に研修医として、入った。
ポリクリで、精神科は、比較的、楽だと思ったからだ。また、精神科なら、心療内科とも関係がある。
研修医になっても、心は創作にしかなく、つまらない日々だった。それに、思ったより精神科は、精神的ストレスがかかって、疲れる。二年の研修は、何とか、やれたが、レジデント(二年後の研修医)には、なれなかった。私は医療界にくわしくないので、健康診断やコンタクト診療のアルバイトをやった。しかし、定収入がないのは、こわく、しかたなく、医師の斡旋業者に頼んで、地元の精神病院に就職した。
130床のオンボロ病院である。雨漏りがして、本当にボロボロの建物である。しかし、嬉しい事があった。それは、常勤医は、院長と私一人だけであり、医局室を一人で使えるのである。物を書くには、いい環境である。
私にとって、医者の能力や技術なんて、どうでもいいのである。私は書いた。
私は、ワードで、直接書くというのが、性に合わなかったので、ノートに書いて、それをワードに変換した。休みの日も書いた。
何とか、作家になりたい、と思っていたので、文芸社に十八の短編と、研修病院でのエッセイ五編を投稿した。文芸社が、問題のある出版社である事は、出版に関する本やネットで、見かけて、知っていたが、信じて、出版契約をかわした。すぐにインチキ出版社だとわかった。
それまで、大学時代から応募ガイドは、しょっちゅう、買っていたので、自費出版の値段より、高いのは、わかっていたが、それだけ宣伝してくれるものだと思っていた。

私はそれまで、いかにすれば作家になれるかをずっと、考えてきて、「作家になるには」的な本は、ほとんど読んでいた。一番いい方法は、文学新人賞を取ることだ。それまで、応募ガイドは、学生時代から、しょっちゅう買っていて、自分の書いた作品で、当選しそうなところは、ないかと、探していた。だが、応募の規定の字数にあって、コンセプトが一致して、当選の可能性のある募集は、なかなか見つけられなかった。それに、文学新人賞に当選する作品は、現代という時代の状況に合致し、現代という時代の感性に一致した、そして今までにない奇抜な作品が、当選しやすいのである。
しかし、私の作品は、ストーリーに、奇抜さはない。現代という時代の感性から生み出されたものでもない。私の作品は、私の先天的に持っている特殊な感性、の表現である。私は、私の感性、という、味つけ、だけで勝負している。
今まで、作品は書くと、人に読んでもらっていた。もちろん、人によって感想は違うが、感性の合う人だと、すごく気に入ってもらえる。だが、私は、読者を意識して、極力、読む人に読みやすいように書く。そのため、気に入ってもらえなくても、積読されたことはほとんどない。

ペンネームは、何にするか、迷った。好きな、姓や名は、小説の中で使いたい。何か由来があるものではなくてはならない。それで、浅野浩二、というペンネームにした。なにか、あまりパッとしない、ペンネームであるが、いいペンネームが思いつかなかった。「浅野」は、小学校二年の時の喘息の施設での私の最初の主治医の先生の姓である。「浩二」は、漫画の「ドーベルマン刑事」4巻の「涙の44マグナム」で、750ccのバイクに乗って、加納錠治と勝負したバイタリティーある青年が、好きで、その青年の名前が「浩二」だったので、それにした。あまり、いいペンネームではない。
本が出来た。
「女生徒、カチカチ山と十六の短編」
だが、本は一冊も売れなかった。置いてある本屋に行ってみたが、これでは、売れるはずがない。私と同じ時期に出た本を数冊、買ってみた。表現力も面白さも、全くないダラダラエッセイが、早くも完売され、二刷になっている。
これは、ひとえに宣伝にかかっている。その時、私はまだ、ホームページもつくっていなかった。本を出版したら、当然、親や友人には報告するだろう。だから、最低でも、内容がどんなものであれ、親や友人は買うだろう。しかし、私は親や友人に、言わなかった。というより、言えなかった。私の小説集には、エロティックな作品もあり、また、私は一度決めた以上、一生、「浅野浩二」というペンネームで通そうと思っていた。これから、色々な小説を書こうと思っていたが、エロティックな小説も、たくさん書こうと思っていた。親、特に、母親は、頭が固く、私がSM的感性を持っていると知ったら、間違いなく私を一生、変態と見るだろう。大学の文集でも、エロティックなものは、書いてもださなかった。私は、SM的感性を持っている事は、親にも友人にも、隠し通している。作家として、ある程度、認められ、商業出版で、本が出せる、(つまりプロになれる)ほどになれるのであれば、そういう恥にも、十分耐えられるが、自費出版程度で、プロになれないのなら、恥だけかくようなものである。エロティックな小説も、たくさん書くつもりである。
親に知らせる事は、そういう小説を書く上で、精神衛生上、よくない。
私の創作欲は、たった一冊の小説集で、満足できるほどのものでは、さらさらない。
なので、この出版は、だまされたものとして、見切りをつけた。たった一冊の本の宣伝に時間や手間をかけるなんて、バカバカしい。
私の創作に対する思いは、ともかく、「書きたい」である。私は書いていれば幸せなのである。もちろん、プロになれたり、世間に認められたりすれば、嬉しい。しかし、プロになれなくても、一向に差し支えないのである。私にとって創作は他人との競争ではない。創作は私自身の魂に対する戦いである。ある、描きたいイメージが頭に浮かぶ。私はそのイメージを、どうしても文字という表現手段だけを使って正確に描きたくて、やむにやまれなくなる。正確に描く事は、楽しみでもあるが、非常な困難でもある。この困難に対する挑戦が、生きがいなのである。そして頭の中のイメージを、正確に描けた時の喜びといったらない。
たった一冊の本の宣伝に、時間や手間をかけるなんて、ばかばかしいので、このインチキ出版社は、完全に無視し、あらたなる創作にかかった。
それは、夏のある日のことだった。SM小説を書いてみようと、挑戦した。創作で、一番大切なものは、精神の良好なコンディションである。普通の人なら、基本的に精神は、いつも、良好である。だから、いつでも創作しようと思えば、創作できる。しかし私は、過敏性腸および、それによる肉体、精神の不調が、ほとんど一年中なので、そのため、創作がなかなか思うように、いかないのである。冬は冷え性で、うつ。夏は胃腸の具合が悪く、吐き気。春や秋の季節の変わり目は、喘息や花粉症。
創作は、私にとって勉強より厳しい面がある。というのは、勉強は、ひたすら、教科書を覚えるだけだから、肉体や精神のコンディションが、多少、悪くても、何とか、出来る。しかし、創作は、精神の状態が悪く、うつ状態の程度がひどければ、不可能である。
それは、夏のある日の事だった。蒸し暑く、体調は悪かったが、SM小説に挑戦した。構想も考えず、筆の向くまま、夢中で書いた。が、書いているうちに、だんだん調子がでてきて、満足できるものが書けた。タイトルは、「太陽の季節」とした。いささか、観念的だが、書き上げた時の嬉しさといったら、なかった。これは、いささか、観念的だか、文章が、滑らかで、ある点には、自信があった。これは、私の創作態度の基本だが、私は、複雑にややこしく入り組んだ小説、読んで肩が凝るような小説は、書きたくない。私は読者を疲れさせたくないのである。そして、滑らかな文章というのは、読んでいて気持ちがいいのである。
「太陽の季節」は、私のSM小説の処女作である。私はこれに、気をよくして自信が出て、自分にも官能小説は、書ける、という自信がついた。余人は知らず、私にとってSM小説を書くことは、夢だったので、完成させた時は、最高に嬉しかった。
小説として、お話にはなっているが、これでは投稿しても、載せてくれる、雑誌はないだろう、と思った。第一、「SM秘小説」の小説募集でも、字数は、原稿用紙50枚ていど、となっていて、字数も足りない。小説を読む人は、ある程度のボリュームがあって、腹が満たされなければ、満足できない。
数日後、秋葉原にパソコンを買いにいったついでに、近くのエロ系出版社に、作品を持って行った。採用される自信もなかったが、プロの編集者に、作品が、どう評価されるか、知りたい、という気持ちからだった。もしかしたら、万が一で、採用してもらえるかも、という思いもあった。
もちろん、出版社に、アポイントもなしの、持ち込みなど、門前払いである。そこら辺の事情は、「作家になるには」系の本を何冊も読んでいて、知っていた。が、その出版社は、エロ系では、弱小である上、私の作品も25枚程度なので、編集者の手間もとらせないので、読んでもらえるかも、という思いから門をたたいた。
「ワープロで8枚の短編エロ小説を書いたので、読んでもらえないでしょうか」
と言ったら、嫌な顔もせず入れてくれた。出版社だって、いい作品や作家は、ほしいのである。
出版社に入るのは、初めての経験である。エロ系出版社だって、普通の出版社と同じである。そこら辺の事情は、「官能作家養成講座」を読んで知っていた。エロ系出版社は、スケベな人間が、集まってつくったのではない。まず、出版社ありき、である。それから、どんな本をつくって出版社を経営していくか、である。エロ本でいく、と決めたのは、エロ本は、そこそこ売れて経営が成り立つ、可能性が強いからである。真面目な本より、エロ本は、売れるのである。だが、エロ系の出版社は、多くあり、それらと競争しなくてはならず、また、面白くなく、買い手が、少なくて、赤字になったのでは、雑誌も廃刊にしなくてはならず、真剣そのものなのである。全て、売れるか、売れないか、という視点のみなのである。また、出版社の社員も、出来れば大手の出版社に入りたかっただろうが、入れず、出来るだけ、潰れず、安定した出版社に就職したい、という理由で入社しているので、みな、真面目な人ばかりである。10人くらいだったが、みな、自分のデスクについて、パソコンを見ながら、一心に黙々と、エロ雑誌の編集作業をしている。
目の前にいた、いい年のおじさんが、エロアニメの編集を真面目にしている光景には、ちょっと笑ってしまった。編集者がなかなか来ないので、私はかしこまって、部屋の隅の椅子に座って待っていた。そしたら、きれいな女社員が麦茶を持って来てくれた。
「どうぞ」
と言って、テーブルの上に置いてくれた。彼女も、安定した出版社、という点で選んでいるので真面目そのものであり、何か、可哀相に見えた。
小説担当の編集者が来た。私が作品を渡すと、彼は一心に読んでくれた。読み終えて、彼は、
「うん。文章もしっかりしていてて、いいよ」
と言ってくれた。彼は、しばし思案げな顔つきで、頭をひねっていたが、
「うん。確かに女を鞭打ちたい、という気持ちは、ストレスがたまると、起こるかもしれないけれど・・・」
と言った。私はすぐに、「この人は、SM的感性がない人だ」と思った。女を鞭打ったり、いじめたりするのは、社会生活のストレス発散のためではない。サディズムとは、女を愛するがゆえに、女をいじめたいのである。
エロ出版社の編集者でも、SMが全くわからない人がいるのである。
「SM的感性を持った人を入れないと、潰れかねないぞ」
と思った。彼は、
「これ読んで」
と言って、その出版社が出している雑誌の小説を開いて渡した。その小説の作家はエロ小説の大家として、名前は知っていて、以前、一冊、読んでみた事はあったが、全く好みにあわず、名前だけ知っているだけの作家だった。
「これ読んで、まねして書いてみて」
と言って、その雑誌と、その出版社で、出している別の雑誌を数冊、渡してくれた。持ち込み原稿が、そのまま採用されることはまずない、ということは、「官能作家養成講座」に書いてあって、知っていたので、さほどガッカリはしなかった。そもそも、私の持ち込みは、自分の作品を、プロの編集者に読んでもらって、その反応を知りたい、という気持ちからでもあった。要するに、もっと現実的な小説を、書きなさい、という指示だ。また、もしかすると、大家の代筆を出来るようになってほしい、という要求もあるかもしれない。名前がないと、作品は、読まれにくい。逆に、大家は、それだけで、特定の読者層があるから、読まれる保障があるのである。売れてる大家は、他紙にも、多く連載を執筆したりしていて、超多忙だから、代筆がばれないほどの影武者は、弱小出版社にとって、ぜひほしいのである。そもそも、近代日本の文学は、かなり代筆制が、おこなわれていた。永井荷風は、師事した師、広津柳浪の代筆をかなりした。印税をくれないので、荷風がおこった、ということだ。横光利一の初期作品にも、川端康成が代筆したものが、いくつかある。プラトニック・セックスも、最初読んだ時は、飯島愛が、書いたものだと、てっきり思っていた。現代でも、ゴーストライターは、水面下でそうとう活躍しているのだ。
ともかく、プロの編集者に読んでもらって、反応を得られたことは、大きな自信になった。

私は官能小説に挑戦するようになった。いくつも書いてみた。私は官能小説は、普通の小説よりも、ある点、難しいと思っている。官能小説も、小説であり、ちゃんとストーリーを持っていなくてはならない。その上に、官能小説では、エロティックさ、がなければならない。エロティックさの創出は、決して容易ではない。単に男と女の交わりを、普通の小説の感覚で淡々と書いてもエロティックさは、出ない。どうしたらエロティックさを出せるか、には、考え、工夫しなくてはならない。
私は、どんどん書いてみた。普通の健康な人は、小説を書く時、小説の大まかな構想を考え、小説のはじめから書き出す人がほとんどだろう。しかし、私はそうではない。書けると思った時に、エロティックな主要場面を一気に書いてしまうのである。エロ小説は、精神がビビッドで、エロティックな気分でなければ、書けないのである。私は、いつも過敏性腸で、体調が悪く、そういう時には、とてもじゃないが、書けないのである。仮に書いても、エロティックさは出ないのである。冬は特に、うつ状態になりがちで、うつの時には当然、性欲も出なくなり、書けないのである。私が、書ける時期は、春から夏のおわりまでの、暖かい時期である。その中でも、梅雨には、体調が悪くなる。また、私は睡眠薬なしには、生きていけず、睡眠薬の副作用には、性欲の低下があるのである。あまり病気の事は、言いたくなく、病気を創作の言い訳にはしたくないのだが、事実は事実なので、書かざるをえない。私が一番ほしいものは、健康である。全く変な話だが、私は年中発情している世のスケベな健康な男達がうらやましい。
それなら、エロ小説は、やめて、推理小説とか、他のジャンルの小説に変更すればいいじゃないか、と言われそうな気もする。ましてや私は医者であり、病院や医療のことは、知っているのだから、病院を舞台にしたヒューマニスティックな医療小説を書けばいいじゃないか、とも言われそうな気もする。しかし、残念なことに、私が書きたいのは、エロティックな官能小説なのである。なので、どんなに条件が悪くても、それにしか価値を見出せない以上、つらくても、頑張るしかないのである。

それで、色々、官能的なものに挑戦しだした。ある時、何の気なしに、軽い気持ちで、M女性を主人公にしたものを書いてみた。軽い気持ちで書き出したが、書いているうちに興がのってきた。これは、ぜひとも完成させたいと、思うようになった。それまで私は体力的に長編は、書けないと思っていた。しかし、出版社が求めているのは、長編である。また、作品の性格からして長編でなければならないものだった。書いているうちに、興が出てきて、これはぜひとも完成させたい、と思うようになった。また長編を何としても書いてやろう挑戦心も起こってきた。しかし、登場人物は、「私」と、「M女性」の二人きりで、書きはじめたので、ある程度まで書いたら、ストーリーに、いきづまりを感じてきた。長編でストーリーに、いきづまりを感じた時、ストーリーをつなげる安直な方法は、新しい登場人物を出す方法である。文学で小説というジャンルは、あまりにも自由で、制限がない。何をどのように書いてもいいのである。俳句なら、5−7−5、短歌なら、5−7−5−7−7という絶対の条件がある。そして、その条件、枷の中で、作品をつくる事に困難もあり、やりがい、もあるのである。
私も、二人きりで、ストーリーをつなげていくのに、いきづまりを感じ出したので、新しい登場人物をもう一人だそうか、という誘惑にかられた。しかし、私の感覚として、この小説は、何としても二人だけで、通したく、あらたなる登場人物は、いれたくなかったので、きばって、何とか、二人きりで完成させた。完成した時の喜びは、最高のものだった。
タイトルは、「M嬢の物語」とした。

私は、これでさらに、自信がついて、あらたなる作品にとりかかった。
「官能作家弟子入り奇譚」
学生時代、小説を書きはじめた時、構想はあっても、書けない困難な事があった。それは、細部の描写である。書きたいメイン場面は書けても、小説は、最初の一文から最後の一文まで、一文をもゆるがせにしてはならない。小説を書きはじめた時は、書きにくい細部の描写は、嫌いなものでしかなかった。しかし、今やもはや、それは、苦痛ではなくなっていた。書きにくい細部の一文を、頭をひねって考える事は、苦痛ではなく、むしろ、やりがいになっていた。
完成したので、団鬼六先生のオフィシャルサイトで、官能小説を募集していたので、応募したら、採用された。
感想で、最初に、「文章が上手い」と、言われ、嬉しかった。

私の創作は、他の人とは、ちょっと違っているだろう。私は体調のいい時、特に夏に、エロティックな主要場面を先に書く。そして、小説の主要部分が書けて、あとは、はじめの部分と、手入れ、をすれば、ものになる、ものが書けたら、次の別の作品の主要部分にとりかかるのである。エロティックさを必要としない、はじめの部分や、手入れは、冬のような体調の悪い時にでも書けるのである。エロティックな所は、体調のいい時でないと、書けないのである。こうして、体調のいい夏にエロティックな部分を書いておき、冬に初めの部分や手入れをして、完成させるのである。
それが、合理的であり、それしか方法がないのである。しかし、そういう書き方には、困った問題も出てくる。主要場面が、書けると、それだけで十分、満足感が得られてしまうのである。創作の満足とは、それである。完成させることは、いつでも出来る。そう思うと、次の作品、次の作品へと気持ちが走ってしまうのである。初めの部分や、手直し、編集作業は、面白くない上、結構、面倒くさいのである。
哲学者のメルロ・ポンティーが言っているように、作家にとって、過去の作品とは、もはや墓場なのである。

ちなみに、私がエロティックな小説を書いているからといって、私自身は、エロティックな小説は、ほとんど読まない。それは、プロのエロ作家に対する嫉妬からではない。
むしろ、極力、読まないようにしてきた。というのは、同じジャンルで、優れた作品を読んでしまうと、どうしても、それに引きずられてしまう危険があるからである。この危険はどうしても回避しなければならない。だが、読まないで、自分で考えて、書けば、ストーリーは、結果、似ているものでも、自分の個性、味つけの出た、オリジナルなものが書けるからである。これは、何も、エロ小説に限らず、全ての小説において言える。そういうことから、私は、読む本には、注意を払ってきた。多読すると、自分の創作意欲が、落ちる危険があるのである。ゲーテも言っているように、「人間は知らない事だけが役に立つのであって、知ってしまった事は、何の役にも立たなくなる」のである。もちろん、エロ系作家でも、自分と全く傾向の違う作品を書く人の小説は、安心して読める。また、団鬼六先生のように、もはや、大人の域に達した人の作品は、読むのに不安を感じない。
しかし、最近では、もはや、自分の書きたいと、思っているものは、どんなに他の人の本を読んでも、自分の創作に、危険が無い、と感じるようになってきた。そのため、読書量は、ぐっと増えた。

私は、もちろん、出来れば、筆一本のプロ作家になりたい。しかし、私がプロになりたい、理由は、他の人と、かなり違っていると思う。私は小説を書いていれば、幸せなのである。プロになって、有名になりたい、とか、儲けたい、という気持ちは、全然ない。ただ、小説を書く人は、誰だって、一人でも多くの人に自分の作品を読んでほしいから、その点は、非常に大きい。そして、これが、私のプロになりたい一番の理由だが、プロになれば、創作に気合い、が入るからである。アマチュアだと、創作しなくても、誰にも叱られないし、食うにも困らない。人間は、どうしても追いつめられた状態に置かれないと、怠けるものである。私は、ともかく、たくさん書きたいのである。それに、私は、創作以外でも、やりたい事が、多くあり、ややもすると、その誘惑に負けかねない。勉強とか、スポーツとかである。やはり、たった一度の人生であり、この世には、価値のある事が無数にあるからである。出来る事なら、それらを全部やりたい。ゲーテのファウスト博士と同じ気持ちである。プロになれば、その誘惑に負けず、創作一筋に生きなくてはならなくなる、からである。
森鴎外にしたって、死後、残ったものは、鴎外の優れた、膨大な文学作品群である。
医学者としての鴎外は、脚気の原因を細菌感染と考えて、その誤った自説を最後まで撤回しなかった、という不名誉な経歴さえ残してしまっている。

私は非常に変な立場になってしまった。というのは、医師免許を持っていると、食うには困らないのである。だから、プロにならなくても、創作しながら、生きていく事は、出来るのである。もちろん、私は、医学部に入る前は、医師の世界は全くわからなかったから、ケチくさい将来に対する計算で医学部に入ったのではない。医者になった後で、医師免許が、非常に有利な資格だと知ったのである。だから、私の創作は、自分の怠け心との戦いである。別に、創作しなくても、生きていけるのである。
私は、全く変な事を考えるのだが、いっそのこと、医師免許を取り消しにしてほしい、と、思ったりもする。もちろん、本気で、そうする勇気は無いが。なぜかというと、医師免許という便利な資格がなかったら、追いつめられた立場になるから、本気でプロ作家を目指そうという、気持ちが起こるかもしれないからである。
さらに私はプロになる事に別の理由で、抵抗さえ持っている。というのは、プロになれば、作家は編集者の完全な奴隷にならなくてはならないからである。言うまでもなく、出版社は、売れる作品しか求めておらず、そのためには、作家は、徹底的な書き直しを命じられ、読者にうける作品しか、書かせてもらえなくなるからである。つまり、自分の書きたい事は、書けず、ひたすら、読者の要求に合う作品をかかなければならなくなるからである。
プロになって、書きたくもないものを書くよりも、アマチュアで、自分の書きたいものを書いていた方が、私には、ずっといい。
もっとも、文学新人賞に入選したり、文壇で不動の地位を得るまでになれば、自分の書きたい作品を自由に書けるようになるが。しかし、そこに、到達するまでの道はあまりに厳しい。

私は書いていれば、幸せなのである。自分の名前を歴史の中に残したい、という気持ちは、ほとんど無い。梶原一騎は、最後の自伝漫画、「男の正座」で、処女作の「チャンピオン太」で、原作者である自分の名前が書かれなかった事に、すごい腹を立てたそうだが、私だったら、全然、怒らなかっただろう。私は、自分の名前なんかたいして残したいとは思わない。だが、なろうことなら、自分の作品を残したいのである。もちろん、つまらない作品まで、全て、残したいとは、全く思わないが、もし多少なりとも文学的価値がある可能性のあるものなら、残したいのである。
もっとも、価値というものは、難しいもので、どんなに優れた作品でも、読者は、自分の価値観というものを持っているから、万人に認められ、好かれる作品というものは、ありえない。どんなに優れた推理小説の作品でも、推理小説に興味のない人は、買いもしないし、読みもしない。どんなに、ネット裏のいい席でも、プロ野球に興味のない人にとっては、ネット裏のいい場所の座席券は、紙クズでしかない。
私は広末涼子に全く魅力を感じていない。あの国民的アイドルに。たしかに、広末涼子は、きれいな顔立ちで、この子は、他の人の視点から見れば国民的アイドルになるだろうな、と思った。そのくらいの想像力は、容易にはたらく。しかし私は広末涼子に全然、魅力を感じないのである。その一方、私は優香さんには、ものすごい魅力を感じるのである。
文学作品や漫画においても、私の価値観は、他の人とかなり違うのである。
たとえば、漫画では、私は、あおきてつお先生の作品の、「マイ・ラブ・まなみ」という、作品は、私の宝物である。週間雑誌に載った読み切りだったので、読んだ後、捨てようかどうか、ちょっと迷ったが、切り取ってホッチキスでとめて、とっておいた。本当によかった。再読、三読しても、読むたびに、心が和らぐのである。だが、おそらく、他の人は、一読して終わりだろう。もしかすると、あおきてつお短編集として単行本に、収録されているかもしれない。また、ちょっと失礼かもしれないが、あの作品は、ストーリーは、別の人が考えたのかもしれない、と思ったりもする。あまりに、出来のいい作品というものは、原作者が別にいる場合があるのである。
他にも、逆井五郎先生の漫画は、全て私のお気に入り、である。
また、古城武司先生の、「オリバーツイスト」の漫画も、私の一生の宝物である。

これらの作品は、私の感性に完全共感するからである。
私が書いた作品も、やはり、感性の合う人には、すごく気に入ってもらえるが、感性の合わない人には、見向きもされないか、一読でゴミ箱だろう。
つまり、逆もいえるのである。大多数の人に、気に入られなくても、少数の人でも、感性の合う人には、非常に気に入ってもらえる可能性があるのである。

そういうことからも、私は、どうしたら、私の感性に合う人が、私を見つけてくれるか、その方法の模索に悩んでいるのである。が、思いつかない。やはり、勇気を出して、宣伝するしかない。のだろう。

また、私は、自分の作品を、死後、何が何でも残したい、とも思っていない。
私にとって、創作は、自分の頭にあるイメージを、正確に、作品として完成させたい、というのが、一番の私の欲求である。満足いくように書けた時の喜びといったらない。
創作は、けっして楽な事ではない。しかし、その困難の克服が私の生きがい、なのである。
ちょうど登山家が困難な山に登るのが、生きがいであるのと、全く同じである。
チャレンジスピリットである。私にとっては人生とは、自分自身との戦いである。
他人との戦い、競争ではない。
「赤と黒」の作者、スタンダールの墓碑銘だって、「生きた。愛した。書いた」である。
「生きた。愛した。残した」ではない。

さて、私は、一番、書きたいのは、小説である。だが、私は、小説でなくても、何か、まとまったもの、を書いていれば、気持ちがいいのである。エッセイや、考察文でも、書いていれば、気持ちがいいのである。もちろん、エッセイや、考察文を書いている時の喜びは、小説を書いている時の幸福感に較べると、はるかに落ちる。
やはり、医療に携わっていると、感じる事が多く、医療エッセイなら、いくらでも書ける。また、医療エッセイというのは、わりと、読まれたり、本にした場合、売れる可能性があるのである。医療の内幕、実態は、どういうものなのか、興味を持っている人は多い。
確かに、そういうものをたくさん書いて、本にするという方が、作家になる方法として賢いだろう。確かに、健康な人なら、エッセイも小説も両立できるだろう。しかし私は過敏性腸のため、両立は出来ないのである。あまり、自分の病気の事は、書きたくないのだが、私の人生において、病気の事を抜きにして私の人生は、語れないのである。ので、書かざるをえないのである。
両立できず、どちらかをとるとなると、やはり、というより、当然、一番、書きたい小説を書く事になるので、エッセイまでは、手が回らないのである。エッセイは、何かを体験して、書きたい、と思った時、一気に書いてしまうのがいいのである。しかし、残念ながら、両立は、出来ないので、エッセイは、捨てているようなものなのである。

他人とは違うだろうが、小説を書くのは、困難をともなうが、根気よく書いていると、書く事が困難でなくなってくるのである。習慣というものの力は凄い。

私は、昔は、小説しか、書きたいとしか思わなかったが、ある程度、小説を書いた時点から、もう何でも書こうという気持ちになってきた。
もともと私の気質からして、私は、小説より、粘っこい評論文を書く方が気質に合っているとは、わかっていた。内向的な人間は、物事の本質を見抜く能力が優れている面があるから、けっこう、価値のある評論文が書けるのである。
だが、エッセイと同じで、健康な人なら、小説と評論文を両立して書く事が出来るだろうが、残念な事に私は、過敏性腸のため、両立は、出来ないのである。そのため、どちらかをとるとなると、やはり、一番書きたい、小説ということになってしまうのである。
そのため、評論文は、書きたくても書けないか、体調が悪く、小説を書けない時に、書いているのである。
私の病気の事を書いた、「過敏性腸症候群」も、小説が書けない時に書いた。
これは、書く前から、これを書けば、きっと共感してくれる人が、いるだろうと思っていた。それで、体調の悪い時に、一気に書いた。ネットの「過敏性腸症候群の個人研究」のサイトの掲示板に、書き込みをしたら、好評が帰ってきた。とても嬉しかった。ワープロで8枚と、少ない。私は、もっとつづきを書きたいし、書けるのだが、どうしても、小説の方に手が回って、書く時間がないのである。私は、対人恐怖症対策とか、もっと一冊の本になる分量ほど、書ける。それは、私が医師であると、同時に、患者である、という両面を持っているからである。また、これは、結構、苦しんでる人の力になる文だと思っている。星野富広さん、のように、苦しくても頑張って生きている人の存在、というのは、同じように、苦しんでいる人にとって、とても力になるのである。なので、これも、ぜひ、もっと書くつもりである。私は、苦しみを克服した事を誇らしげに語る事なんて、大嫌いである。私は、自分が、「苦労した」なんて、言葉は一生言いたくもない。そんな事、言ったら、私が私でなくなってしまう。これは、父親の反面教師の影響も、かなりある。父親は、二言目には、「自分は苦労した」と言う。聞いてて、本当に嫌である。
確かに、客観的に見た場合、私は、相当つらい人生を送ってきた。健康な人なら出来る事も、病気のため、健康な人の出来る事の十分の一しか、出来なかった。しかし、私は医師として、もっとつらい、苦しみに耐えて、頑張って生きている人を、多くみている。
また、少なくとも私は、男というものは地獄で笑うもの、だと思っている。
私は、人生で、大切な事は、「感謝」の心だと思う。
人間の欲望には、きりがない。あれも、出来なかった、これも出来なかった、とグチをこぼす、精神だと、人生は、不幸そのものである。他人と較べるから、いけないのである。あれも出来た、これも出来た、と、いい方の事を思えば、人生は、幸福である。
私は、哲学者、数学者のパスカルが好きだが、パスカルは、生き地獄にも近い多病に悩まされた人生だった。だが、パスカルは、自分の病気を不幸だとは考えなかった。それは、「パスカルの祈り」を読めばわかる。

もっとも、創作においては、もっと、もっと、たくさん創作したいと思うのは、欲望という、悪徳ではなく、志の高さであって、美徳である。ある程度、書きたい事を書いて、満足してしまうべきではない。やる気を失わず、努力すれば、いくらでも書けるのである。

私は、戦後生まれで、戦争を経験していない。戦争を経験した人は、戦争を経験していない若者を、苦労知らず、と、軽蔑しがちである。確かに、経験していない以上、どんなに本や映像で、戦争を想像してみても、経験していないものは、本当にわかる事は、できない。(もっとも、私は、それまでに、一度、心の支えだった思想が、根底から、くずれた経験をした事があり、その時は、かなりの期間、精神が不安定になり、虚無状態になったから、感覚として少しはわかる面もあるのである)
しかし私は、戦争を経験していない者、と言われる事に、抵抗を感じるのである。
フォークソングの、「戦争を知らない子供達」の歌を、子供の時、歌わされた時、非常に違和感を感じた。
私は、小学校二年の途中から、四年まで、と、五年の途中から卒業までと、計三年、親と離れて喘息の施設で生活した。病気とは、壮絶な人生経験である。病気は、死と直結しているのである。喘息の施設では、症状の重い子もいた。二年の時の施設で、ある、かわいい男勝りな女の子がいた。彼女は、神戸から、その施設に来ていた。彼女は、それほど、重症ではなかった。そのため、彼女の強い要求もあり、退院した。しかし、その数ヵ月後、彼女が重積発作で死んだ、という知らせが来た。当時は、何とも感じなかったが、今では、可哀相でしかたがない。私も発作が起こった時は、いつも吸入器(β2刺激薬)で、症状はおさまる。しかし、一度、重積発作が起こった事があり、いくら吸入薬を使っても、おさまらないのを経験した事がある。その時は、「もう、これでオレの人生はおわりだ」、と覚悟した。すぐに救急車が呼ばれ、病院に入院し、症状はおさまった。私の伯父も喘息重責発作で死んだ。また、五年の時の施設では、若年性関節リウマチの子が、発作で、「痛い、痛い」と苦しんでいる姿もみている。膠原病の子も多くいて、ステロイドの副作用で顔が丸くなってしまっている。また、小児糖尿病の子は食事も制限されていて、十分食べる事が出来ない。病気の子は、いつ、召集令状(死)が、やってくるか、に、おびえて生きているのである。これは、戦争と全く同じではないか。
だから私は、五年の時、キャンプで、「戦争を知らない子供達」を歌わされた時、また、その歌に、違和感を感じるのである。
病人は、いつ死ぬか、わからない恐怖感を持っているから、生きる事にも真剣なのである。

私は、中学、高校と、母親の出身校である、私立の学校に入った。私の親戚には、この学校との、つながりが多いのである。受験教育を否定し、人間教育とやら、を謳っているが、私は、この学校が、嫌で嫌で仕方がなかった。授業のレベルが低くて、まだるっこしい。生徒は、勉強しなくても付属大学卒業まで、0点でも、保障されている。だから、勉強に身を入れる生徒は少ない。いかに、怠けて、遊んで、楽に生きる事しか、考えていない生徒が多い。私はそういう根性の人間が大嫌いである。少なくとも、私は、絶対、そんな生き方なんか、したくない。そんな風に生きるくらいなら、死んだ方がマシである。これは、病気とは、関係なく、私の性格である。私は、マイホーム主義が嫌いである。私は、男の人生とは、自分の目的に向かって、わき目もふらず、ひたすら突き進むものだと思っている。体当たり精神こそが、男の精神だと思う。
私は、現代という時代に魅力を感じない。私は、昭和のはじめから、太平洋戦争、そして戦後の混乱の時代に心が惹かれるのである。
あの時代には、みな、真剣に生きていた。死の恐怖と、隣り合わせに生きていた。
人間は、死の実感を持つと、精神がビビッドになるのである。

そして、私が、どんなに苦しくても、生きなければ、と、思うのも、戦争と関係があるのである。学徒出陣にせよ、特攻隊にせよ、私は、親の知らない事まで、知っている事が多いのである。関心が向くからである。私は、学徒出陣、特攻で死んだ人達の死が無駄死に、だとは、全く思っていない。私は右翼では全くない。だが、学徒出陣。将来に対する夢も希望も持ちながら、日本国のために、死んでいった人達、自分の命を犠牲にして、日本国を守ろうとしてくれた人達の死を、絶対、無駄死に、にしては、ならない、と思うのである。単に物理的な事実だけを考えれば、特攻隊員の死は無駄死に、である。しかし、日本国を守ろうとしてくれた精神、その精神だけは、間違いなく純粋にして、気高い精神である。だから、自分の夢も希望も犠牲にして、日本国のために死んでいった人達のことを思うと、真剣に生きなくてはならない、つらくても、生きて日本国のために、尽くさねばならないと思うのである。

健康に生まれた子供は、将来、大人になって、社会人として、生きていく事が保障されている事を前提とした感覚で生きている。だから、現代という時代を考えて、安定した仕事を探そうとする。もちろん人様々だが、人生を積極的に、考えて、結婚し、子を産み、安らかな老後を送り、たいと思っているだろう。

しかし、私は病気を持って生まれたため、そういう感覚ではないのである。生が保障されていない。いつまで生きれるかわからない、のである。病弱で、顔も悪い。(本当はそんなに悪くはない)もし子供を産んだら、私の喘息内向性の遺伝子を持った子供が生まれる可能性がある。私にとって、生きている事はつらいことである。そもそも、私は集団帰属本能が無いから、ワイワイ騒ぐという、みなが楽しみである事が、私には苦痛なのである。私は、幼稚園からして登園拒否児童だった。もし子供を産んだら、そういう体質を持った子が生まれない、という保障はない。そんなつらい目になんか、とても可哀相で、あわせたくないから、子供を産む気もない。子供を産む気がないから結婚する気もない。だから私は、将来を前向き、積極的に考える事が出来なかったのである。自分は、何のために、生きるのだろうか、という事が子供の時から、どうしても、わからなかったのである。

しかし、そのために、私は生まれつき、人生のテーマを与えられて生まれてきたようなものである。医学部を選んだのも、そういう私に先天的に課せられたテーマと私の劣等感の強い性格の必然性の結果である。また、美に対する、こだわりが非常に強い。スポーツでも勝ち負けなんか、あまり興味がない。いかにフォームが美しいか、である。人との付き合いが、苦しみだから、一人でコツコツやる仕事が私には向いている。子供を産めないから、紙の上で作品の中で私の子供を産みたいのである。そういう点からも、小説家になりたい、と思ったのも、やはり必然性が、あったのだ。それに、もっともっと早く気づいて、決断力を持てていれば、よかったと、つくづく後悔している。しかし、私は20代で、小説家になろうと、決断したのだから、そう遅すぎもなかった、とも思っている。

少年の時は、こんなつらい人生からは逃げたくて、夭折の美に憧れたが、20を越してからの死はもはや美しくない。それに、自分が本当にやりたいことも見つかった。過敏性腸はつらく、年をとるにつれて、もっと悪くなるかもしれない。その可能性の方が強いだろう。そもそも、人間は健康な人でも、年をとるにつれて、体力、体の機能が低下していく。しかし、私は若い時から空手や水泳やテニスをやっていて、それが、結構、アンチエイジングに役立っているのである。体力を落とさないため、市民体育館のジムにも、行って、トレーニングしている。健康のありがたさを、人一倍、知っていて求めているから、酒もタバコも、全く無縁である。

幸い、昔、出版した本、「女生徒、カチカチ山と十六の短編」が、点字図書にも選ばれた。これは、嬉しかった。文学新人賞ほどではないが、私の作品の価値が認められた、という事である。価値の無い作品が、どうして点字図書に選ばれるだろうか。電話して、車で行って、お礼を言ってきた。そしたら、向こうの人は、逆に私にお礼を言ってきた。何か、とても、申し訳ない気がした。ボランティアの人が、一年かけて、作業してくれた、と聞いて、ますます、申し訳なく思った。点字にする作業は、かなり大変で、一度、点字にしたものを、捨てるという事は、まず考えられない。ので、私の作品は、残る可能性がある。それに、私の書く小説は、現代を描いたものではなく、普遍的なものなので、時代か進んでも、色あせるという事もないだろう。

これから、どうなるか、全く将来の事はわからないが、もう可能な限り、頑張って生きようと思う。ただ、過敏性腸が悪くなって、何も出来ず、人様に迷惑をかけるだけになったら、私は若者に年金の負担をかけたくないから自殺しようと思っている。
死ぬ方法は、大昔から決めてある。
靖国神社の前で、夢も希望もありながら太平洋戦争中、日本を守るために死んでいった特攻隊員たちに感謝しつつ切腹して死ぬつもりである。