浅野浩二

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浅野浩二(あさのこうじ、文久2年1月19日(1862年2月17日)〜大正11年(1922年)7月9日) は、精神科医・小説家。空手家。

目次 [非表示]
1 経歴
2 医学者として
3 小説家として
4空手家として
5 出来事とその影響
6 著書
7 関連項目
8 関連リンク
9岡田有希子ファン
10テレビ出演


経歴
文久2年1月19日(1862年2月17日)、東京都大田区で生まれ、埼玉県で育った。テレビ局が行った彼の過去を知る学生時代の友人・知人へのインタビューによると、幼い頃から成績は多くの場合オール5で秀才だったことから、「神童」と呼ばれていたという。


三歳より小児喘息発病。小学校の半分を喘息の養護学校で過ごす。卒業後、私立自由学園入学。当時の同級生は高校時代は男子部で女性や恋愛の話などはすることがなく、SM小説を読みながら登校していたのが強烈に印象に残っていると話している。19××年、奈良県立医科大学に入学。19××年3月、奈良県立医科大学卒業。学位は医学士。家族にはゴキブリとダニがいる。


経歴には以下のようなものがある。

1983年4月、日本パンティー愛好協会に入社し、パンティー研究部を担当。
1996年7月、日本パンティー愛好協会主任エコノミスト
1999年4月、日本パンティー愛好協会上席エコノミスト
2002年4月、日本パンティー愛好協会主席エコノミスト


医学者として

医学者としての能力については賛否がわかれている。


大変な勉強熱心で、ポリクリでも臨床研修病院でも夜の十二時を越すことはザラ。研修病院では、体を壊さないよう勉強のしすぎを再三、注意される。
何か、やらせると、とことんまで、つきつめてしまう性格のため。
速記を習った事があり、大学での臨床実習でノートした量は日本一。臨床実習で聞いた事は一言残らず全てノートした。
だか、医学嫌い、医学アレルギーのため、医学は何か機会がなければ、全くしない。どこの医局にも学会にも所属していない。

だが、浅野は幼少より喘息で自律神経系が弱く、過敏性腸症候群、不眠症、うつ病、喘息で、自身の持病をもとに、患者に対する対応は真剣で、医者の視点からではなく患者の視点から病気を診ようとしている。
だが、浅野は、病気を統計学的・医学的に再検証していない、日本の医学の発祥時に見られたようなタイプの医師であり、現在では旧世代の医師に属すると言われる。それを傍証するかのように、浅野は好きな医学者として池見酉二郎を挙げている。そのようなこともあり、浅野の言明を時代錯誤として厳しく評価している医学者や一般国民も多い。


小説家として
大学時代、友達に誘われて文芸部に入り、文学、創作の素晴らしさにとりつかれ、小説を書き出す。
浅野の文学は谷崎潤一郎の流れをくむ耽美派で、官能小説、恋愛小説が多い。
団鬼六のオフィシャルサイトの「官能作家への道」に投稿した小説、「官能作家弟子入り奇譚」が、認められ、「鬼の後継者」を拝命する。
書き溜めてきた小説はサイトに出している以外に多量にあり、また、ネタはいくらでもあり、尽きることは無いと言っている。


空手家として
若年より空手を始め、今では達人の域。あらゆる蹴りと連続技が出来、その蹴り技は人間離れして美しく、ほとんど神業に近い。
1インチパンチが出来る。
ブルース・リーと、そっくりの蹴り技が出来る。
「死亡遊戯」で、ブルース・リーの吹き替えをやったという説がある。
ほとんど人間凶器。それ以上に精神が狂気。
その他、太極拳、酔拳、リズミックカンフー、ボクシング、などを研究し、独自の武術、石鹸道を創りだす。
側宙が出来る。その他、水泳、テニス、スキー、転回運動、が出来る。(「武道・スポーツ上達法」参照)
剣道の経験が全く無いのに、一度、体験したスポーツチャンバラで、三人抜きの剣道有段者に勝つ。(スポーツチャンバラでは足が認められているのに、剣道家は、それに注意していなかった。格闘で勝利をおさめるのは、技ではなく頭脳である)


出来事とその影響
この節には、現在進行中のことを扱っている文章が含まれています。
2004年4月8日、二年の研修を終え、就職した××精神病院で、休職中の女医の持ち物の入ったダンボールの中に、パンティーがあったので、女性の心理の研究のために、手にとっていた。それを所有者の女医に見つかり、以後、変態とみなさる。履いていないのに履いていたと見なされ女医は告訴。(このあたりは、「精神科医物語」に詳しく書かれている)この不祥事がマスコミで扱われ広く人々に知られた。この影響により2004年5月7日に、××精神病院を退職。表舞台から去る。また、捜査において収集したSM写真集から被告人の特異な性的嗜好を暴露した。それらはマスコミによって公衆にさらされた。検察側が、これらの情報を公にしたのは被告人が否認する中で公判維持のために必要不可欠と考えたものとされる。しかし、休職中の女医の下着が、病院に置いてあるという事はそうそうあり得るものではない。よって、××精神病院が来手の無いオンボロ病院に医師をとどめておくために、わざと置いておいた可能性があり、もし、そうであれば××精神病院の経営状態をくわしく調べる必要がある。しかも被告人は、誠実な性格で、とても研究熱心である。しかし家宅捜査によって被告人のアパートから多数のSM写真集がみつかり被告人には特異な性的嗜好がある可能性があり、もしそうであれば、被告人の主張するように女性心理のために女医の下着を手にしていたのかどうか疑問が持たれる。しかし多くの証拠を握られておりながら否認を通した被告人の考え方が窺える。


なお、女性の下着をあさろうとしていた行為にちなみ、ネット上などではアサリーマンというニックネームがつけられた(ちなみに、浅野と仲間扱いされている敷島テレビの元アナウンサーは「(気持ちが)フワフワしてやった」と供述したことにちなみ浅野の「アサリーマン」とかけて「フワリーマン」というニックネームがつけられた)。


2005年3月23日、東京地裁は罰金50万円、(求刑懲役4カ月、SM写真集没収)の判決を言い渡した。これに対し浅野浩二氏は「天地神明に誓って無実」と冤罪を主張しながらも控訴を断念し、2005年4月6日の控訴期限日に刑が確定した。


2005年4月にはパンティーリサーチ社を登記し代表取締役となったり、ワカールなど下着メーカー企業コンサルタントを務めるなどして、著名活動を再開した。


2006年12月6日に初公判が東京地裁で開かれた。浅野は「天に誓って履いていない」と無罪を全面主張。事件当時、被害女性医師から「医者なのに恥ずかしくないんですか?」と言われうつむいていた。当初は「私は女性が不快に思うことをやりました」と容疑を認めたにもかかわらず、警察の取調べに際し一転無罪を主張した。また、「これが土石流のように報道され、家族のゴキブリとダニも被害を受けてしまう。(おかげで家がきれいになる) 家族を守るためには私が死ぬしかない」と思い、駅事務室でネクタイを首に締めて自殺も図ろうとしたことも明らかになった。


なお、12月20日の第2回目公判には、検察側証人として被害女性医師もビデオで証人尋問に応じた。被害女性医師は「浅野被告人は下着を履いたのに間違いありません」とはっきり述べた。


また検察は、事件当時の被害女性の肌着を鑑定しており、そこから被告人の指紋がもし検出されれば、浅野被告人の犯行の事実は決定的になる。


2007年1月22日、保釈保証金600万円を納付して保釈される。1月19日には東京地裁が保釈許可を出しており、東京地検が抗告したが地裁はそれを退けた。


2007年1月25日の第3回目公判で、件のパンティを鑑定していた科捜研の女性研究員が検察側証人として出廷。「被害女性医師のパンティの構成繊維と、浅野被告人の左手人さし指、右手薬指、右手親指の指紋が一致した」と証言した。


医療関係者の中には、この一連の事件を精神病院の陰謀であると唱える者もおり、浅野も「事件は常勤医を病院に繋ぎ止めて置くための陰謀だ」と答えていた。これらの主張については、浅野浩二事件を検証するのに役立つ「精神科医物語」に詳しく展開されている。


関連リンク
「浅野浩二のホームページ」
「精神科医物語」


岡田有希子ファン
週刊誌『週刊××』で浅野の友人・知人らのインタビューによると、浅野は岡田有希子のファンだということが明らかになっている。浅野にとって岡田有希子はファンというより神様に近い存在という。友人とカラオケに行って酒に酔うと必ずデビュー曲の「ファースト・デート」を歌うのだという。また、岡田有希子の母校・堀越高校の制服が好きだということも週刊誌で分かっている。岡田有希子をモデルにした小説「ある歌手の一生」を書いた。


著書
「女生徒、カチカチ山と十六の短編」(文芸社、2001年3月発行)
点字書籍に選ばれ、点字本になる。


関連項目

宗教・・・全くの無神論者。だが牧師以上のキリスト教解釈能力を持つ。(「西方の人」、「失楽園」参照)
仏教徒でないのに般若心教を暗唱できる。

人物・・・100年に一人、生まれるか生まれないかの天才という説がある。

性欲・・・高卒までマスターベーションの仕方を知らなかった。
信じられないが、未だに童貞。一生、童貞を貫く信念を固く持っている。
禁欲的でセックスはしない。病的プラトニック主義者のため。

好きな政治家・・・鈴木宗男、石破茂、麻生太郎、小沢一郎、徳田虎雄

好きな経済学者・・・植草一秀

好きな人・・・一対百のケンカが出来る人

思想・・・右でも左でもない。日本文学を世界に誇れる最高のものだと思っている。

容姿・・・身長172cm 体重60kg 顔が悪いように小説で書いているが、それは謙遜で理想が高いため。本当は特に良くも悪くもなく普通。

嗜好・・・酒、タバコ、ギャンブル、一度もしたことがない。したくもない。間違いなく一生無縁。

愛車・・・30万で買った激安オンボロ車。はたして愛しているのか疑問が持たれる。だが刑事コロンボの車よりはマシ。
999cc。伯母が交通事故で死んだため車の運転は慎重。

人生観・・・過敏性腸症候群のため、寸暇を惜しんで生きている。

Belastung・・・父系が喘息。本人および父が喘息。伯父は喘息重責発作で死亡。
母系・・・母系に精神病気質あり。母に精神病院入院歴あり。祖父は自殺。

テレビ出演・・・小学校二年の時、喘息の施設を紹介する番組のため、テレビ局の人が撮影にきた。おそらくNHKだと思われる。その時、乾布摩擦をしている浅野の顔がしっかり出てしまった。祖母が、それをテレビを観ていて見つけてしまった。


この「浅野浩二」は、人物に関する書きかけ項目です。
この記事を加筆・訂正などして下さる協力者を求めています。(ウィッキプロジェクト 人物伝)

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最終更新 2007年8月15日 (水) 21:21。
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