今年の夏 (2019) もどる
今年の夏、のことを、書いておこうと、思います。
自分のことを、正確に書くので、これは、小説ではなく、エッセイ、ということに、なります。
あるいは、私小説、と呼べるものになるかも、しれません。
今(令和元年9月19日)、いくつも、書きかけの小説が、あって、体調が良いので、書けるので、どれから、書こうかと、悩みましたが、書きかけの小説の続きではなく、今年の夏のことを、書いておこうと、思いました。
それは、いくつも、小説を書いていて、どれから書こうと、悩んだ時は、一番、書きたい物から、書くのが、一番いい、からです。
何作も、小説を書いている、といっても、これは、絶対、完成させたい、と、自信をもっている自信作もあれば、軽い気持ちで、書き始めて、それほど、強い思い入れの無い、まあ、完成させなくてもいいや、と、思っている、小説も、あるのです。
自信作は、放っておいても、いつか、時間のある時に、書いて、完成させることが、出来るのですが、それほど、強い思い入れの無い、軽い気持ちで、書き始めた作品は、時間が経ってしまうと、興がさめてしまって、続きを書いて、完成させようという情熱が無くなって、書かなくなってしまって、結局、ボツになることも、あるのです。
しかし、完成させなくてもいい、と、思っている、どうでもいい、作品でも、書いておこう、という、情熱がある時に、一気に続けて書き続ければ、完成させることは、出来るのです。
なので、軽い気持ちで、書いた作品でも、一気に書き続けて、完成させた方が良い、ということも、言えます。
ボツにならず、完成させることが、出来るのですから。
それに、絶えず、小説のネタを、探して、生きていると、新たに、書きたい小説が、思いついてきて、そっちの方を、書くことになりますから、なおさらです。
しかし、今年の夏のこと、(今年の初めからですが)、は、それほど、長く書くつもりは、ありませんし、一週間も、かけないで、書けると思いますし、そして、今、一番、書いておきたいことなのです。
なので、「今年の夏」、と、題して、今年の夏のことを、書いておこうと、思います。
〇
昨年、1918年(平成30年)、は、極寒の、冬が過ぎ、2月の中旬ころから、小説を書ける体調になり、小説を書き出しました。
桃太郎・・・・・・・・・・3月18日・・119枚
縄師・・・・・・・・・・・4月11日・・58枚
ある複雑な家族の話・・・・5月2日・・183枚
信心深い銀行強盗・・・・・5月3日・・5枚
日大フェアプレー物語・・・6月6日・・75枚
スポーツ上達小説・・・・・6月30日・・115枚
と、順調に書くことが出来ました。
しかし、7月から、40度を超す、猛暑日が続いて、厳しい暑さに、私の体が耐えられず、小説を書くことは、おろか、何もすることが、出来なくなって、一日中、寝ている日が、続きました。
7月、8月、9月、と、三ヵ月、それが、続きました。
昨年は、猛暑の夏には、もう、これ以上は、小説を書くことは、出来ないだろう、とあきらめていました。
しかし、猛暑が去って、10月から、また、体調が回復し出して、小説を書くことが、出来るように、なりました。
これは、私にとっては、奇跡のように、嬉しいことでした。
私は、(書ける時に書いておかなければ)、と思って、毎日、朝、起きてから夜、寝るまで、小説を書きつづけました。
それで。
白雪姫・・・・・・・・・・・・・・10月10日・・100枚
うらしま太郎・・・・・・・・・・・10月16日・・36枚
うらしま太郎2、3、4、5、6、7・・・11月4日・・190枚
うらしま太郎と桃太郎・・・・・・・11月8日・・32枚
本音と建前・・・・・・・・・・・・11月11日・・21枚
イエス・キリスト物語・・・・・・・11月14日・・18枚
カルヴァンの予定説・・・・・・・・11月15日・・21枚
一人よがりの少女・・・・・・・・・11月16日・・14枚
小説家・東野圭吾・・・・・・・・・11月24日・・64枚
シェルブールの雨傘・・・・・・・・11月28日・・14枚
憲法改正・・・・・・・・・・・・・12月7日・・36枚
と、22作品も、書くことが出来ました。
しかし、12月から、寒くなって、冷え性の私は、また、体調が悪くなって、書くことが、出来なくなりました。
小説家は、小説が書けなくなると、死んだのも同様です。
また、一日中、寝ている日が、続きました。
〇
しかし、年が明け、2019年(平成31年)、になって、3月ころになって、段々、春の兆しが、体に感じられるようになると、体調が良くなり出しました。
私は、また、おそるおそる、小説を書き出しました。
そして、私は、4月2日に、「完全なる飼育」、という、原稿用紙換算で、126枚の、小説を書きあげました。
しかし、その後、体調は良くても、書く気力が起こらない、という状態になってしまって、小説が書けなくなってしまいました。
私は、書きかけの、小説を完成させようとしましたが、どうしても、気分が乗らず、書けませんでした。
小説が書けないに時は、小説を読んだり、何か勉強したり、すればいいとは、わかっているのですが、小説を、いくら読んでも、自分の小説の創作には、ほとんど、役に立たない、ということを、私は、長年の経験で知っていました。
小説家にとっては、「小説を書く」、ことが、生きている唯一の目的なので、小説が書けなくなっても、何とか、小説を書こうと、毎日、机に向かって、頭を酷使して、アイデアをひねり出そうとして、新しい小説を書こうと、しました。
しかし、どうしても、書けません。
スランプです。
それで、また、一日中、寝ている生活になってしまいました。
小説が書けないと、人生が、灰色になって、何をやる気も起こらなくなります。
私は、体力が無く、病弱なので、週に、2回、水泳と、週に、1回、体育館に行って、筋トレ、と、ランニング、をしていました。
そうしないと、生きていけないからです。
「生きていけない」、とは、ちょっと、言い過ぎですが、運動して、体力をつけていないと、QOL(生活の質)、が、極度に低下してしまうので、小説も書けなくなります。
私が、今まで、小説を書いてこれたのは、運動して、健康を保っていたからです。
そして、運動、特に、水泳をすると、便秘が、改善されるだけではなく、ゆっくり、長時間、泳いでいると、脳に、βエンドルフィンが、分泌されてきて、気分が、ハイになって、小説のアイデアが、浮かぶ、ことも、あるのです。
しかし、今年は、違いました。
どうしても、小説の、アイデアが、沸かないのです。
それで、また、一日中、寝ている生活になってしまいました。
しかし、私は、去年の夏、小説が、書けなかった時に、何もしないで、過ごしてしまったことを、後悔していましたので、読書することにしました。
私は、まだ、全部は、読んてはいなかった、中央公論社の、谷崎潤一郎の、作品、や、青空文庫、の、作品を、読みました。
その他にも、以前、文庫本で、買ったものの、ツン読、で、読んでいない、本箱にある本、を、手あたり次第に読み始めました。
私は、自分が小説を書きたく、小説を読むのは、楽しみのためではなく、自分が、小説を書くために、参考になる、勉強のための読書でしたから、青空文庫の作品、でも、人が、あまり読まない作家でも、文体がしっかりしている作家の作品を、読みました。
しかし、本ばかり読んでいて、運動しないので、筋肉も落ちていき、便秘も悪化してしまいました。
そうすると、さらに、悪い事が、起こってきました。
私は、左利きですが、3年くらい前から、泳いでいると、右肩が、痛くなってきて、右肩を、かばうように、泳いでいました。
口呼吸を、右でした方が、右肩に、負担が、かかりません。
なので、そういう方法で泳いでいました。
しかし、肩が痛い、といっても、自発痛は、ありませんでしたし、日常の生活も、問題なく出来ました。
泳いでいる時、右肩が痛い、といっても、右肩を、かばうように、泳いでいれば、痛みは無く、問題なく、何とか、泳げるのです。
なので、時間が経てば、治るだろうと、楽観視していました。
私は、元々、体は、柔らかく、それに、ストレッチもしていますので、股関節を、180度、開脚することも出来ましたし、また、肩関節も、柔らかく、背中で、手を握り合うことも、簡単に出来ました。
しかし、柔らかい、ということにも、デメリットは、あります。
肩関節が、極度に、柔らかいと、ルーズショルダー、といって、肩を痛めやすいのです。
運動しないで、一日中、寝ている生活をしていましたので、筋力も落ちていき、たまに、プールに行って、長時間(多い時は、6時間)、泳ぐ、ということをしているうちに、だんだん、肩の調子が悪くなってきました。
私は、知らず知らずの内に、右肩を痛め続けていたのです。
肩の柔軟性が、無くなっていき、背中で、手を握り合う、ストレッチも、出来なくなってしまいました。
肩の動きは、どんどん、悪くなっていき、日常生活でも、肩を、動かすと、痛くなり出しました。
手を、背中に回せなくなり、手を大きく回すと、痛みが出るように、なってしまいました。
ここに至って、私は、ようやく、危機感を感じ出し、整形外科を受診しました。
整形外科の先生に、肩の痛みを、訴えると、先生は、
「それは、棘上筋の腱板炎です。ゴムチューブ、か、ペットボトル、で、肩のインナーマッスルを、鍛える必要があります」
と言いました。
「腱板は、レントゲンには、写りません。MRIを撮れば、わかりますが、MRIを、撮りますか?」
と、先生は聞きました。
「はい。お願いします」
と、私は言いました。
先生は、近くの、藤沢市保健医療センター、に、紹介状を書いてくれました。
私は、数日後、藤沢市保健医療センターに、行って、右肩の、MRIを撮ってもらいました。
数日後、MRIの写真を持って、整形外科に行きました。
「棘上筋に炎症が起こっています。それと、上腕骨頭に、浮腫があります」
と、先生は、MRIの画像を見ながら、言いました。そして、
「スポーツの専門の整形外科は、藤沢市民病院に、あります。かかりますか?」
と、聞いてきたので、私は、
「お願いします」
と、言いました。
数日後、私は、横浜市立病院に行きました。
そこの、整形外科の先生は、エコーを見ながら、肩の関節包に、キシロカイン、と、ヒアルロン酸、を注射しました。
「病名は何ですか?」
と、私が聞くと、先生は、
「肩関節周囲炎(五十肩)」
と、言いました。
私は、整形外科の先生が、言ったために、スポーツ用品店で、インナーマッスルを鍛えるための、ゴムチューブを買いました。
4kgのダンベルも買いました。
私は、以前から、インナーマッスル、の言葉は、知っていましたが、一体、どこにあって、どう鍛えれば、いいのか、わかりませんでした。
ネットの動画で、インナーマッスルのことを、調べても、いまいち、よくわかりませんでした。
肩の、インナーマッスルは、ゴムチューブ、や、500mlの、ペットボトルを、使って、弱い力で、やらなくては、ならない、らしいのです。
強い力で、やってしまうと、三角筋、や、大胸筋、などの、アウターマッスルが、働いてしまって、インナーマッスルは、鍛えられないのだそうです。
私は、10年以上、筋トレ、を、してきているので、かなりの重い負荷をかけて、やっていますし、出来ます。
なので、弱い負荷でやる、インナーマッスル、の鍛え方は、歯がゆくて仕方がありません。
こんな、弱い負荷で、はたして、インナーマッスル、が、鍛えられるのかと、疑問に思いました。
それでも、肩の動きは、悪くなる一方なので、私は、理屈がわからないまま、ゴムチューブ、を、使って、ネットに書かれてある、方法で、肩の、インナーマッスルを、鍛えてみました。
しかし、あまり、効果は感じられず、良くなる実感はありません。
なので、インナーマッスル、のトレーニング、は、やめてしまいました。
それで、毎日、読書していました。
しかし、肩の動きは、悪くなる一方です。
ここに至って、私は、「今は、読書している時ではない。肩を治さなくてはならない」、と、考えを、変えました。
私は、ネットで、「本気になって」、インナーマッスル、の原理、を、調べ出しました。
それ以前にも、インナーマッスル、に関しては、少し、調べては、いましたが、あまり、やる気がなく、原理は、理解できていませんでした。
しかし、「本気になって」、必死に調べていると、ようやく、いいサイトが、見つかって、「なぜ、棘上筋は、弱い力で、やらなくては、鍛えられないか」、の理由が、わかりました。
これは、感激でした。
一つが、わかると、もっと、もっと、知りたくなって、肩甲骨についている、インナーマッスル、である、棘上筋、棘下筋、小円筋、肩甲下筋、の、原理も、わかるように、なりました。
原理がわかると、やる気、も、起こります。
私は、ゴムチューブ、を、使って、毎日、肩の、インナーマッスル、を鍛えました。
鍛える、といっても、一日中、やる必要は、無いのです。
なので、毎日、読書しながら、時々、インナーマッスル、トレーニング、をしました。
棘上筋を鍛えるには、ゴムチューブ、を、足で踏んで、横に、そして、やや、前方に、30度くらいの、位置まで、開いて、引っ張って、止めなければなりません。
それが、一番、棘上筋が鍛えられるのです。
しかし、インナーマッスル、のトレーニング、は、一日中、やる必要もないので、毎日、読書しながら、時々、インナーマッスル、トレーニング、をしました。
しかし、肩が、劇的に、改善することは、ありませんでした。
右腕に、力が入らないので、小説を書く気も起りません。
それで、5月、6月、7月、と、本を読むだけの日が続きました。
〇
8月4日(日)、のことです。
その日、私は、秋葉台体育館のトレーニングルームに、行って、3時間、筋トレ、と、ランニングをしました。
しかし、その夜、熱が、出始めて、熱は、どんどん、上がり、40度にまで、なりました。
痰は、緑色の膿性痰が、出てきました。
頭が、割れるように痛くなり、手が、ガクガク震え、歩くのも、しんどいほどになりました。
〇
翌日になって、8月5日(月)になりました。
私は、すぐに、かかりつけの田村内科クリニックに行きました。
私は、20年前から、ここの、クリニックで、睡眠薬、と、下剤、と、喘息、の薬を処方してもらっています。
先生は、「ウイルス性の胃腸炎」、と診断して、解熱剤を処方してくれました。
私は、家に帰り、その日から、温かい布団を、かぶり、十分な水分をとって、寝ていました。
しかし、熱は、下がりません。
緑色の膿性痰も、出つづけました。
〇
8月9日、(金)。
5日間、安静にしていて、寝ていても、熱が下がらず、膿性痰が、出つづけるので、私は、再度、かかりつけの、田村内科クリニックに行きました。
幸い、その日は、呼吸器科の先生が、いました。
先生は、胸部のレントゲンを撮りました。
すると、レントゲンで、両側の肺に、陰影が、ハッキリと、見えました。
レントゲンでは、空気は、黒く写り、水とか、心臓とかの、何かの物体があると、それは、白く見えますので、「陰影」、という言葉は、おかしいのですが、「白影」、とか、「白い物」、とかという言葉も、おかしいので、白くても、「陰影」、と呼んでいるのです。
「両側性の肺炎ですね。CTも撮りましょう」
と、先生は、言いました。
クリニックには、CTスキャン、が、ありました。
私は、胸部の、CTも、撮りました。
CTでは、肺の中には、肺炎の白い、塊が、たくさん、見えました。その上、肺の背中の方に、両側に、胸水が、見えました。
「すぐに、緊急処置が必要です。入院する必要も、あるかも、しれません。藤沢徳洲会病院へ、紹介状を書きますので、すぐに、行って下さい」
と、先生は、言いました。
私は、車で、クリニックに来ていましたので、
「車で来ていますので、車で、行ってもいいですか?」
と聞きました。
「いいえ。車での運転は、危険です。タクシーを呼んだ方がいいでしょう」
と、先生が言いました。
私は、自覚症状としては、車を運転して、行くことは、出来ると思っていました。
しかし、レントゲン、や、CTでの、所見は、非常に悪いものでした。
なので、先生の指示に従って、タクシーを、呼び、レントゲン、や、CT、の画像、と、先生が書いてくれた紹介状をもって、タクシーで、藤沢徳洲会病院に行きました。
徳洲会病院の呼吸器の先生が、レントゲン、や、CT、を見て、
「結核の可能性もありますので、入院治療が必要です」
と言いました。
私は、迷いました。
私は、何も所持品も持たずに、来ましたので、入院するとなると、睡眠薬、下剤、喘息の薬、肩のインナーマッスル、トレーニング、のための、ゴムチューブ、パソコン、携帯電話、などが必要になりますので、
「家に、とりに行く物がありますので、とりに行っても、いいでしょうか?」
と、聞きました。
また、入院するとなると、費用もかかるでしょうから、事務の人に、
「費用は、いくらぐらい、かかりますか?」
と、聞きました。
しかし、あまり、はっきりと、答えてくれません。
「大体で、いいです」
と、私が、言うと、
「結核の可能性もありますので、個室ということになります。個室だと、一日、3万円、かかります。一週間の入院では、大体、20万円、くらいになります」
と、言いにくそうに、小声で、言いました。
私は、命には、替えられない、と思っていましたので、お金が、かかっても、入院治療は、覚悟していました。
しかし、入院するとなると、常用薬の、睡眠薬、下剤、喘息、の薬、と、肩のインナーマッスル、トレーニング、のための、ゴムチューブ、パソコン、携帯電話、などが、どうしても、必要になります。
なので、
「家に、とりに行く物がありますので、とりに行っても、いいでしょうか?」
と、再度、聞きました。
先生は、それに対して、「いいです」、とも、「ダメです」、とも、答えられませんでした。
結局、それで、先生は、マクロライドの系抗生物質、と、ペニシリン系の抗生物質、を、渡して、
「来々週の、8月14日(水)に、私の外来がありますので、来て下さい」
と、言いました。
私は、内心、この肺炎は、通院治療で、対応できる、と思っていました。
私は、タクシーで、私の車をとめてある、クリニックに行きました。
そして、車で家に帰りました。
肺炎は、いつかは、完治するものですが、私は、出来るだけ、早く治したいと思っていたので、温かくして、一日中、布団をかぶって寝て、頭に、コンビニで、売っている、氷パックを乗せ、水分を、たくさん、飲んで過ごしました。
私は、便秘で、便が出なくなって、発熱する、という、パターン、なのです。
私は、熱が出た時は、本も読みませんし、テレビも、観ません。
というのは、本を読んだり、テレビを観たりすることも、頭を使うからです。
熱が出ている、消耗性疾患の時には、出来る限り、体を、休めることが、必要なのです。
運動などは、もちろん、出来ません。
なので、どんどん、筋肉が落ちていきました。
そのため、腕の可動域が悪くなり、肩の痛み、が、どんどん、悪くなっていきました。
何もしないで、過ごすのは、苦痛なことです。
それで、仕方なく、ちょうど、高校野球の、夏の甲子園大会が、始まった時期だったので、それを観ました。
極力、頭を使いたくなかったので、極力、低音、か、音を消して、観ました。
私にとって、夏、高校野球を観ることは、口惜しいことです。
なぜなら、私にとっての、価値観は、小説を書くこと、だけですから、小説を書いている時だけが、生きている実感をもてる時なのです。
高校野球など、(プロ野球でも)、ニュースで、試合結果を知れれば、それだけでいいのです。
小説家にとっては、自分が小説を、作り出す、ことにのみにしか、喜びを感じられないからです。
それでも、夏、一回は、片瀬江ノ島の海水浴場に行って、「ビキニ姿の女を、見たいな」、とは、思っていました。
しかし、今年の夏は、それも、無理そうです。
毎日、膿性痰が、出て、頭痛、がします。
腕の可動域が悪くなり、肩の痛み、が、どんどん、悪くなっていきます。
「ああ。もう肩の痛みは、とれないだろう。体調は、歳をとるにつれて、悪くなる。もう、小説は、書けなくなるだろう」
という、絶望に襲われだしました。
「こんなことなら、生きていても、意味がない」
とまで、思いました。
「去年のように、猛暑の夏が過ぎたら、また、小説が書けるようになるかもしれない」
とは、とても、思えませんでした。
肺炎は、治っても、肩の痛みは、なくなるとは、思えませんでしたから。
しかし、私は、死ぬことは、考えていませんでした。
「いざとなったら、死ねばいい」、などと、言っている人は、「本当の死の恐怖」、を、経験したことのない人です。
私は、「本当の死の恐怖」、を、学生時代から、否、物心ついた、幼児の時から、何度も、経験してきましたので、「人間は、何の希望も無くて、何の喜びもなく、生ける屍のように、なっても、人間は、死ねない」、ということを、知っています。
人間は、どんなに、ぶざま、に、なっても、生き地獄、になっても、死ぬことは、出来ないのです。
なので、生きるしかないのです。
そして、私は、もう一つの大切な事を、知っていました。
それは。
「何の希望も無くて、何の喜びもなくても、何とか、生きようと、努力する」
ことに、人間の、美しさは、あり、そうすることが、「生きる」、ということなのだということです。
東日本大震災、で、妻も、子供も、家も、仕事も、失って、まさに、生きがいを、全て失ってしまった人でも、何とか、生きようと、努力しています。
オーストリアの精神科医である、ヴィクトール・フランクル、は、ナチスに、捕まって、強制収容所に入れられました。
毎日が、過酷な重労働の日々です。
父も母も、強制収容所に入れられ、死にました。
幸い、ヴィクトール・フランクル、は、死なず、ドイツが負けて、連合軍によって、彼は、解放されました。
解放された後、彼は、ナチスの強制収容所での体験を書いた、「夜と霧」、という本を出版しました。
それは、世界各国で、600万人もの人が、読むことになった、ベストセラーとなりました。
「夜と霧」、の中で書かれているように、ユダヤ人は、ナチスによって、捕まり、強制収容所に、入れられ、毎日、ほんの、わずかな食糧で、過酷な労働を強いられ、やがては衰弱死することが、わかりきっています。
将来に対して、何の希望も無く、むしろ、毎日が、過酷な労働の苦痛と、やがて、衰弱死する、か、ガス室に入れられて殺される、ことが、わかっている、絶望だけの人生です。
それでも、投げやりにならず、自暴自棄にならず、一生懸命、生きる、ことに、人間の、美しさ、が、あると、私は、思います。
私は、強制収容所に、入れられた、ユダヤ人、に、比べたら、はるかに、恵まれています。
たとえ、生きがいである、小説が書けなくなっても、自由に行動できます。
世の中を観ることが出来ます。
私のブログの、考察文、などは、もちろん私の、本心を書いていますが、所詮は、息抜きのため、であり、喜びは、ほとんど、ありませんが、それでも、人が読んでくれるので、ほんの、わずかですが、嬉しくはあります。
小説が書けなくなっても、生きて、世の中を観て、自分の思い、を、書くことは、出来ます。
「人間は、どんなに、辛くても、今、自分が、しなくてはならない事を、直視して、より良く生きるために、精一杯、努力する」
ことに、人間の、美しさがあると、私は思っています。
では、自分が、今、やるべきことは、何か、といったら。
それは、言うまでもなく、肺炎の治療に専念することです。
そして、肺炎が、治ったら、まず、取り組まねばならないことは、肩が、動くように、(出来るだけ元の状態にもどるよう)、努力することです。
それは、小説作品を書いて完成させる、という、「生産性のある」、ことでは、ありません。
しかし、「精一杯、今、自分が、やらなくては、ならないこと、に、努力する」
ということ、を、するのが、人間の尊厳、であり、人間の、美しさ、である、と、私は思っています。
なので、私は、毎日、厚い布団をかけ、温かくして、寝て、水分をとり、頭に、氷、を、乗せて、病気治療に専念しました。
熱を出した時は、温かくして、水分を摂って、汗をかいて、オシッコ、が、出てくれるように、なると、良くなります。
はたして、肩が、少しでも、良くなってくれるのか、という、不安に苛まされていました。
私は、体調が悪くて、小説が書けない時は、「西遊記」、の、孫悟空、のことを、考えます。
孫悟空は、三蔵法師が来るのを、500年間、岩山の中で待ちました。
体調が、回復せず、将来のことは、わかりませんし、この先、何年、生きられるのかは、わかりませんが、死ぬまでに、生きていても、体調が、回復せず、原稿用紙で50枚ていどの、たいして面白くない作品を、一作、しか、書けないように、なる人生になるのならば、それでも、生きる価値があるだろうか、と、悩まされました。
しかし、将来のことは、わからないのです。
私は、悲観的な性格なので、悪い方へ、考えが、行ってしまいます。
しかし、たとえ、そうであっても、私は、人間は、生きるべきだと思っています。
しかし、毎日、療養に専念しているうちに、だんだん、緑色の、膿性痰、の緑色が、無くなっていき、漿液性の、痰になっていきました。
熱も、下がってきました。
しかし、全身倦怠感があり、ちょっと、体を動かすと、息切れするので、まだ、治りきっていないのは、わかりました。
聴診器を、肺に当てても、肺雑音が聞こえます。
〇
10日、経って、8月14日(水)になりました。
私は、車で、藤沢徳洲会病院に行きました。
採血し、胸部レントゲン、を、撮りました。
そして、先生の診察を受けました。
先生は、採血の結果を見て、
「CRPが、20から、2まで、減って、順調に、良くなっています」
と、言いました。
しかし、胸部レントゲン、では、まだ、両側の肺に、5日前の、8月9日(金)、に撮影したレントゲンと、同じような、陰影が見えました。
「膿性痰は、無くなって、熱も下がりましたが、まだ、全身倦怠感があって、治りきっていない、ように、思います」
と、私は、言いました。
CTの方が、もっと正確に、病変がわかるので、私は、
「CTも、撮っていただけないでしょうか?」
と、言いました。
「では、CTも、撮りましょう」
と、先生が言って、私は、CT撮影室に行って、胸部CTを、撮りました。
そして、また、診察室に戻ってきて、診察を受けました。
CTの画像では、8月9日(金)、に、撮った、肺炎、と、ほとんど、変わりのない、肺炎の、白い像が、見えました。
しかし、胸水は、かなり、減っていました。
私は、まだ、自覚症状として、治りきっていない、と、思っていたので、CRPが、20から、2まで、下がったことや、胸水が、ほとんど、無くなったことは、嬉しかったのですが、CTで、肺炎の所見が、まだ、予想以上に、悪かったことに、ガッカリしました。
私は、ペニシリン系の抗生物質を、処方され、二週間後の、8月28日、(水)、に、予約をとって、家に帰りました。
ずっと、寝たきりの生活でしたので、筋肉が落ちています。
筋肉が落ちると、便秘も悪化していきます。
なので、私は、4日後の、8月18日(日)、に、市民プールに行ってみました。
私にとって、水泳、が、便秘に一番いい、のです。
リハビリテーションの開始です。
本当なら、水温が、31度、と、管理されていて、短い25m、の、屋内プールで、肩と肺炎、に気をつけながら、泳いだ方が、いいのですが、夏は、どうしても、屋外の、50mプールで、泳ぎたくなってしまいます。
それで、屋外プールで、泳いでみて、ちょっとでも、肩が痛くなるようだったら、屋外プールは、すぐにやめて、屋内プールで、泳ごう、と、おそるおそる、屋外プールに入ってみました。
しかし、入ってみると、問題なく、泳げました。
今までは、ずっと、クロールで、泳いでいましたし、クロールでしか、泳ぎませんでした。
4泳法の中で、クロールが、一番、有酸素運動の効果があるからです。
しかし、クロールは、片手で、体、全部を引っ張るので、肩に負担がかかります。
その点、平泳ぎ、なら、手の推進力、と、足の蹴り、による、手足4本の、推進力、で、泳ぐことが出来ますし、また、ゆっくり、泳ぐことも、出来ます。
手の掻き、でも、平泳ぎ、は、両手を使いますので、腕、や、肩、に、かかる負荷を半分に、半減することが、出来ます。
クロールのように、腕を、大きく、一回転、させる、大きな運動でも、ありません。
なので、平泳ぎ、で、おそるおそる、泳いでいました。
問題なく泳げました。
なので、私は、おそるおそる、クロールでも、泳いでみました。
肩の痛みは、ありません。
なので、私は、ゆっくりと、そして、交互に、クロール、と、平泳ぎ、で、泳ぎました。
速く泳ごうと思えば、泳げるのですが、肩を痛めることが、心配だったので、様子を見ながら、慎重に泳ぎました。
肩を痛めている時の、正しい、リハビリの仕方、など、専門的すぎて、ネットで、いくら調べても、わかりません。
なので、自分の感覚を、頼りに、手探りで、やるしかありませんでした。
そして、泳いでいるうちに、恐ろしいことに、気づきました。
私は、全てのことに、おいて、左利きです。
私は、右肩は、以前から、軽い、違和感、を、感じることも、ありましたが、左肩は、今まで、一度も、故障したことがなく、絶対、安全だ、という自信を持っていました。
しかし、クロールで、泳いでいると、左肩も、なんだか、抜けるような、感覚を、感じてきたのです。
それは、以前、ネットで、調べて、知識としては、知っていたことですが、五十肩、は、片方の肩、から発症しますが、片方の肩、が、痛くなると、そっちの、手を、日常生活で、使わなくなり、健常な方の手で、具合の悪い方の手をかばうため、日常の、多くの行為を、具合の悪くない健常な手の方でするようになります。
そうすると、健常な方の肩、が、酷使されるため、健常な方の肩も、悪くなる、ということです。
私は、左肩には、絶対の自信を持っていたので、それを、ネットで、読んでも、「私は大丈夫だ」、と思っていました。
しかし、感覚的に、左肩も、抜けるような、感覚が起こって、これは、気をつけないと、左肩も、具合が、悪くなるのではないか、という、恐怖に襲われ出しました。
屋外プールでは、私は、3時間、泳ぎました。
6時で、屋外プール、が、終了となったので、その後、屋内プールで、少し、泳いでみました。
やはり、屋内プールの方が、水温が、31度に管理されていて、距離も短いので、肩を痛めない、リハビリには、屋内プールの方が、いいでしょう。
しかし、長いこと、寝たきりの生活で、体を動かさなかったので、体力も、筋肉も落ちていて、50mの、屋外プール、の方が、運動強度は、圧倒的に、大きく、筋肉を鍛えられるのです。
家に帰っても、肺炎が、ぶり返す、気配、も、ありませんし、肩の痛み、が、悪化する気配もありません。
なので、私は、筋トレ、も、再開しました。
全体的に、筋力が落ちていました。
肺炎、は、まだ、治りきってはいないので、ヘトヘトに疲れました。
健康だった、今年の春頃は、体育館で、3時間、ランニング、や、筋トレ、を、やっても、全然、疲れず、筋トレ、の、負荷の量は、どんどん、増えていき、一体、どこまで、増えることだろう?と疑問に思うほどでした。
しかし、その後、一日中、寝てばかりの生活だったので、筋力が、かなり、落ちていました。
腕を、上に挙げると、痛くて、上げられないので、上腕二頭筋、と、広背筋、を、鍛える、ラットプル、のマシン、は、出来ませんでした。
しかし、筋肉が落ちたままに、しておくと、筋肉が、どんどん萎縮していき、どんどん、肩が動かせなくなります。
大胸筋を鍛える、マシン、も、他の、筋肉を鍛えるマシン、も、一番、小さい負荷、から、始めました。し、それでしか始められませんでした。
一つのマシン、を、ワンセット、20回、やる度に、ヘトヘトに疲れ、スポーツドリンク、を、飲んで、小休止しながら、やりました。
私は、毎日、筋トレ、を、続けました。
水泳も、一週間に、一回、程度、屋内プールで、2時間、くらい、を目途に、平泳ぎ、を、多めにして、やりました。
すると、だんだん、体力、も、筋力も、ついていきました。
〇
二週間、経って、8月28日(水)、になりました。
私は藤沢徳洲会病院に行きました。
採血をして、胸部レントゲン、と、胸部CTを、撮って、診察を受けました。
CRP(炎症が起きている時に上がる指標)、は、前回、2週間前、の8月14日(水)、2、から、さらに、0.2、にまで、下がっていました。
しかし、私は、まだ、治りきった実感はなかったので、CTの結果が、心配でした。
案の定、CTでは、前回と、ほとんど、変わりなく、肺炎、の、陰影、がありました。
しかし、胸水は、ほとんど、なくなっていました。
「先生。もう、14日、以上、経ちます。まだ、これだけ、肺炎の像があるということは、瘢痕になっているということじゃないでしょうか?」
私は、先生に聞きました。すると、先生は、
「ああ。そうかもしれませんね。瘢痕になっているのかも、しれませんね」
と、私の発言に、誘導されて、気づかされて、言いました。
瘢痕、となると、肺の一部の機能が、低下したままになりますから、肺機能が低下して、生活の質も落ちます。
CRPも、0.2で、炎症は、もう、完全に治っています。
ですから、これが、治療のゴールということに、なります。
私は、ガッカリしました。
私は、今から、8年前に、右膝の内側側副靭帯を、部分断裂してしまい、MRIを、撮って調べた所、右膝の内側の軟骨が、すり減っていて、変形性膝関節症、になっていると、わかりました。
それ以来、テニスは、出来なくなりました。
技術的に、出来ないのではなく、膝の痛みのために、出来ないのです。
8年前の、変形性膝関節症の、リハビリ、の時も、かなり、時間が、かかりました。
半年くらいかけて、リハビリとして、スクワットして、治ったかな、と、思った頃に、テニス、が出来るか、どうか、試しに、小田急テニススクールに行って、テニススクールの、スポットレッスン、に、出てみましたが、1時間くらい、してくると、右膝が痛くなり出して、とても、出来る状態ではないと、わかり、あきらめました。
私は、大学に入る頃から、激しい、過敏性腸症候群の、けいれん性便秘、で、視床下部、が、破壊されているので、それによる、自律神経失調症、不眠症、うつ病、で、体が壊れてしまっていて、新陳代謝が悪く、夏、暑くても汗をかきません。
毎日が、不眠、と、便秘、との闘いであり、壊れた体は、毎日、私の肉体を痛めつけているので、軟骨も、危ないのでは?と、心配しては、いました。
冷え性、で、低血圧で、平熱が、35.5度、で、また、低血圧で、最高血圧は、110と低いのです。
壊れた体を、筋トレ、ランニング、水泳、テニス、などの、運動、と、ストレッチと、便を出すために、水溶性食物繊維を、含んだ食事をメインにした、小食、で、摂生を保って、何とか、生きているのです。
テニス、が、出来ないとわかった時も、ガッカリしました。
テニス、は、私にとっては、非常に、大きな運動負荷なので、テニス、をすると、新陳代謝が良くなって、汗だくになって、そして、足腰も、鍛えられるのです。
運動は、単に、体が鍛えられるだけではなく、精神にも、ものすごく、いい作用があります。
運動していると、βエンドルフィンが、分泌されてきて、気分が、ハイになって、頭に、勝手に音楽が流れ出し、小説の、アイデア、が、沸くことは、しょっちゅう、ありました。
今度は、肩を壊して、水泳、も、出来にくくなってしまうのか、と、失望しました。
しかし、人間は、死ぬことは、出来ないのです。
生きるしかないのです。
しかしです。
夏も終わりに、近づき、夏の酷暑が、下がり出しました。
〇
8月30日(金)、のことです。
その日は、仕事で、人工透析のクリニック、に行きました。
「書ける。小説が書ける」
という、気分を私は、感じとりました。
私は、奇跡が起こった、と感じました。
私は、何を書こうか、と、迷いました。
書きかけ、だった、小説でも、気分が、ハイなら、書けるのです。
しかし、せっかく、やって来た、滅多に来ない、チャンスです。
どうせ、書くのなら、一番、書きたいものを、書こう、と思いました。
それで、私は、人工透析の管理、の仕事の前に、していた、眼科クリニックの院長の時に、コンタクトレンズの小売り会社、(中央コンタクト)、の社員だった、「千田祥子」、という、可愛い女性を、モデルにして、小説を、書き始めました。
そして、人工透析の仕事が終わって、からも、夜中、24時間、営業している、マクドナルド、に、行って、小説の続きを、書きました。
私は、いつも、夜の、テレビ朝日の、報道ステーションが終わった、11時30分、頃に、睡眠薬を飲みます。
それでも、眠れませんので、24時間、営業の、マクドナルド、に、行って、わざと、体を疲れさせます。
そして、朝の5時頃に、家にもどって、徹夜の疲れから起こる眠気で、寝ている、という、毎日を過ごしています。
極めて、おかしなことですが、そうするしか、眠りに入れないのです。
なので、私は、マクドナルドに行きました。
気分が、ハイな時には、どんどん、アイデアが、沸いてきます。
仕事の時から、書き始めた、「千田祥子」、は、どうも、ストーリーの、続きが思いつきません。
気分が、ハイな時には、性欲も亢進します。
そこで、私が、メンズエステ店に行くようになってから、刺激的だった、こと、を、つなげて、メンズエステ店、の自分史、を、書いてみようと、思いました。
メンズエステ店、に、行って、回春マッサージ、を、受けている時は、いい気持ちですが、
「こんな行為は、単なる、刹那的な快楽であって、小説なんかには、なりはしない」
と、絶対的な確信を持っていました。
しかし、湘南台に出来た、エステ店、「フィーリング」、の、セラピストの、「滝川ミカさん」、は、あまりにも、印象の強い、そして、魅力的な女性で、彼女は、今でも、私の心の中で、生きています。
オナニーして、射精する時は、どうしても、「滝川ミカさん」、が、頭に浮かんでしまうのです。
なので、私は、メンズエステ店、の自分史、を、書き始めました。
私は、別に、エロティックな小説だからといって、恥ずかしい、とは、思いません。
今までに、書いたことのない、新しい、小説であれば、それでいいのです。
滝川ミカさん、とは、会えなくなって、もう、5年くらい、経ちます。
滝川ミカさん、と、会っている時は、回春マッサージ、などという、単なる、刹那的な快楽など、小説になるとは、思いもしませんでした。
しかし、時間が経って、過去を振り返ってみると、十分、小説になる、要素があることに、気づきました。
一つには、もう会うことの出来ない、滝川ミカさん、の存在を、どうしても、小説の中で、表現して、蘇らせたい、という強い思いです。
二つ目には、「小説創作」、と、「回春マッサージ、という、刹那的な快楽」、との、私の、葛藤の心理です。
「回春マッサージ、に限らず、現実的な快感など、刹那的な快楽だ」、と、バカにしながらも、どうしても、それを、捨てきれない、でいる、葛藤の心理です。
こういう、「葛藤の心理」、は、小説になるのです。
そして、それは、「真剣に生きている」、という証です。
芥川龍之介は、芸術至上主義者でしたが、「芸術」、と、「現実」、との、「葛藤」、を、テーマにした小説を、数多く書いています。
極端にいえば、「葛藤」、があれば小説は書けますが、「葛藤」、がないと、小説は、書けない、といっても、いいくらいだと思います。
「好きだけれど、好き、と言えない、葛藤」
「嫌いだけれど、嫌いきれない葛藤」
「悪い人だけど、悪いだけだと、言いきれない、葛藤」
「見たいけれど、見れない、葛藤」
「欲しいけれど、手に入れられない、葛藤」
「したいけど、してはならない葛藤」
など、無数にあります。
太宰治は、小説を作る才能が、非常に優れた、小説家でしたが、太宰治は、「苦悩する能力」、とか、「勝つか負けるかの、おののき」、ということを、主張しています。
言葉は、違いますが、「苦悩する能力」、も、「勝つか負けるかの、おののき」、も、「葛藤」、です。
「葛藤」、つまり、そういう、「もどかしさ」、を、持ってしまう感性の人間だけが、小説を書けるのだと思います。
「もどかしさ」、からは、「結論」、は、出せません。
ですから、小説の中で、「A(ある問題提起)は正しい」、という主張をもった人間と、「A(という問題提起)、は正しくない」、という主張をもった人間を、登場させて、対話させることによって、小説は、書けるのです。
そして、私は、小説では、登場人物に、対話させて、「結論」、を出す必要は、全く無いと思っています。
「結論」、を出すために、小説を書くものでは、ありませんし、小説を書いていて、「結論」、に、辿りついてしまうような人は、そもそも、元々、「葛藤」、など無い人だと思っています。
そして、三つ目は。
小説家は、つくり物の、架空の、お話、を、知恵をしぼって、考え出して、お話を、つくろうと、としますが、それには、どうしても、「現実との接触」、「現実世界での体験」、というものが、必要なのです。
もちろん、「現実の体験」、が、そのままの、形で、小説になることは、極めて、少ないでしょうが、「現実の体験」、および、「自分が、その、(現実の体験)、に対し、どう感じたか」、という、問題意識が、小説を書く、原動力、となっている、のだと、私は思います。
菊池寛は、「小説家たらんとする青年に与う」、という、評論文の中で、ハッキリと、そのことを、主張しています。
菊池寛は、「小説家たらんとする青年に与う」、で、こう、書いています。
「小説を書くということは、紙に向って、筆を動かすことではなく、日常生活の中に、自分を見ることだ。すなわち、日常生活が小説を書くための修業なのだ。学生なら学校生活、職工ならその労働、会社員は会社の仕事、各々の生活をすればいい。而して、小説を書く修業をするのが本当だと思う」
全く同感です。
なので、私は、メンズエステ店、の、自分史、を、書くことにしました。
書き出してみると、筆が進み、どんどん、書けました。
私は、小説は、図書館で書きます。
図書館は、自転車で、5分も、かからない所にあります。
図書館が、夕方の5時で、閉館すると、マクドナルドに行って、書きました。
しかし、ずっと、座っていると、腸が動かなくなってくるので、時々、アパートにもどりました。
図書館にいる時は、交感神経が、優位で、家に帰ると、ほっとして、副交感神経が、優位に、切り替わって、便が出るのです。
9月になって、夏の猛暑が、引いて、過ごしやすくなりました。
それでも、日によっては、暑くなる日も、ありました。
しかし、季節が、秋になって、私の体が、芯から、秋の気候に、順応したようで、少し、暑い日になっても、小説を、書くことは、出来ました。
もう、小説が、書けなくなるかも、しれない、今年は、もう、小説は、書けない、生きていても、小説は書けない、のではないか、という、絶望に、ずっと、悩まされていましたので、
「体調が良く、小説を書ける時に、出来るだけ、たくさん、小説を、書こう」
と思っていたので、朝、起きてから、夜、眠る時まで、小説を、書きました。
小説を、書くこと、以外は、何もしませんでした。
ちょっと、暑い日で、図書館で、書けなくても、近くに、喫茶店の、スターバックスがあり、ここでは、図書館より、冷房が、よく効いているので、スターバックスでは、書けました。
さらに、スターバックスでも、書けない時は、家にもどって、家の机で書いたり、布団の上に、腹這いになって、書いたりしました。
毎日、小説を、書くことだけに、専念しているので、一日、原稿用紙で、30枚、書ける時も、ザラにありました。
一つの小説だけを、書いていると、疲れてきます。
もちろん、適度に、息抜き、も、しました。
メンズエステ店、の、小説だけでなく、他の、書きかけの、小説でも、そのストーリーの、続きを、どうするか、頭をひねって、考えました。
しかし、机上で、頭をひねって、考えても、なかなか、いいアイデアは、思いつきません。
しかし。「書きかけの小説で、ストーリーに、行き詰っている、小説の、続き、を、どうすればいいか」、という問題意識を持ち続けて、生活していると、ある時、パッ、と、インスピレーション、が、閃いてくれることが、多くあるのです。
インスピレーションが閃いた時は、最高の喜びです。
それは、中絶しそうになった、お腹の中の、赤ん坊、の、危機が無くなって、産まれる、可能性、が、見えてきた、母親の喜び、と同じです。
ともかく、毎日、机に向かって、小説を書く、という、私にとっての、日常の生活、が、もどって来ました。
筋トレ、でも、だんだん、負荷、を、重くしてやることが、出来るように、なってきました。
一日中、寝たきり、だった、生活が、起きて、机に向かって、頭を使う、という生活になった、ことが、肩の改善、をも、もたらしました。
私は、週2回、の、筋トレ、と、週2回、の水泳、を、肩の様子に気をつけながら、慎重に、やっていました。
〇
ある日、市民体育館に、行った時のことです。
それまで、肩が痛くて、とても、出来なかった、ラットプル、の、トレーニング、を、おそるおそる、やってみました。
ラットプル、とは、上方に吊られた、負荷のかかっている、棒、を、引っぱる、マシンです。
これで、上腕二頭筋、と、広背筋、を、鍛えることが、出来ます。
これは、腕を上に挙げるので、肩が悪化してからは、やろうとすると、肩が痛くて、全く、出来ませんでした。
無理に、やれば、肩を痛めるだけだったからです。
もう、このラットプルは、出来ないだろう、と、あきらめていました。
しかし、おそるおそる、やってみると、何と、痛みが無く、出来るのです。
負荷は、小さいですが。
「出来る。出来る」
私は、感激しました。
もし周りに人が、いなかったら、私は、声を出して、喜び、を、叫んだでしょう。
私は、肩が、改善してくれそうな予感、そして、それは、生きられる希望ですが、見えてきた、喜び、に、感動していました。
スランプに陥っている人、の苦しみ、は、「スランプ、が、いつかは、治って、元にもどれるのか、それとも、もう元には、もどれないのか?」、という、不安の苦しみです。
スランプに、陥っている時には、何をやっても、どう努力しても、改善しないので、将来が絶望になり、死にたくなるほどにまでなります。
それが、スランプ、が、少しでも、改善する兆し、が、見えてきた時の、喜びは、言葉では、言い表せないほどのものです。
〇
9月12日(木)、のことです。
その日、私は、市民プールに行きました。
市民プールの、屋外プール、は、9月16日までです。
もう今年の夏も終わり、9月も半ばになって、屋外プール、の水は、温度、が、下がって、冷たくなって、屋内プールで、泳いだ方が、いいのでは、と、思っていましたが、今年の夏は、肺炎、と、肩の痛み、のため、屋外プール、で、2回、ほどしか、泳いでいないので、屋外プールで泳ぎたく、屋外プール場に、出ました。
水が、冷たかったら、屋内プールで、泳ごうと、思いました。
水泳は、健康のために、しているのですが、夏は、やはり、太陽が照りつける中、青空の中で、伸び伸び、と、泳ぎたい、という、思いが、私には強く、あります。
屋外プール場、に、出た時、私は、思わず、息を呑みました。
ビキニ姿の女性を見たからです。
私の官能が、激しく興奮しました。
なぜなら、私は、今年、まだ、一度も、ビキニ姿の女性を、見ていなかったからです。
今年の夏は、肩の痛み、に、悩まされていて、将来に対して絶望的で、また、夏の酷暑は、体に悪かったからです。
そのため、毎年、夏には、1回は、ビキニ姿の女性、を、片瀬江ノ島の海水浴場に、見にいくことにしている、私も、今年は、行きませんでした。
自分が、心身ともに、不健康で、将来に対して、絶望的な時には、海水浴場で、元気に夏を楽しんでいる、ビキニ姿の女性、を、見ても、虚しさ、と、うらやましさ、の、欲求不満、しか、起こりません。
胃腸の具合が悪い時に、どんなに、美味しい料理を、無理して、食べても、美味しくなく、むしろ、辛いだけなのと同じことです。
自分が、心身ともに、健康であって、はじめて、ビキニ姿の女性、を、見て、喜びを感じられるのです。
それに、片瀬江ノ島の海水浴場に、来るような、女性は、スレンダーで、体つきが、美しく、ビキニ姿、が、似合っているのですが、彼女らは、自慢の体を、男たちに、見せる目的のために、来ているのです。
また、彼女らは、性格が、スレッからされています。
それと、私は、「私を見て」、と、完全にオープンな、気持ちになっている、女、には、官能の興奮は起こりません。
海水浴場で、女が、セクシーなビキニ姿になるのは、当たり前、のことです。
当たり前の光景を見ても、興奮することは、ありません。
彼女らには、恥じらい、の気持ち、が、ありません。
市民プールには、女性も、来ますが、ビキニ姿の女性、は、まず、来ません。
私も、それを、ほとんど、期待していません。
母親が、子供を、楽しませてやるために、保護者として来ているのです。
私は、屋外プール、は、太陽が照りつける中、青空の中で、伸び伸び、と、泳ぎたい、という目的のために、行くのです。
今年は、もう、ビキニ姿の女性、は、見れないだろうと、あきらめて、いました。
それが、予想外に、いきなり、ビキニ姿の女性、を、今年、初めて、見せつけられてしまった、ことが、私の、官能を、激しく刺激してしまったのです。
永井荷風は、小説、「あめりか物語」、の中の、「夏の海」、という章で、電車に乗りながら、海水浴場の、水着姿の男女を見て、官能の喜びを、こう書いています。
「ああ。この晴渡った明るい夏の日、爽快な海の風吹く水村は世の夢を見尽くした老人の隠場ではなく、青春の娯楽、青春の安逸、青春の紅夢に酔い狂すべき極楽郷である。自分は走行く電車の上から幾人と数へ尽されぬ程多くの美人、多くの美男子を見た。自分は美人美男子を見る時程、現世に対する愛着の念と、我と我存在を嬉しく思う事はない。科学者ならぬ無邪気の少女は野に咲く花をただ美しいとばかり、毒草なるや否やを知らぬと等しく道学者、警察官ならぬ自分は、幸にして肉体の奥に隠された人の心の善悪を洞察する力を持っていないので美しい男、美しい女の歩む処、笑う所、楽しむ処は、すべて理想の天国であるが如く思われる」
私も、同じです。
その日は、3時間、屋外プール、で、泳ぎました。
家に帰ってからも、興奮は、続きました。
そもそも、出不精で、ただでさえ、一人きりで、生きていて、人と関わることがなく、人を見ることもない私です。
それが、たまさか、外に出て、運動すると、心身ともに、元気になります。
私は、女と、関わりたい、という欲求が、嵩じてきました。
女と、わざと関わらず、わざと欲求不満をつのらせて、その、「もどかしさ」、で、性欲を興奮させ、エロティックな、小説を書いている、というような、変なことをしている私です。
私は、エロ動画は、ほとんど、見ません。
エロチックさ、が、感じられる良い、作品が、ほとんど無いからです。
私は、動的なものより、静的なもの、を、好みます。
なので、ビデオより、裸にされて、緊縛されている女の写真、や、ビキニ姿の女、の、写真、を、見ている方が、心が落ち着きます。
しかし、写真ばかり見ていると、写真の女は、動きませんから、だんだん、女が、彫刻のように、思われてきて、女の体が、大理石のように硬い物であるような、錯覚まで、起こってきます。
久しぶりに、女の体を触りたい、という欲求が起こってきました。
私は、3年前に、3回、行ったことのある、横浜の、派遣型メンズエステ店、(ジュリアン)、行くことにしました。
そこは、120分、19000円、です。
ラブホテル代、の、3500円は、私が、負担しなくてはなりません。
しかし、それでも、ずっと安い方です。
SMクラブだと、90分、で、Sコース、3万円、で、Mコース、2万円、です。
それに比べると、120分、19000円、は、安いです。
派遣型メンズエステ店、「ジュリアン」、は、コンセプト、が、エッチで、セラピストの女性は、Tバックの、パンティー、一枚だけの、裸で、マッサージを施術します。
セラピストの女性の体に、触ってもよく、パンティー、さえも、脱いで、全裸になってくれる、セラピストもいるのです。
そして、セラピストの女性と、セックス、さえも、出来るのです。
派遣型マッサージ店、というより、デリバリーヘルス店、なのです。
しかし、安いものには、当然、デメリットがあります。
あまり、奇麗でない女、や、太って腹に、脂肪がついてしまつている女、が、ほとんどなのです。
3年前に、会った3人は、みな、そうでした。
HPのセラピストの女性の、ぼかした写真では、「綺麗、だの、スレンダー、だの、サービスが良い」、だのと、いいことが、書かれていますが、実際には、HPの、ぼかした写真とは、全然、違う、女で、あることが、あるのです。
そうすると、ガッカリします。
女に対して、失望して、むしろ、行かない方が、よかった、と、後味の悪い思いに、なります。
しかし、私は、性欲が嵩じて、女の体を、触りたくなって、いたので、「ジュリアン」、の、HPを、見てみました。
すると、今日、「詩織」、という、セラピストが、出勤することに、なっていました。
私は、「エステナビ」、を、見てみました。
「エステナビ」、では、その子は、「ジュリアン」、の人気セラピストの、ランキング3位に入っていました。
「エステナビ」、は、店が、書いている宣伝ではなく、第三者が、客観的に、書いている評価なので、信頼性があるのです。
私は、「詩織」、さんに、会いたい、と思いました。
私は、勇気を出して、その、エステ店、(ジュリアン)、に、電話してみました。
時刻は、午後8時です。
「もしもし・・・詩織さん、に、お願いしたいのですが・・・」
「詩織、は、午後9時、から、入れます」
「では、午後9時にお願いします」
「では、ホテルに入りましたら、電話して下さい」
出張型エステ店、では、予約をとって、近くの、ホテルに入ってから、ホテル名、と、部屋番号を、言います。
すると、予約した時間になると、エステ嬢が、やって来て、客は、金を払って、エステ嬢の、マッサージを、受ける、というものです。
私は、車を飛ばして、国道1号線から、高速道路に入り、阪東橋の出口から、出ました。
そして、車を駐車場に止め、以前、入った、ラブホテルに入りました。
時刻は、8時50分です。
私は、エステ店、に、
「今、××ホテルの、601号室に入りました」
と、電話しました。
「わかりました。では、すぐ、詩織、が、行きます」
と、エステ店、の人が言いました。
10分、の、待ち時間が、とても、長く感じられました。
(どうか、奇麗な人でありますように)
と、私は、祈る思いで、待ちました。
私は、裸になり、風呂場に、湯をためました。
ピンポーン。
チャイムが鳴りました。
私は、ドアを開けました。
「こんにちは」
女の子が、立っていました。
まあ、可愛い子で、私は、ほっとしました。
彼女は、おっとりした性格の女の子でした。
私は、2万円、彼女に渡し、彼女から、1000円、おりつ、を受け取りました。
私は、さっそく、彼女の服の上から、彼女の、胸、や、尻、を触りました。
女の体に触れるのは、3年ぶり、でした。
彼女は、早く、脱ぎたそうな、様子でしたが、
「待って」
と、私は言って、彼女が脱ぐのを制しました。
私は、しばし、彼女の服の上から、隆起した胸、や、尻、や、太腿、を触りました。
(ああ。これが女の体だ。柔らかい。温かい)
と、私は、鼻息を荒くしながら、彼女の体を、服の上から、痴漢のように触りました。
「脱いでいい?」
彼女が聞きました。
「うん」
十分、触って、痴漢の楽しみを、味わったので、私は、彼女が脱ぐのを許可しました。
彼女は、上着を脱いで、スカート、も、脱ぎました。
ブラジャー、と、パンティー、だけになった所で、私は、また、彼女の体を触りました。
彼女の、パンティー、は、Tバックで、尻は、ほとんど、丸見えでした。
(ああ。これが女の体だ。柔らかい。温かい)
と、私は、鼻息を荒くしながら、彼女の肌を、触って楽みました。
(女の体とは、こんなに、柔らかいものだったのか)
と、私は、あらためて、気づかされたような思いでした。
彼女は、パンティーを脱ぎました。
パンティー、の下は、きれいに、毛が剃って、ありました。
私は、興奮しました。
私は、女の恥肉をつまんで揉みました。
私は、ビキニ姿の女の写真を見ている時、パンティー、の、恥肉の盛り上がり、に、最も興奮します。
しかし、女は、恥肉の盛り上がり、を、触られても、感じないらしい、ことを、私は、経験で知っていました。
女は、恥肉の下の、性器、を、触られると、感じるのです。
恥肉は、女にとっては、性感帯では、ないらしいようなのです。
私は、立って、片手で、彼女の恥肉、や、尻、を、触りながら、片手で、乳房を揉み、そして、彼女の口に、自分の唇を触れさせました。
しばしして。
「風呂に入ろう」
「うん」
と、なって、二人で、風呂に入りました。
私は、彼女を、後ろから、抱くようにして、風呂に入りました。
彼女の背後から、片手で、彼女の乳房を揉んだり、乳首を、コリコリさせたりして、もう一方の手で、彼女の性器を、探りあて、指を入れました。
湯、が、潤滑油の役割り、を、はたして、抵抗なく、指を入れることが出来ました。
私は、思うさま、女の体を、楽しもう、と思いました。
しかし、性器に指を入れても、私は、何も感じませんでした。
今度は、彼女の体を、私の方に向かせ、キスしました。
唇が触れ合うと、私は、彼女の口の中に、舌を入れました。
すると、彼女も、舌を出してきました。
そして、お互いの、舌と舌を、からめあいました。
「もう出よう」
「うん」
と、なって、二人で、風呂から出ました。
その後は、ベッドに、二人して、乗りました。
「電気、暗くする?」
彼女が聞きました。
「いや。明るい方がいい」
私は、女の体を、とことん、見たかったので、そう言いました。
一応、マッサージ、ということになっているので、彼女は、
「うつ伏せになって」
と言いました。
「うん」
私は、一応、マッサージ、ということになっている手前、うつ伏せになりました。
「どこが、凝っていますか?」
「全身」
彼女は、裸の私を、マッサージし出しました。
彼女の、マッサージ、の技術は、まあ、上手でした。
彼女は、私の、足、から、太腿、尻、へと、マッサージ、していきました。
片足をマッサージすると、もう一方の足を、彼女は、マッサージ、しました。
私は、グラビアアイドルが、とる、セクシーポーズのように、膝を立て、尻を高く持ち上げました。
ことさら、尻の穴、や、おちんちん、や、金玉、を、見せたかったからです。
彼女は、私の、尻、を、指先で、サワサワしたり、勃起した、おちんちん、を、しごいたりしました。
尻の割れ目、も、彼女は、スー、と、なぞってくれました。
私は、滝川ミカさん、以来、久しぶりに、回春マッサージ、を、受けました。
ですが、うつ伏せ、だと、彼女の、顔も、体も見えません。
私は、女の体を、とくと見て、思うさま、触りたかったので、
「じゃあ。寝て。今度は、僕が、マッサージ、するよ」
と、言いました。
「はい」
彼女は、私の言うことは、何でも、きいてくれました。
彼女は、ベッドの上で、うつ伏せになりました。
マッサージする、と言った手前、私は、一応、彼女の体を、足、から、脹脛、尻、腰、背中、肩、腕、と、急いで、マッサージ、していきました。
そして、今度は、
「仰向けになって」
と言って、彼女を、仰向けにさせました。
私は、仰向けになった、彼女を、足、から、太腿、腹、乳房、肩、腕、と、急いで、マッサージ、していきました。
そして、私は、彼女の足の裏を、私の頬、や、口、や、目、に、押し当てました。
そして、足指を、一本、一本、口に含んで、舐めました。
私は、仰向けに寝ている、彼女の足、を大きく開いて、尻の穴、や、尻の割れ目、や、性器の割れ目、を、網膜に焼きつけるように、しっかりと、見ました。
(女の体は、こうなっているんだ)
と、あらためて、思い知らされた思いでした。
私は、片手で、恥肉を、揉みながら、片手で、乳房を揉み、そして、キスしました。
唇が触れ合うと、私は、彼女の口の中に、舌を入れました。
すると、彼女も、舌を出してきました。
そして、お互いの、舌と舌を、からめあいました。
彼女が、私を受け入れてくれている、ことは、明らかでした。
私は、女と、ペッティングしても、何も感じません。
女を、気持ちよくするために、精一杯、奉仕しているようで、別に、それでも、全く構わないのですが、彼女は、喘ぎ声を出さないので、それが残念でした。
私は、彼女を、気持ちよくさせるため、指を、女の性器の穴に入れました。
私は、女の、小陰唇が、鶏冠のようで、嫌いでした。
性器に指を入れて、いると、少し、濡れてきました。
彼女が、反応してくれると、こっちも、やりがい、が、あります。
私は、彼女に、顔面騎乗させたり、69の態勢をとったり、私が、仰向けに、ベッドに、寝て、彼女を、私の体の上に乗せて、抱きしめたりと、あらゆる、態勢で、女の体、を、味わい尽くしました。
時計を見ると、10時50分になっていました。
彼女は、気持ちがいいのか、おっとりした性格からなのか、「もう、そろそろ、時間です」、とは、言い出しませんでした。
しかし、11時になれば、店の方から、電話してくるでしょうから、
「じゃあ、風呂に入ろう」
と、言って、また、最初のように、二人で、風呂に、入りました。
私が、彼女の背後に座って、彼女を、後ろから、抱くように、して。
彼女の背後から、片手で、彼女の乳房を揉んだり、乳首を、コリコリさせたりして、もう一方の手で、彼女の性器を、探りあて、指を入れました。
「もう、出よう」
「はい」
となって、私と彼女は、風呂から出ました。
彼女と私は、服を着ました。
ちょうど、その時、彼女の携帯電話が、ピピピッ、と、鳴りました。
彼女は、携帯をとりました。
「はい。詩織です」
私には、相手の声は、聞こえませんが、店からの、「もう、時間、で、終わり」、を告げる電話でしょう。
「はい。わかりました」
と、彼女は、携帯の相手に言いました。
私と、彼女は、ホテルを出ました。
ホテルの前には、エステ店、からの、彼女を迎える、車が来ていました。
「さようなら」
と私が言うと、彼女は、
「また、来て下さいね」
と言いました。
私は、彼女と、別れました。
私は、車で、高速道路を飛ばして、家に帰りました。
〇
家に帰って、布団の上に入っても、興奮は、続きました。
ペッティングしていた時、私は、何も感じませんでした。
「何も」、とまでは、言いませんが、私は、女との、セックス、に、快感を感じられません。
フェラチオされても、何も感じませんし、むしろ、そんな、汚い所を女が、舐める、ことなど、女が、可哀想に思えてしまいます。
私にとって、セックスとは、男が、一方的に、女の性感帯を、刺激して、女を、喜ばす、ことなのです。
それでも、全く、構わないのですが、女が、喘ぎ声、を、出して、反応してくれると、嬉しいのですが、反応してくれないと、さびしい、のです。
それは、小説創作でも、全く同じで、「読者を楽しませよう」、という思いで、小説を書いても、読者に、「つまらない」、と、言われると、さびしく、「面白い」、と言われると、「嬉しい」、心理と同じです。
幸い、今まで、私の書いてきた小説を、人に読んでもらって、「つまらない」、と、言われたことは、ありませんが。
太宰治も、「小説とは、読者を、面白がらせる、サービスである」、と言っています。
私は、セックスしていても、おちんちん、を、女の、まんこ、に、入れたい、という気持ちが、起こりません。
そんなことをして、何が楽しいのか、さっぱり、わかりません。
エロ動画を見ていても、ペッティング、なら、まだ、許せるのですが、「本番」、の「挿入」の、シーン、になると、とたんに、萎えてしまいます。
見たくも、なくなるのです。
これは、セックスの、やり方の嗜好、好みの行為、などというものではなく、私という人間に、深く根ざした、心理であり、私の人格、であり、私の思想です。
セックスにおける、「本番」、の「挿入」、とは、「子供(人間)を産む行為」、であり、私は、「子供(人間)を産む行為」、を、素直に、喜べないのです。
それどころか、私は、人間を産む、という、行為、を、嫌っているのです。
「人間なんて、この世に生まれて来ない方がいい」、と、私は思っているのです。
それは、私が、生きていて、辛いからです。
ですから、他人を見ても、生きることが、辛そうに、思えてしまうのです。
〇
私は、物心つく、3歳の頃から、喘息が発症し、いつも、発作が出るのに、おびえ、吸入薬(β2刺激薬)、を、いつ、いかなる時も、手放せず、アレルギーで、いつも、季節の変わり目には、悩まされて、いました。
アレルギー性鼻炎で、いつも、鼻水が出て、鼻をかまなくては、なりませんでした。
小学校、中学校、と、顔をけなされ続けました。
20歳になると、過敏性腸症候群が発症しました。
これは、非常に辛い、けいれん性便秘、で、視床下部、が、滅茶苦茶になっているので、それによる、自律神経失調症、不眠症、うつ病、で、体が壊れてしまっているので、毎日が、不眠、と、便秘、との闘いです。
大学は医学部に入りましたが、大学4年の冬、体調が悪化して、休学しました。
大学3年の時、「小説家になろう」、と、やっと、自分が、本当に、やりたい事を見つけることが、出来ましたが、健康状態が悪いので、なかなか、創作が、進みません。
まだ、現時点で、151作、しか、書いていません。
海外に行ってみたい、と思っても、不眠、と、便秘、に対応するために、水泳、と、筋トレ、と、ランニング、をしなくては、不眠、と、便秘、が、どんどん、悪化していきますから、出来ません。
10年前に、ハワイに、一週間、行ったことがありますが、一週間、が、限度でした。
このような自分の苦しみ、など、書きたくはないのですが、私が、「人間なんて、この世に生まれて来ない方がいい」、と、思っている理由を、述べるためには、仕方がありません。
私は、心配性なので、自分が、生きているのが辛いので、他人に対しても、悲観的に、見てしまうのです。
しかし、「人間なんて、この世に生まれて来ない方がいい」、と言い切ってしまうと、人類は、滅びてしまいます。
なので、容貌が悪くなく、持病が無く、健康で、生きがい、が、あって、幸せな人生が送れる、という、保証のある人なら、生まれてきても、いい、と、思っているのです。
しかし、そんな、保証など、生まれる前には、ありません。
生まれた後でも、ありません。
それと、容貌が悪くなく、持病が無く、健康で、あっても、交通事故で、車で人身事故を起こしたり、あるいは、その逆で、車にはねられて、半身不随になってしまったり、豪雨災害などの、天災で、妻も、娘も、家も、仕事も、全て失ってしまう、可能性だってあるのです。
妊娠すると、「めでたい。めでたい」、と言っている世間の人間を見ると、私は、彼らは、能天気な人間だな、と思ってしまいます。
しかし。
久しぶりに、女を抱いたことによって、長く、たまっていた、欲求不満が、解消されました。
しかし、私は、
「小説家は、現実に、触れ過ぎてはいけないし、触れなさ過ぎてもいけない」
と、思っています。
小説家は、欲求不満があるから、小説が書ける、のだと思っています。
彼女が、いないから、恋愛小説、が書けるのです。
憧れの女性がいるのに、告白できないから、小説が書けるのだと思います。
実人生に、不満があるから、小説が、書けるのだと思います。
絵画、や、写真、で、考えると、それは、明らかです。
憧れの女性だから、その女性の写真を、見て、興奮し、喜びが起こるのです。
憧れの女性だからこそ、その女性を、スケッチしたい、と思うのです。
もし、憧れの女性と、めでたく結婚することが、出来てしまったら、どうなるでしょうか?
「結婚する」、ということは、「その女性を完全に手に入れた」、ということであり、「その女性の、全てを知ることが出来た」、ということです。
自分の妻の写真を見て、喜ぶ夫、などいるでしょうか?
目前に実物がいる、というのに。
自分の妻の、所有物に対する、フェティシズムなどが、起こるでしょうか?
「人間は知らないことだけに、価値があって、知ってしまったことは、何の役にも立たない」
と、ゲーテは、言っています。
劇画原作者の真樹日佐夫も、「作家なんて、みんな、無い物ねだり」、と言っています。
つまり、手に入れたいけれど、手に入れられない、欲求不満が、小説創作の原動力なのです。
つまり。
「手に入れたい物を手に入れてしまうと、夢であったものが、夢でなくなってしまう」
のだと思います。
しかし、それと同時に。
あまりにも、現実と関わらないで、想像力のみに頼って、小説を書いていると、主人公、や、登場人物、が、空想的な、空々しい、ものとなり、小説が、空々しい架空の、お話、になってしまう、危険もあると思います。
ドイツを舞台にした、小説を書くには、自分が、ドイツに行って、ドイツの、空気に触れ、ドイツの人々、や、景色、雰囲気、を、肌で、感じることが、どうしても必要なのです。
菊池寛が、言っているように、「小説家は、現実と関わる」、という体験、が、必要なのだと思います。
なので、私は、
「小説家は、現実に、触れ過ぎてはいけないし、触れなさ過ぎてもいけない」
と、思っています。
今回、久しぶりに、女の体を、触れたことは、私の心にも、大きな、影響をおよぼしました。
良い面と、悪い面、の、両方があります。
良い面を言うと。
世の男たち、は、女と、セックスを、いつも、楽しんでいるのに、私は、出来ない、という、欲求不満が、解消されたことです。
女を、写真だけで、見ていて、女の体が、大理石のような、感覚に陥ってしまっていた、のに、現実の女を、触ったことで、女の体が、柔らかいことを、久しぶりに、実感できたことです。
激しく興奮して、性欲も、高まりました。
悪い面を言うと。
女の性器、(醜い小陰唇)、を、まじまじと見てしまったことで、女に対して、幻滅してしまった、ことです。
女の性器の構造は、どの女も、同じなので、憧れていた、女性、(女子アナ、や、女優、モデル、グラビアアイドル)、その他、全ての、女一般に対して、彼女らも、美しい、スカートの中の下着の中、や、ビキニの、美しい、盛り上がりの中には、あの、醜い、鶏冠のような、小陰唇、が、あるのかと、思うと、幻滅してしまうことです。
哲学者のジョージ・バタイユ、が、「至高性。呪われた部分」、と、言っているように、女の性器は、醜い物です。
醜いから、下着、や、ビキニ、で、隠さなくてはならないのです。
もし、女の性器、が、美しいもの、だったら、隠す必要はありません。
美しいものだったら、女は、人に見せようとします。
私は、女の性器を見て、女一般に対して、幻滅してしまいました。
写真に撮られた、美しい女たちは、醜い小陰唇を、隠しています。
写真は、カメラマンによる芸術です。
ビキニ姿なら、どんなに、ビキニが、小さくても、小陰唇は、隠せます。
全裸であっても、太腿を閉じることで、小陰唇は、隠せます。
そして、写真の中の女達は、そうして、性器を隠しています。
SM写真の場合、パイパン(無毛)、に、股縄をする場合、股縄は、女の股間を責めるものですが、股縄によって、結果として、女の、股間、は、隠れます。
あるいは、大きく股を、開かされている姿も、ありますが、そういう場合、わざと、性器の前に、布、や、酒徳利、を置いたり、女に、太腿を閉じさせて、恥じらいの格好をさせたり、褌を履かせたり、して、女が性器を見られないようにしている、恥じらい、の格好をさせます。
あるいは、大きく股を、開かされている姿の場合でも、カメラを、性器が、見えない位置から撮ったりしています。
それが、エロチックなのです。
写真を見る人たちは、性器、が、見えそうで、見えない女の裸体に、「もどかしさ」、を感じて、興奮するのです。
あるいは、大きく股を、開かされている姿でも、大陰唇、の割れ目、が、しっかりと、閉じられていれば、エロチックなのです。
大きく股を、開いて、自分で、小陰唇を、広げて、膣前庭を、見せたり、あるいは、小陰唇が、広がって、膣前庭、まで、見えてしまう、写真は、幻滅なのです。
しかし、小陰唇、や、膣前庭まで、見えてしまう、姿であっても、写真の女には、触れることが、出来ません。
なので、小陰唇、や、膣前庭まで、見えてしまう、姿であっても、写真である、という、障壁が、女に、触れられない、という、「もどかしさ」、の、興奮を起こす、のです。
しかし、私は、久しぶりに、女の体を、隅々まで、見てしまったため、写真の女に、現実の女の肌の、柔らかさ、温もり、そして、性器、を、見たり、触ったりしてしまった、思いがして、失望しました。
彼女は、若い子、でしたが、腹が、ポッチャリ、していて、モデルの女は、スレンダー、でいて、胸、や、尻が大きく、彼女の体、とは、違うのではないか、とも、思いました。
しかし、やはり、女の体、の構造は、同じなのです。
私は、女に対する、幻滅の思いが、続くことを、恐れました。
しかし、それは、私の、取り越し苦労でした。
一週間も、すると、また、写真の女たち、が、魅力的に見えてきたのです。
それに、女の肉体を、どんなに、知っても、女の魅力とは、やはり、その女の、心です。
〇
私は、彼女に会った翌日から、また、書きかけの、小説、「回春マッサージ物語」、を、書くことが、出来ました。
小説の中の、エステ嬢、の、女たちは、私の記憶の中で、生きていて、彼女たちの、魅力は、優しさ、であり、美しさ、であり、彼女たちに、弄ばれて、興奮した、体験なのです。
それに、小説は、8月30日(金)、から、書き始めていて、9月12日(木)、の時点では、もう、ラストまで、書いてしまってあります。
あとは、細かい、所を、修正、するだけです。
作品を、書いている時には、「・・・です・・・ます調」、の、「敬体」、で書いていたり、「・・・だ・・・である調」、の、「常体」、で書いていたり、と、バラバラでしたが、「敬体」、で、統一しました。
書いている時は、書きたい、山場、を、念入りに、書いて、前置き、が、雑に、なっている、所が、多くあって、そこを、直します。
そして、この、「修正」、が、私にとっては、苦痛、で、面白くなく、時間も、4、5日、から、1週間も、かかることも、あります。
他の人は、どうか、知りませんが。
私は、プロ作家は、雑誌の、連載小説、を、よく書けるな、と、感心してします。
「小説」、とは。
坂口安吾は、「文学とは、最初の、予定を、はみ出して、勝手に人物が行動していって、思いもよらない、ストーリーに、発展していく所に、文学の創造の面白さ、がある」、と言っています。
安部公房も、同じこと、言っています。
安部公房は、坂口安吾、以上に、激しく、その主張をしていて、安部公房は、
「ストーリーを、始めから、ラストまで、考えて、書いた小説は、全くつまらない」
と、言い切っています。
芥川龍之介、は、「一つの作が出来上るまで」、という、文章の中で、こう言っています。
「大抵は筆を取る前に考えて、その考えた通りに書いて行くのが普通である。その普通というのは主に短いものを書く場合で、長いものになると書いているうちに、作中の人間なり事件なりが予定とは違った発展のしかたをすることが往々ある。そういう風に人物なり事件なりが予定とちがって発展をする場合、ちがった為に作品がよくなるか、わるくなるかは一概に言えないであろうと思う」
芥川龍之介は、全作品、が、ほとんど、短編小説であり、しかも、小説の構想を、書く前に、考え抜いていて、「今回は、このテーマで書こう」、という、知性的で、理詰め、の小説家なので、「小説は、書きながら、ストーリーを、考えていく、方が面白い」、という思いは、あまり、持っていないように思います。
私は、昔、シナリオ教室を、受けたことがあります。
その時、聞いたことで、印象に残っていることがあります。
それは。
「シナリオライターには、二つの、タイプが、あって、倉本聰さんは、ストーリーを、最初から、ラストまで、途中の細かい、設定まて、徹底的に、考えて、ストーリーを、作る。一方、内館牧子さんは、主人公、や、登場人物、の、一人一人の、性格、仕事、家族関係、学歴、趣味、住んでいる場所、など、を、徹底的に、考えて、作り上げる。そうして、大まかな、あらすじ、を、考えて、書き出すけれど、登場人物たちが、勝手に、動いてくれるので、ストーリーが、勝手に、出来あがっていく」
らしいのです。
この場合、内館牧子さんの方が、「文学の、創造、の面白さ」、が、ある作品、ということになると思います。
内館牧子さん、は、脚本も書きますが、小説も、数多く書いていますが、倉本聰さんは、脚本、に専念していて、小説は、書いていない、ということも、関係している、のではないか、と私は思っています。
大体、小説家は、そういう、考えの人の方が、圧倒的に、多いと思います。
それは、それで、私も、賛成するのですが、一つ、問題点もあると、思います。
それは、「こういうふうな小説を書こう」、と、大まかな、イメージで、書き出した小説を、書きながら、書いているうちに、どんどん、新しい、面白い、ストーリーが、思いついて、そっちの、方へ、どんどん、ストーリー、を、変更していくと、確かに、小説は、面白くなると思いますが、そうすると、最初の方で書いた、ストーリー、と、矛盾してくる、ことが、出てくる可能性が、ある、ということです。
ここを、小説家、は、どう、対処しているのでしょうか?
ストーリー、を、変更していく、といっても、「最初の方で書いた、ストーリー、と、矛盾しないように、気をつけながら」、という意識を持ち続けながら、書いているのか、あるいは、ストーリー、に、矛盾が、出来てしまっても、いいや、と、開き直って、書いているのでしょうか?
その、どちらか、だと思います。
あまりにも、矛盾があり過ぎる小説、というものは、文学作品、として、いかがなものか、とも思います。
しかし、雑誌への、連載小説の場合は、それを、まとめて、単行本、として、出版する時に、矛盾点を書き直して、修正すれば、問題はない、と思います。
しかし、専業作家の場合は、忙しくて、そうしている人は、少ないように、思います。
では。
ストーリー、を、変更していく、といっても、「最初の方で書いた、ストーリー、と、矛盾しないように、気をつけながら」、という意識を持ち続けながら、書いている、ということに、なるのではないか、と思われます。
実際の所は、私には、わかりません。
〇
9月26日(木)のことです。
私は、10年前から、ほとんど、毎日、家の近くの、××整形外科医院に、通っています。
電子針、や、低周波電流、ウォーターベッド、などの、整形外科の、治療機器が、自律神経の安定に、効果があるからです。
肩が悪くなってから、××整形外科医院の院長に、行くように、勧められた、藤沢湘南台病院の、スポーツ整形外科に、行きました。
私の、肩は、かなり、治っていたので、行く必要も、感じていませんでした。
しかし、私は、肩の不具合、に、ついて、聞けることは、何でも、聞いておこうと思っていましたので、行きました。
しかし、どうせ、ヤブ医者だろうと、高を括っていました。
案の定、予想通り、ヤブ医者でした。
私が、先生に、
「私は、水泳、と、ランニング、と、筋トレ、を、しています。水泳は、週2回くらいで、筋トレ、も、週2回、くらいです。水泳は、1日、最低4時間は、泳ぎます。多い時では、6時間、泳ぐことも、あります。趣味のためではなく、健康のために、嫌々しているのです。QOL(生活の質)、を上げるために、しているのです」
と、言ったら、先生は、うざったそうな顔つきで、
「一体、何を聞きたいんですか?」
と、聞き返しました。私は、
「今年の夏、肩を痛め、動かせなくなりました。MRIを撮ったら、棘上筋に炎症、が、起こっていました。滑液包に、水も溜まっていました。関節唇の損傷もあります。今は、かなり、回復していますが、これからも、水泳は、続けなくてはなりません。水泳が、けいれん性便秘の改善に一番、いいからです。1日、6時間も、泳ぐような、オーバーワークは、ひかえた方が、いいのでしようか?それとも、肩を、これ以上、痛めないためには、泳ぐ時間を、短くした方が、いいのでしょうか?」
と、聞きました。
すると、先生は、苦虫を噛みつぶしたような顔で、返答に窮していました。
私が何を聞きたいのか、わからなったのでしょう。
それで、
「ちょっと、看護婦さんと、話して」
と、言いました。
私は、別室に、移されて、看護婦さんと、話しました。
私が、
「水泳は、嫌だけれど、しなくては、なりません。水泳が、けいれん性便秘の解消のために、一番、いいからです。しかし、水泳をした後は、少し肩が痛くなります。なので、泳ぐ時間を短くした方が、いいのでしょうか?それとも、いくら泳いでも大丈夫なのでしょうか?」
と、聞きました。すると、看護婦さんは、
「水泳をした後に、肩が痛くなるのなら、水泳をしなければ、いいでは、ないですか?」
と言いました。私は、
「もちろん、市民体育館で、ランニング、と、筋トレ、も、しています。それも、便秘の改善に、効果はあります。しかし、水泳の改善の効果には、圧倒的に、水泳の方がいいのです」
と言いました。すると、看護婦さんは、
「じゃあ、あなたは、一生、泳がなくては、ならないのですか?」
と、聞きました。それで、私は、堂々と、
「そうですよ。私は、死ぬまで、一生、泳がなくてはならないのです」
と、言いました。
看護婦さんは、首を傾げていました。
過敏性腸症候群(けいれん性便秘)、というものを、全く、知らなくて、(もちろん、スポーツ整形外科の医師も知らなくて)、たかが、便秘なのに、なぜ、「水泳をしなくては、いけないのか」、ということが、理解できないのです。
彼らは、「便秘」、というと、「常習性便秘」、しか知らず、「けいれん性便秘」、のことは、全く知識が無いのです。
確かに、水泳をしなくても、生きては、いけるでしょう。
しかし、水泳を、やめてしまうと、QOL(生活の質)、が、ぐっと、落ちてしまい、小説、が、書けなくなります。
私は、小説、を、書くためだけに、生きているので、小説、を、書くことは、私の、「命」、そのもの、なのです。
過敏性腸症候群が、いかに、つらいものかは、なったことのない人には、理解できないでしょう。
過敏性腸症候群でも、軽傷のものも、あれば、重症のものも、あります。
私の場合は、重症です。
過敏性腸症候群は、「便秘」、だけに、とどまりません。
視床下部が、壊れているので、自律神経が失調しているので、夜も全く、眠れません。
私は、いつも、夜の、11時30分、頃に、睡眠薬を飲みます。
それでも、眠れませんので、夜中に、24時間、営業の、マクドナルド、に、行って、ミルク一本、注文して、明け方まで、ねばって、わざと、体を疲れさせます。
そして、朝の5時頃に、家にもどって、徹夜の疲れから起こる眠気で、寝ている、という、毎日を過ごしています。
極めて、おかしなことですが、そうするしか、眠りに入れないのです。
けいれん性便秘、で、視床下部、が、滅茶苦茶になっているので、それによる、自律神経失調症、不眠症、うつ病、で、体が壊れてしまっているので、毎日が、不眠、と、便秘、との闘いです。
幸い、食べることは、出来るのですが、便秘のため、どんどん、ふん詰まりになって、苦しくなるので、結局、食べることも、出来ないのです。
快食、快眠、快便、の、全て、が、やられているのです。
大学4年の時には、勉強も、生活も、とても、出来る状態ではなくなり、休学しました。
休学した時には、自殺することを、本気で、考えました。
「たかが、便秘で自殺するバカがいるか?」
と、世間の人間は、思うでしょうし、「便秘が苦しくて自殺した」、などと、知ったら、世間の人間は、「アホだ」、と、笑うでしょう。
しかし、もし仮に、「過敏性腸症候群が治る、か、片足を切断する、か、どっちかを選べ」、という、ようなことが、本当にあったとしたら、私は、間違いなく、「片足を切断して下さい」、と、頼むでしょう。
技術の発達で、最近の義足は、性能が良く、パラリンピックのアスリート、でも、見られるように、タイムは、落ちますが、健常者と同じように、走ることが出来るのです。
外出する時も、ズボンを履けば、片足が義足の障害者であることを、隠せますし、健常者で通せます。
それより、過敏性腸症候群、そして、それに、ともなう、自律神経失調症、のために、不眠症、で、意識が冴えず、頭が、ボーとして、小説が、書けない方が、よっぽど、苦痛です。
快食、快眠、快便、で、頭がちゃんと働き、普通の生活が、出来て、小説が書けるのなら、その方が、私には、よっぽと、幸せです。
「ゲゲゲの鬼太郎」で知られる、漫画家の、水木しげる、さんは、戦争で、片手を失ってしまいましたが、片手で、漫画を描き続けました。
水木しげるさんの、全作品の量は、膨大な量です。
つまるところ、心の病気の苦しみ、を、経験したことのない医者は、心の病気は、何もわからない、と思います。
私は、大学4年の冬、過敏性腸症候群、および、それに伴う、自律神経失調症、で、休学しました。
そして、自殺防止の会、とか、薬物中毒の会、とか、神経症の会、とか、いくつもの自助会に、出てみました。
神経症の会、は、一人一人、が、自分の病気の悩みを、言って、共感しあい、アドバイスしあうものです。
私が、「過敏性腸症候群、自律神経失調症で大学を休学した」、と言ったら、ある人(A)が、「大学を休学したのが、いけない。頑張るべきだった」、と言いました。
しかし、もう少し、詳しく話して、「私は、今、うつ病です」、と言ったら、Aさんは、途端に、態度を変えて、「ああ。あなたは、うつ病、だったんですか。うつ病患者は、頑張っては、いけないんです」、と、言いました。
神経症、とか、うつ病、とか、精神の病気の人の中には、自分の、つらい病気を、何とか、治そうと、心の病気の本を読んで理解している、人が、結構、いるので、「うつ病」、に、関しても、理解している人がいるのです。
また、大学休学中には、私のことが、教授会で、問題になっている、と、大学が、知らせて、きました。
私は、休学中は、武蔵野中央病院の心療内科に、かかっていました。
そして、主治医の大谷純先生は、「うつ病で、三ヵ月の治療が必要」、という、診断書を大学に、三ヵ月、ごとに、送っていました。
しかし、基礎医学の教授は、それが、理解できない、らしいのです。
基礎医学の教授も、医学部を卒業して、医師国家試験にも通って、臨床医も経験しています。
しかし、基礎医学の教授は、「うつ病」、が、理解できない、らしいのです。
私は、大学を卒業して、千葉県の、下総精神医療センター、という所で、二年間、研修しました。
そこで、驚いたことは。
精神科医なのに、うつ病の患者に、対して、平気で、「頑張って」、と言っている、医者が、何人もいたことです。
「うつ病患者に、頑張れ、という、言葉は、禁句である」
と、精神医学の教科書には、書いてあります。
しかし、医学部の勉強量は、膨大で、医学生は、健康そのもの、ですし、健康そのもの、でなければ、医学部の膨大な勉強を、こなすことは出来ません。
なので、国家試験の時は、精神科の教科書に書いてある、
「うつ病患者に、頑張れ、という、言葉は、禁句である」
ということを、感覚的には、理解できないけれど、理解できないまま、頭で、暗記しています。
なので、医師国家試験には、通ります。
しかし、一旦、医師になってしまうと、精神科医となっても、うつ病の患者に対して、平気で、「頑張って」、と言ってしまうのです。
動物と人間の違いに、大きな一つのことがあります。
それは、「動物は、うつ病にはならい」、「動物は、自殺しない」、「動物には悲しみの感情が無い」、ということです。
野生の動物は、片足を怪我して、ビッコになっても、あるいは、両足が、動かなくなっても、悲観して、泣いたり、しません。
動物が、悲観して、自殺することなど、ありません。
ペットを飼えば、動物は、飼い主になつきます。
飼い主が、来れば、喜んで、はしゃぎます。
しかし、飼い主が、死んでも、ペット、が、飼い主の、「死」、を、悲しんで、泣く、ということは、ありません。
飼い主の、「死」、を悲しんで、ペット、が、うつ病になる、ということもありません。
次の、飼い主を探すか、次の飼い主が、見つからなかったら、自分で、エサを探して、生きようとするだけです。
動物には、悲しみの感情が無いからです。
確かに、動物を実験によって、うつ状態にさせることは、出来ます。
いくら、頑張っても、エサが手に入れられない、という、状態にすれば、動物は、だんだん、行動が、鈍くなっていきます。
脳の、セロトニン、や、ドーパミン、の量が減るからです。
しかし、どんなに、動物実験で、動物をいじめて、「絶望」、の、状態にしても、動物は、決して、自殺しません。
悲しみ、の、感情が無いからです。
つまるところ、心の病気の苦しみ、を、経験したことのない医者は、心の病気は、何もわからない、と思います。
彼らは、癌、とか、肺炎、とか、肉体の病気は、その原理を理解していますし、外科手術、や、内科的治療によって、治療したり、治したりすることは、出来ます。
しかし、心と関連した、「心療内科」、や、「精神科」、の患者は、理解できません。
そして、医者は、外科、や、内科、の、肉体の疾患でも、患者の、「痛みの感覚」、は、理解できません。
医者は、健康でなければ、勤まらない仕事だからです。
私は、喘息、過敏性腸症候群、不眠症、うつ病、を、経験しています。
ですから、喘息、過敏性腸症候群、不眠症、うつ病、の、患者では、その、「苦しみの感覚」、も、理解できます。
しかし、私は、リウマチは、経験したことは、ありません。
ですから、リウマチ、の患者、が、「痛い。痛い」、と、痛がっていても、それが、どのような、「痛み」、なのかの、「感覚」、は、わかりません。
私は、心療内科医の、池見酉次郎先生、を尊敬しています。
池見酉次郎先生は、若い時から、自身、過敏性腸症候群、の便秘型、の患者であって、一生、過敏性腸症候群、に、苦しみながら、臨床医として、そして、医学者として、生きました。
体が弱く、他にも、不眠症にも、なったこともあれば、喘息発作、を、起こしたこともあります。
過敏性腸症候群、の程度、は、かなり、重症で、高校生の時、過敏性腸症候群、によって、学業が、出来なくなって、一年間、休学したほどです。
神経症になって、慈恵医大の、「森田療法」、を、受けてみたり、過敏性腸症候群、を治そうと、あらゆる、治療法、を、試しました。
池見酉次郎先生の、研究業績は、膨大な量です。
それは、池見酉次郎先生が、過敏性腸症候群、の、「痛みの感覚」、まで、理解しているからです。
「過敏性腸症候群、の、原因、と、その治療法は、何なのだろうか?」
という、疑問を、解こうとする、意欲、情熱、が、他の健康な医者とは、比べものにならないほど、高いからです。
だから、本気で、必死になって、寝る間も惜しんで、研究しますから、優れた、研究成果を、出すことが出来るのです。
病気になって、体調が、悪い時は、健康回復に、精一杯、努力する、ことが、本当に、やらなくては、ならない事だと思います。
(もちろん、癌などは、自分の努力では、どうすることも、出来ませんから、医者に、治療を、お任せするしかなく、癌になった時に、どんなに、ハードなトレーニングをしても、無意味です。し、逆効果です。患者が出来ることは、安静にしていることと、医師、か、看護師、か、栄養管理師、が勧める、栄養のある食事をすること、くらいです。世には、免疫力に効果がある、と、言われている食べ物、など、が、ありますが、癌になった時に、そんな物を食べても、何の効果も無いと思います)
病気になって、体調が、悪い時は、健康回復に、精一杯、努力する、ことが、本当に、やらなくては、ならない事だと思います。
しかし、それは、つまらないことです。
今年の夏は、絶望的で、
「もう、これ以上、生きていても、小説は、書けないのではないか?」
と、あきらめていました。
しかし、8月30日(金)、から、絶望的だった、体調不調が、回復し出して、小説が、書けるように、なりました。
これは、本当に、嬉しいことでした。
その後、どんどん、健康状態が良くなって行って、今、では、何でも、書けます。
しかも、新しい、小説のアイデアが、頭の中で、次から次へと、どんどん、湧いてくるのです。
去年も、そうでしたが、私は、12月になって、寒くなってくると、こんどは、寒さ、のために、小説が、書けなくなります。
そのため、今年も、10月、11月、は、大丈夫だろうと、私は、予測しています。
予測は、当たるか、当たらない、かは、わかりませんが。
なので、9月、は、朝、起きてから、夜、寝るまで、一日中、小説を、書きました。
他の事は、一切、しませんでした。
10月、11月、も、当然、そうします。
もちろん、適度な息抜き、は、しますが。
ニュースも、見ないで、小説を書いています。
ニュースなど、テレビで、見なくても、ネットのYAHOO・JAPANで、10分も、かからず、読めます。
私は、今年の夏、
「人間は、やりたい事をやるのではなく、今、本当に、やらなくては、ならない事をやるべきである」
ということの、大切さ、を実感しました。
私の場合は、肺炎の治療、肩の故障のリハビリ、そして、肩の故障の、原理を、深く理解すること、です。
8月30日(金)、からは、健康状態がいいので、今は、小説を書いています。
「回春マッサージ物語 (原稿用紙換241算) 」、を2週間で、書き上げた後、次は、何を、書こうか、と、迷いましたが、今、書いている、「今年の夏」、を、書くことに決めました。
今、一番、書きたい物だったからです。
それに、時間が経ってしまうと、その時々に、感じた、思い、や、起こった出来事、を忘れてしまって、書けなくなる危険があります。
はたして、いい作品になるだろうか、という不安を持ちながら、書き始めました。
これは、小説、とは、言えず、自分史、エッセイ、評論文、の方に、近いかもしれない、とも、思います。
あるいは、私小説、か、心境小説、と、言えるかもしれません。
私小説の定義を見てみると、
「私小説とは、日本の近代小説に見られた、作者が直接に経験したことがらを素材にして、ほぼそのまま書かれた小説をさす用語である。心境小説と呼ぶこともあるものの、私小説と心境小説は区別されることがある」
と、書かれてあります。
心境小説の定義を見てみると、
「作者が日常生活で目に触れたものを描きながら、その中に自己の心境を調和のとれた筆致で表現した小説」
と、書かれてあります。
なら、「今年の夏」、は、私小説、か、心境小説、と、言えるかもしれません。
しかし、どんな、ジャンル、と、呼ばれるか、ということは、どうでもいいことです。
作品は、面白ければ、それでいいのだ、と、思っています。
私は、今まで、私小説を嫌っていたので、フィクションの、小説ばかり、書いてきました。
しかし、フィクションの、つくり話の小説ばかり、書いていると、
「お前は、私小説は、書けないのか?」
という、心の声が、聞こえてきました。
なので、今年の夏、起こった出来事、と、それに対して、私が感じたこと、を、素直に書いてみました。
書いているうちに、「あっ。結構、いいじゃないか」、と、思い出しました。
そもそも、私は、人との、付き合い、が、全く無いので、私が、私小説を書くと、自分の気持ち、を、書くだけに、なるのは仕方のないことです。
それに。
私は、ストーリーが、複雑に入り組んだ、いわゆる面白いストーリーの、小説よりも、心境小説、告白小説の方が、好きです。
小説は、確かに、基本的には、ストーリーのある、「お話」、だと思います。
そして、小説の多くは、映画化できます。
しかし、心境小説、告白小説、は、映画化できません。
佐藤春夫の、「田園の憂鬱」、梶井基次郎の、「檸檬」、ほか、梶井基次郎の全て小説。三島由紀夫が、20歳までに書いていた、「花ざかりの森」、「岬にての物語」、などは、ほとんど、ストーリーの無い、小説です。
太宰治の、「人間失格」、も、三島由紀夫、の、「仮面の告白」、も、映画化できません。
自分の、思いを、表現した、告白小説だからです。
それらの小説を、強引に、映画化したら、主人公が、一人で、ブツブツ、自分の思いを、独り言で、言っているだけの、おかしな映画になってしまうだけです。
登場人物がたくさんいて、会話文、が、たくさんあり、ストーリーが、展開していく、小説でなくては、映画化は、出来ないのです。
今は、小説を書いているので、(書けるので)、幸福です。
私は、小説を書いていれは、幸せ、なのです。
しかし、私は、今年の夏、
「人間は、やりたい事をやるのではなく、今、本当に、やらなくては、ならない事をやるべきである」
と、いうことを、学びました。
そして、それにも、「喜び」、は、あります。
病気になって、「健康」、という、持っていたものを、失ってしまいましだが、それを、直視し、それを、治そうと、徹底的に、病気の原理を調べ、リハビリをして、ほとんど元通りに、治りました。
それは、新しい、小説作品を、完成させる、という、「創造性」、のある行為では、ありません。
つまらない、嫌な、ものです。
しかし、「もう絶望だ」、と、思っていたのに、それが治って、「将来に対する希望」、が、もてるように、なった時の、喜び、も、この上なく、嬉しい喜びです。
私は、今後、また、スランプ、になって、「絶望」、になっても、
「人間は、やりたい事をやるのではなく、今、本当に、やらなくては、ならない事をやる」
ということを、実践しようと思っています。
しかし、今は、健康なので、そう思えるのであって、「本当に絶望」、になった時にでも、そう思えるか、どうかは、わかりません。
私は、ロマンチストでは、ありません。
私は、ロマンチストを嫌っています。
私は、徹底的な、リアリストです。
ですから、
「すべての苦しみには、意味がある」
だの、
「苦しみとは、神が与えてくれた恩恵である」
だの、
「苦しみが人間を成長させる」
など、の、聞こえのいい、格言は、全く信じていません。
そういう事を、誇らしげに、言う人は、格好をつけて、気取っている人、としか、思っていません。
もし、私が、「植物人間になってしまったら」、「マフィアに捕まって、拷問されたら」、「ヘレンケラーのように、視覚、と、聴覚、を、失ってしまったら」、それでも、私は、その苦難に、立ち向かえる、とは、とても、思えません。
かなり昔のことですが、歯科治療を受ける時に、イエス・キリスト、を、もちだして、「主よ。どうか、痛くありませんように」、と、祈ったことがあるほど、私は、気が小さい、人間です。
私は、いつもは、無神論者であり、「神なんて、そんなものは、いない。神なんて、人間の想像力が産み出した産物だ。そんなものを、信じてるヤツはバカだ」、と、絶対の自信を持って、います。
しかし、私は、ちょっとでも、困難な立ち場になると、世界一、敬虔な、クリスチャンになるのです。
そして、「主よ。どうか、お助け下さい」、と、誰よりも、(ペテロよりも、マルチン・ルターよりも、パスカルよりも、ローマ法王よりも)、信心深く、心から、祈るのです。
なので。
今年の夏、の、「肺炎」、と、「肩の痛み」、は、私が、克服できる、範囲の、困難、だった、と思っています。
しかし、なぜだか、今年の夏、は、イエス・キリスト、に祈ったりすることは、一度もありませんでした。
私は、ボディービルダーの、マッスル北村さん、を尊敬しています。
マッスル北村さんは、日本で、トップレベルの、ボディービルダーでした。
そして、彼は、ボディービル、だけではなく、東大理科二類、に、合格したり、その数年後に、東京医科歯科大学の医学部にも、合格しています。
しかも、その動機が、ホンモノで、学問を追求したいために、東大理科二類に入り、医者になって、病人を救いたい、ために、医学部に入ったのです。
こういう、動機が純粋な人は、優れた学者になるでしょうし、優れた医者になるでしょう。
何事にも、全力で、打ち込んでしまう、素晴らしい、性格です。
そして、性格も、明るく、優しく、他人に対して、思いやりがある、パーフェクトな人間としか思えません。
しかし、マッスル北村さんは、せっかく入った、東大理科二類、も、東京医科歯科大学の医学部、も、中途退学してしまいました。
日本の大学は、入るのが、難しくて、合格してしまったら、100%、卒業できます。
それに、大学生は、受験生と、違って、ゆとり、がありますから、スポーツの好きな人は、勉強、と、スポーツ、を、両立することは、簡単に、出来ますし、している人など、いくらでも、います。
なぜ、マッスル北村さんは、せっかく、純粋な動機で、入った、東大、や、医学部、を、やめてしまったのかは、理解できません。
私は、努力、に、おいても、能力、においても、人格、においても、私より、はるかに、優れた、マッスル北村さん、に、対して、恐れ多くも、「ああなっては、いけない」、と思っています。
医学部に入った以上は、他に、やりたい、ことが、在学中に、見つかっても、医学部を卒業して、医師国家試験にも、通って、おくことは、「けじめ」、として、我慢すべきこと、だと思っています。
私も、医学部に、入ってから、在学中に、「小説家になろう」、とまで、本気で、思うほど、にまで、なりました。
そもそも、私は、医者になって、患者を救おう、などという、高尚な理由で、医学部に、入ったのでは、決して、ありません。
自分が、幼少の頃から、病弱で、一生、医者に、ペコペコ、頭を下げ続けるのが、屈辱だったので、自分が、医者になって、ヤブ医者どもを、見返してやろう、という、医者に対する復讐、という動機で、医学部に入ったのです。
なので、在学中から、だんだん、医者になることは、どうでも、よくなってしまい、小説を書くこと、だけが、自分の、人生の全ての価値観になっていきました。
しかし、私は、医学部に、入った以上、医学部を卒業して、医師国家試験にも、通って、おくことは、「けじめ」、として、我慢しようとは、思っていました。
なので、在学中にも、小説は書きましたが、時間のかかる、長編小説は、書かず、(そもそも、体力の無い私には、長編小説は、書けません)、原稿用紙で、10枚、から、一番、長くて、80枚、の、小説を、数作しか、書いていません。
もちろん、医師国家試験、の勉強が始まってからは、小説など、書いている余裕などは、ありません。
そして、医師国家試験にも、合格しました。
別に、それが、偉いことだとは、全然、思っていません。
それが、普通だと思っています。
勉強で頭を酷使している時は、スポーツ、や、運動で、体、を、動かす、ことが、息抜き、として、いい、と思います。
私も、勉強で、頭を酷使し続けて、頭が疲れた時は、ほんの数分、空手のキックを、して、息抜き、をしていました。
マッスル北村さんの、心理は、どうしても、理解できませんが、
「人間は、やりたい事をやるのではなく、今、本当に、やらなくては、ならない事をやるべき」
という点で、(理解不可能な人間である)、マッスル北村さん、のように、なっては、いけない、と思っています。
人間は、命があってこそ、勉強、にしろ、運動、にしろ、何か、が、出来るのです。
死人が、はたして、ボディービル、をしたり、小説を書いたり出来るでしょうか?
今年の夏、は、何も出来なかった、苦しみ、だけの、夏でした。
しかし、色々な、ことに、気づかされました。
それに、「楽しかった」、だけの、人生、からは、小説は、書けません。
友達と、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、と、ひと夏に、ヨーロッパを、旅行しても、「楽しかった」、だけでは、小説は、書けません。
もちろん、未知だった、世界を知った、「感動」、は、起こるでしょうが。
そして、視野が、広くなるでしょうが。
苦しかった経験の方が、小説になるのです。
小説、でも、漫画、でも、アニメ、でも、ドラマ、でも、それは、明らかです。
「正義の味方」、の、ヒーロー、が、「悪」、を、やっつける、ヒーローものの、アニメ、で、それは、明らかです。
「正義の味方」、が、「悪」、を、最初から、一方的に、やっつけて、退治する、だけでは、面白くも何ともありません。
「正義の味方」、が、「悪」、に、徹底的に、やられて、もう、ダメだ、という、「絶望」、の危機、に陥ってしまうけれど、それを、「正義の味方」、が、知恵、と、勇気、で、乗り越えて、「悪」、をやっつける、所に、ドラマがあり、面白さ、が、あるのです。
そういう点でも、今年の夏、は、とても、有意義な夏、だったのかも、しれません。
私は、何歳まで、生きられるのかは、わかりません。
なので、年が明けて、新年になると、「今年一年間、精一杯、生きよう」、と思って生きています。
別に、「新年から一年」、と、思わなくても、「秋から一年」、と思ってもいいのですが、世の中の習慣が、そうなっていますし、寒い冬から、だんだん、季節が温かくなっていく、春となり、新緑が、繁っていく夏となり、夏が過ぎると、収穫の、秋、となり、そして、寒い冬となります。
植物にとっても、冬が、スタート、で、夏が、ピークで、収穫の秋を過ぎて、冬が、ラスト、です。
理にかなっています。
そして、人間でも、それは、同じです。
寒い冬、で、オーパーを着こんでいたのが、春になっていくのにつれて、だんだん、過ごしやすくなり、そして、ランニングシャツだけで過ごせる、夏となり、夏が過ぎると、また、秋から、冬、へと、寂しい、寒い、季節となります。
なので、年が明けて、新年になると、私は、「今年、精一杯、生きよう」、と思って生きています。
その次の年のことは、考えていません。
何が起こるのか、わからないからです。
しかし、ともかく、今年の夏、は、何も出来ませんでしたが、とても、有意義な夏、だった、と思っています。
令和元年10月4日(金)擱筆